勇者と姫のショートストーリー ザ☆異世界
俺の名は辺鄙寺吾郎。『へんぴじ ごろう』だ。デラへんぴと呼んでくれ。さて、今年中二になった俺は、なんと異世界に行ってきたんだ。異世界よ異世界。スゲェだろ。こんな話をすると大抵のやつは俺のことを変な目で見る。だが上等だ。聞く耳をもたねぇ奴は聞かなくたっていい。どうせ信用しねえだろうからな。
夏休みの初日にケータイを変えたのがすべての始まりだ。ひと夏のアヴァンギャルド? アヴァンチュール? を求めて、カッコいいケータイをチラチラさせながらカントリーロードをローリングする以外、こんなド田舎じゃやることがねえんだ。ここがどこかって? チタ半島さ。何県かって? んなこと聞くなよ。何も知らねえんだな、お前。
新しいケータイは真っ赤でね、なんとアンテナが二本も付いてたんだ。しかも長ぇの。尻ポケに入れてチャリで走ると風になびいてふーわふわよ。こんな奴、このへんじゃ俺以外に見かけねえはずだ。このケータイ、二つ折りの下半分が蛇腹になってて、なんか丸っこくもできたりする。メーカーはわからねえけど、とにかくンパネェケータイさ。
そのケータイを買って二日目、最初にかかってきた電話が妙だった。なんかね、いきなり電話口で『助けて! 助けて!』って言いやがんの。何これ新手の振り込め詐欺、て思ったけど声は若い女だし、っても俺より年上だろうけどさ、まあちょろっと騙されてやろうかと思って相手したら、『駅前に来て! 駅前に来て!』だって。どこの駅だよ。俺がどこにいるか知ってんのかよ。
でカミノマって駅に行ったんだ。うちから一番近い駅なのな。そしたら次は『そこで立ち止まって! そこで立ち止まって!』だってよ、何だそりゃ。しかも道路の真ん中だ。でこっからがビックリさ。立ち止まったらパパプーってトラックが突っ込んで来やがんの。オイオイオイオイ殺す気かよってとっさに逃げたけど、運ちゃん、俺をよけようと道端の小料理屋みたいなのに突っ込んだ。ギリギリ店にめり込みはしなかったけど、店の前のイケスがぶっ壊れて、そこら一帯水浸しさ。逃げたね。ソッコー逃げた。ケータイにかかってきた変な通話はそれっきりだよ。
その晩変なことが起こったんだ。夜中目が覚めたらなんか生臭い匂いがすんの。なんだこりゃと思って電気の紐を引っ張ったら、パチン、明るくなった部屋の真ん中に、でっかいザリガニがいるんだよ。でっかいってそうだな50センチくらいかな、まあとにかくありえないデカさだ。唖然としたね、唖然と。
ザリガニの奴、明かりがついたのに気づくと、俺のほうに向き直った。でハサミをぐーっと伸ばして、床まで垂れてる電気の紐を挟むとな、勝手に電気を消しやがった。パチン。
幻だ! ってか夢だ! それ以外にありえねえ! そう思ってしばらくボーゼンとしてたんだが、やっぱ気になるよな。気にならねえハズねえよな。で、もっかい電気をつけてみた。パチン。ザリガニさんこんにちは。パチン。また勝手に消される。なんだよ一体これ。
「何お前ザリガニなの? なんで俺の部屋にいんの? オモチャか何かなの?」
自分でも何言ってるかわかんなかったけど、とにかく俺は言ったのね。そしたらこいつ、答えやがった。
「恥ずかしいわ、こんな恰好で……」
「いや恥ずかしくねえよ。ザリガニだろお前」
「伊勢エビよ」
だからなんなんだよ。一緒だよ。
「で、伊勢エビさんが何の用だよ。どっから入ってきたんだよ。臭えよお前」
「水から出ると、匂うの」
