第三十二段 島渡り
淡島が断固たる態度で告げた。
「反対です」
それに素戔嗚は眉一つ動かさずに答えた。
「別に淡島姉の賛意を得ようとは思っていない」
彼は曽尸茂梨を離れて出雲に赴くと言ったのだ。
「出雲から来た大御食都姫にやられかねなかったのを忘れたのですか?」
「その経験を踏まえるつもりだし、失敗を恐れては何も出来ん」
「それに、祓えも終わっていないのに、ここを去るなんて無責任です!」
「向こうが認めれば問題ないだろう」
その言葉に応えるかのごとく突如として空間に穴が開き、そこから神皇産霊が姿を見せた。
「素戔嗚から天詔琴で連絡を受けました」
天詔琴は遠くにいる神人と連絡することが出来た。
◆
唐突に現れた別天津神に淡島は白い目を向けた。
「素戔嗚を追放した貴方たちが彼の肩を持つなんてどういう風の吹き回しですか?」
「天詔琴で素戔嗚が連絡を取ってきた時にも言ったのですが、お恥ずかしながら私どもは葦原中国を治めあぐねているのです」
穏やかな姿勢を崩さずに神皇産霊は説明した。
「そのことを素戔嗚は大御食都姫との一件で察しました。ある理由により葦原中国は所々で呪力の暴走が起きており、天津神たちもそれに有効な手立てを打てていません。高天原の体制を抜本的に見直すことに追われてもいまして」
呪力の暴走している理由が伊邪那岐にあることを彼女は伏せた。
伊邪那岐が黄泉との出入り口を閉じた結果、呪力の循環が狂ったのだ。
伊邪那美が伊邪那岐への衝迫から黄泉から出てきては何が起こるか分からなかったので、黄泉の封印を解くわけにも行かなかったし、それ故にそのことを素戔嗚に伝えるわけにも行かなかった。
「別に素戔嗚を責めているのではありません。天照を主神に据えていく私どもの計画に欠陥があったのです。彼女が主神の器であることに変わりはありませんが、その成長を支援する仕組みには改善の余地が数多くあります」
神皇産霊のぼかしたところが微妙な問題であることを淡島と天王も気付き、そこには深く突っ込まなかった。
「それに、高天原の組織は元からそう強固なものではありませんでしたので、葦原中国もそれほど厳密に管理できてはいませんでした」
「それで、なおさら地上にまで手が回らず、素戔嗚の力を借りたいといったところか」
天王の指摘に神皇産霊は頷いた。
「ええ、葦原中国は私が担当していますが、高天原のように全体を統括する組織がありません。国津神たちも地元に根付く傾向が強く、越境的な問題に対処するのは難しいでしょう。しかも、彼らは天津神たちほど呪力の暴走に耐性がないです」
「そこで、素戔嗚に白羽の矢を立てたわけね。本人も納得してのことだし、そもそも、ここにいるのも祓えのためだから、素戔嗚が出雲に行くこと自体には反対しないよ」
淡島は驚いた顔を見せたけれども、天王は気にしなかった。
「ただ、最初から腰掛けだったにしても一緒に働いた仲間だ。高天原から見て罪人の素戔嗚を、お前たちが使い捨ての道具にするのは看過できない」
今度は顔を輝かせる淡島の横で、天王は幻力を展開させた。
それに対して神皇産霊は自身の奥に控えていた人物を前に出させた。
幼児の神人だった。
「息子の少彦名命です。見た目は幼いですけれど、意外と聡い子ですよ」
「客人として引き取ろう。人質を取る気はない」
「……一人の親として、その恩を決して仇で返さぬと誓いましょう」
神皇産霊は膝を突き、幻力を収束させた天王たちに、恭しく頭を下げた。
◆
大御食都姫を連れて、神皇産霊は帰った。
呪力が安定した大御食都姫は、住み慣れた故国に帰郷することを望んだ。
淡島も曽尸茂梨を案内するために彦名を連れていくと、天王は素戔嗚に一振りの短剣を渡した。
「韓鋤剣だ。俺の術式が刻まれてある。ま、何かの役には立つだろうさ」
「どうしてそう俺に構う?」
「こっちにも事情があってね。俺の勝手ってやつだ。少なくとも、無償の善意なんてもんじゃない」
「お前の手駒になる気はないぞ」
「嫌なら捨てると良いさ」
軽い調子で返されて素戔嗚は黙ったまま韓鋤剣を懐に仕舞った。
「さて、俺たちも戻るとするか。お前の引き継ぎをしないとな。まさか五十猛たちまで抜けるとは思わなかった」
素戔嗚の島渡りに当たり、彼を慕う五十猛たちも、同行を申し出ていた。
「付いてこいと言った覚えはないのだがな」
「頼めるなら彼らをそのまま引き取ってほしいものだけどね」
訝る素戔嗚に天王は目を細めた。
「天地がそれぞれ境界をはっきりさせていけば、いずれ常世は無くなる。その時に他神の居場所はない。あいつらに新しい居場所を作ってやってくれ」
五十猛たちを引き連れた素戔嗚は、赤土の舟に乗って韓郷から対馬、そして、九州へと渡っていった。
筑紫では宗像三女神が素戔嗚の島渡りを助けた。
素戔嗚の娘たちである宗像三女神は天照から命じられて筑紫に下り、父がいる韓郷との海路を守護した。
素戔嗚はそうではなかったが、五十猛たちは葦原中国に慣れる必要があったので、常世から携えてきた種子を播いた。
種は樹木となり、至るところを青々とした山に変え、五十猛たちを葦原中国の環境に馴染ませた。
もっとも、完全に五十猛たちが葦原中国に馴染むのを待たず、素戔嗚は一人で出雲に向かった。
典拠は以下の通りです。
素戔嗚尊が韓郷から対馬、九州へと渡っていく:『閑田耕筆』
五十猛神たちも樹木の種子を携え、葦原中国に渡って種を播く:『日本書紀』
宗像三女神が韓郷から筑紫に至る海路の守護を天照大御神から命じられる:『神代巻口訣』




