第十一段 火神被殺
苦しみ悶えながら伊邪那美は伊邪那岐に言った。
「このままだとキミまで力を暴走させちゃう。まだ迦具土はちっちゃいからか、ボクほど力が暴走してない。もしかしたらボクと離れれば力が収まるかも」
彼女は立ち上がって戸口に向かった。
「伊邪那美!?」
「お願いだから付いてこないで!」
「君はどうするんだい?」
「黄泉に行ってみる。あそこには力を暴走させた人たちが一杯いるから、何か手立てを教えてくれるかも知れない。だから、迦具土のことは任せたよ?」
「あそこにいるのは化け物のようなものじゃないか!」
悲痛な叫びを上げる伊邪那岐に伊邪那美は儚げに微笑んだ。
「でも、他に方法は思い付かないし、ボクはキミたちを傷付けたくない。ごめんね、伊邪那岐。大好きだよ、バイバイ」
走り去る伊邪那美を伊邪那岐は掴まえようとしたが、体がいきなり地面に突っ伏した。
伊邪那美が神皇産霊の能力を複製し、重力で伊邪那岐を押さえ付けたのだ。
その力が解けた時にはもう伊邪那美はいなかった。
本音では伊邪那美を追い掛けたかったが、伊邪那岐の傍らでは迦具土がのたうち回っていた。
どうしたらこの子を救えるのか。
未だに自分は伊邪那美のごとく神人の能力を複製できていない。
そのような自分がこの子を救うに足るか?
知るか!
その問いを本能的にねじ伏せ、伊邪那岐は長い剣である十拳剣を抜いて迦具土を斬った。
すると、迦具土から十六人の神人が現出し、その炎が収まった。
伊邪那岐の呪能が迦具土の呪力を分節して整序したのだ。
迦具土は見た目が幼くなったが、服は青々たる衣のままで、体に傷はなく、伊邪那岐ともども信じられないといった表情をしていた。
「それが貴様の真なる力か」
唐突に姿を見せた大日の言葉が二人の意識を引き戻した。
「能力を複製するのではなくて分解する。理解する点では同じだが、兄妹でそのような違いが出たか。道理で妹の真似をしても上手く行かないわけだ」
そう分析する大日は、全身をずたぼろにされていた。
「すまん、空亡を仕留めれずに取り逃がした。深手を負わせられたと言っても慰めにはなるまいな。そして、今の余では貴様たちを手助けできんが、これからどうする?」
「俺はもう大丈夫だから、母さんのところに行ってあげてくれ、父さん」
よろよろと立ち上がりながら迦具土が伊邪那岐に請うた。
「その力なら母さんを助けられるはずです」
伊邪那岐は暫し逡巡したが、やがて意を決し、十拳剣を迦具土に渡して告げた。
「これは天之尾羽張という剣で、君は力を斬られて火の神人としては死んだから、この剣の力をこれからは神として祀るんだ」
迦具土が伊邪那岐の言葉に頷くと、大日が再び口を挟んだ。
「一旦、余はこの地を去り、手の傷を癒やすのに専念する。しかし、必ず戻ってくる。いずれ他の如来らも仏法を伝えに来るだろうが、くれぐれも空亡には気を付けろ」
「妻を黄泉から連れ戻し、国産みをまた始めることでこのご恩に報いてみせます」
伊邪那岐は何度も窮地を救ってくれた大日に篤く礼を述べて駆け出した。
◆
空亡は嘆きを深めた。
大日の全身を腐らせて侵蝕し、それを通じて仏法に触れ、如来を哀れに感じたのだ。
その如来が空亡を調伏しようとしたのだけれども関係なかった。
恨みに思うどころか、寧ろ如来らを憐れんだ。
仏法が説く空の何と忌まわしいことか。
このような法を説くために存在する如来たちが不憫でならない。
ならば、救おう。
腐らせて造り変えるのだ。
空を亡ぼしてみせよう。
「我が娘、御中主よ」
「あいよ」
高天原にある御中主の御殿には彼女の姿しかなかった。
それでも、どこからともなく空亡の声が聞こえてきた。
御中主はそれを不思議には思っていないようだった。
「俺は暫く身を潜める。深手を負ったこともあるが、彼らも救うためには準備が必要だ。機が熟すまで俺を隠してくれ」
「任せてくれよ」
可愛い我が娘よ。
お前たちが愛しくて堪らない。
俺が世界を腐らせるから、どうか蛆のごとく湧いてくれ。
◆
雷獣が伊邪那美へと群がった。
雷獣は呪力が暴走して異形と化した神獣で、犬のようであって尾が長く、雷のような声を発し、雷鳴の時に村里へ出ては鋭い爪で樹木を裂いて人畜を害した。
普段は黄泉に棲み、伊邪那美が原生林に抱かれたその地を訪れると、集団で跳び掛かってきた。
しかし、雷獣は別に伊邪那美を殺そうとはしなかった。
「ボクの力を落ち着かせてくれるんだね?」
能力を複製できるからこそ伊邪那美は雷獣の考えが理解できた。
雷獣も黄泉神の一種だった。
黄泉神は異形となり果てるほど力が暴走しており、それがどうして自壊せずに済んでいるのか?
その理由を伊邪那美は身を以て察した。
「……伊邪那岐、ごめん」
死と辱めのどちらを選ぶか。
平生の伊邪那美ならどちらを採るか分からなかったが、呪力の暴走で激痛に苛まれ、死の恐怖に曝された彼女は、一刻も早く苦しみから逃れたかった。
それでも、操を貫きたかった相手にせめてもの意地で謝った。
伊邪那美の顔や胸、腹、腰、手足に雷獣たちのそれが向けられた。
真紅に膨満した巨大な凶器は、荒けない穂先が早くも先走りに濡れていた。
感情のない眼で伊邪那美を見詰める雷獣たちは息を荒げ、長い舌を牙の間から覗かせた。
涎が牙や下の間から滴った。
それは雷獣たちにのし掛かられた伊邪那美の体に糸を引いた。
雷獣たちの強暴なものが伊邪那美に荒々しく襲い掛かった。
典拠は以下の通りです。
伊邪那美神と火之迦具土神が生きている:『日本書紀』