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元旦

空に凧が浮かんでいる。ここに来る途中にもいくつか見かけたが、いざ到着するまで、それが正月を連想させることはなかった。隊列を成して浮かんでいるものや、個体で縦横無尽に飛んでいるものなどがある。

去年は凧など浮かんでいなかった。確か一昨年もそうだったと思う。近年、毎年のように元旦はここにいるから、そんな比較すら出来てしまう。しかし本当はそんな気になっているだけで、物事なんてはっきり覚えていないだけかもしれない。とにかく、私の記憶の中に凧の思い出はなかった。真新しいような気がするから、しばらく眺めていてもよかったのだが、そんな自分がなんだか気持ち悪くてやめることにした。

ふと、去年の自分が何を考えていたのか気になりだした。すぐに証明しようがないことがわかったが、今、考えていることと大して変わらないことだと確信した。少なくとも悩み自体は変わっていなかった。おそらくは一昨年も同じである。或いはそんな気がするだけで、毎年、毎年それなりに真新しいことを悩んだり考えたりしているのかもしれないが、何にしてもやはり、証明しようがなかった。


私の認識において、世界はただ常に「事後」でしかない。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、今現在というものはただ常に、過ぎ去った過去、それを認識する世界でしかない。「渦中にある」という現在は存在せず、それ等は例えば夢、或いは幻に他ならない。喜びも幸せも快楽も、その主体というのはやっぱり、それそのものよりも事後だろう。過ぎ去った後、この今現在こそが主体だろう。

喜びも幸せも快楽も、それ自体は常に、ふと思い出した事柄であり、或いは昨晩見た夢であり、又は過ぎ去った日々の思い出であり、すなわち過去である。色恋においてもやはり、主体は常に事後であり、快楽はただ掴みようのない影の様な存在でしかない。

私が今、一つの区切りを付けようと努める、この青春というものだって、やっぱり主体は事後だろう。思い出す日々こそが青春であり、すなわちそれは過去である。その渦中にあるという今は、常に夢、或いは幻想、ひいては最も現実感の伴わない、そういった瞬間こそが、ともすると「現在」というものなのかもしれない。連続する白昼夢、ただ一つの永続する幻想、現在とは事後であり、ただ懸命に綴る一文字一文字に実体を信じようと儚い願いを込めるのは、それが過去であると知っているから、事後であるからこそ造形されるのだと、どこかで知覚しているからではなかろうか。

人生そのものが儚い夢なのかもしれない。もしかすると、私は本当に瞬きを三回している間に大人になったのかもしれない。私は本当に日々を生きてきたのだろうか?それを証明する何物もありはしないんじゃないか。だからこそ、ただ綴る一文字一文字に実態を信じようと儚い願いを込めるしかー


私はいつものように嫌な気分になった。どうしようもない事を、どうしようもないと受け入れられない訳ではないのだが、それでもやはり時々は引っかかることもある。そして一つが引っかかると、それに釣られて今まで眠っていたものまで引きずり出されてきて、心を掻き乱してしまう。

私は私が一人で見た景色を思い浮かべた。そしてその、思い出せる限りの限界を悟って愕然とするのだ。私の頭は、たかが数点の思い出で埋め尽くされた。いったい何年生きてきたというのだろう。そうして残ったものとはなんだ?

目に見えないものを信じることは出来ないのに、目に見えるものが、これっぽっちなら無惨そのものだ。しかし、目を移した先で見た「ベンチ」一つでまた、いくつかのことが思い出された。ー埋め尽くされたはずの頭に無理なくそれは追加されていくー…それでもやっぱり不快だった。偶然が前提にあるということがもうだめだった。もし、私がベンチを目に入れずに通り過ぎたのなら、それっきりだったのだから。それが意味する所は明らかで、私はベンチを見た代わりに何かを見逃している。そして、それを見て思い出されるはずだったことはもう、永遠に私から離れてしまったのだ。きっと、そんなことを繰り返しているのだから。ー

こんなことを気にしていたって、どうしようもないことくらいわかっている。それに全てを思い出せた所で、私にどうすることが出来るというのか。

それでも私は私の忘れた、私しか知らない景色に思いを馳せた。ー


25歳の私には、思い出せる限りの過去と漠然とした未来が広がっている。12歳の私にだってそれは変わらなかったはずだ。どれだけ長く生きたところで、思い出せる過去の総量は変わらない。12歳の私が思い出せたことの沢山を、今の私はもう、忘れてしまっているのだから。70歳の私にだって同じことだ。思い出せる限りの過去と漠然とした未来、そして失ってしまった時間があるはずだ。

