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【泡沫の声】

作者: 蒼宮 那雪

 屋敷の中は退屈だ。僕は頭の上から聞こえる女房の声を聞いて溜息を吐いた。ばたばたと、多分年の取った他の女房が見たらはしたないと叱りつけるだろう足音を立てて、僕の一番側に仕える右近が僕を呼んでいる。

「母君さまがお呼びですよ! どちらにいらっしゃいます?」

 僕の頭の上を右近が通り過ぎたことを確めて、そっと縁側から飛び出した。最近は見つかって部屋に戻されてばかりだったから、久しぶりに右近を出し抜いた優越感が、僕の口角を自然に釣り上げた。一人で夜の虚空に拳を突き上げて、小さく歓喜の声を上げた。

「あら、今何か声が……」

 どきん、と僕の心臓が大きく揺れた。僕の声はたまたま近くを通った女に聞きとがめられたらしい。女の顔は暗くてよくわからない。二人ほどいるらしい。

「……猫か何かではなくて? 早く行かないと、叱られてしまいますわ。」

 屋敷の奥へと急ぐその後ろ姿は、どうやら見知った侍女のものらしかった。二人はなにやら話をしながら遠ざかっていく。ふぅと安堵の息を吐き、しかし今度は油断せずに少し待った。また今のようなことがあって、もし見つかりでもしたら面倒なことになりかねない。冷たい風が僕の背中を押す。今だ、とばかりに一気に茂みから抜け出すと、高い塀の隙間から、僕は屋敷を抜け出した。

 自然に笑みが零れる。脱走に成功したのはこれが初めてだった。目立たない地味な色の着物を選んで、右近が確実に側にいない時を見計らって、とにかく慎重に事を進めたのが良かった。夜の月も明るい。これなら迷うこともないだろう。

 僕は屋敷から少し離れた山に分け入っていた。屋敷から見えるこの山に登ってみたくて仕方なかったのだ。これほどたくさんの木々、草花、見ているだけではあまりにももったいない気がしていた。僕はにんまりと口角を上げて、えいっとばかりに山に一歩踏み出した。あまり人の入らない山は、長年自由に育ち続けた結果、僕の背丈ほどの高さの草に覆われていた。どこまで行っても、草と木。僕の通った道だけが道になっていく。

「い……たっ」

 草を手で掻き分けて進む僕の手に、チクリと刺すような痛みが走った。見ると、右手の甲にすっと一本の紅い線が入っていた。その傷を舐めるために立ち止まる。傷にかゆみこそあったものの、血はほとんど出て来なかった。良かった、と胸を撫で下ろそうとしたとき、どこか遠くで鳥の羽音が聞こえた。夜の暗い森に不気味に響く。それは僕を急に独りにした。誰もいない森の中。冷たい月だけが見ている。僕はなぜだか泣きたくなって、夢中になって駆けだした。着物が引っかかるのもお構いなしに、森から出ようと必死に。しかし、いつの間にそんなに深く入っていたのか、森の端には一向に辿り着く気配がなかった。むしろ、森の中心に向かっているような気さえしてくる。

 深くなってくる緑に囚われそうになる。嫌だ、そう大きく一歩を踏みしめると、突然僕は草木の途切れた場所に着いた。地面は土が見えていて、目の前には崖があった。それよりも僕の興味を引いたのは、崖の途中にぽっかりと口を開けた、所謂洞窟のようだった。しかしその洞窟は、木枠で格子が付けられている。傍に寄ってみると、それはまるで罪人を入れる牢のようだった。

「なぁに、ここ……」

 僕は恐る恐る覗き込む。もう怖いもの見たさだった。中は暗くてよく見えない。

「誰かいるの?」

 かん、と小石が落ちるような微かな音がした。僕が声をかけると、洞窟の奥で何かが動いた。こちらに向かってくる。僕はごくりと唾を飲み込んだ。

 洞窟から出てきたのは、女の子だった。僕と同じくらいの年の女の子。何か恐ろしいものを期待していた僕は、その女の子を見た瞬間、拍子抜けしたように笑った。

「こんばんは。ここで何してるの?」

 女の子は目を丸くして僕を見ている。怖がっているというより、驚いている顔だ。こんなところで同じくらいの子に会えるなんて思っていなかった僕は、独りでなくなったのが嬉しくて、洞窟の入り口、格子の前に座りこんで中を覗き込んだ。