「そりゃ水の中じゃ匂わないだろうけどさぁ」
「そんなこともないけど……」
何会話してんだ俺。
「で、何の用なの。俺眠いんだよ。夢の世界に帰ってくれる? マジで」
「あなたの力が必要なの」
何言ってんのコイツ。部屋の中に沈黙が降りたね、マジで。
「ハァ?」
「人間の勇者の力が必要なの。わたしたちの国を守るために」
「どこだよザリガニの国って」伊勢エビだったが、素で間違った。
そしたらこいつ、「海の底よ! とにかく来て!」て叫びやがった。次の瞬間、俺の顔に何かが、ってかエビしかねえけど、冷たくてトゲトゲした何かが掴みかかった。ヤベエ! 殺される! リプリー! 思うまもなく、なんか泡泡しいブクブクが俺の顔中に吹き付けられて、あっという間に意識が飛んじまった。
目を覚ますと、俺は見知らぬ宮殿みたいなとこにいた。
「気がついた? 乱暴にしてゴメンね」
横を見ると、あのでっかいエビがいる。触覚をふわふわさせて、飛び出た黒い目がクリクリしながら俺を見ている。ああもう殺してえ。一体何だよコイツもココも。
「おい、どこだよここ」
「西セントレア市、竜宮センターよ」
「西セントレアってどこだよ」
「人間の作った空港の西側よ」
おいおい馬鹿にすんな。地理の点は悪いけど、俺だって底なしのマヌケじゃねえ。
「空港の西には海しかねえだろ。それともここは対岸か?」
エビはぷるぷると首を振る。
「三重県じゃないわ。ここはあなたの言うとおり、海よ。海の底なの。海の底には、あなたの知らない世界があるのよ。西セントレア市は海底にある、金皿一族の城塞都市なの」
ちょっと待てよ。理解できねえよ。
「ってことは何だよ、俺は海の底に連れてこられたってことか? 浦島太郎みたいに」
「そうよ。意外と驚かないのね」
いや驚いてるけどさあ。
「まあ……そういう年頃だしな」
呟いたら、お互いになんとなく納得したみたいだった。
「で、どうして俺をここへ?」
「あなたは選ばれた勇者だからよ。一族の長である私は人間に囚われ、もう何時間もしないうちに殺されるはずだった。でも伝説のエビ電話を手に入れたあなたが、私の電波を受信して救い出してくれたの」
「電波って……」
「今日の昼あなたが見たイケスの中には、私がいたのよ。私はあのあとドブ川に逃げ込んで、そのまま海に戻ってきたの。東京や名古屋まで出荷されてなくて運がよかった。ここでは族長のマル秘魔法が使えるから、それであなたを探して連れてきたってわけ」
「……魔法って何だよ」
「説明できない力のことよ」
ってなわけで、俺は異世界、ってか伊勢湾の底に連れてこられちまったんだ。驚くなよ、この伊勢エビ、金皿一族のお姫様だそうだ。俺は竜宮センターの大ホールに案内されて、美味そうな膳を出された。伝説のとおり、舞台の上は鯛やヒラメの舞い踊りだ。その膳を紹介しよう。まずはお造りの盛り合わせだ。その隣に鰹のたたき。サバの酢締め。ほっけの開き。塩ジャケ。サンマ一夜干し。浅利の吸い物。昆布巻き。めかぶ。ひじき。わかめ。エトセトラ。……。
「米はないの? せめて寿司とか」俺は給仕のでっかいサザエに訊いたね。
「お米はありません。海のものではないですから」
「醤油もないみたいだけど」
「海のものではないですから」
「酢はあるのかよ」
「代用品で賄ってます」
特に珍味というわけでもねーし、こんな塩辛いオカズばっかり出されても困るよな。味付けに難があるなら、せめて素材くらい何とかしろっての。俺はサザエに注文をつけた。当然だろ?