私は25年生きた気になっているが、それと同時に25年も失っている。私しか知らないことを、それでも私は忘れてしまう。新しく積み上げたものと、失ってしまったもの、どちらに価値があったのだろう?それすら、今の私にはわからない。25年も失ってしまった。これからきっと私はもっと失っていく。一体どちらに価値があるのだろう?そして、失ってまで生きていく意味とは何だ?これからの私が、何を積み上げられるというのだろうか。これからの私は、一体どんな大切さを失ってしまうのだろうか。それすら、今の私にはわからないんだ。

何もかも失える気がする。すでにもう、失い過ぎたのかもしれない。


いつも、ふとした瞬間に生きていく意味がわからなくなる。だからといって死ぬことの意味を悟ることもない。曖昧模糊とした中間色を、ただ彷徨い続けているばかりで、私には何一つ答えを出すことができない。ー


たった一度だけ、死ぬことの出来るタイミングがあった。「もう、ここまでで構わない」と思えた、そんな幸福があった。しかし、私はそのタイミングを逃してしまった。いや、あえて見逃した。生きるべきだと考えた。今思えば親不孝な話だが、順番を守るとか、そんなことを考慮したのではなかった。ただ自分勝手に死ねると信じ、自分勝手に生きるべきだと考えた。

生き延びた今と死ねなかった過去、それ等全ての是非は、今の私にはわからない。ただ生き延びた今の自分と、死ねるタイミングを逃した事後としての現在があるだけ。ー


人生そのものの主体はやっぱり事後だろう。生きているということが、もう事後だ。今現在というものは、常に事後。

ー最期の瞬間までずっと?

最期の瞬間なんて意識できないよ。

ー死ぬ時に何かを悟るのか?

だとするなら「如何にして死ぬか」ということも大切なことなのかもしれない。それこそが生きるということなのかもしれない。

ー死とは、どこを指して言っているのか?

死ぬ瞬間のことではない。「如何にして死ぬか」とは、いつ来るともわからない最期の為に悔いを残さぬよう努めることだ。…


記憶では足りないのだとわかり切っていた。写真でも何処か足りなかった。絵を描くことは出来ない。言葉は平等のような気がしたが、すぐに壁にぶち当たった。私には言葉の出来、不出来が全くわからないのだった。良し悪しが全くわからないのだった。

ー詩的才能とはなんぞや?

いくつかの詩集に描かれた情景が、現実を余すことなく捉えていると、私には感じることが出来なかった。私にとっては「口を突いて出た言葉」こそが確かだった。飾らない、何気ない言葉こそが確かだった。風景を模す詩作から私は「心の底」を感じ取ることが出来なかった。

言葉は大切なものだ。かけがえのないものだ。だけれど、やっぱり言葉は言葉なんだ。感情は感情で、現実は現実で、私は私で、言葉は言葉だ。

ー詩情とは何だろう?

私にとっては口を突いて出た言葉こそが確かだった。それ以外の言葉に本当の感情は宿るのだろうか?

今の私には、そんなことはわからない。それでも私は言葉を信じたい。そこにまだ、それ以上の何かがあると信じたい。感情は感情で、現実は現実で、私は私で、言葉は言葉でも、それでも私は言葉には言葉以上の何かがあると信じたい。贅沢を言うならば、私は詩を信じたい。紡ぎ出した言葉にも真実は宿ると信じたい。本当の誠実さは、そこにこそ宿るのだと信じたいんだ。


私はいつも嘘をついている。笑いたくなくても、笑ってしまう。言いたくない言葉だって言ってしまう。

ー「生きているんだから仕方がない」

そんな言い訳ばかりしてしまう。

笑いたくないのに、笑いたくない。言いたくない言葉は、絶対に言いたくない。

ー「だけれど、それでは生きていけないだろう」

そんな弁明ばかりが頭をよぎる。

ー「だったら、そうまでして生きていく意味を示してみせろ」

なんて答えてみせようか?簡単なことだよ。

誰も彼も、完全に孤独でいることなど出来ないんだ。自分の為だけに生きること、自分の為だけに死ぬことだって、到底出来やしないんだ。

私はいつも嘘をついている。書いている言葉にすら。でも、それだって一つの真実だろう。こう在りたいと願うこと、こう在るべきだと指し示すこと、この嘘は罪になるだろうか?ーそれは虚飾だろうか?ーそこにだって詩情は宿るはずだ。詭弁だろうか?…今の私には、わからない。

感情を現実を自分自身を、私はどうすることが出来るだろう?

今の私には、何一つわからない。ただただ成す術もなく私は、忘れていくことを忘れていくしかないのか?ー


…こんなことを悩んでいても仕方がないのだ。毎年、毎年飽きもせず。しかし、それに慣れていくことはもっと嫌な気がした。ならば、そもそも仕方がないから、今年もまた同じことに悩むがいいのだ。


来年までに少しは、ましになれていればよい。

ただ、そんなことを願うばかりです。


ー元旦の昼下がり

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