「ここで何してるの? 君、一人なの?」

 しかし、僕がどれだけ質問をしても、女の子は首を振り、悲しそうに微笑んでいるだけだった。良く見れば綺麗な子だ。顔は僕なんかと比べものにならないほど整っているし、しっとりと濡れたような黒い瞳を長い睫毛が縁取って、長い髪は月明かりを反射してつやつやと光って見える。

「綺麗だね。」

 僕が思わず呟いた言葉にも、女の子は首を傾げるだけで声を発したりはしなかった。僕は段々とじれったくなってきて、格子に手をかけて頼んだ。

「ね、何かしゃべってよ。僕、自分と同じくらいの子が周りにいないんだ。友達になってよ。」

 僕の声は聞こえているのに、女の子は困ったように首を傾げている。本当に申し訳なさそうなその表情に、僕はふと考えに至った。

「声、出せないの?」

 今度の僕の質問に、女の子は小さく頷いてくれた。

「どうして?」

 女の子は首を横に振る。わからないんだ。僕は悲しくなって、女の子よりももっと困った顔になった。

「こんなところで一人なの、寂しくない?」

 女の子は少し考えるように下を向いていた。そして、何か気付いたように洞窟の奥に一瞬消え、再び僕の前に来てくれた。その手には筆と紙が握られている。僕は何かわからないまま、黙って女の子の綺麗な手付きを見つめていた。なぜか、邪魔してはいけない気がした。さらさらと書きつけた文字を、女の子は僕に向けて広げて見せた。


 満つ月の うつしだしたる わが影に かさなりたるは 君の声かな


「……うた?」

 女の子はこくりと頷いた。僕には意味がわからなかったけど、それは間違いなく和歌だった。僕がいつも右近に叱られながら、詠む練習をしているそれだ。僕が悩んで唸りながら、吐き出すように創るものを、女の子はまるで声を発するかのように簡単に創り上げていた。




 僕は度々屋敷を抜け出して、彼女に逢いに行った。夜の遅い時間だというのに、彼女はいつも僕を待って笑顔で迎えてくれた。行くたびに、僕が彼女に、彼女が声の出ない分まで余計に語り、彼女はふとその場にあることを歌にした。僕が語る屋敷の様子だったり、僕が見た空だったり、色付いてきた葉が落ちて来たときには、その赤を詠んだりした。

 彼女のように、まるでお話しするかのように自然に歌を詠めるようになりたいと、昼間の僕は右近が不思議がるほど熱心に歌集を読み、筆跡の練習をした。

「この頃はいかがされたのですか。以前は机に向かうのもいやとおっしゃっておりましのたのに。」

「うん、なんだか歌も面白いなと思ったんだ」

 右近は僕の手習いを丁寧に指導してくれた。僕が真面目に取り組むまでは、右近がこんなに歌詠みに長けているとは知らなかったけれど、右近は僕が詠んだ歌をふんふんと頷きながら採点してくれた。

「ああ、そういえば、ご存じですか?」

「なにを?」

 すっかり火鉢が必要なほど寒さが厳しくなった頃、右近は唐突に云った。

「今年は凶作の影響で庶民が苦しい生活を強いられているそうです。来年、また同じような凶作の年にならぬよう、神に供物を捧げる儀を行うとか。」

「儀? 供物って、なに?」

「神様へのお供えでございます。なんでも、若い女子が一人、必要だとか。」

「……若い、女の子……」

「ああ、光さまには関係のないことでございますから、ご安心ください。」

 右近の話は、僕の中にもやもやとした何かを植え付けていった。




 夜。僕は屋敷を抜け出して彼女の元へ向かっていた。あの洞窟まで行くには、僕の屋敷の裏手からまっすくに行ける道が出来ていた。二度目の訪問をしくじった僕に、彼女が筆談で教えてくれた道だ。これなら半刻とかからずに彼女の元へ行ける。今日もその道をまっすぐに何の躊躇いもなく進んでいたときだ。前方、つまり僕が向かっている彼女がいる方から僕の方に向かってくる音があった。僕は咄嗟に道を外れ、木と草の間に隠れた。息を殺して待っていると、一人の女性が歩いてきた。僕が今着ているものほど簡素なものではないけれど、普段着用するようなものではない動きやすそうな着物を着て、屋敷の方へ向かっていた。その人が誰なのか、僕には見当もつかなかった。

