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8.放たれた恐怖

 草原に風が吹く。空は高く、雲が流れている。遠くまで見渡せるその中央に、重厚な鉄の(おり)が置かれていた。檻の中では、灰色の毛並みをした巨大な狼が低く(うな)っている。片目が潰れ、代わりに額の中央には禍々しい第三の目が光っていた。


俺の喉が、ごくりと鳴る。見るのは二度目だ。最初は、赤ん坊の頃だった。

あの時は、たまたまヴァリティーユ様の力が発動し、なんとかできただけ。だが今は――。


「これが、実際の魔物だ。我々はこの魔物を《トリオル》と呼んでいる。気性が荒く、動きも速い。そしてなにより、この三つ目は“相手の行動を学習する”力がある。下級とはいえ、非常に危険な魔物だ」


先生が檻のそばに立ち、冷静に言った。


「今日の目的は討伐ではない。“身を守る”訓練だ。万が一、檻の外に出るようなことがあっても、私を含め、ここにいる三人の教師が必ず守る。安心しろ」


三人の先生たちは、本物の弓と剣、そして詠唱を終え杖を構えていた。その姿に、俺はほんの少しだけ安堵した。――実際に戦わずに済む。それだけで、心が救われる。


「……ポテトくん、汗すごいけど大丈夫?」


 ルーナちゃんがそっと覗き込む。


「う、うん。だいじょぶ……ちょっと、怖くてさ」

「……よかった。実は私も怖かったんだ……」


小刻みに体を震わせているルーナちゃんの姿が見えた。それも当然だ。俺たちはまだ三歳半。どれだけ訓練を積んでも、死の匂いを放つ生き物を前にしたら、怖くないわけがない。俺も同じだった。以前は感じなかったはずの“生き物としての恐怖”が、血の奥底から湧き上がってくる。



授業は慎重に進められた。先生がトリオルの動きを間近で観察し、俺たちは距離を保ってそれを記録する。牙の長さ、足の踏み込み、跳躍の癖。“守るために敵を知る”。それが今日の授業の目的だった。誰もが緊張していたが、何事もなく時間は過ぎていった。


やがて訓練は終わり、生徒たちは園へ戻る。今日はいつも以上に疲れていた。早く帰りたい。心も体も限界に近い。だが、教室に戻った瞬間、違和感に気づいた。


「……あれ、ルヴィス君は?」


左隣にはルーナちゃん。

右隣――いつも誰よりも早く席に座るルヴィス君の姿がない。


「さっき“忘れ物がある”って言って、檻の方に戻っていったよ」


クラスメイトのその一言で、背筋に冷たいものが走った。

――嫌な予感がする。


「ルーナちゃん、ごめん。俺、ちょっと戻る!」

「えっ!? わ、私も行く!」


二人で草原へと駆け出す。風が頬を刺す。胸が苦しい。嫌な予感が当たらないように祈りながら走る。そして、辿り着いた先で――息が止まった。


「ルヴィス君っ!?」 


草原の真ん中、重厚な(おり)。その扉を開けようと、鍵のようなもので格闘するルヴィス君の姿。


その中には――。


「ダメだっ!!」


叫んだが、届かない。金属の軋む音とともに、扉が開く。ルヴィス君の口元に、微かな笑みが浮かんだ瞬間――。


鉄格子の隙間から、伸びる灰色の腕。


“それ”が外に出た瞬間、稲妻のような痛みが、脳まで駆け上がった。恐怖、不安、戦慄(せんりつ)、そして――死の気配。体中が凍りつき、呼吸が途切れる。隣でルーナちゃんが膝をつき、腰を抜かしてペタリと座り込んだ。


「……う、そ……」


檻から完全に姿を現したトリオルと呼ばれる魔物は、先ほどよりも遥かに大きく見えた。咆哮が、空気を裂く。


ガルアァアアァ――!!


大地が震え、草が波打つ。耳の奥がジンと痛むほどの咆哮だった。


「おいおい……思ったよりデケぇじゃねぇか!」


しかし、ルヴィス君は笑っていた。だが、その笑みはすぐに引きつる。トリオルが跳躍し、剣と爪がぶつかり火花が散る。金属のような音が響くたび、心臓が跳ねた。


「いいねぇ! お前を倒せば、俺は一人前の戦士だっ!」


恐怖よりも闘志が勝っていた。ルヴィス君は剣を構え、果敢(かかん)に突っ込む。牙と刃が交差し、金属音が響く。


ガキンッ――!


