第三十五段 肥河
大蛇は肥河の上流が蛇行するところに潜んでおり、どの夜に出てくるかは奇稲田ならば直感で察せられた。
村は肥河から田んぼに水を引いており、奇稲田とその姉たちは稲田などの力を神として祀っていたので、河を支配する大蛇と呪力の繋がりが出来ていた。
そして、それ故に奇稲田たちは大蛇から狙われた。
暴れ狂う大蛇は河を氾濫させ、洪水で流域を荒らした。
彼女たちの誰かが取り込まれれば暴走は止まり、大蛇はまた肥河に潜んだ。
その流れを断ち切るため、素戔嗚は策を巡らして大蛇を待ち構えた。
まず高い床を造り、髪に櫛を挿して美しく装った奇稲田をその上に立たせた。
次に大蛇が近付けないよう床の四方に火を焚き巡らし、その外側に酒甕を置いた。
酒甕は八遍も繰り返して醸造した果実酒で満たされており、酷く甘ったるい匂いの漂う中、素戔嗚が呪能で光を屈折させ、奇稲田の姿を映させていた。
素戔嗚は足名椎および手摩乳と共に酒甕の陰に隠れた。
呪力が荒れ狂っているせいで大蛇は知能が低かった。
そのおかげで勘付かれる心配はなかった。
◆
大蛇が現れるまでの間、足名椎が素戔嗚に話をした。
「僕と手摩乳はそれぞれ足と手の力を神として祀っているんだ」
素戔嗚が相槌を打たなくても足名椎は話を続けた。
「その呪能で僕は足の動きや頭の回転を高速化でき、手摩乳は特定の対称を手許に瞬間移動させられる。どちらも正面から大蛇と渡り合うのには向いていない。だから、娘たちを矢面に立たせた」
足名椎が素戔嗚に話し続ける間、手摩乳は奇稲田が立つ高床を静かに見上げていた。
「君も奇稲田と戦ったから分かると思うが、あの子たちの方が荒事には向いている。村長として村を守るには僕たちが娘たちを手助けし、大蛇に当たらせるのが良いと判断したことは、今でも間違いではなかったと考えてる。でも……」
笑って喫煙したまま、足名椎は暫し言葉を詰まらせた。
「……たとえどんな形で娘たちが戻ってきても僕に抱き締める資格はないね」
余り人を慮ることをしない素戔嗚だったが、何故に足名椎がいつもお道化ているのかを察した。
先延ばししても逃れられない不幸は、笑い飛ばしでもしなければ心が耐えられなかったのだろう。
手摩乳が表情を変えないのも、先回りしても対応できない悲劇に耐えるため、感情を押し殺しているのではないかと思われた。
素戔嗚は伊邪那岐のことを思い出した。
伊邪那岐も足名椎と同じく、妻子より務めを選んだ。
彼も感情を押し殺し、何かに耐えていたのだろうか。
伊邪那岐の呪能が付与された天蠅斫剣を素戔嗚が触っていると、奇稲田が上から声を掛けてきた。
「大蛇がやってくるぞ!」
呪力の繋がりが出来ているがゆえに、大蛇の気配を察知できたのだろう。
肥河の水面が盛り上がり、轟音を鳴り響かせて大蛇が水飛沫と共にその姿を見せた。
大蛇は多頭の竜蛇だった。
体の長さは八つの谷と峰に跨がるかのようであって苔や桧、杉などが生えており、腹には真っ赤な血が滴っていた。
竜の胴体は一つであったけれども尾は八つだった。
頭も八つあり、一つは蛇のものだったが、残る七つは奇稲田に似た乙女たちの上半身で、いずれも目が酸漿のように赤かった。
足名椎と手摩乳が呻き声を漏らし、七人の乙女たちが大蛇に取り込まれた奇稲田の姉たちであると分かった。
「奴は酒を飲む」
それでも、足名椎は呪能で大蛇の動きを予測し、次の行動に移るよう素戔嗚に促した。
大蛇は酒に映った奇稲田の姿を本物と思い、蛇と七人の乙女が八つある酒壺にそれぞれ頭を差し入れ、甘い果実酒が好きなのか、それとも、知能が低いからかそのままたらふく飲んで眠ってしまった。
身を潜めていた素戔嗚は、立ち上がって大蛇を捕らえようとした。
しかし、奇稲田の言葉に立ち止まった。
「さて、いよいよこれからが本番だな」
◆
それはあの夜と同じだった。
高床から飛び降りた奇稲田は、月を背にし、体を反転させて髪を靡かせ、舞い降りるように地上へ降り立った。
その幻想的な光景に、素戔嗚は二度目であっても僅かに見惚れた。
「姉たちは、即座に大蛇へ取り込まれたんじゃない」
大蛇の方に歩いていきながら奇稲田が言った。
「もしそうだとしたら、もっと早くに取り込まれていたろう。俺様たちは村のみんなが一日でも長く生き延びられるよう必死に抗った。大蛇は俺様たちばかりかこの肥河とも呪力が繋がり、ここに根付く村のみんなも、逃げられなくなってしまったからな」
奇稲田は大蛇のところまで来ると、恐れる様子もなく、寧ろ愛おしげな手付きで鱗に触れた。
「でも、ずっと抗うことは出来なかった。呪力の繋がりが出来た俺様たちは、離れていても段々と体が大蛇に冒されていった。俺様も既に黄泉神だ」
振り返って素戔嗚を見据えた奇稲田の瞳は、大蛇のように赤くなっていた。
「貴様の父親は呪力を分解できたそうだが、黄泉神と化した神人は元に戻せなかったとも聞いている。ならば、打つ手はない。精々、長く持ち堪えて余所者がここにやってこないようにし──」
大蛇に触れた手を通し、奇稲田の肌にも鱗が生え、両者の体が融合していった。
「俺様たちを討ち取ってくれる益荒男が現れるのを待つしかなかった。そして、貴様がやってきた。俺様は運命を感じたよ」
奇稲田と一つになった蛇の頭が鎌首をもたげ、彼女の姉たちも身を起こした。
「さあ、今が俺様を切り裂く時だ! そうすれば俺様は大蛇から救われる!! 男を見せてくれ!!!」
放たれる殺気に偽りはなかった。
「……親子揃って俺を担いだわけか」
背後では足名椎と手摩乳が退路を断っており、素戔嗚は風を渦巻かせた。
典拠は以下の通りです。
髪に湯津爪櫛を挿して美しく装った奇稲田姫が高床の上に立ち、八岐大蛇が近付けないよう床の四方に火が焚き巡らされ、その外側に酒甕が置かれる:『平家物語』
女神が八岐大蛇になる:『日本振袖始』




