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野良

十字路に立つと右も左も真っ暗なのに、前の道だけ、まばらな街灯のおかげで不思議な明るさを保っている。広い園内で、この道だけ床が四角いタイルを敷き詰めたような模様をしており、他の場所とは少し違った感じがしていた。

先を眺めると道の端々にベンチが置かれているのがわかり、昼間なら休むのに丁度いい場所のように思えた。両側に木々が生い茂るこの道は、抜け切るとメインストリートに繋がっている。真っ直ぐに通り抜け、帰ろうと決めた。


誰もいないタイル柄の道を、少し心細い思いをしながら歩いて行くと、やがて中間辺りに差し掛かった。すると突然、右側の藪の方から”かさかさ”という小さな物音が聞こえてきた。

驚いて振り向くと、素早くこちらに近づいて来るものがある。ー

それが猫だと気付いた時にはもう、足元に絡み付いて、まるで行く手を阻むかのように、その柔軟な身体を私に対し執拗に擦り付けていた。

私は確かに物音に驚いたが、それよりも更に、この猫の人懐っこさに驚いた。普段、街中で見かける猫なら大抵、近づいたら逃げられるのが常だが、この猫は逃げ出すどころか親しげに身体をすり寄せてくる。

私のズボンのあちこちを嗅ぎ回りながら、前足で靴の先を軽く押さえ付けている。

私はその姿を見て、手ぶらであった自分自身を残念に思った。普段、猫が食べられそうなものなど持ち歩いていた試しはないが、それでもやはり少しだけ悲しかった。


歩くのを止めてしゃがみこむ。茶毛と黒毛の入り混じった、よく見る色の猫だった。

しゃがんだ私の膝の上に前足を乗せ変えて、尚もその身体をすり寄せてくる。

私はそれを拒まずに、透き通りながらも複雑な色をした、その美しい瞳に触れないように、そっと頭を撫でてみた。

柔らかく生え揃った、さらさらとした毛の奥から、微かな体温が伝わってくる。

指の先で軽く額に触れてみると、猫はやや鬱陶しそうにしながら、開いていた眼を少しだけ細めて、私が指を離すと、すぐにまたその瞳を大きく見開いた。そこではじめて目が合った。

私はそこに示されている美しく透き通った茶色や黒の、その模様の見事なまでの精巧さに、ただ呆気に取られた。

覗き込んでみると、何処までも深く落ちて行けそうな奥行きが感じられ、それは何故か目の前にいる私を見ているとは思えない程に、私という障害物を透かして、何処か遠くの場所に焦点が合っている様に思われた。

何故、自然の摂理が生命に対してこんなにも完全な真球を与え、何故こんなにも鮮やかな色彩をそこに加えたのか、私には不思議だった。この生涯に於いてはじめて「吸い込まれそうな」などという月並みな印象を、私はその瞳に対し確かに感じた。


見開かれた瞳には街灯の明かりが微かに浮かんでおり、その潤んだ輝きの中には、この世に在るありとあらゆるものが映し出されている様な気がした。

私はその輝きの中に自分自身の姿を探し出そうと努めた。…しかし、無駄であった。そこに在ったのは、ただ私の影と思われるものの揺らめき、それだけであった。


やがて猫の瞳は、私の指の動きによって再び物憂げに細められた。

私は私の肉体にも、これと似た真球が二つ、確かに宿っており、それを通して今、この世界に在る全てのものを見て、感じているのだということがどうしても信じられなかった。

私は私のものであるはずの、その真球の、その何もかもを少しも理解していないことを唐突に思い知った。

私は私の肉体であるものの、その本質的な機能も起源も、何一つとして把握してなどいなかった。そして私はその事実に思い当たるに至り、私は私の肉体どころか、私は私の存在の全てに対してすら、その本質的な機能も起源も、また根元的な意味や必然性も、何一つとして知らず、何一つとして自ら語り得ないことを重ねて思い知った。

私は私の何もかもを知らなかった。また同様に、私は私の感じ得る世界の、その何もかもについて甚だ無知であった。ー


何故、この想念が今このタイミングで私に訪れたのであろうか…?