鉄のぶつかる音がここまで届く。動かなきゃ。助けなきゃ。頭ではそうわかっているのに、足が地面に()いつけられたみたいに重い。冷たい風が頬を刺しても、体が凍ったままだった。


ガンッ――キンッ――


「す、すごい……」


ルーナちゃんが震えながら呟いた。同感だ。ルヴィス君は強い。前々から思っていたが、やはり俺達と比べて頭一つ抜けている。その、小柄な体に似合わぬ力と俊敏さ。


トリオルは距離を取りルヴィス君の様子を見ている。その額にあるもう一つの目がギラリと怪しく光らせながら。


「はぁ、はぁ……へー、下級っつても中々やるじゃねぇか……」


グルル――


トリオルが低く唸り、爪を構える。ルヴィス君の呼吸が乱れていた。動きに焦りが混じり始めている。


何かとてつもなく、嫌な予感がする。早く助けに行かないと。でも、いまだに震える足がいう事を聞かない。動け。動け。動け。何度も頭の中で繰り返す。


「……ポテトくん。私が魔法で時間を稼ぐから、ルヴィス君を連れて早く逃げよう……」


ルーナちゃんの声が震えている。それでも、立ち上がっていた。


クソ。こんな小さな女の子が勇気を出しているのに、俺は何をしている。


動け。動け。動け。


振り絞れ。何でもいいから。動け。動けよ!


「……わ、わかった」


声が出た。次は、足だ。


「うん……水の聖霊よ――」


隣でルーナちゃんが詠唱を始める。その声が背中を押した。


 ――動けた。


ルーナちゃんの勇気に引っ張られるように、体が再び熱を帯びる。全力で走る。目指すはルヴィス君のもと。


ギンッ――!

ダンッ――!

キン――!


戦いの音が近づく。恐怖が再び押し寄せる。逃げたい。でも逃げない。森でヘリカちゃんが俺を守ってくれたあの時の光景が脳裏をよぎる。


――今度は俺の番だ。


「ルヴィス君!!」


トリオルの脇腹へ全力でタックルする。巨体がわずかによろけ、後方へ下がった。


「ルーナちゃんっ!!」


叫ぶ。合図だ。


「《水爆ッ!!》」


巨大な水球が弾丸のように飛び、トリオルを撃ち抜く。衝撃で地面が濡れ、土煙が舞った。


「ルヴィス君!逃げよう!!」


俺はルヴィス君の手を掴んだ――が


――パチンッ。


その手は、弾かれるように振り払われた。


「…え?」


思考が止まる。まだ戦うつもりなのか?


「ハァ、ハァ、ハァ……じゃ、邪魔すんな……まだ、俺は戦えんだよ」

「何言ってるんだ!? そんな状態じゃ戦えないだろ!!」


声が震えた。怒りと恐怖と焦燥で。自分でも驚くほど大きな声だった。


「お前には関係ねぇ……あいつを倒さなきゃ、俺は父ちゃんに認められねぇんだよ……!」


――父親。そうだ。ルヴィス君の父は厳しい人だとセレナさんが言っていた。

でも、今はそんなことどうでもいい。こうなったら無理矢理にでも引っ張って――。


「ルヴィス君っ!後ろっ!!」


ルーナちゃんの叫びが耳に届く。振り返った瞬間、黒い影が迫っていた。


――体が勝手に動いた。




「お、お前……何してんだよ……」


気づけば俺はルヴィス君を押し倒すように庇っていた。彼の瞳に映るのは、混乱と――涙のようなもの。


「いやぁぁぁ――!!」


左肩が、痛い。いや、焼けるように痛い。見下ろすと、灰色の顎が俺の腕を噛み砕いていた。血が噴き出す。傷が深いのか、痛みが段々と薄れ感じなくなっていく。そして眠気に襲われる。あの時と似ている――ベンチで、友人たちに刺されたあの日。


トリオルは俺を振り払うように放り投げた。世界がぐるりと回る。まるで興味がなくなった玩具にでもなったような気分だった。


「に…げて……」


ルヴィス君に向けた言葉は、かすれた息と共に(こぼ)れ落ちた。



瞬間――風を裂くような二つの影が視界の端に映る。


あれは――


「サイッ!!」

「援護する――!」


風を纏い、トリオルへ向かう誰か。その後ろで弓を引き、放っている誰か。視界が(かす)んで前が見えにくい。でもその二つの影はどこか安心感のようなものがあり、懐かしさすら感じさせた。

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