第三十一段 他神
幻力とは天竺の天人が有する能力で、森羅万象の力を梵として崇める天人たちは、それによって幻力を振るった。
牛頭天王も天竺の豊饒国に生まれ、疫病の力を梵として崇めた。
神人の呪能とは異なる仕組みに基づいていたが、お互いその効果を相手に及ぼせたので、大御食都姫は牛頭天王の幻力で病に冒されて弱体化し、素戔嗚によって呪力を分解された。
そうして大御食都姫は落ち着いたのであるけれども収まらないのが淡島だった。
「怪我はありませんでしたから良いものの弛んでます!」
事態が収束した後、素戔嗚を正座させて自分もそうし、淡島はこんこんと説教した。
彼女は滅多に声を荒げず、意見を押し付けるようなこともなかったが、世話焼きが性に合いすぎているのか、素戔嗚には些か過保護な面を見せた。
淡島は夫である牛頭天王との間には八人の兄弟たる八王子権現らを儲け、真っ直ぐであって偽りのない愛情に子どもたちも応えていた。
「それくらい熱心に俺のことも構ってくれたら寂しくないんだけどね」
「夜に布団へ入るまで待っててください!」
横合いから牛頭天王が茶々を入れたが、真面目に怒っている余りとんでもない返答をしつつ、淡島は素戔嗚への説教を続けた。
そこには取り繕わぬ正直さがあった。
母の伊邪那美と共に過ごす機会を逸した無念さが淡島を素戔嗚に面と向かわせた。
生まれたばかりの自分を命懸けで愛してくれた人へ報いられなかったのに、どうして愛情を出し惜しみできようか。
そのことが同じ母を介して素戔嗚にも伝わったので、彼も素直な態度を示した。
もっとも、そうであるからと言って素戔嗚が淡島に従うかは別の問題だった。
◆
夜中に夫婦の寝室で天王が淡島へ話し掛けた。
「素戔嗚の様子が気に掛かるのかい?」
淡島は天王の胸に顔を寄せながら添い寝していた。
「ええ……」
彼女は日頃から素戔嗚のことを心配していた。
確かに素戔嗚は曽尸茂梨でよく働き、その報酬として生大刀や生弓矢、天詔琴など珍しい宝を手に入れ、呪能を制限されてもなお苛烈な力で五十猛たちからは親分と慕われていた。
しかし、子分たちや他神たちと馴れ合うことはなく、天王と淡島の夫婦にも距離を取っていた。
それは五十猛たちにとっては孤高と映り、常世では行きずりの関係が多いことから他神たちも気にしなかった。
だが、淡島は素戔嗚の孤独が妣国への衝迫によるものと気付いており、それがそのまま放っておいても良いようなものではないと見なしていた。
高天原での一件は淡島も聞き知っていた。
「珍しい宝を手に入れても高天原への祓えに差し出さず、ここを離れないでいたのは、ひとえに黄泉への道を探してのことでしょう」
常世の曽尸茂梨にやってくるような者が報酬として渡す宝は、呪具の類いであるのが大方だった。
神人たちの天地には特定の呪能でしか往けない場所もあった。
素戔嗚は仲間を増やすような性分の持ち主ではなかったので、他の神人を頼れないとなれば、呪能が宿された呪具を用いるしかなかった。
「それ故に素戔嗚はここでの仕事に熱心です」
「その素戔嗚が気を抜くようなことはと言えば、黄泉へ往く道を見付けたこと以外にないか」
「はい、きっと素戔嗚は手掛かりを追ってここを離れるに違いありません。ですが、黄泉路は父様が塞いでしまいました。素戔嗚は母様と会えずに流離って周りを、そして、何より自分を損なってしまうでしょう」
淡島の体が震えた。
定かではないけれども忘れられない記憶が甦ったのだ。
荒れ狂う呪力を兄ともども父母に振るってしまった幼少の記憶が。
それに対して天王は何も言わず、淡島の体に回した腕に力を込めた。
自分が側にいると伝えるために。
幾多の困難を二人で乗り越えてきたのだから。
◆
天王は武塔天王なる天人の王子だったが、自身の幻力を上手く扱えず、周囲に疫病を流行らせたばかりか、我が身も角の赤い牛頭の異形に変貌させていた。
そのせいで彼は父の城である吉祥園から追放され、様々な天地を渡り歩いた末、婆竭羅龍王の龍宮へ身を寄せた。
龍宮に住む龍畜は、毒に塗れた蛇体の畜生で、天王の病も効かず、血清すら作ってみせた。そのような龍の王たる婆竭羅の養女が淡島だった。
その時は島に天変地異を起こすようなことは無くなっていたが、代わりに分身の呪能が適切に作用せず、自身の存在を朧気にしていた。
自分が無くなってしまう恐怖に淡島は気も狂わんばかりで、同じく婆竭羅の養子となっていた水蛭子も、妹を助ける術が分からずに養父ともども困り果てていた。
そうした兄妹の様子に天王は衝撃を受けた。
それまで彼は己の醜い姿を恥じ、消え去りたいとすら願っていた。
そう、そのように望んでいたはずだったのだが、本当に消えてしまうかも知れない者を前にした時、その現実に天王は足が竦んだ。
しかし、その手は伸ばされた。
彼は淡島の体内にある毒を増幅させた。
淡島は悲鳴を上げたが、それは突然に自身を襲った苦痛によるものだけではなかった。
完全には制御できていない幻力を行使したせいで天王の全身は無惨に爛れていた。
体を溶かされるような苦しみに耐えながら天王は微笑んだ。
「誰でもない自分だから痛いんだよな?」
万が一のことを考えて触れるのは避け、彼は拇を立ててみせた。
「俺も凄く痛いよ」
その言葉と苦痛が淡島にとって世界との繋がりだった。
それ以降、自身の内にあるものを増幅させられた淡島は、己の存在を見失わなかった。
天王も誰かのためになれることで自分の宿業を受け入れられた。
それからの天王と淡島は二人三脚で困難を乗り越えていった。
彼らは己の力を御せるようになると、他神の道を志した。
自分たちのように居場所のない者たちのために。
典拠は以下の通りです。
牛頭天王が吉祥園の王たる武塔天王の王子として天竺の豊饒国に生まれ、赤色の角を持った牛頭の恐ろしい異形だったが、婆竭羅龍王の娘と結婚して八王子権現を儲ける:『祇園牛頭天王縁起』




