聖女の罠で処刑寸前→冷酷公爵に救われましたが、彼は白馬の王子じゃなかった件
冷酷公爵×拾われ令嬢、偽聖女への逆襲劇
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公爵視点のお話です。
――終わった。
(っていやいや!勝手に終わらすな!)
縄で縛られた両腕は痺れ、石畳の冷たさが膝から骨にまで染みていた。
首筋には処刑人の刃がちらつき、群衆の視線は氷のように私を突き刺す。
「皆さま…どうか信じてください。
わたくしは彼女を止めようとしたのです…でも、力及ばず…」
舞台の上で、聖女クラリスが涙を零しながら胸に手を当てた。
(そんな風に言うなら助けろ!!)
清らかな声が響くたび、群衆からは「クラリス様…なんと気高い」とため息が漏れる。
(どこがだ!くっそ偽善者が!!)
そのとき、彼女がふと顔を上げた。
――口元が、わずかに笑った。
(…笑った?)
だが次の瞬間には、クラリスは深い悲しみに耐えるような表情へと変わっていた。
清らかな涙に濡れたその顔は、誰の目にも純真そのものに映っている。
そして、処刑人がゆっくり近づいてきた。
(ぎゃーー!!@#%&*!?!?!!)
その時――
「待て」
重い扉が開き、冷たい声が響いた。
漆黒の外套に身を包んだ男が進み出る。
群衆がざわめき、処刑人が止まった。
(え?だ、誰?もしかして…よくあるシチュ…)
男は私を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「くだらん女だ。
だが、くだらぬ理由で殺されるのは…もっとくだらん」
(へ…?)
◆
縄をつけられたまま石段を下りると、人々は左右に割れて道を開けた。
「公爵様がなぜ…?」「恥さらしを助けるのか?」
(この人公爵なんだ…)
ざわめきが耳にこびりつく。誰も庇わない。
背中に突き刺さるのは視線ばかり。
(見世物じゃないわ!見物料とるぞ!!)
馬車の扉が開いた。黒塗りの車体に押し込まれる。
革張りの座席は冷たく、窓の外で群衆の顔が流れていく。
その時――
群衆の最前列に、クラリスが姿を現した。
涙を滲ませ、胸に手を当て、清らかな微笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、公爵様」
慈愛に満ちた声が、場に響く。
(うざ…何様目線?)
群衆は息を呑み、「さすがクラリス様…」「公爵様を導かれた」と口々に囁いた。
向かいに座る公爵は、一枚の報告書をめくっただけ。
聖女の言葉にも顔を上げず、氷のような横顔のまま沈黙している。
(…聖女ですら無視するんだ…)
車輪の軋みと、沈黙だけが続いた。
◆
――あの断罪の声を聞くよりずっと前。
「は、初めまして!セシリア・ローランといいます、あの、これから…えっと…お世話になりますっ」
(…やばい、ぜったい今の違った!)
とある夜会でのぎこちない挨拶。
周囲の令嬢たちの扇子が、かすかに揺れる。
「ローラン? あの没落した…」「まあ、どうしてこんな場に?」
ひそやかな声が扇子の陰で囁かれ、笑いを含んだ息がもれる。
「やはり見苦しいな」
グラスを傾ける若い男の声。
その隣の令嬢は、わざとらしく肩をすくめてみせる。
私の実家、ローラン家はすでに没落し、名ばかりの小貴族。
不器用な所作も相まって、余計に人は寄りつかなかった。
――実は私には前世の記憶がある。
去年あたりから断片的に思い出すようになった。
けれど、そこに詰まっていたのは、スマホ片手にだらけた日々。
(漫画とかでよくある、前世の記憶が役立つ…ンなわけあるか!)