「もっといいものないの。それこそ伊勢エビとか、本マグロとか、アワビとかさあ」
「エエッ」サザエは驚いた声を上げた。
「姫様のお客人が、そんなものを食べたがるなんて、そんな」
「驚くようなことかよ。なるべくイイモン食いたいってのが人情じゃないか。俺、勇者よ?」
「まさか、このわたくしもそのような目で見ていらっしゃるのですか」
「うん」
サザエは全速力で逃げていった。そして入れ替わりにエビ姫がやってきた。
「サザエをいじめなさったんですって。いけないわ、そんなの。私たち、精一杯のおもてなしをしているのに」
エビ姫はなんか申し訳なさそうに言いやがる。申し訳ないと思うなら、連れてきたことをそう思えよな。で、大きな鋏を床に置いて、なんとなく控えめなポーズを取ってんの。当然表情なんかはわからねえ。
「姫ちゃんさあ、鯛もヒラメもいるってのに、なんでこんなありきたりのモノを出すわけ?」
「出されたものに堂々と文句を言うなんて、スゴいしつけね……。いいわ教えてあげる。鯛やヒラメ、サザエたちは、私と同じ金皿の一族なの。だからあなたにお出しすることはできないわ」
「なんだよ、その金皿一族って」
「新しい海の支配階級よ。あなたにお出ししているのは下位の皿たち、紫皿、赤皿、白皿、緑皿族のものたちの死骸」
「……回る寿司かよ」
「ご明察。かつて海の中にはシャチを頂点とする食物連鎖のピラミッドがあったの。現在の金皿一族に属する私たちは、その中では決して高い位置にはいなかったわ。でもあるとき、私たちに啓示が下された。蟹が見つけた瓶の中に、回転寿司屋のチラシが入っていたのよ。その中では、私たちは食物の回転サイクルの頂点にいた」
「値段は頂点だろうけど、回転は意味ちがくね?」
「何でもいいのよ。私たち金のお皿の海産物は、チラシを見て争いをやめ、同盟を結んだの。そして下位の皿の生きものたちを支配下に置いて、新しい海の秩序を建設しようとしたのよ」
「……」
ありえねえよ、そんなの。
「でも問題があったわ」
「どんな?」
「金皿一族がどんなに団結しても、旧来の食物連鎖のピラミッド構造は崩れなかったのよ。私たちの闘争は無意味だった」
「そりゃま、そうだろうな」
「私たちはいま、タコやウツボからひっきりなしに攻撃を受けているわ。そこで、食物連鎖の頂点に近い生物を仲間に入れることで、戦力を増強しようということになったの」
何となくわかってきた。でもぶっちゃけ、わかりたくねえ。
「……それが俺だったってわけか」
「そう。魔法で作ったエビ携帯を世に放って、私たちを救うにふさわしい人間を捜し求めたの。私たちの要求レベルにぴったりと合致したのが、あなたよ。妄想力、適応力、細かいところに目を瞑る寛容さ、そういった素質を高いレベルで兼ね備えているのが、あなた。あなたは地上なんかにいるよりも、伊勢湾の底が似合っている人間なの。セレブレイテッドなテァレント」
そう言うと、エビ姫はいきなり大きくのけぞった。両の鋏を持ち上げて、バンザイのような恰好をする。持ち上げられた顔の下で、門扉のような口がぱくぱくしている。黒目がくりくり回転した。俺はちょっとだけビビった。姫はこの威嚇的なポーズのまま、かつてないほど大きな声で叫んだ。
「辺鄙寺吾郎、私たちを救うために、あなたはずっとここにいるべきだわ!」
俺は生まれてこの方味わったことがないくらい憂鬱な気分になったね、マジで。
「断る」
精一杯低い声で答えると、ハサミがごとりと床に落ちた。
「……どうして……?」
「どうしてって言われても」なあ。
「わかったわ。私、いつまでも待つ」触覚も垂れる。しおらしいもんだが、俺にとってはどぉでもいいことだ。
「今すぐ地上に帰してくれ。魚ばっかり食ってられないし」
そう言ったら姫の野郎、身を乗り出してさ、ごつごつしたハサミで俺の袖にすがりやがった。
「せめて、せめて3日だけここにいて頂戴。お礼はするから。お願い」
「お願いされてもなあ……神隠しとか言われそうだし、玉手箱とかいらんし」
「吾郎さんのお母様にはメールを打っておくわ。吾郎さんは今、伊勢湾の底にいますって」
「それはやめてくれ」
「お願い。3日だけでいいから」
