第十六段 高天海原
天照たちが高天原に昇り、幾ばくかの月日が経った後、高皇産霊と神皇産霊が国之常立の御殿を訪ねた。
国之常立は二人を居間に通した。
高皇産霊と神皇産霊は高天原を実質的に統括する神人だったが、国之常立に気後れする様子はなかった。
「かなり扱いているようだな。ここまで音が響いているぞ」
「ついつい興が乗ってしまってな。しかし、お前が頼んできたことゆえ、別に詫びようとは思わんぞ」
「寧ろ私に詫びてください」
不敵に笑う高皇産霊に対し、神皇産霊が微笑みながらどすの効いた声で突っ込みを入れた。
「光の矢を何百本も同時に雨霰と降らせてそれをよけさせようとするなんて馬鹿じゃないですか? 同じ教育係として連帯責任で貴方の後始末に駆り出される身にもなってください」
「重力を増加させてよけにくくするお前も大概だがな」
高皇産霊と神皇産霊は天照と月読を鍛えてくれるよう国之常立から頼まれていた。
天照が太陽の力を、月読が太陰の力を神として祀るのに対し、高皇産霊は陽の力を、神皇産霊は陰の力を神として祀るので、呪能を駆使できるよう修行するには最適の組み合わせだった。
陰陽による生成を司る神人として高皇産霊と神皇産霊は成長というものに目がなく、嬉々として天照と月読を扱いていた。
国之常立は空亡の神国が完成するのを挫くため、いずれ天照たちに葦原中国だけではなく、高天原にも仏法を広めさせようと考えていた。
特に天照からは国之常立より伊邪那岐へと伝わった法力の残滓が伊邪那美の黄泉神としての呪力で開花したのか、大日のごとき力が感じられた。
それゆえ、国之常立は伊邪那岐に大日の印文を天照へ渡させてもいた。
ただし、まだ時期尚早として仏法のことを教えてはいなかった。
それは高皇産霊と神皇産霊に対しても同様だった。
付き合いも長くなり、国之常立としては高皇産霊たちを憎からず思ってはいたのだが、空亡の直系にそう易々と心を許してはならなかった。
◆
御中主が空亡に語り掛けた。
「放っといても良いのかよ、お父様?」
その問いに腹の奥から響いてくるような声で答えが返ってきた。
「下手に動けばまた調伏されかけかねない。それに、彼らも俺の子だ。親として子が育つのは嬉しい」
「お父様……」
目に涙を浮かべて御中主は頬を赤らめた。
空亡の言葉は慈愛に満ちていた。
しかし、その甘い響きは腐り落ちる果実を思わせた。
「子は親の思う通りに育たないだろう。だが、俺にとっては育つことそのものが大切だ。ゆえに、空亡の天地はたとえ俺が手を下さなくとも次々と成り行くように仕向けられている」
御中主はうっとりしながら聞いていた。
自分もまた父の宇宙に包まれているのだ。
蕩ける心地に彼女は酔い痴れた。
◆
そこは青々と樹木の茂った山があり、川や海原が静かに水を湛えているはずだった。
しかし、山は樹木が薙ぎ倒され、川や海原は荒れ狂っていた。
暴風雨が日星の光を隠すほど暴れすさび、山津波や海津波・風津波を引き起こしていたからだ。
それと共に多くの国津神たちが蝿のように不気味な音を上げてざわめき溢れ、呪力を一斉に暴走させていた。
そうした中、素戔嗚は河口に立っていた。
素戔嗚は呪力を暴走させていないようだったが、風雨を浴びているからだろうか、無表情でありながらもその顔は泣いているようにも見えた。
暴走した国津神たちは荒れ狂う呪力を素戔嗚にも向けた。
しかし、それが素戔嗚に届くことはなく、彼はあたかも何かを探し出そうというかのごとく微動だにしないで水面を睨み付けていた。
騒ぎを聞き付けた伊邪那岐がそのような素戔嗚に怒鳴った。
「何をやってる、素戔嗚!?」
嵐の力を神として祀る素戔嗚は、神風が吹く海で国津神たちに鍛え上げられていた。
だが、どれだけ歳月が流れても彼は国津神たちと打ち解けなかった。
それは伊邪那岐に対しても同様だった。
感情の行き交うことがない息子にどう接して良いか分からず、向き合うための回路を見付けられぬまま素戔嗚を遠くから見守るばかりだった。
それでも、今回ばかりは見過ごしておけなかった。
流れてくる気から素戔嗚が国津神たちを暴走させていることが感じ取られたからだ。
暴走する国津神たちの呪力を分解しつつ、伊邪那岐は自身も河口に入った。
そして、その瞬間にどうしてこのような事態になったのかを悟った。
川の水は最終的に海へ流れ込むものだが、それは奥山の岩石から湧き出ていた。
そこには黄泉があった。
黄泉神たちの呪力が川の水を介して河口から海原へと流れ込み、それが素戔嗚によって増幅されたのだ。
素戔嗚には黄泉津大神である伊邪那美の気が混じっていたから。
初めは微々たるものだったが、やがて素戔嗚は気付いたのだろう。
水から感じる呪力は黄泉のもので、それはまだ見ぬ母に通じると。
一旦、自分には母がいないことに気付けいたなら、恋しく思う気持ちは止まらない。
いるべき存在の欠如とは痛みで、それがどれほど苦しいものかは伊邪那岐も身に染みていた。
それゆえ、素戔嗚が何をしているのかも察した。
伊邪那岐が教えなかったこともあり、素戔嗚はどこに母がいるか分からず、必死に探しているのだ。
その眼中に伊邪那岐や国津神たちは入っていなかった。
だから、少しでも手掛かりを得ようとして黄泉の呪力を増幅させ、そのせいで国津神たちが暴走しようとも意に介さなかった。
それを伊邪那岐はたとえ動機が共感できるものであっても看過しておくことは出来なかった。
「今すぐそれを止めるんだ!」
伊邪那岐の呪能が暴走する呪力を分解した。
それでやっと素戔嗚は伊邪那岐の方を向いた。
素戔嗚の呪力が伊邪那岐へと振るわれた。
典拠は以下の通りです。
天照大御神が大日の印文を得るも仏法からは遠ざけられる:『沙石集』