 女性が通り過ぎると、僕はすぐに彼女の元へ向かった。彼女は相変わらずそこにいて、息せき切って辿り着いた僕に笑顔を向けてくれた。

「こんばんは。」

 彼女は微笑み返してくれる。僕はなぜかほっと胸を撫で下ろした。

「良かった。いなくなってるんじゃないかと思って……」

 僕の様子に、彼女は微笑みながら首を傾げるだけだった。

「なんでもない。今日は珍しい色の着物だね。」

 僕の持つ行燈に照らされた彼女の着物は、いつもの赤や橙のような色ではなく、青みがかった重ねだった。まるでいつも僕が着ているような色だ。彼女は不安げに首を傾げた。

「ううん、そんなことないよ。とっても似合ってる。」

 彼女はたぶん、「似合わない?」と聞いているのだ。僕は彼女の少しの仕草と、そして主にその表情から、何を云いたいのかがわかるようになっていた。最も、彼女は話せない上に、歌以外には滅多に筆談もしてくれないから、本当のところ何を云いたいのか明確には分かっていないのだろうけども。

 僕がいつものように格子の前に座りこむと、彼女は僕の肩あたりの着物を引っ張った。

「なに?」

 あまりない彼女の行動に驚いて、反射的に僕は云った。すると、彼女は自分の右手を出して、僕にも右手を出すように示していた。

「こう?」

 僕が右手を出すと、彼女はもっと近くに、という仕草をした。僕が格子のすぐ近くまで手を伸ばすと、彼女はかろうじて手だけは出せる格子の隙間から自分の手を伸ばし、僕の手の上に何かを載せた。

 それは鍵だった。

「これ……もしかしてここの鍵?」

 驚いて問い返すと、彼女はにっこり頷いた。

「開けていいの?」

 また、彼女は頷く。僕はまるで宝箱を開けるときのわくわくした気持ちで、格子につけられたたった一か所の出入り口に掛けられた錠に鍵を挿し込んだ。かちゃり、と心地の良い音がして、錠が外れた。

「開いた……」

 僕が完全に錠を取り外すと、彼女は中からそっとその彼女がやっと通れる大きさの出入り口を開けた。僕は思わず開け放たれた格子を潜って彼女に抱きついた。

「やった……! やっとちゃんと会えた!」

 嬉しさに涙が零れそうになる僕の背を、彼女はいつまでもとんとんと優しく叩いてくれていた。




 僕が目覚めたのは、朝日が差し込んできて、さらにかちゃりというような森の中ではあまり聞かない音が聞こえたせいだった。眠たい目を擦り、僕はゆっくりと目を開ける。目の前には格子があった。

「あ、寝ちゃったんだ……」

 朝日を背に、誰かが僕を見下ろすように立っている。眩しくてはっきりとしない。瞬きを繰りかえし、ようやく明るさに慣れたとき、僕は状況を飲み込むことができなかった。彼女が僕を見下ろしている。

「あれ……先に起きてたの? どうして……」

 起こしてくれなかったの。そう続けようとして、僕は突如立ち眩みを起こすような恐怖を覚えた。出入り口には錠がかけられている。鍵は彼女の手に握られている。錠はしっかりとその重たい役目を果たしている。僕は格子の内側にいる。まるで、罪を犯した咎人のように。

「出して……ねえ! どうして!」

 格子に飛びついて、僕は訴えた。僕が揺すっても、格子はびくともしない。僕の悲痛な訴えに、彼女はすっとしゃがんで、僕の前ではほとんど初めてその小さな口を開いた。


 ごめんなさい。


 彼女の口はそう云っていた。音にはならない彼女の声。僕にははっきりと聞こえた気がした。水面に浮かぶ泡が消えていくような、とても微かで静かな声だった。

彼女はゆっくりと立ち上がると、静かに僕から離れて行った。振り返りもせず、長い間この洞窟で座って過ごしていたせいだろうか。その歩き方はぎこちなく、今にも転んでしまいそうな危うさがあった。

