第1話 カステラと五寸釘
先生、藤井さんからのお荷物です。お菓子って書いてありますけど。けっこう重いです。
ああ、藤井さん、先週末に不動産の整理のために実家に戻っておられたんだよ。たぶんいつもの高級カステラだな。今回多少面倒な認可手続きを僕がやったんで、そのお礼と、いつもの手厚いお土産だな。本体の離婚調停の方も進めないと。
、、、。まだ認可手続きの方はお費用頂いていませんよね。
ああ、もしかしたら先手を打たれたかもしれない。多少ややこしくてもあの程度の行政手続きなんて、数万円の話だから。
(だからさっさと片付けて事務的に弁護士費用の請求をしてしまえばいいのに、というあきれ顔をしながら)
そろそろ甘い物でひと休みされますか?何切れか切ってきましょう。コーヒーはいつものエスプレッソでいいですよね。
おや、珍しく念を押すじゃないの。いつもは僕のことなんて一から十まで全部お見通しって顔して、何も言わずに完璧なタイミングで僕が欲しいものを出してくれているくせに。
そんな、先生こそ今日はどうかなさいましたか?そんな意地悪をおっしゃって。
いや、みんな使ってて結構いいよっていうから、ためしに僕もAIのグミニに「ちょっと目新しい気分転換の方法は?」って聞いたら、深夜の2時に、高級カステラの一本モノを、切らずに丸かじりしてみては?って言われたんだ。たしかにその発想はなかったから、今夜事務所に誰もいなくなったら試してみようかと。
ちょっと先走っちゃったかなと軽いミスをしたときの表情を一瞬して、そんな佐伯さんの声色の変化には全く気づかない弁護士に対して、佐伯さん。では、私もご準備のために残ります。用意するのは、ロウソク、鉢巻き、五寸釘ですよね?
さすがに弁護士も佐伯さんがちょこっとデレてくれたのに気づいて、真顔で、冗談だ。厚めに二切れ、いつものエスプレッソでお願いします。と、手を止めてカステラを調べていたパソコンの画面を閉じて、起案に戻った。
もうそうなると弁護士の何も耳に入らなくなることを佐伯さんはよく知っているが、何も言わずに、このところ先生ちょっと煮詰まっているみたいだから、何か考えてあげようか、などと思いをめぐらしながら、佐伯さんは流しに向かうのであった。
トゥルルル-
はい、神田北法律事務所でございます。
はい、少々お待ちください。
先生、坂本さんからお電話です。
坂本ってヤス?
坂本康行というのは、弁護士の大学の友人である。
はい、いつもよりちょっとお急ぎのご様子です。
法律事務所では、事務員さんや秘書さんは、自分の感覚や印象は交えないで事実だけを弁護士に伝えるように教育されるのが普通だが、弁護士エスは何を見込んだのか、佐伯さんにははじめから、自分が思ったこと感じたことは僕に伝えてもらいたいと、普通とは違う指示をして今に至っている。
だから佐伯さんも、他の弁護士の電話を取り次ぐときには、相手の様子など余計なことを言い添えたりはしない。
佐伯さんも、他の秘書仲間と話しているうち、弁護士エスの自分に対するオーダーがちょっと変わっていることに気づくようになった。
あの人、やっぱり本質的にはダメ人間なのかなって、親友のマキにお酒の力を借りて愚痴ることもある。
だってそうでしょマキ、大卒の小娘に基本的な法律事務員の素養をたたき込まないで、自分好みに育てるとか、他で通用しないじゃない。
あんたの能力でよそに行って通用しないわけないじゃん、いずみ。他の弁に仕えたくないってだけでしょ。事務所内でだって、あんた以外の事務員には報告は客観的にって普通に注意しているじゃない。そもそもあんたの事務所って秘書さんと言える人はボスについている事務局長だけでしょ。なんかエス氏もあんたも、エス弁護士秘書みたいな空気を漂わせているけど。あんたのことだから他の人にはけぶりも見せてないんだろうけどね。
マキは佐伯さんの幼稚園から高校まで一緒だった親友で、事情があって事務所で半年間ほどバイトをしたことがあり、人間関係大得意な彼女は、ほぼ完璧に事務所内の人間関係を把握していて必要があればシミュレーションまでできるのである。
そ、れ、で、エスせんせぇとは、ちょっとは進展があったの?