私はそれについて深く思案してみるように努めた。…しかし、無駄であった。直感は常に私の意思とは全く無関係に、突如として去来するのだった。

「無意識」という言葉が、突然頭に浮かんだ。私はそれについて深く想いを巡らそうと努めた。…しかし、無駄であった。私はただ私の中に、私ではない何者かの存在を、ただ漠然と感じ取っただけであった。

その存在とは、私の意思とは何らの交流も持たない、姿かたちの見えぬ未知の恐るべき何者かのように思われた。ー私の意思とは何らの交流も持たない?…ー或いは事実は、その逆かもしれなかった。私の意識は本当は、その無意識の存在に支配されているのかもしれず、その無意識からの意識への働きかけは理不尽にも不可逆的であり、意識から無意識への働きかけのみが、ただ固く禁じられているのだ、という恐るべき予感がふと頭をよぎった。


私は再び猫を見つめてみた。その瞳は尚も微かな光を浮かべながら大きく見開かれている。

一体、その瞳は何を映しているのだろうか…?私を透かすようなその視線の先に、この世界は本当に映し出されているのだろうか…?

「いや、彼女(或いは彼かもしれぬ)の中には、間違いなく世界は存在している。私には知覚し得ないながらも、確かにそこに世界は存在しているのだ」そんな確信が私にはあった。

或いは、その瞳は何も思考してなどいないのかもしれない。しかし、それにも関わらず、世界は確かにそこに存在しているのだ。いや、むしろそれだからこそ、世界はそこに存在しているのではあるまいか?…もしそうだとするならば、今、感じている世界という存在は「考える」という行為によって、はじめて失われ得るのであろうか…?

思考するということ、そのことによってはじめて私達の世界には疑問が生じ、今、確かに「感じている」という、その事実にすら疑いの目が向けられる。

私達が「世界は本当に目の前に存在しているのだろうか?」という虚無の疑惑を抱く時、そこには確かに「思考」というものが前提されており、その思考というものをさえ回避してしまえるのならば、おそらく虚無といったものは、どうあっても現前し得ないはずである。

思考しないあの瞳の奥には、今、確かに世界が存在しているのだ…。そして私にしてみてもまた、意味やら理由やらといった理屈じみたものをさえ求めなければ、今この自分自身が感じている世界を確かに存在させることができる…。自分自身の、この瞳の意味を、機能を、起源を、何一つとして知らなくても、私が今、確かに感じられる世界は、私が今、確かに感じられるが故に確実に存在しているはずなのだ…。おそらく「考える」というところから、はじめて虚無というものが生まれ出てくる。

考えるとは甚だ人間的な言葉であろうか?

何も考えず、ただ思っているばかりの動物達に、おそらく虚無というものはあり得ない。いや、或いは彼等も何がしかを考え、悩んだりなどしているのかもしれない。もしそうだとするならば、彼らにとっての虚無とは一体どういったものなのであろうか…?

私は猫を見つめながら問いかけてみた。ー「何か悩みがあるのかい?」…しかし、何の応答もなかった。

そもそも、この思考という厄介極まりないものは、一体何処から生まれ出てきたものなのであろうか?

