第三十三段 出雲国
出雲にやってきた素戔嗚は、まずは河川や湖を調べてまわった。
かつて妣国の気配を感じ取ったのは海においてだった。
それゆえ、素戔嗚は水と関係のあるところを当たっていった。
そして、彼は須佐や安来、御室、佐世などに立ち寄った末、肥河において妣国に似た気配を感じた。
妣国と完全に一致しているわけではなかったが、手掛かりがないよりましだった。
そして、肥河の下流にいた素戔嗚は、もう夜になっていたが、河畔の林を横目に見つつ、ひとまず上流の水源を目指すことにした。
「貴様、そこで何をしている?」
ところが、それを制止する声が頭上から降ってきた。
◆
頭上を仰いだ素戔嗚が見たのは、月に舞う乙女だった。
恐らく林木の上にいてそこから飛び降りたのだろうが、乙女の落下する様は舞い降りるかのようだった。
その様に一瞬、素戔嗚は見惚れた。
体を反転させながら落ちているため、茶色い長髪を重力に反するがごとく靡かせた乙女は月の精のようで、野暮ったい黒装束に身を包んではいたが、まるで幻想のごとく美しかった。
その幻のような乙女が素戔嗚と同じ地表に降り立って、彼を見据えた。
表情は笑っていたが、その眼差しはまるで獲物を一睨みする蛇のようだった。
「余所者がこんなところに何の用だ? 迷い込んだのなら連れ出してやる。ま、そうでなくても、力尽くで同じことをしてやるが」
その挑発的な態度に、素戔嗚は大気を震わせ始めた。
「やってみろ」
そう素戔嗚が告げた瞬間、地を割って木の根が現れ、口を開けて彼を呑み込んだ。
「やってみたぞ?」
乙女が牙を剥いて不敵に笑った。
しかし、突如として木の根が膨らんで破裂し、箸のように細かな破片を辺りに飛び散らした。
素戔嗚が風の流れを外に向かって加速させ、木の根を内側から切り裂いたのだ。
「舐めるな、女」
だが、それに対して乙女は怯むどころか笑みを深めた。
「奇稲田。俺様は奇稲田姫と言う、稀人よ。その奇しき力で俺様を楽しませてくれ!」
「お前にかかずらう気はない」
素戔嗚は奇稲田に対して風を加速させたが、彼女はそれに向かい、懐から取り出した勾玉を弾き飛ばした。
その勾玉から無数の木の根が縦横無尽に伸び、幕のようになって奇稲田を覆った。
風は根の幕に当たって散った。
そして、風に切り裂かれた幕の隙間から奇稲田が更に勾玉を幾つか弾き飛ばした。
それらから槍のような根が生えて素戔嗚に襲い掛かった。
素戔嗚はその向きを操作して貫かれるのを避けた。
けれども、槍に注意が向いていた素戔嗚の足を捕らえるものがあった。
それは地下から顔を出した木の根で、素戔嗚はその足枷を風で切り裂こうとしたが、いきなり地が振るえて手を止めた。
振り返れば大きな木の根が林の地面を広く盛り上げていた。
奇稲田が素戔嗚に向けて弾き飛ばした勾玉は目眩ましで、本命は林木を根刮ぎにすることにあり、無数の木々が彼めがけて壁のように倒れた。
「点で貫けないなら、面で押し潰す」
素戔嗚は呪能を振るい、林木の倒れる向きを変え、風で木々を引き裂いた。
それでも、呪力を一度に様々な用途で大量に使用することは、呪能を制限されている素戔嗚に重い負荷を掛けた。
そのせいで生じた隙を奇稲田は見逃さなかった。
彼女は勾玉を地面に打ち込み、時間を掛けて大きな木の根を生やさした。
「面の次は体だ」
その木の根が何本にも分かれ、素戔嗚に向かって殺到した。
それをも素戔嗚は呪能で捌こうとしたが、木の根は更に幾つもの小さな根っこを何重にも生やし、一つ一つが角のようになって素戔嗚を襲撃した。
しかも、それらは様々な角度から素戔嗚に襲ってきた。
どこから来るか分からぬ根っこを捌くのは至難の業だった。
全ての根っこを一気に吹き飛ばそうとしたが、奇稲田の呪力も凄まじかった。
これまでの攻撃とは桁違いで、多頭の蛇のごとく根っこは素戔嗚を貫かんとした。
天蠅斫剣で呪力を分解しようとしても、間に合いそうになかった。
「殺しはしないから安心しろ」
勝負あったとばかりに奇稲田は牙を見せて笑った。
その笑顔は満足するまで玩具を楽しんだ子どものようだった。
きっと素戔嗚を立ち去らせれば、子どもが移り気であるように直ぐ忘れてしまうだろう。
素戔嗚は何故か、それが酷く気に入らなかった。
「むっ?」
異変を感じて奇稲田が片眉を上げた。
急に素戔嗚の呪力が勢いを増したのだ。
素戔嗚は曽尸茂梨で他神たちから学んだ呪詞を唱えていた。
彼らの呪詞で練られた術式は、神人の呪能とはまた別の原理に基づいていたので、天児屋根命の呪紋をほぼほぼかいくぐれた。
ただし、無理に別の原理を使用するので、身を焼くような負荷が素戔嗚に掛かった。
それをねじ伏せて彼は呪能を存分に振るった。
◆
木の根どころか自身も薙ぎ払われ、奇稲田は膝を突いて言った。
「降参だ。もう行く手を遮るつもりはない。ただ、その前に貴様が何者か教えてくれよ、稀人」
負けを認めても彼女は朗らかだった。
「素戔嗚尊。天照大御神と、母を同じくする弟だ」
「なるほど、三貴子の一人ならば道理で!」
何かに納得した様子の奇稲田に素戔嗚が告げた。
「道を知ってるなら、邪魔をした詫びに俺を上流に案内しろ」
彼が差し伸べた手を、奇稲田は嬉しそうに握って立ち上がった。
典拠は以下の通りです。
素戔嗚尊が須佐などに立ち寄る:『出雲国風土記』




