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日本神紀  作者: flat face
巻第二 神祇本紀 天照と素戔嗚
30/228

第二十九段 神逐らい

 素戔嗚が天浮橋から葦原中国へ降り立つ段となり、天照が彼を呼び止めた。


「素戔嗚……」


 しかし、言葉が続かなくて天照は気まずげな表情を見せた。

 水蛭子は気を利かし、二人と距離を取っていた。

 何か言わねばと焦る天照に素戔嗚が告げた。


「……一度だけ妣国に往かんとする歩みを止めかけたことがあった」


「えっ?」


「天照姉が自身の力を荒れ狂わせ、天斑駒を黄泉神にならしめんとした時だ」


「……」


「俺は天照姉が息災なら、それだけで歩いていける」


 素戔嗚は初めて穏やかな声を掛けた。


「だから、そう湿った顔をしてくれるな」


 天照は素戔嗚にとって母への想いを分かち合ってくれた唯一の肉親で、彼は裏切られたなどと思ってはいなかった。

 それが伝わったのか天照は目に涙が浮かび、慌てて袖で拭った。

 そして、弟の前途を祝福すべく飛び切りの笑顔を送ってやった。


「湿った顔などしとらん。お主の姉は最高に凄いんじゃぞ。要らぬ心配などせず、達者にやってくれよ」


 背伸びして彼女は素戔嗚をぎゅっと抱き締めた。

 素戔嗚もそれに応えた。

 水蛭子は水を差さぬよう静かに茶を啜った。



 水蛭子・天照・素戔嗚の様子を三人に気付かれないところから見詰める者がいた。

 稚日女だった。

 その瞳は旭日のように赤く輝いていた。


「あの恵比寿って何者なんだろ、お父様?」


 虚空に向かって稚日女が問い掛けると、どこからともなく答えが返ってきた。


「分からん。しかし、知っているような気もする。まあ、そう悩むことでもないだろう」


 返答の声は空亡のものだった。


「いずれ彼我の違いは無くなる。神国が完成しさえすれば。その時に誰が何者かなどどうでも良いことだ」


「でも、それまでは敵と味方がいるんだぜ。私はお父様が敵に煩わされないよう努めなくちゃいけない。その博愛は神国が完成してからにしてくれよ」


 稚日女は空亡の言葉に頬を紅く染めて言った。

 その様子は丸きり御中主のようだった。

 実際、自身の気配を三貴子に察知させないなど別天津神であっても御中主ぐらいしかいなかった。


 空亡が神人の天地を創造したように御中主は高天原を創った。

 それゆえ、彼女は高天原そのものと言え、そこに溶け込んでしまえば、何人も気配を察知できなかった。

 それが出来るのは造物主か如来くらいだったが、仏も御中主が表に出なければ分からなかった。


 それを利用して御中主は稚日女という人格を創り出した。

 稚日女もまた高天原と同じ被造物と言え、彼女はその人格を隠れ蓑にした。

 別人格であるがゆえに稚日女にも意思はあったが、主導権は御中主が握っており、稚日女は自分が御中主の創り出した存在であることにさえ気付いていなかった。


 高皇産霊と神皇産霊でさえ稚日女の正体に勘付けなかった。

 神人は呪力の余波で生まれることもあった。

 二人は稚日女もそのような神人であろうと見なしていた。


 その稚日女がいなくなった月読に代わり、今や天照の近侍だった。

 呪能を発揮できない稚日女は、自分の色を出さず、そのような人材を上手く扱えてこそ将器があるとされたからだ。


 御中主は高皇産霊と神皇産霊に正体を明かす気などなかった。

 二人は空亡に対する狂信に欠けていたし、国之常立のような好ましからざる輩と付き合いが深かったからだ。

 上手く言葉には出来なかったが、御中主は国之常立や豊受が気に喰わなかった。


 空亡の神国を妨げんとする仏菩薩とやらに近しいものを彼女は彼らから感じ取った。

 そうであるからこそ国之常立を艮に幽閉できたのは幸いだった。

 国之常立の妻である豊雲野も夫に殉じて坤に引き籠もった。


「無益な対立で救済が遅れるとは悲しいなあ……」


 心から悲しそうに空亡は嘆息した。



 水蛭子に案内されて素戔嗚は韓郷の曽尸茂梨そしもりに降った。

 前払いの賠償で千座置戸ちくらのおきどと呼ばれるほど巨額の償いをさせられた彼は、青草を結った蓑笠を着け、雨の中を惨めに進んだ。

 青草とは茅のことで、それは駑馬に与える飼料であって石混じりの痩せた土地でも生育し、そのような草を束ねて雨具にするなど貧窮するにもほどがあった。


 そうして霖雨に濡れそぼつ素戔嗚を道行く誰しもが避けた。

 束草の蓑笠を着けた異人は忌むべきもので、関わればどのような禍が降り掛かるか分かったものではなかった。

 素戔嗚は神人を放逐する神逐かみやらいに遭っていたので、尚更に不吉な存在と見なされた。


 それは韓郷においてもそうだった。

 未だ造物主たちの創造は完成しておらず、彼らの創った国土は、所々で混ざり合っていた。

 それ故に被造物たちの意識が混ざることもあり、行き来も起こっていた。


「あなたが末の弟くんですか!」


 胡服を着て黒髪をお団子にした神人が水蛭子と素戔嗚を出迎えた。


「オドレの一番上の姉ちゃんに当たる淡島や」


 水蛭子が横合いから素戔嗚に説明した。


「あの方の伴侶としては頗梨采女はりさいじょとも申しますが」


 頬に手を当てて照れながら、淡島が補足を入れた。


「それで、生き別れた家族で仲良し小好しをするために俺をここに連れてきたのか?」


「話に聞いていた通り捻くれた発想をするなあ」


 無愛想な素戔嗚に間延びした声が掛けられた。

 振り返れば銀髪をした長身痩躯の男が立っていた。

 垂れ目の瞳は半眼で、顔の下半分は覆面で覆われていた。


牛頭天王ごずてんのう。淡島の旦那をさせてもらってる。まあ、宜しく」


 天王てんのうは頭を掻きながらそう挨拶した。


典拠は以下の通りです。


豊雲野神が坤に幽閉される:『霊界物語』

素戔嗚尊が曽戸茂梨に降りる:『日本書紀』

淡島神が牛頭天王の妻とされる:『塵塚物語』

牛頭天王の妻が名を頗梨采女と言う:『簠簋内伝』


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