記憶を思い出す前のセシリアは、引っ込み思案で目立たず、ただ黙って座っているだけの娘だった。
(寧ろ記憶を取り戻さない方がよかった…)
もともと評判が良いわけではなかったが、それでも「害はない」と思われていたのだ。
今では――ぐだぐだと失敗ばかりで、冷笑の的。
だが、今のふてぶてしい性格も相まって「まあいいか」と過ごしていたら、
気づけばさらに孤立していった。
そんな私を、今の両親は「頼むから悪目立ちだけはするなよ」と言い残すだけで放置していた。
(…まあ、没落しかけの家に、役立たずの娘なんていらないわよね)
ローラン家にとって、娘ひとりを磨くよりも領地の立て直しが優先だった。
(可愛いし、どうせ行き遅れることもなさそうだしいいか)
ある日祈祷会に、私は顔を出していた。
没落したローラン家の両親に「聖女様の顔を立てろ」「せめて悪目立ちだけはするな」と言われ、
半ば追い出されるようにして連れてこられただけだ。
(面倒くさい…)
壁一面のステンドグラスから光が差し込み、静謐な空気が広がる。
貴族も平民も入り混じり、皆が息をひそめて聖女の到来を待っていた。
「ご一緒に祈りませんこと?」
振り返ると、そこに立っていたのは聖女クラリスだった。
白衣の裾を光が透かし、金の刺繍がきらめく。
彼女の登場に、人々は一斉に道を開け、ざわめきが広がる。
「聖女様がこちらへ…!」「お優しいお方だわ」
驚きと憧れの声が耳に届く中、クラリスは慈愛に満ちた微笑みを浮かべて私へ手を差し伸べていた。
「は、はい…」
とっさに頷いたが、その後祈りの言葉を間違えてしまい、場には失笑が広がる。
けれどクラリスは首を横に振り、私を庇うように穏やかに言った。
「誰にでも間違いはございます。神は、その心をお聞きくださいますわ」
その後もクラリスは折に触れて私に声をかけてくれた。
施療院の祈りに同席したり、孤児院に衣類を届けたり。
彼女の慈善活動に加わるうちに、私の名前もいつしかそこに並ぶのが当たり前になっていった。
(やっぱ聖女様は特別だわー。一緒にいると、私まで立派になった気分になる…)
◆
そんなある日。
屋敷の門前に、黒い外套をまとった近衛隊たちが立っていた。
「ローラン家のご令嬢セシリア殿、横領の罪により出頭願います」
突然告げられた言葉に、私は息を呑んだ。
(お、横領!?な、なんで私が!?)
「違っ!私じゃありません!」
(だいたい見たらわかるでしょう!?どうみても貧乏令嬢じゃん!)
居間に集められた家族の前で、私は必死に訴えた。
「お父様!お母様!信じてください!!」
けれど父は顔をしかめ、母はただ扇を口元に当てていた。
「…セシリア、これ以上我らを恥に巻き込むな」
「役立たずの娘を庇って、家が潰れたらどうするの」
「ええっ…!」
(実の娘を信じれないの!?)
膝から力が抜け、床にへたり込む。
背後で使用人たちの囁きが広がった。
「やっぱり…」「お嬢様じゃ仕方ないわね」
(どういう意味よ!!)
近衛隊に両腕を掴まれ、私は石畳を引きずられていく。
屋敷の扉が閉じる音が、背後で無情に響いた。
頼れるはずの家族に見捨てられ、私は帰る場所がなくなった。
(実の娘を助けないなんて…なんて家だ!)
それからは恐ろしく速かった。
まともな尋問もなく、「知らない」「分からない」は“罪を認めた”に変換。
(役人まじで仕事しろ!!)
こうして「上からのお達し」が証拠扱いされ、私は処刑場行きが決まったのだった――
◆
「すご…」
(めっちゃ広い家…!)
気がつけば私は、公爵家の広大な屋敷にいた。
磨き上げられた大理石の床、重厚な調度品、窓から差し込む光に照らされる金糸のカーテン。
ただ見ているだけで目が回りそうだった。
(実家と全然違う…)
玄関に足を踏み入れた瞬間、左右に並んだ使用人たちが小声でざわめいた。
「本当に処刑台から連れ帰ったとか…」「どうして公爵様があんな娘を…」
(ほっとけ…ていうか誰も同情してくれないの?)
案内されるまま通されたのは、天井の高い執務室だった。
壁一面を覆う書架に囲まれ、机の上には書類が整然と積まれている。
その奥に立つ公爵を改めて眺めた。
漆黒の髪に鋭い金の瞳、彫刻のように整った顔立ち。
(…改めて見ると、すごく男前…)
処刑場で現れたときは恐ろしくて気づかなかったけれど、今は胸がどきどきして仕方ない。
(きっと、私が可愛いから助けてくれたのよね…!)
勇気を振り絞り、口を開いた。
「あ、あの…助けてくださり、ありがとうございます…!」
期待を込めて見上げる私に、公爵は冷たい金の瞳を落とした。
「勘違いするな」
声は刃のように鋭い。
「くだらん女を、くだらぬ理由で殺させたくなかっただけだ。
礼儀作法も学も知らぬ程度で処刑などという茶番を国外に知られれば、この国の恥となる。
それを避けたにすぎん」
(…え、それだけ?そんなこと言って〜ほんとは照れてるだけでしょ?)
鏡に映った私は愛らしい顔立ちに、明るい金茶の髪を揺らす少女。
――うん、かわいい。
(公爵さまったら…美少女相手にぶっきらぼうにふるまっちゃって)
にやりと笑って見上げると、冷え切った瞳が真っ直ぐに射抜いてきた。
「…気持ちの悪い顔をするな」
(えぇ…!?)
