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写真

日没が近づいていた。

この時間を狙っている訳ではないが、いつも同じような時間に川沿いのこの道を独り自転車で走っている。

もっと早い時間に家を出ようとするのに、何故だか毎回立て込んで、気付けばいつも夕闇が直ぐそこにまで迫って来ている。

冬の日は短く、午後5時にはもう、ほとんど太陽が見えなくなってしまう。

それまでの空と、そこからの空とでは、まるで別世界で、私はいつも沈んで行く太陽を追いかけるような形で少し急ぎながら、海のある方角へと進んでいる。

空にはまだ明るさが残っているが、もう時間の問題である。街灯には既に明かりが灯されており、東の空は闇に染まりつつあった。

左手の川をなぞって行くと、ウォーキングやランニングをしている人影がぽつぽつと見えては、すぐにすれ違う。舗装されたこの道は道路と分かれているため、そういった人達が多い。一応はサイクリングロードとされているが、歩行者の姿も多く見受けられる。

左手の川に沿うように続いているこの道は、右手の道路よりも1m程高くなっており、道なりに進んで行けば、やがては公園の入り口にぶつかるのだが、今日はそこまで行くつもりはない。

それでも私は日が沈む前に、この道の先の少し小高くなった丘まで、何とかして辿り着きたかった。そのために急いでいたが、果たして本当に急ぐ必要があるのかどうかは少し疑問でもあった。

また日を改めればよかった。ただ、それだけで全ては解決するのだった。今日中にそこに行かなければならない理由は何一つ無く、また晴れたなら、明日にでも改めて向かえば済むだけの話だった。しかし、私はペダルを漕ぐ足を止めなかった。まるで何かに急かされているかのように、それでも尚、進み続けた。


やがて道がカーブを描き始める地点にぶつかる。

隣接した道路に2つ連続して信号が並んでおり、私はその場所で自転車を止め、写真を撮った。

2つの信号は連動しており、色が赤の時と青の時とでは景色の印象が少し違った。しかし、それが写真を撮ろうと思ったことの直接の動機ではなかった。

私は写真を撮りながら印象の違いに気付き、また何度も通ったことのあるこの道には、私の興味を特別に惹きつける何物もありはしないのだった。

しかし、それでも私は写真を撮った。

急いでいるにも関わらず、何故かわざわざ足を止めて写真を撮った。そして、その行動には何の迷いもなかった。


私はペダルを漕ぎ、再び走り出した。長く続く道が緩やかに曲がっているのがわかる。

雲が色を濃くしながら、辺りはだんだんに光を弱め、背中からは更に暗闇が迫ってきていた。


依然として川をなぞり続けていると、左手には鉄塔が見えてくる。そこから伸びている電線は川を跨ぎ、対岸へと延びて、更には視界の果てにまで続いていた。

私は写真を撮った。

背中に迫る暗闇を感じながら、それでも尚、足を止めて写真を撮った。しかし、そこに目新しいものは何一つ存在しないのだった。また、今、撮らなければならない理由の何物もありはしないのだった。

川沿いに建つ鉄塔、長く延びる電線、西日に照らされた川と、そこに面した僅かばかりの草っ原。全ては見慣れた景色でしかなかった。

それにも関わらず、私はただ通り過ぎることが出来ない。どうせ忘れてしまうことを、ただそれなりに受け入れることが出来ない。

幾たびもそうであった。忘れてしまうということを受け入れられなかった。過ぎ去って消えてしまうということが、ただただ許せなかった。

今日を暮れていく、この夕日にすら私は執着していた。

ーしかし、写真がなんであろう。何か大切なものを捉えられるのか?ー

少なくとも私の感傷まで写すことは出来ない。それをわかっていながら写真を撮った。とにかく納得のいくまで、ただひたすらに写真を撮り続けた。


再び走り出す。

暗闇はいよいよ全てを覆い尽くそうとしている。もう、ここからでは太陽の姿を確認することが出来ない。しかし、目の前の坂を登り切れば景色は変わるかもしれなかった。そして目の前の坂を登り切った、その場所こそが私の目的の丘であった。

ペダルを漕ぐ足に力を込め、短い坂を目一杯の力で駆け登る。息も切れないまま登り切り、私は再び顔をあげた。

ーそこに太陽の姿を認めた時、私は思わず息を飲んだ。ー

もう、ペダルを漕ぐ必要はない。

小高くなった、この丘の空は広かった。

先には緩やかに曲がりながら続く、長い道が延びている。

その果てに架かる橋には、無数の車が往来し、その更に先には、今この場所からは見えない大きな海が横たわっている。

左手に広がる水景色も、右手の集合住宅の白い建物群も、微かな西日に照らされていた。

空は不思議な色をしており、上空は藍色に染まりながら、間に白を挟んで、地面に隣接した最下層の空には濃いオレンジ色が広がっていた。

ー絶景ーと言ったら大袈裟に聞こえるだろうか。しかし、そう呼ぶにふさわしいとしか、私には思われない。

この丘の空は、この街にある、他のどの空よりも美しいだろう。

見上げると僅かに弧を描いているような感じがあり「地球は本当に丸いのかもしれない」などという、子供じみた感動を私に与えてくれた。

私は写真を撮った。

しかし、その空の色を私は初めて見たのではなかった。同じ空ではなかったが、それでもこの空の色を、私は以前から知っていた。しかし、心を覆った「感情」は確かに「感動」に違いなかった。昔見た空を思い出したのとは違う、全く新しい感動だった。

この空の色が長くは続かないことを知っていたから、私は夢中で写真を撮り続けた。

隣を通り過ぎて行く歩行者が、私を軽く横目で見やってから、再び海のある方向へと進んで行った。それでも私は写真を撮ることを止めなかった。

急いできた意味も、今日でなければならなかった意味も、少しだけわかったような気がした。

何一つ新しいものの無い景色と、いつか忘れてしまう感動を、それでも写真に収めようとした。

その儚さと、自分が知らぬ間に手放してしまうものの価値を、今だけは感じられる。


私はペダルを漕ぎ、走り出した。

この長い丘を超える頃には、日は完全に沈んでしまうだろう。

二度と繰り返すことのない景色を、僅かに懐かしい気持ちを抱きながら眺めていた。

私はただ、この丘に来るのが今日でなければならなかった意味を、根拠もなく、それでも強く感じ続けているばかりだった。ー


日が暮れていく薄暗がりの中で、今しがた私の横を通り過ぎ、海の方へと進んで行った人が、空に向けて携帯電話を構えている姿が目に映った。

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