俺は考えたね。このままここで魚食っててもしょーがない。さっさと陸に帰ってサニーサマーヴェイケイションを満喫したい。エビの恩返しが海底幽閉と強制徴兵だなんて、ひどい待遇じゃねえか。いや、待てよ。
「人魚とかいないのかよ。人魚がいれば、ちょっと考える」
エビは戸惑った様子を見せた。いや、なんとなくだけどさ。
「いないわ。似たようなのならいるけど」
「半魚人は勘弁だぜ」
「人面魚……」
「それもダメだ。使えねえなあ」
ホント使えねえ。ぶっ飛んだ魔法を使う連中なら、それくらいのサービス用意しとけよ。
「キメラが好きなら、東シナ海まで行かないと無理よ。あ、半分だけ人間ってのがいいのなら、半分だけ残った人間ならどこかに……」
「そういうものを俺に見せないでくれ」
エビはうなだれた。俺もかなり、残念な気持ちだ。
「難しい注文ね。ご期待に添えなくてごめんなさい。でも、3日だけ留まってくれたら、ちゃんとお礼はするわ。地上にも帰してあげる」
俺はさっきから考えていた疑問を口にした。
「何で3日なんだ?」
「……明日から私の脱皮が始まるの。甲羅が硬く戻るまで、私の力は半減するわ。今やっと見つけた勇者を失って、族長の力も弱まれば、金皿一族はたぶん崩壊してしまう。あなたの勇姿を見るだけで、一族の結束は強まるのよ。逆にいうと、いまの金皿族はそれくらいギリギリの状態にあるの」
なるほどなあ。さすがの俺も、なんだか可哀想になってきたよ。で、聞いた。
「……お礼って何だよ」
「財宝をあげるわ。私たちが見つけた沈没船のお宝とか」
「乗った」乗ったね。今年の夏は、バイトしなくて済むかも。
それから俺は宮殿、じゃなかった、竜宮センターの中をぶらぶらして回った。センターは民宿みてえな作りの味気ない建物で、なぜか人間が使うのにちょうどいいサイズなんだ。廊下では泳ぐ魚たちとすれ違った。そういえば俺、気づかずに空気の中にいるみたいに行動してたけど、魚たちは水の中にいるみたいに浮いてんだよな。どういう仕組みなんだかね。で、晩飯を食って貸し切りの浴場でひと泳ぎして、六畳の座敷に案内された。床の間には綺麗なサンゴが飾ってあって、大きな魚拓の掛け軸がかかっている。案内役のヒラメが、浴衣を出したりとかそういうことをしてくれた。茶も出してくれた。
「こぶ茶でございます」
「なあ、テレビとかねえの」塩辛いお茶を啜りながら聞いてみたんだ。
「ございませんねえ。人間の殿方が楽しめそうなものは、ここには……」
「つまんねえ土地だな」
「申し訳ございません。あ、なんでしたらアワビを呼んできましょうか。聞くところによると、人間の殿方は……」
「いや、晩飯のとき以外、本物に用はないから」
やることがないんで、すぐに寝たさ。蛍光灯を消すと、海の中はマジで真っ暗だ。ふかふかの蒲団だけが暖けえ。で、耳を澄ますと、それまであまり気にならなかった水の音が、ごぼごぼと俺を取り巻き始めた。ああ、海底にいるんだな……そう思ったよ。なんつーか、心地いい音。
夜中に何かを聞いて目を覚ました。あたりは恐ろしいほど真っ暗だ。
「……あ……すけ……」
何だ? 俺は慎重に体を起こした。するとね、突然平衡感覚が狂ったんだ。どっちが上だか分からねえ。しかもさっきはなかった水の抵抗がある。腕を動かすと、ごぼって重い音がした。マジでパニクりそうになったよ。なるだろ普通?
俺は落ちつこうとして目を瞑り、掛け蒲団の表面を握りしめた。尻の下には敷き布団の感触があって、その下には畳の硬さがあってって、そうやって意識を集中させていくと、ふと平衡感覚が戻ってきた。やるな、俺。
俺はゆっくりと蒲団を抜け出し立ち上がって、蛍光灯の紐を探した。明かりをつける。コトン。
瞼の向こうに赤い光が広がった途端、俺の周りの水がどっと沸き返ったんだ。魚だ! 無数の気配が沸き起こって、俺の横を、頭上を、顔の前を掠めて、ものすごい勢いで泳ぎ去っていった。俺はビビって尻餅をついた。掛け布団の一部がぶるぶるっと震えて、小さな魚が逃げ出していくのが見ないでもわかった。これ全部、ほんの2,3秒で起こったんだぜ。信じられる? で、パタンてフスマを閉める音が響いて、あとはシーン、静寂だ。
俺は恐る恐る辺りを見回し、明るくなった座敷を見て、ゾッとしたんだ。