私達人間の身の内に自然発生的に生まれ出てきたものなのであろうか?…いや、そんなはずはあるまい。

私はそこに何者かの意図と創造とを感じずにはいられなかった。ー私は私を措定した、その何者かを頭に思い浮かべようと努めた。…が、やはり無駄であった。

それは自然か、或いは神といったものであろうが、いずれにしても私にとっては、甚だ親しみの薄いものであった。ー…


何度か繰り返し身体を撫でていると、猫は突然頭を反らせて、私の指に素早く噛み付いた。私は驚いたが、弱い力だったために指には傷一つ付かなかった。

頭を撫でたのが癇に障ったのか、それともただの甘噛みなのか、よくわからなかったが撫でるのはもう、よす事にした。


身体を優しく抱え、猫を膝から床の上に降ろす。

驚かさないようにゆっくりと立ち上がり、私は猫を見下ろしてみた。猫も私を見上げていた。

まばらな街灯の薄暗い道には、物音一つ聞こえてこない。

しばらく無言で見つめ合っていたが、他にどうしようもないので、さよならすることに決めた。ー


再び歩き出し、しばらく経ってから「流石にもういないだろう」と思いながらも、念のため振り返ってみると、思いの外すぐ後ろを音も無く付いて来ていた。

私が思わず足を止めると、猫もその場にぴたりと止まり動かなくなった。

薄暗い道の真ん中に、たった一匹だけ猫が佇んでいる。それ以外には人の気配はおろか、物音一つ感じられない。

しばらく無言で見つめ合っていたが、やはり何の期待にも応えられないことが痛い程わかり、本当にどうしようもなかった。

「何も持っていないんだ」心の中で呟いてみた。…何の応答も無かった。


三たび歩き出す。もう既にメインストリートの目の前まで来ている。

この道を最後まで進んで行くと、やがては公園の入り口に繋がっているのだが、そのすぐ側にコンビニがあることを私は唐突に思い出した。

「もしもそこまで付いて来てくれるのならば、何か買ってやれる」と思い立ち、私はもう一度振り返り猫を見つめてみた。猫も私を見つめていた。

薄暗い道に佇む一人と一匹の、その心が通じ合ったような気持ちになり、私は足早にメインストリートを歩き出した。

ふと見上げた雲一つ無い夜空には、ちょうど半分くらいの月が仄白く浮かんでいた。

何故か一度も振り返ることをやめようと思い立ち、ただひたすらに公園の入り口を目指すことに決めた。

メインストリートに入ると急に街灯の数が増え、辺りが突然明るくなったように感じたが、依然として周囲に人の気配は無かった。

道のかなり先の方には、駅の建物が黒い夜空に向かって、高くそびえ立っているのが見える。

早足で歩き続ける途中、何度か自分のものではない小さな足音が聞こえたような気がしたが、やはり辺りに人の気配は無かった。

私は安心して歩き続けた。早足とはいえ、中々の距離がある。その後も容易くは入り口まで辿り着かなかったが、それでも私は歩き続け、しばらく経ってから遂に公園の入り口にまで辿り着いた。


そこで、はじめて振り返る。そこに猫の姿は無かった。ー


…驚いたようなおかしいような、形容し難い妙な気持ちで、しばらく茫然としていたが、すぐに当然のような気がしてきた。

振り向いて、歩いてきた道をなるべく遠くまで見渡してみたが、やはり猫の姿は何処にも見当たらなかった。

まばらな街灯に照らされた薄暗い道が、ただ長く延びている。

歩いている途中には急に明るくなったように感じられたその道は、振り返り、改めて全体を眺め渡してみると、驚く程まばらな間隔でしか、そこに街灯が存在していないかのように思われた。

見上げた夜空には、やはり雲一つ見当たらない。

そもそも私の家は歩いて帰るには余りにも遠くにあったために、猫を持って帰ることは到底、不可能に近かった。また万が一連れて帰れたとしても、私の暮らしている集合住宅では動物を飼うことは禁止されていたために、はなからそれが無謀な計画であったことは明らかだった。

私は踵を返し、近くのバス停へと向かって行った。ー


バスを待っている人達のまばらな例に混ざるために、歩く速度を上げる。

停車場の真ん中辺りにある地球儀のオブジェを旋回しながら、準最終を示すライトを灯したバスが、今まさに近づいて来ているのが目に映った。

入り口の手前にある噴水の水は、今の時間はもう止められている。近くにあるコンビニの看板が妙に明るい。

三たび雲一つ無い夜空を見上げると、先程半分の顔を覗かせていた仄白い月は、いつの間にか何処かへ消えてしまっていた。

ふと妙な気配を感じて振り返ると、何故かはわからないが反対側にある交番に立っていた警察官と、ぴったり視線が重なったような気がした。

私はバス停に向かい、走り出した。ー


心の中で猫に名前を付けた。

けれどもそれをすぐに忘れてしまうということも、なんとなくその時、わかっていた。

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