「待って……行かないで……おねがい……」

 僕がどれだけ縋っても、格子は開いてはくれなかった。




 朝日が昇って、真上に日が来て、もう太陽は木に隠れてその明るさが生み出す橙色しか見えなくなっていた。僕は格子に縋りついたまま泣き続け、涙が枯れた今も声だけですすり泣いていた。

「光さま。」

 不意に、僕の名を呼ぶ声がした。顔を上げると、深い紫色の着物を着た女性が僕の目の前に立っていた。

「誰……」

「あなた様とは、一度お会いしているはずです。」

 女性の言葉に、僕は記憶の棚を引っ掻き回した。やっと出てきた記憶では、僕はここに向かおうとして、前から来る誰かに見つからないように隠れたあの場面だった。

「あ。」

「思い出されましたか。」

 女性は無表情のままそう云った。結局、あのときは気付かれていたのか。

「左近と申します。」

 女性はそう名乗ると、懐から鍵を取り出した。その鍵は固く入り口を守っている錠にすっと入り込み、かちゃりと音を鳴らした。

「もう出てもよろしゅうございます。」

「どうして左近が持っているの……?」

 その鍵は、彼女が持って行ってしまったはず。僕が問うと、左近は僕が彼女の前でそうしていたように格子の前にしゃがみこんだ。

「光さまはご存知でしょうか。凶作を防ぐために人柱の儀を行おうと、大人たちが画策していたことを。」

「……右近が……」

 右近が凶作が続くのを防ぐために、若い女の子を供物にするという話をしていた。左近は、「やはり右近が話していたのですね。」と無機質に云った。

「その人柱が、あなただったのです、光姫。」

「僕……?」

 突然のことに、僕は理解が追いついて行かなかった。左近は滔々と語った。

「人柱は誰でも良い訳ではございません。少なくとも庶民ではいけません。そこで、あなた様の家の者から選出しなければならなくなった。あの家に若い娘はあなた一人。自然とそう決まりました。あなた様に気付かれないよう、あなた様が寝ている間に遂行されるはずでした。それが今日の早朝です。」

「……それが、彼女がいなくなったのとどんな関係があるの……?」

「あの方はそれを聞くと、涙を流され、私に頼みごとをされました。そして、恐らくいつも通りやってくるであろうあなた様を待ち、あなた様と入れ替わり、あなた様の代わりに」

 その先は、聴かなくてもわかった。どうして、なぜ、という疑問しか僕の頭は考えなかった。僕の代わりに、彼女が供物になったのだ。人柱として、凶作を防ぐために。

「あの方からこちらを預かっております。」

 左近が差し出したのは、あの彼女がいつも歌を書きつけていた和紙だった。日の下で見て初めて、薄い桜色に染められていたことに気が付いた。和紙にはこう書き付けてあった。


 君が為 惜しからざりし わが身さえ 長くもがなと 思いけるかな

                           薫


「光さま、薫さまが何者か、気付いていらっしゃるのでしょう。」

 左近の問いかけに、僕は無言で頷いた。

 彼女のいなくなった洞窟を、夕日が赤く染めている。彼女の面影をそこに見ようと、僕は一度振り向いた。そこには、洞窟の壁一面に刻まれた文字があった。和紙がないときにでも代わりに書きつけていたのだろうか、びっしりと、隙間なく言葉が刻まれている。筆で書かれたもの、鋭い何かで掘ったようなもの。それも彼女の言葉だった。

「うた……」

「あの方は声を持たない代わりに、とても私では持ちえない言葉を持っていらっしゃいました。あなた様にもその才能は眠っているでしょう。何しろ、あの方と同じ日に、同じ母君から生を受けたのですから。」

 左近の無機質な声が流れていく。僕は無言のまま、その洞窟を後にした。


                        終


大学2年の冬に書いた作品です。

例によって「活動報告」の方で作品について書いておりますので、ネタバレ的な作者サイドの事情などが苦手でなければ、合わせてご覧ください。

また、なにか気になることなどありましたら、お気軽にコメントをお寄せくださると幸いです。

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[一言] お話自体は、物語の伝統を大切にした王道のものだったと思います。この王道をどう調理するかというのが作者個人に委ねられているわけですが、今回のものの場合ですと、変に奇を衒わない素直な物語だったと…
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