調度の類はさっきまでと変わってねえ。でも水があった。座敷全体が海水の中に沈んでて、さっきの魚が掻き回したんだろうな、垢みたいなふわふわしたゴミが舞い上がっている。寝る前よりかなり薄暗かった。と、次の瞬間、呼吸したらヤバイんじゃないかと思って息を止めた。だがすぐに気づいたよ。起きた直後は普通に呼吸してたんだから、多分大丈夫だろうってさ。実際できた。ひと安心だ。
「すけ……て……」
俺はハッとした。小さな声。そうだ、俺はこれを聞いて目を覚ましたんだった。俺は座敷を横切って、廊下のフスマに手を掛けた。そこでちょっと躊躇ったね。フスマを開けると、そこでなにかが待ちかまえているような気がしたんだよ。ありそうだろ、そういうの。
「た……」
でもそこに突っ立ってても仕様がねえ。俺は勇気を振り絞って、フスマを開けた。ら、なにもいなかった。部屋の中と同じく、ちっこいゴミがぷかぷか漂ってるだけだ。
「…………け……」
大ホールのほうだ。俺は明かりを抜け出すと、暗い廊下をそろそろ歩き始めた。どっかに電気のスイッチがあれば点けようと思ったけど、生憎なかった。
ごぼっ。そういう音がするたんびに、廊下の隅っこで何かが動いた。で、必ず黒い影んなって逃げ出していくのな。どうしてこう、魚ってのは臆病なんだよ。
手探りでいくつか角を曲がった。そしたら、突き当たりの戸口に、四角いホールの明かりが見えた。
「……ご…ちゃ……け……て」
まっすぐにそちらへ進んだ。そしたら突然、戸口の形をした明かりん中を、ちっこい影が横切ったんだ。ものすごい速さだった。んん? って思った。で、一瞬遅れて、さっきの影よりかなーりでかい何かが、もう少し高い位置を通って、明かりの中を横切ってったんだよ。何だろね?
俺は明かりに向かって、もう数歩進んだ。
そしたら今度は、ホールの向こうの壁際を、逆方向に、さっきの影たちが横切った。今度はわかった。小さい方の影は、エビ姫だ。何かに追われているらしい。俺はぱっと駆け出した。
「ご……ろ……ちゃ……あ……たぁ……すぅ……けぇ……てぇ……」
姫の奴、情けない声で叫んでいた。叫びながら、ラジコンカーみたいな速度でホールの中を走り回ってんの。それも後ろ向きで。エビの動きとは思えないスピードだよ。それを追っかけて、噛み終わったガムみたいな固まり、ってかタコだ、茶色くて巨大でとにかくおぞましいタコが、俺の胸くらいの高さを猛スピードで泳ぎ回っている。
「し……ぬ……うぅ……」
俺は唖然とした。姫はホールのなかをめちゃくちゃに逃げ回っている。エビとタコ、まるで風船をくくりつけられた鼠みたいだったよ。
「何してんだ、お前」
「たぁ……こぉ……がぁ……」
「何なのそのスピード」
「ま……ほ……う……よぉ……」
と、会話したのがヤバかったのか、このアホ壁にぶつかってひっくり返った。途端にタコが襲いかかった。俺は慌てたね。なんか俺が殺したみたいになったら嫌じゃね? で、人間様のパワーで二匹の間に割り込もうとした。と思ったら、タコ足の間から、姫がするりと飛びだしたんだよ。なに俺無駄な努力? 空回り? と思ったけどそーでもなかった。タコがぎょろりとこちらを見た。マジできめえ。姫はそそくさと俺の後ろに隠れた。タコはとにかく悠然としてる。ふと見たら、タコの野郎、脚先に伊勢エビのハサミを抱えてやがんだ。俺はあれっと思って姫を見た。片腕がなくなってたよ。
「お、お前、大丈夫か」
ちょっとビビって聞いたんだけど、エビ姫はやたらと落ちついてたよ。
「いざとなればハサミは外せるのよ。次の脱皮で復活するわ。ああ、もうダメかと思った。来てくれて嬉しいわ」
「そうかい。で、あいつは何だ?」
「侵入者よ。緑皿の一族ね」
「敵ってことか。この宮殿、ってかセンターには、お前を守る兵士とかいないの?」
「あなたがいるじゃない」
「俺だけかよ。他の奴らはどうしたんだ?」
「逃げたわ。言ったでしょ、金皿一族の結束は風前のともし火なんだって。あたしが脱皮してもあなたがいてくれたら大丈夫だと思ってたけど、そこに敵が現れたらやっぱり限界を超えちゃったみたい」
情けねえ話だよなー。
「ってことは、もう金皿族はだめってことか」
「そうね。でもそんなことより当面の敵よ。さあ、襲ってくるわよ!」
