「洋手帳」の美少年〜村田岩熊(後編)〜
岩熊の父である村田新八は、かつて西郷と共に流罪になった男である。
常に、大久保と西郷の間にいた。
それから戊辰から上野戦争と、華々しく西郷の側で戦ったのだが
ここでは維新以降の彼の話をしよう。
明治4年、岩倉具視の使節団に参加し、欧米を視察する。
そこで彼が目にしたものは、圧倒的な西洋文化との差であった。
西洋の建物とは扉1つですらこんなにも巨大なのか。
背の高い彼らの、どこがどう日本人と異なるのか。
圧倒的すぎる差は、抗うどころかむしろ憧れを抱かせる。
新八は短期間で「あらゆる西洋文化」を吸収しようと努めた。
政治、経済、そして文化。
それは島津斉彬の下、薩摩が他藩より「外」に開かれた地であったせいもあるだろう。
今、木留本営、戦の地ですら、彼はシルクハットをかぶり、濃い緑色のフロックコートを着ている。
持ち帰ったバンドネオンを、薩軍兵士の前で演奏してみせることもあった。
しかし、だからと言って村田新八はサムライである事を捨てるわけにいかない。
西郷の存在がある限り、「義」に生きる武士なのだ。
岩熊はそんな父から、フランス製の青いカウスボタンをもらっていた。
大事そうに、袖にはつけずに、わずかばかりの身銭を入れた財布に入れて持ち歩いた。
二月二十七日、晴。
高瀬と云う地をめぐって、両軍は激戦となった。
岩熊に、一兵士から伝令があった。
「疾く、村田新八に伝えて欲しい」
自分にもできる事だ、大事な役目だ
軍の役に立てる事はそれだけで嬉しかった。
岩熊は父の元へ走った。
だが、新八は伝令を持ってきた岩熊を見るや、殴りかからんばかりの勢いを抑え、太い声で言った。
「お前は何をしているんだ?」
「は? で、伝令です。それと後方での支援を」
「このやっせんぼが。私の顔に泥ば塗る気か。
男なら、最前線に出んか!
それでん、こん父の子か!!」
岩熊はそう言われて反射的に身をすくめた。
平手打ちを覚悟した。掌は飛んでこなかった。
岩熊はただうつむき、小さくハイと答えた。
それから簡潔に、父に伝令を告げると一度本陣に戻った。
記者の伝は本陣付近をうろうろしていたが
同じ記者仲間、郵便報知新聞の犬養木堂(犬養毅)と共に退くところだった。
犬養はこの日から、戦場レポート「戦地直報」の連載を始めている。
とは言え、安全の確保は最優先である。武士に非ず「文士」は、死んではシャレにならぬ
「辞世の句は持ってちゃあいけないのが文士よ」と木堂が言った。
そこへ、ミニエー銃を抱え、まるで幽霊のように青白い表情をした岩熊がふらりとやってきて
「これを、持っててください」
と、伝に青いカウスボタンを託した。
そして、伝の手を軽く握ったまま言った。
震えていた。
「私が一番望むのは…
望むものは、望むものは、いらない。
そんなもの、戦の場で語るべきではないでしょう、わがままでしょう。
もはや何でもない。
私は父にさえ、認めてもらえればそれで良いんです。
父に認められること、それだけ願って生きてきた。
ごめんなさい、こんなです。父にさえ、立派な男だと、そう言われれば良いんです!」
「岩熊さんっ?」
岩熊はそう言うが早いか、戦の中へ駆けて行き、姿が見えなくなった。
それから
岩熊が駆け出して行って小一時間もしないうち
伝と木堂は岩熊が撃たれたと聞かされた。
岩熊と伝とが親しげに話していたのを見ていたのだろう。
新八の側にいたらしい隊士がそう告げた。
戦場について行くことを決めた時から、凄惨な現場を目にすることは覚悟していた。
なぜ編集長の言うことを聞かず「深入り」するような真似をしたのか。
なぜ、友になってと言われて調子に乗ったのか。
なぜ、岩熊が出て行くのを止めなかったのか。
もう遅い。手の中に青いカウスボタンがあるだけだ。
こんなに早く、こんなにもあっけなく、肩身になるなど知らない。
木堂の前で、伝は立ちくらみで倒れそうなのを必死でこらえた。
記者に感情は禁物だ。
いかなる場合も冷静に徹すべし、
木堂から言われずとも百も二百も承知である。
だが、伝にはどうしても納得がいかない。合点がいかない。
ええい、斬るなら斬れ、岩熊さんの代わりだ、言ってやりたいことがある。
つい、戻って来た新八に向かって吠えた。
「あなたは、涙ひとつ無いんですか?
岩熊さんが死んだのに…
それでも人の親ですか?!」
木堂が荒ぶる伝を「おい、やめろ!」と阻止した。
相手は「あの」村田新八だぞ、聞いてんのか。
新八は微動だにせず、こちらを振り向かなかった。
振り向かないまま言った。
「一度も、あれのことを考えなかったとでも思うのか?
ただの一度も、思わぬ日があったと思うのか?
それでも親かと言ったな、小僧。
ああ、そうだ。
まったく来る日も来る日も…
私はあれに、一番、ふさわしい死に場所をくれてやったのだ!」
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まだ硝煙立ち込める焼け野原に
東京から来た、有名なジャーナリストが一人立っていた。
東京日々新聞社の福地桜痴である。
主筆自ら戦地に赴いた福地も、日本初の戦地特派員として知られている。
明治の写真家、上野彦馬も官軍からの依頼で戦地を撮影しているが
焼け焦げた立木が点々と残るぬかるんだ原野に
泥まみれの仏、あるいはその一部位とみられる物が、そこら中に散乱していた。
福地は誰のものかわからぬ折れた刀の下に、曇りがちな陽光をわずかに黄金色に反射する何かを見つけ、拾い上げた。
本文側面三方を金箔で装丁した、牛革の洋手帳だった。
開いてみると、小さな字でぎっしりと横文字が並んでいる。
福地の故郷は長崎で、小さい頃から寄港の外国人に話しかけては英語を学んだ男だ。
パラパラとめくったページに書いてあるものが何か、彼には読めた。
「ホイットマンか…このような若者を無駄に死なすのは…
なんとも惜しい。誰かは知らぬが、気の毒なことだ」
横文字の間に小さく震え乱れた字で
「友達ができた」
と書いてあった。
「父に、」ともある。
残りは血と泥で読めない。
「もしこの者が、ホイットマンに憧れたなら…辛かったね。
日本の義と、アメリカの魂との間でディレンマになってしまいかねない。
義と魂とはどちらかを悪にしてはならない。
どちらも美しいものではあるが
それはどちらも、ぶつかれば壊れてしまいやすい物だ。
もし、両立させたくば、我々はよりわかりやすい、
そして両者より高度な魂を持たねばならぬだろう」
福地は手帳を開いて地面に置くと、大きな椿の花をひとつ取り、その上に手向け
両手を合わせた。
『我あり、あるがままにて充分なり』 ーーーホイットマン
(完)