第二段 造化三神
釈迦は波の流れに身を任せた先で見たものを薬師に話して聞かせた。
「あの青海原に生えとった葦の一本、ありゃ間違いなく金剛杵じゃ。そいつに俺は如来の気を感じたわ」
金剛杵とは杵のような武器で、堅固であってあらゆるものを打ち砕くため、金剛の名を冠していた。
「金剛杵ですか。それを使用する如来と言えば……」
「ああ、大日如来の奴しかおらん」
「なるほど、貴方の懸念も分からなくはありません」
大日は魔術によって衆生を悟りへと導く如来で、その力は圧倒的だったのだが、それ故に一歩間違えば危険も大きかった。
「ですが、大日が先にその地へ目を着けたのなら、管轄権はそちらにあるはずですし、私が駆り出される必要性は感じられません。それに、私がここを離れられないのは、貴方も知っているでしょう」
薬師の瞳から光が消えた。
それと共に肉の焼けるような音がし、薬師の肌が爛れた。
世に生じた病魔の痛苦を薬師がまた引き受けたのだ。
薬師は治癒によって衆生を悟りへと導き、その体は半陰陽だったが、それはあらゆる病を身に宿すためのものだった。
病むものは生と死の狭間にあり、誰でもない己が痛みを味わわなければならぬ孤独に苦しむ。
薬師は生でもなく死でもないその状態に寄り添い、有無に偏らぬ中道を歩ませようとした。
それは心身に害なすものを浄める薬師の力を以てしても想像を絶する苦痛が伴った。
そして、そうするがゆえに薬師は自分自身が最悪の病巣となった。
浄瑠璃世界が清浄な瑠璃で出来ているのは、薬師の病巣が広まるのを封じるためだった。
「そうじゃな。けど、他人の病を背負ってでも癒やしの力を振るうお前にしか頼めんのじゃ」
如何なる痛みに苦しめられようとも生きとし生けるものを癒やすという薬師の覚悟に応えるかのごとく釈迦も目を細めた。
「湿気て葦の茂るあの地は必ず病むわ。大日の力も取り込みよってな」
葦が繁茂する湿原は、疫病が最も伝染力を誇る。
おびただしい数の葦は無秩序に蔓延して増殖する疫病の生命活動そのものだった。
その力に大日は引き寄せられたのかも知れなかったが、下手にそれを加速させては大惨事を招きかねなかった。
「お前に動けとは言わん。そうじゃけど、眷属をあの地に遣わしちゃくれんか?」
「……貴方の舌先三寸を信じましょう。丁度、遣わすのに適任者がいます」
自ら動くことが出来ずとも薬師には手足となる眷属たちがいた。
◆
空亡は悲しく想った。
何がそうさせるのかまでは分からなかったが、悲しい想いをさせられていることは事実だった。
正体の分からぬ何かが自分の創造した天地に干渉しようとしている。
その何かは己がなした創造と相容れない存在であることは分かった。
干渉されることを通じ、その思念が流れ込んできたからだ。
そして、それに空亡を悲しい想いをさせた。
この世界が仮のものに過ぎない?
造物主として天地創造をなしてきた空亡は悲しみが昂じ、悲憤と呼んで良い感情を抱いた。
世界への執着を断たんとする空の何と哀れなことか。
次々に自ずから然う成る成り行く勢いが愛らしく感じられぬとは。
万象を永遠に活き活きと変化させるこの稜威をどうして慈しまずにおられよう。
この宇宙に全てが涅槃へ至る歴史の終わりなどもたらさせなどしない。
◆
空亡が嘆いていると、その顔を天御中主尊が心配そうに覗き込んできた。
「お父様、どっか悪いのか?」
御中主は空亡が創った初めての神人だった。
神人とは不死ではないけれども不老の人型で、特定の事物や事象を神なる存在として対象化し、それを祀ることでその力を我が身に宿して行使できた。
例えば雷を神として祀る神人は、自身が耐えうる範囲においてその力を自在に操ることが可能だった。
女性の神人である御中主は太極を神として祀った。
太極とは森羅万象の根源で、御中主にとって造物主たる空亡がそれに当たった。
つまり御中主は造物主の神威を幾らか扱え、初めての神人であったこともあり、空亡にとって娘のような存在だった。
御中主も空亡を父と慕い、両者の髪の毛はどちらも燃えるように赤かった。
「顔色も優れないようだけど……」
それは御中主の言葉でなければ冗談に聞こえた。
万有の本体たる空亡は無貌で、白絹を張った長方形の厚紙を顔に被せ、その一面には火の玉が描かれてあり、一つ目の妖怪のようにも見えた。
それでも、その感情が分かるとでも言うかのごとく御中主は幼子のように惑いながら、上目遣いに空亡を見詰めていた。
造物主の力をその身に宿すだけあり、御中主は空亡に依存している気があった。
それでは世界の創造が上手く行かぬかも知れないと考え、空亡は太極を陰陽に分かち、陽の力を神として祀る男性の神人である高皇産霊尊と陰の力を神として祀る女性の神人である神皇産霊尊を創った。
そして、御中主・高皇産霊・神皇産霊を造化三神とし、空亡が創造した世界の護持発展を担わせようとした。
ところが、弟と妹が出来て自立するかと思いきや、下の子たちに空亡を盗られると思ったのか、以前にも増して御中主は空亡へ依存するようになった。
「私が代わりを務めるから、お父様は休んでくれよ!」
それでも、深く依存するがゆえに彼女は父と強く同調しており、空亡はその点に着目した。
「……御中主、お前に頼みたいことがある」
同調すれば区別は付きがたい。
身を隠して動くなら、それが空亡と御中主のどちらが行ったか気配だけでは判別できない。
それならば正体の分からぬ何かの裏を掻けるかも知れなかった。
典拠は以下の通りです。
高天海原で金剛杵が葦に変成する:『天地麗気府禄』
薬師如来が釈迦如来の衆生救済計画に協力する:『耀天記』
人格的な「かみ」を「神人」と書き表す:『日本書紀』