俺が目を上げると、タコが脚を広げながら俺に向かって飛びかかって、ってか泳ぎかかってきた。思ったよりデカイ。真ん中にまっ黒いカラストンビが口を開けてて、なんていうか殺る気満々のていだった。俺は咄嗟に両腕を上げ、顔面を守ろうとしたね。基本のガード。
ところが腕があがらねぇ。重いんだよ。そして目を落としてビックリ、両腕が赤黒くて巨大ななんかに覆われてんだ。超でっかいキャッチャーミットみたいな感じになってた。
「気をつけて! 油断すると危険よ!」
ハッとして見上げたら、タコが目前まで迫ってた。俺は後ろに腰を落として、その反動でなんとか腕を振り上げた。タコが腕にからみついて来やがった。
だがタコよりミットだ。よく見ると、俺の両腕は、カニバサミになっていた。
「え、おい、何だこれ!」
「何でしょう」混乱してる俺に、姫が答えた。ぶっきらぼうに。
「何でって、うで、うで!」
「予想外の変化ね。ずっと人間でいてくれると思ったんだけど。やっぱり魔法はわからないわあ」
「わからないじゃねえよ。どうすんだよこれ」
そんな会話をしながら床を転げる俺の腕に、タコの吸盤がしっかりと食いついたのがわかった。殻の上からだから、別に痛みはない。それはいいが、タコの野郎、半分くらいの脚を俺の腕に固定したまま、上腕伝いに俺のほうへと登ってきやがったんだ。
「ちょ、待てって、」俺は焦った。すると俺の眼前で、突然まっ黒な雲が広がった。スミ、タコスミだ。振り払おうにも、腕は固定されて動かねえ。マジでヤバい状況。
「おい! 伊勢エビ! 助けろって!」
言ってるうちにもスミはどんどん濃くなって、ほとんどなにも見えなくなった。海水の揺らぎが微かに濃淡になってわかるとか、その程度だ。俺はむせた。咳き込んだ。と、急にあたりの闇が深くなった。
そして、暗闇の中央に、見たこともない外人の男女の顔が浮かび上がったんだ。
「ハイ、ゴロー、元気? 夏休みも始まったってのにツイてないわね」これは女。年はおそらく三十過ぎかな。アメリカ人っぽい白人で、セミロングのコワい金髪に、えぐったようなえくぼが深い。生ける化粧台みたいだったよ。
「エミー、そういってやるなよ。人生わからないもんさ。見知らぬ土地で英雄として死んでいくのも悪くないよ」男はメスチーソ風だ。四十代かな。黒っぽい髪にわざとらしい笑顔、便所でジャズを口ずさんでそうな風体だ。
「いいじゃないカルロス。どうひいき目に見てもろくな夢じゃないわよ、こんなの」
夢かよ。夢なのかよ。
「男の子の夢ってのはワンパターンだよな。そう都合よく勇者になんかなれるわけがない。お前、今までなんの努力をしてきた? してないだろ? エビの姫様のために死ねるかい? 死ねないだろ? 器を知れ、器を」
「カルロス……あなた、ひどいわ」
「誰にだって覚えがあるのさ。甘酸っぱい少年の妄想だよ。だが世界って奴は、空想ほど味わい深くできちゃあいない。現実を見ないとな、少年」
現実かよ。やっぱ現実なのかよ。
「嫌な思いをさせずに死なせてあげればいいのに。ただでさえファーストキスもせずに死ぬとか、かなり悲惨な人生の閉じ方をしようとしてるのよ、この子」
「エミー、この年頃なら珍しくはないよ。安心しろ少年」
「そうかしらね。あたしのころは……。あ、電話よ、電話」
プルルッ、プルルッ……
「はい、エミーよ。あら。本当? よかった。あたしたちも気の毒に思ってたのよ。本当によかった」
なんなんだよ! 一体!
「どうした? エミー」
「死神からお知らせ。スケジュールがたて込んでるから、このまま抵抗をやめれば、この少年の命は取らないって」
「おお、よかったじゃないか少年! おめでとう! さあ、力を抜いて……」
――ゴロちゃん、ダメーっ!
俺はハッとした。顔の回りに漂っていた墨汁の雲が、海水と混ざって、かなり薄まっていた。タコは二本の脚を俺の後頭部に回して、無数の吸盤を俺の皮膚に吸い付かせて、というか刺して、俺の頭をカラストンビに引き寄せようとしていた。と、腕に吸い付いている吸盤を剥がすビリビリっちゅう感触が、ハサミを通して中の筋肉に伝わってきたんだ。このタコは全部の脚を使って、俺の頭に巻き付こうとしてたんだ。やべえ!