ばかぁ。
佐伯さんはマキの前だけは、小娘的な反応を見せる。
だって、俺好みの秘書になれって、責任取ってくれるってことでしょ?
そんなことあるわけないでしょ。お仕事だもん。嫌になったら私だって退職金ちゃんともらって辞めるもん。
はいはい、じゃ退職金もらったらそれで乾杯しましょ。
佐伯さんの回想の途中、エス弁護士は電話を切るや、カバンにリーガルパッドや携帯六法、訟廷日誌などを放り込んで出かける準備を始めた。
佐伯さん、ヤスの息子さんが逮捕されたって。何かはっきりしないが、色物系らしい。
神田西署だからすぐそこだけど、たぶん遅くなるから、事務所には戻らないと思う。じゃ。
はい。あ、先生、バッジお忘れです。
バタバタと出て行くエス弁護士を見送ると、佐伯さんは軽く吐息をついて、時計を見る。
もう5時を少し回っている。他の事務員は帰り支度をしていて、今日は珍しく他の弁護士はみな出払っている。
お先に失礼します。おつかれさま。
後輩の事務員がみな帰り、最後に残っていた事務局長も佐伯さんにお疲れ、と声をかけて帰っていった。
さっきの事務局長の言葉は何だったのだろう。やりとりを反芻する佐伯さん。
まだ帰らないの?
エス先生が刑事の緊急で出かけられたので。
そう。でも、あんまり弁護士を甘やかしちゃダメよ。本当は私の立場でこんなこと許しちゃダメなんだけど、こういうときの残業代、佐伯さん事務所につけてないでしょ?エス君がポケットマネーであなたの残業代払っているわけでもなさそうだし。
はい、でも、半分私用なので。もう切り上げて出て、少しお買い物して、頃合いをみてちょっと事務所に戻るだけですから。
そういうのは事務員でなくて、秘書のやることよ。あなたの仕事ぶりがピカイチで他の弁護士の用事も十分すぎるくらいこなしての上でのエス君のお世話だから、所長も何も言えないんだけれどね。
所長へのお口添え、いつも感謝しています。
別にもう何もしてないけれどね。あなたがいなくなったらこの事務所はその日から回らなくなるし、エス君がいなくなったらあっさりあなたはやめちゃうだろうし。
そんなこと、ありません。エス先生が露頭に迷ったら、私がこの事務所でしっかり働いて養わなきゃいけないので。
え、あなたたち、もう。
冗談です。エス先生にはあんな立派な奥様と可愛いお子さんがいらっしゃるんですから。最初から私のことなんて眼中にありません。
そう、エス君、あなたには話さないのね。あなたは知っておくべきだろうし、それであなたが失敗したりすることもないだろうから話すけど、エス君、もうしばらく前から別居状態なのよね。所長には一応報告って形で、話したみたい。
そうなんですか、、、。
ああ、この子は当然、察していたなと思いながら、事務局長。
あなたのことだから間違うことはないと思うけれど、順番は必ず守ってね。そろそろ所長を代理人につけて調停申立てよ。片付いたら、後は煮るなり焼くなり存分になさい。
あんまりおいしそうじゃないですね、、、。
なぜかしょんぼり答える佐伯さんを残して、事務局長も帰っていった。
私って、そんなに分かりやすいのかしら。今度またマキに聞いてみよう。
と呟いて、佐伯さんも自分と弁護士エスの机の上を片付けて帰り支度を始めた。
この時間には珍しく、事務所の電話が鳴った。弁護士エスの携帯からである。所員の番号は登録してあるので、誰からの電話か分かる。
はい、佐伯です。
ああよかった、まだ残っていて。今から、ヤスとヤスの息子を連れて事務所に戻ります。
はい、分かりました。
マキなら、あんたを待っていたんでしょ、ってツッコむところだが、佐伯さんはやや天然なところがあるので、私が事務所にいる時間に間に合ってよかったと、ほっとしている。
お似合いでもあり、事務局長に言わせれば甘やかしている、と。
佐伯さんは、どちらを使ってもいいように応接間と小会議室を整えて、お茶の準備を始める。神田西署なら、もう10分もすれば帰って来る。
乾かないようにしっかり目にラップをして冷蔵庫に入れてあった、件のカステラを取り出して、佐伯さんは首を傾げた。
