Prologue
静かすぎる室内だったが、誰一人として静寂を破ろうとしなかった。
窓からは西日が差し、その外では夜になっていくとき特有の高揚感に満ち始めていると言うのに、その部屋では誰かが死んでしまったかのような暗い沈黙が流れていた。
いや、「ような」ではない。
実際に死んでしまったのだ。
私の愛した、ジルベール・アルノワが。
きつく服の裾を握りしめた拳は開くことを忘れ、じわりと口の中に広がった鉄の味に唇をまた噛んでいたことに気付く。……だが、もうそんなこと構うものか。
『アニエス、また傷がつく』
そう言って私の唇を拭ってくれる人は、もう、いないのだから。
俯いていた顔を上げ、さっきからずっと険しい顔で私を睨み続けていた二人の男を見上げる。彼らは表情を変えず、ずっと私の言葉を待っている。そして彼らが求めている回答はただの一つだけであり、それ以外は決して受け入れようとしない強い意志を伝えてくる瞳で、じっと沈黙を破ろうとしなかった。
……ならば言ってやろう、求めているその言葉を。
決して投げやりな気持ちでなんかじゃない。そして、決してこの人達に屈した訳でもない。私は、私の為に、そして私の愛したジルを守る為に、この人達の話を飲むのだ。
「…………分かりました。」
私の言葉に、片方の男は安堵の表情を浮かべ、もう片方は厳めしい表情は変えずむしろ疑いの眼差しを向けて来た。それもそうだろう。私が泣き喚いて、叫んで、恨みの言葉を投げつけると予想をして来ているのだろうから。
でもそんな無様なことはしない。ぎりりと男達を睨みながら、力強く服の袖で血の滲んだ唇を擦ってルージュを拭った。愛してくれた人がもういないのならば、彼が愛した口紅を付けることに意味は無い。
「きっとお分かりいただけると思っておりましたよ、ルルー嬢。」
ほっとした顔の男が話しかけてくる。
「当方に全てお任せいただければ、貴方の今後は必ず不便の無いように手配致します。」
ありがとう、とでも言って欲しいのだろうか。
提案してきたのはそちらの方なのだ。此方に不便が無いようにするのは当然の事であるのに、下位の者へ手間を掛けてやるような言い草である。感謝されることに慣れている人の物言いに苛立ちを覚える。
それでは、と男が話を続けようとしたところで、ずっと黙って事の成り行きを睨むように見ていた、もう片方の男がようやく口を開いた。
「……………お前は、何を企んでいるんだ。」
不信感溢れる言い方に、思わず眉間に皺が寄った。
「……おっしゃっている意味が分かりません。」
「悪いが俺はお前のことを一切信じていない。こうもあっさりと要求を飲むことも理解不能だ。何を企んでいるのかは知らないが、お前は確実に死ぬことになる。」
「ダルレ!」
説明をしかけた男が焦った声で言葉を遮る。
しかしそれに構わず、疑いの目を向ける男——セザール・ダルレ——は、話を続けた。
「お前は一生生きてこの地を踏むことは無く、死してなお、それは許されない。絶対にだ。そもそもお前がこの世に生まれた事実さえも消し、お前は初めからこの世に存在していなかったことになる。アニエス・ルルー、俺たちがお前のジルベールを殺したように、俺たちはお前を殺し、その痕跡も一切残すような真似はしない。俺たちはプロだ。お前のことを思い出す者はただの一人もいなくなる。」
それなのに何故、俺たちの言うことを聞くのか。
お前に何の得があるのだ。
ダルレは鋭い視線で問いてきた。
彼を止めようとした男——アドリアン・ジュネスト——は、呆れた顔でダルレを見ていたが、その言葉を否定しない以上それは事実なのだろう。大方、自分たちの話のいいところだけを説明すれば言いなりになると思っていたのだろうが、私はそんなに馬鹿じゃない。自分の存在が無かった事にされることも予想の範囲内のことであった。
それでも条件を飲むのは————。
「あなたたちの話は私にも都合がいい。ただ、それだけのことです。」
ダルレの視線が更に鋭くなる。
その瞳を逆に睨みつける。
「ジルは、……ジルベール・アルノワは、もういない。それなら私も生きる意味はありません。」
だから。
「私を殺して下さい。」
その日、地方の街で冒険者が忽然と姿を消した。
非常に強いことで近隣の街にまで名が知れていた彼が突然居なくなったことで、彼の友人達はギルドに行方を問いつめた。その結果、彼は高難易度の討伐依頼に一人で臨んで死亡したと処理されていた。
彼と同様に彼の友人達も常に死と隣り合わせの冒険者であったため、覚悟はしていたものの、失われた尊い命を悼み、冥福を祈った。彼らは、彼と共に住んでいた女性も深い失意のうちに街を去っていったのだろうと考え、変わらぬ日常へ戻ろうと前を向いて進んでいった。
消える前日、彼女にプロポーズをするのだと、そう言っていた彼の笑顔に切なさを抱きながら。
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