ハルの涙 −Wish your happiness,Haru−
「なあ、シオリ、知ってるか?」
「ふぁひ?」
頬いっぱいにご飯をつめこんだ少年は返事にならない返事をして、少年よりも少し年上の青年は呆れ顔で言葉を繋いだ。
「詰めすぎだ…森の小動物みたいになってるぞ。お前、飯食う時だけ生き生きしてるよな」
「ほうれふか?」
「はー…まあいいさ。んでな、この宿舎の近くに桜並木があるだろ? あそこには毎年、花をつけない大樹がひとつだけあるんだ」
「んむ」
「だけどその樹のそばはあったかいらしくてな、冬でも春の陽気だから、ハルって呼ばれてる。…お前は来たばかりで知らんだろ、せっかくだから一度行ってみたらどうだ?」
「……行ってきます!」
「え、お、おいお前これから…」
青年に丁寧にお辞儀をすると、シオリと呼ばれた少年は外へと駆け出す。
午後の槍の訓練のことは、既に少年の頭にはなかった。
***
(あ…この樹…)
真冬の桜並木の中央から少し奥に入ったあたりで、少年は足を止める。
ひっそりと佇むその大樹に近づくと、穏やかな春風が少年の頬をくすぐった。
「ねえ、君が、ハル?」
そっと問うと、少年の身体があたたかな風に包まれる。
「そっか。はじめまして、僕はシオリ。田舎の村からこっちに徴兵されてきたんだ」
少年…シオリが“徴兵”という言葉を発したとたん、風は静止した。
ほんの一瞬だけ、空気が冬に戻る。
「……君も、争いが嫌い?」
微笑んだシオリを、再びあたたかな風が包んだ。
「君が花をつけないのは…何か悲しいことがあったからかな。…あのさ、ハル。この国境は、ちょっとごたごたしてるみたいなんだ」
シオリは視線を自分の手に移し、槍の訓練でできた豆や擦り傷を見つめる。
「……ハル、僕は、誰も傷つけたくないよ。でも、戦になったら…刃を振るわないと、生き残れない。…僕は…傷つけるのも、死ぬのも、怖いんだ。ハル、君は僕を臆病者だと笑うかな?」
頭上の枝を眺め、苦笑いしたシオリの髪が、優しい風に吹かれてそよそよと泳いで。
シオリはそっと目を閉じた。
「ありがとう、ハル。君は優しいね」
***
…それから毎日、シオリは訓練の合間にハルに会いに行った。
ハルは穏やかで、シオリはハルに断ってから、ハルに寄りかかって少し眠って、訓練に戻っていく…
そんな日々が、ゆっくりと続いたある春の日。
戦火は、満開になった桜並木を呑み込んだ。
***
「ねえ、ハル…」
背中に矢を受けながら、シオリは両手でハルを抱きしめる。
背後には、仲間たちの屍…
紅く染まる世界から、ハルを遠ざけるように、シオリは掠れた声で言葉を紡いだ。
「ごめんね。僕らは、大丈夫…だから、ね、ハル…泣かないで? ……君は、この、きれいな、世界を…どうか…恨まないで……ね………」
霞む視界に、淡くに発光するハルを映したのを最期に、シオリは深く眠り、二度と目を覚ますことは無く――
崩れ落ちたシオリの柔らかな髪に、いつしか、薄紅色の花びらが、ひとひら、ふたひら、音もなく降ってゆく。
それは、現か幻か。
満開に咲いたハルが溢した、優しい涙。
舞い降る花びらは、黒ずんだ地面を、慈しむように包みあげる。
***
──花をつけないハルが満開になった。
人は、後にこの奇跡を“ハルの涙”と呼んだそうです。
それから、ハルは毎年柔らかな薄紅色の花を精一杯に咲かせます。
空へと旅立ったシオリへの、唄のように――。
*おわり*