――ゴロー、ちゃん!
タコがハサミから完全に離れた。タコ足を後頭部から引きはがそうとムナしい努力をしていた俺は、このとき完全に打つ手がなくなった。タコと顔の間に手を突っ込むこともできねえ。まっ黒く輝くカラストンビが、俺の顔めがけてすっ飛んでくる。タコは弾いた輪ゴムみたいに、びゅんって音立てて俺の顔に巻き付いた。そしたら、
――ゴローちゃああああん!
カラストンビが俺の顔面を捉える瞬間、エビ姫の奴が俺とタコの間に飛び込んできたんだ。巨大なトンビはエビ姫に喰らいついて、メキャリていう何とも嫌な音を立てた。脱皮してまだ柔らかいエビ姫の頭が、手のつけられないひしゃげ方をした。俺の目の前でだ。タコは姫に噛みついたまま、強力な腕で俺の頭を包み込んだ。で、そのままギリギリと締め込みだした。なんか意識が遠のいてくのがわかったよ。ああ、俺の人生、終わった。
「ああ……ゴロー、ちゃん……」
「お前……」この状態でこんな会話はできっこないが、まあ、何らかの形で似たようなトークが行われたと思ってくれ。
「ごめんなさい、あたしがこんなところに連れてきたばっかりに……」
「……」
「あたしはもうダメ。頭を割られてしまったわ……。金皿一族も、もう解散。ここでタコに食べられて、空しい一生を終えるんだわ……」
「空しいもんか。お前は戦っただろ。食物連鎖のピラミッドに革命を起こすとかいって、まあ無理に決まってんだけどさ、伊勢エビの歴史の中で、お前は間違いなく最高の女傑だったろ」
「ありが……とう。自然の摂……理に逆らおう……なんて、無謀だったのね……ふふ」
「エビ姫! おい!」もうヤケクソ。
「エビ子……あたしの本当の名前はエビ子……」
「エビ子!」あんま変わんねえよ!
「さよなら……あたしが死ねば、魔法は……解けるわ……」
「エビ子!!」
タコがすべての脚を使って俺の頭を締め上げた。そしたらな、顔面に押しつけられたエビ子の口が、静かに、否応なく、俺の唇と合わさった。運命のファーストキス。
「…………。」
「エビ子ぉおおおおおおッ!!」
このまんまの会話をしたわけじゃねえよ、もう一度言っとくけど。
俺はベッドの中で目を覚ました。びっしょり汗をかいてたよ。部屋の中は真っ暗闇。目覚まし時計の蛍光インクが、コチコチと午前三時を指していた。夢か。夢だったのか……。夢以外にあり得ねえよな。で、体を起こそうとして、俺は体中に痛みを感じたんだ。そして寝間着を捲って驚いた。腕に、いや腕だけじゃない、首にも、顔にも、背中にも、まあるい吸盤のあとが、あった……。
今年の夏休み、俺がプールに行かなかった理由は、これだ。
俺は今、海岸通りのガードレールにもたれて、缶コーヒーを飲んでいる。夏だがホットだ。それ以外にはあり得ない。見ろよ、夕日が伊勢湾に沈もうとしてる。いや紀伊半島が見えるから、正確には伊勢湾に沈むんじゃないけどさ。海面はもう黒々として、その下に何かあるなんて嘘としか思えねーだろ。思えねえよな。そうさ、あの下のどこかに西セントレアがあって、あのおぞましいタコがいて、エビ子が、エビ子がいたなんて……。嘘としか思えないよな。
さて、缶コーヒーを飲み終わった。そしたらやることは一つだ。海に向かって空き缶を振りかぶる。磯の向こうまで届くかな? 海底の斜面を転がり下って、エビ子のところまで届くかな?
なあんて思ったが、そんなガキっぽい想像はやめにした。投げるのもやめ。海を汚すだけだ。おい、『吾郎は力なく腕を降ろし、自然と出た溜息に目を瞑った』なんて書いてあっても信じるなよ。絶対にだぞ。
俺は、自転車の籠に、飲み干した空き缶を投げ込む。あくまでも無造作に。
そして灼きつける夕日を背に、自転車をゆっくり漕ぎだすんだ。溶けかけたタイヤがアスファルトに粘りついて、ベベベって音だけがあとに残る。青春って、そういうもんだろ。な。
(了)