169 魔王と勇者、名前のことでもめる
レイティアさんがいないと、こうも静かになってしまうとはな。
我が妻の大きさを改めて実感した。
レイティアさん、どうか早く戻ってきてください。レイティアさんがいないと、この家は機能しません。
料理も掃除もワシが帰宅してからやることはできる(ていうか、アンジェリカ、冒険に出てない期間はもっとやれ)。
しかし、ワシがいくら家事を完璧にやったところで、レイティアさんの存在を埋めることはできん。
当たり前なことだが、その当たり前なことにワシは打ちのめされている。
レイティアさんがこの家に戻ってきた時は、全身全霊でいたわろう。レイティアさんがいなければ、ワシもアンジェリカも本調子になれないのだ。
――なんてことを考えている間も、沈黙は続いていた。
やはり、もっと何か話しかけないとな。
別に無言の時間がすべて気まずいというわけではない。お互い、何もしゃべってなくてもほっとする時間というものも世の中にはある。長年の付き合いの友と酒を酌み交わせば、常にしゃべり続けなくても安らげるものだ。
しかし、ワシとアンジェリカの間の沈黙は気まずい側のものだ。このままではよくない。そして、アンジェリカのほうからどんどん話題を提供してくれたりはしない。
そこはワシのほうが親なわけだし、対応をせんとな。
「な、なあ、アンジェリカ、最近何か変わったことはないか?」
我ながら聞き方が下手! いかにも話題に困って無理に振ったって感じがある!
「とくにないわよ」
一方で、アンジェリカも気づかいが皆無! もう少し話が伸びるようにと考えろ!
少なくとも、どうでもいい会話を転がしてやりとりするという相性が、ワシとアンジェリカの間では悪い。
再婚して初期の頃は、アンジェリカがやたらとワシに突っかかってきていた(その場合、会話としては成り立つ)。
その時期が終わっても、レイティアさんがいてくれたおかげで、話題がぴたっと消えるという事態に直面することがなかった。
だが、ワシとアンジェリカの二人に限っては、親子でいくらでも話し続けられるというような境地にまでは達してなかった。それははるか高みにある。まだまだ、訓練が必要だ。
そのことがわかっただけでも、収穫だと考えよう。
よし、共通の話題を見出せ、見出せ……。
普通に考えれば、レイティアさんか、新たに生まれた娘のことだな。
「なあ、アンジェリカ、赤ん坊のことなのだが」
「うん、何?」
この話題なら、アンジェリカもスルーはできんだろう。
「名前、どうしようか?」
個人的によい話題だと思った。まさか、「どうでもいいわ」なんて反応はないだろう。もし、どうでもいいという反応だったらマジで困惑するが。
けれども、ある種、ワシの予想外の反応が来た。
「それよ、それ! それ、それ!」
アンジェリカが身を乗り出してきた。肘がカップに当たって、お茶がこぼれかけたぐらいだ。
こいつ、一気にやる気になったな!
「赤ちゃんの名前を決めなきゃ! 私の妹として恥ずかしくない、非の打ちどころのない名前にしなきゃ!」
「自分の妹というところをあんまり強調するな! お前、自分に引き付けるきらいがあるぞ!」
「そうね、私の妹なんだから……いっそアンジェリカでいいんじゃない? で、小アンジェリカって呼ぶの」
「絶対に認めんぞ! 真面目に考えろ!」
だいたい、大○○とか小○○とかっていうのは、世代が違う歴史上の人物を呼ぶ時のやつであって、同じ世代の姉妹の名前が一緒ということはない。
「わかったわよ。ちょっと待ってなさい」
そう言うと、アンジェリカは台所のほうに向かった。
何をしに行ったか不明だが、おそらくろくなことを思いついてはいない。
しばらくすると、アンジェリカが笑顔で戻ってきた。
「アップルとか、オレンジって名前はどうかしら? グレープとかでもいいかも」
「食べ物から安易に採用しようとするな!」
たしかにアンジェリカって名前にするというのよりはマシだが、あまりにも雑すぎる。
「魔王、否定ばかりするのはダメよ。じゃあ、魔王も案を考えなさい」
むっ、それはそう言われるか。
「魔王の一族の女子の名前だと、エグリアードとか、ジャムジャラーンとかがあるが……」
「かわいくない! いかにもボスキャラっぽい名前だし!」
それは魔王の一族ならボスの格だからな。
以前に採用されたことのあるほかの魔王の一族の女子の名前も、アンジェリカにすべて却下された。
「やっぱり、ボスっぽさがあるわ。そもそも、勇者の妹でもあるわけだから、前例のある魔王一族の名前はおかしいわ。人間としても違和感のない名前にしたい」
「まあ、一理あるな。あの赤ん坊がどんな人生を歩むかもわからんわけだしな」
名前のせいで人生を縛るようなことになるとよろしくない。
そのあと、ワシとアンジェリカは食事のことも忘れて、延々と案を出していったが――
お互いに徹底して却下するということが続いた。
「なんで、エクスカリバーナがダメなのよ!」
「むしろ、それでなんでダメか説明とせんといかんのか? すぐにわかるだろ! まだワシのスイファセンラのほうがいい」
「響きがどことなくボスっぽいのよ! しかも、精神支配系の魔法を使ったり、マヒ状態にさせてきたりしそう!」
ううむ、このままでは決着しそうにないな。
待てよ。ワシらの間だけで決着させるのはおかしくないか。
「アンジェリカ、待て」
ワシは右手を前に突き出した。
「魔王、パスは二回までよ」
いつからそんなルールできた。
「レイティアさんの意見を聞かないのはおかしい。せめてレイティアさんのいる場で話し合うべきだ」
「……ほんとだ」
アンジェリカもこれには納得してくれたらしい。
「じゃあ、ママのところに行って、決めることにしましょ! 魔王の今度の休日にママのところに行くってことで!」
そう来たか。重大なことだから行くのはかまわないが、義父のバインディさんと会うの苦手なんだよなあ……。