アネモネの微睡み
ちりぃん。
ちりぃん。
音に霞まず。
風に濁さず。
ちりぃん。
ちりぃん。
「風鈴はいらんかね。」
風鈴売りが屋台を引く。
目深に笠を被った風鈴売りに声がかかる。
「もうそんな季節かね。」
老いた男は通りに出した椅子に座りながら煙管をふかし、日差しが強いわけでもないのに笠を外さぬ風鈴売りを眺める。
「いつだって、こいつの季節でさア。」
風鈴売りは年齢の知れぬ低い声色で、笠から唯一のぞく口で笑う。風にそよぐ紺色の甚平が、しかし風鈴はちりとも鳴らない。白くひかれた流水紋が背を伸ばす風鈴売りに従いすうと伸びた。
「こいつア、ひと雨来やすかねえ。」
風鈴売りの言に老いた男も空を見やる。青く晴れ渡り、雲一つない空に、
「この空模様で雨なんかくるかね。」
風鈴売りに視線を戻し訊ねれば、仰向いたままの口元だけがやはり笑う。
「さア。俺にゃあお天道様のご機嫌なんぞわかりゃしないが。言ってるんでね。」
「誰がだい。」
ひょいと顔を戻した風鈴売りが老いた男を指差し笑った。
「そいつがですよ。」
指差された先を追えば、そこにはくゆる煙管の煙があった。
ちりぃん。
ちりぃん。
降らずとも止まない雨の中、透き通るように風鈴の音が歩く。笠を目深に被った風鈴売りはやはりその頭以外はしとどに濡れていた。
「風鈴売りさん。」
ちりぃん。
呼ばれ止まると少年から青年の域へと移行しかけている年頃の男が道に立っていた。ぽたぽたと滴る雨に、降り始めから外にいたことが窺い知れる。
「風鈴売りさん。」
ちりぃん。
男を振り向いた風鈴売りは相変わらず、唯一見える口元で笑んでいる。雨に濡れ紺から黒へと変色した甚平の、それでも白くひかれた流水紋から真実つうと水が流れた。
「風鈴ひとつ、くれませんか。」
泣き声のような声は、涙のような雨の中、乾いた眼で風鈴売りに届く。風鈴売りは笑んだままの口元は変えず、引いていた屋台を置くとくいと親指を屋台へ向けた。
「どれにしやす。」
男は一度喜びの表情を見せ、しかしすぐ口元を引き結び、吊るされた風鈴の前へと近寄る。ひとつひとつ見比べ選ぶ男に風鈴売りは何も言わず、ただ降らずとも止まない雨の中。
「これにします。」
かなりの時間をかけて男がそう選ぶまで、じっと。待っていた。
「そうかい。」
男が選んだ風鈴はまあるい硝子に、南天と金魚の描かれた小ぶりのものだった。風鈴売りは胸元から台帳を出すと、男に筆を渡し書き記す欄を指差した。
男は風鈴を選ぶ前とは違う穏やかな表情でそこに己の名をしたため。その台帳をしまう風鈴売りに心からという言葉を告げた。
「ありがとう。」
風鈴売りは再び屋台を引き、男の手にはひとつの風鈴が残り。空は晴れずに涙のような雨が降っていた。
小高い丘で風鈴売りが屋台を止め座り込んでいる。暖かい風が小さく咲く花々を揺らし、機嫌よさそうに笑う風鈴売りの甚平も揺らす。
ちりぃん。
「風鈴ひとつ、くださいな。」
突如聞こえた声に風鈴売りがは、と目の前を見やると幼い少女がすぐ前で笑っていた。全く気付かなかったとばかりに頬を掻く風鈴売りに少女はにこりと笑いかける。
「・・・お嬢ちゃん、風鈴が欲しいのかい。」
「うん。」
にこにこと笑う幼い少女に、胡坐をかいたまま風鈴売りは問いかける。
「その歳で、この風鈴が欲しいのかい。」
「うん。」
笑顔で答える少女と、笑んだままの口元の風鈴売り。しかしその声は真剣そのもののように丘を通る。
「・・・・いいのかい。」
「うん。いいの。決めたの。だから、」
笑顔の少女は、まるで笑顔であることを己に科したかのように笑う瞳に決意を滲ませていた。
「風鈴ひとつ、くださいな。」
少女が選んだのはすっと縦長の銅に風船が彫ってある風鈴だった。覚えたばかりだろう自分の名を台帳に書いて、「さようなら。」と笑顔のまま去って行った。
「おや、風鈴は売れたのかい。」
しゃらんと音をたてて座敷に入っていた遊女がしっとりと笑んでいる。
「あア。売れたよ。・・・売れるのさ。」
笠をはずした風鈴売りが遊郭の一座敷に寝転がりながら入ってきた遊女を手招く。しゃなりと鳴る音と共に座った女の膝に頭を乗せ、顔を隠す風鈴売りは独り言のように呟き女の手を握る。
「俺の風鈴なんざ、売れない方がいいってのによ。売れちまうのさ。・・・・俺ア、風鈴売り、だからよお。」
「なんだい、珍しい。今日は甘えに来たのかい。」
そっけなく言う女の手は優しく風鈴売りの頭を撫でる。
「いいじゃねえか。此処は夢見る処だろう。」
「あんたの風鈴と、同じようにね。」
「・・・・俺のァ、覚めることができねえがな。」
ぽつりと、着物に埋もれてしまうような声で呟いた風鈴売りはごろりと膝の上で仰向けになり女を見やる。
「もしお前が、この世なんぞと己を捨てちまいてェときが来たら。そんときゃ俺に言いな。惚れた女だ。俺が極上の風鈴を用意してやらあ。」
笑う口元に、泣きそうなほど歪められた眉に、女は風鈴売りのどうしようもない脆さと強さを垣間見る。紅をひいた口唇に、つと漏れてしまいそうな一言を仕舞い込み、女はそっと口づけを落とした。
「大丈夫さ。あんたがこの世にいるかぎり、あちきはこの世にいてやるからね。」
「・・・そいつァ、ありがてえ。」
笠をはずした風鈴売りは行灯の火を吹き消す。今は聞こえぬ風鈴の音を、明日もまた売り歩くことを頭の片隅に残したまま。
ちりぃん。
ちりぃん。
音に霞まず。
風に濁さず。
ちりぃん。
ちりぃん。
「風鈴はいらんかね。」
風鈴売りが屋台を引く。
終