この仕草、弁護士エスが見ていたら悶絶級の可愛らしさである。佐伯さんには内緒だが、もう30を少し回って女盛り、で、この可愛らしさ。弁護士エスに言わせれば、それだけでおかわり何杯かいける。
先生が警察署に行って、一緒に事務所に来られるということは、息子さんは逮捕ではなく任意で話を聞かれていただけで、父親の坂本さんが身元引受をして出て来られたということ。でも坂本さんも事情を聞かれたりその他の手続きやらをしているはずだから、おそらく警察署を出てこちらに直行に違いない。
古いお友達の坂本さんとだから、事務所で打ち合わせをした後に、どこかで夕食かもしれない。でも、先生は食べ物を買ってきて事務所でお酒を飲むのがお好きだから、坂本さんが相手だともしかしたら今日も事務所で、ということになるかも。私が事務所にいるか確認の電話って、それっぽいな。でも、息子さんの事件大丈夫なのかしら。
とつこうつ佐伯さんが考えながらお茶の準備をしていると、弁護士エスらが帰って来たようだ。
あ、今晩は、佐伯さんいつもお美しくて何よりです。
坂本はあまり酒が飲めないくせに、素面でもいつもこんなかんじである。もちろん佐伯さんとも顔なじみで、本当に友人なのかしらと思うほど気の利かない弁護士エスとは違い、これは佐伯さんにと、事務所への手土産とは別にちょっと高そうな流行りのお菓子を持参したりする。
先生あんなに怒らなくてもよかったのに、と思い出すのは、佐伯さんの20ウン歳の誕生日に簡単なネックレスを坂本がプレゼントしたときのこと。坂本は、元々社長の息子で、家業は弟に譲って自身は全く別分野で会社を起こし、弁護士ってのは儲からないんだよというのが口癖の弁護士エスとは比較にならないほどの遊びにも手慣れている。
佐伯さんは親友のマキをはじめ、堅い家の裕福なご家庭で育ったお嬢さん達が交友範囲であり(その中でマキはかなり毛色が違っているのだが)、男性の遊びというのがどういったものなのかあまり分かっていない。
坂本から誕生プレゼントと言われて、差し出されたネックレスを見て、だいたいの値段は分かるので、ああこういうときのプレゼントとして絶妙な値段と品物なんだなと感心しただけである。
だから、坂本のいつもの気遣いだと思って、ありがとうございます。と受け取ったのだが、弁護士エスは、それを聞いて大激怒。それ以外に佐伯さんも弁護士エスがこれほど怒ったところは見たことがないほどだった。
マキに言わせれば、またエス氏の独占欲でしょ、お子様お子様、とのことだったが、だって、私と先生はそんな関係じゃないじゃないと、佐伯さんは不思議でしょうがなかった。
そりゃ育ちの良いあんたの人生ではこれまでにもそのくらいのプレゼントは普通にもらってきたんだろうけれど。普通は、女性に身につけるものをプレゼントするってのは、告白まで行くかはともかくとして、そういう好意の表れなのよ。
坂本さんって、あんたから話を聞いているだけだけど、人間関係が上手そうだから、もちろん分かっててやったんだと思う。
エス先生が怒ったのが、どこまで分かってなのか知らないけれど、あの先生も勘だけはかなりいい線いっているからね。あんたへの気持ちが自分で分からないまま、それでも、ここは怒るべきだって思ったんじゃないの?
坂本さん、そのときまだ独身でしょ。エス先生が怒ったって、あんたの気持ち次第で話は進んだんじゃないの?
でも、先生、だからって私に何も言わないよ?だって、そもそも、奥さんもお子さんもいて、なんだから。おかしいじゃない。
だから、エス氏はくずだって昔から私は言ってるの。あんたの目を他の男に向けるのは、もうあたしも諦めているけれど、あの男がくずであることはきちんと分かった上でじゃないと、あんた幸せになれないよ。
……別に私は先生を奪うとか思ったこともない。深層心理とかあっても、私は絶対に理性で踏みとどまる。もし先生が間違ってしまっても、絶対に許さない。私は先生と仕事をしているのが楽しいだけ。その中で先生の人間性に触れられるのが嬉しいだけ。
マキはやれやれという仕草をして、あとは菩薩のような表情で静かに涙を流す佐伯さんを肴に飲み続けて夜は更けていった。
(了)