言葉を失った私を見下ろし、公爵は吐き捨てるように告げた。
「これ以上迷惑をかけるな。不本意とはいえ、お前を引き取ってしまった以上、責任は取らねばならん」
(不本意!?よくある助けてくれた公爵と結ばれる展開どこいったの!?)
「――最低限の礼儀は身につけさせてやる。
さっさと学んで、さっさと出ていけ」
机の上の分厚い帳簿を顎で示される。
「お前の部屋は執務室の隣だ。贅沢は要らん、机と寝台だけあれば十分だろう」
(…え、部屋って、もっとこう…天蓋付きベッドとかレースのカーテンとか…)
冷たい金の瞳はそれ以上こちらを見ようともせず、ペンを走らせる音だけが執務室に響いていた。
私は呆然と立ち尽くした。
(執務室の隣って…修学旅行で問題児が先生と隣の部屋に押し込まれるやつじゃん…お嬢様ライフどこいったの…orz)
希望を込めて膨らませた幻想は、容赦なく叩き潰された。
◆
与えられた部屋は、石壁に細い窓がひとつあるだけの質素な空間だった。
寝台も机も最低限。飾り気など一切ない。
(まあ…処刑されるよりはマシか)
そう思い込もうとしながら、私は寝台に身を投げ出した。
ふかふかとは程遠い硬さだったが、今は疲れが勝り、すぐに意識が沈んでいく――
「お嬢様、起きてください!」
がんっ、と扉が勢いよく叩かれ、私は飛び起きた。
目の前に立っていたのは、氷のような瞳をした少女。
「失礼いたします。お世話係を任されました、侍女のマリナです」
私を一目見るなり、呆れたように眉をひそめた。
(うわ…公爵と同じ目してる…)
「…本当に、公爵様がお連れになったお嬢様なのですか?」
(!? 侍女なのに…なんでこんな上から目線なの!?)
「礼儀も作法もできないなんて、処刑されても仕方ないと皆が言ってましたわ」
胸を刺すような言葉に、返す言葉を失う。
(そ…そこまで言う?)
マリナは容赦なく机に分厚い本を置いた。
「ではまず、カーテシーから。形だけでも令嬢らしく見えないとお話になりません」
(ちょ、ちょっと待って!)
私は思わず手を挙げた。
「あの、公爵様って、何者なんですか?」
マリナの眉がぴくりと動く。
「…まさかご存じないのですか? アルヴァン・ディール公爵の名を」
その声には、呆れと侮蔑が入り混じっていた。
(え、あの人ってそんなに有名人なの?)
マリナはわずかに顎を上げ、吐き捨てるように続けた。
「王家の血を引く由緒ある家柄で、代々この国の軍政を担ってきた名門ですわ。
そんなことも知らずにこの屋敷に足を踏み入れたなんて……」
(知らなかった…別に家から学ぶように言われなかったし…)
マリナは冷ややかに帳簿を突き出す。
「…それだけではありません。今日からは帳簿の写しを一日中課されます。
礼儀も計算も学ばせねばなりませんわね」
「げっ」
その日から、地獄のような教育と事務仕事が同時に始まった――。
◆
セシリアが机に突っ伏して数字と格闘している頃、マリナが廊下へ出たところで、公爵が歩いてきた。
彼女はすぐに膝を折り、恭しく頭を垂れる。
「…任せる」
低く短い声が頭上を過ぎる。
「はい」
返事をしたマリナは顔を上げかけ――言葉をのみ込んだ。
何か言いたげに唇がわずかに動く。
けれど結局、音にはならなかった。
その瞳が一瞬だけ揺れ、去っていく公爵の背中をじっと追う。
公爵は気づいていても振り返らず、氷のような足音だけを残して去っていった。
◆
そして私は、自分がいかに出来損ないか痛感した。
「さあ、お嬢様もどうぞ」
模範を真似てスカートの裾をつまんだ瞬間、足をもつれさせて尻もちをつきかける。
石床に膝を打ちつけ、鈍い痛みが走った。
「…見苦しいですわ」
(見苦しいって…人に言うセリフか?…痛い…)
次は食卓での作法。
スープを啜った瞬間、耳に嫌な音が広間に響く。
「本当に、貴族の娘なのですか?」
周囲の視線が針みたいに突き刺さる。
(前世は日本人だから!お箸に慣れてんの!)
数日後、分厚い帳簿の前で数字がぐるぐる回り、頭が真っ白になる。
「孤児院や施療院に関する記録、読めますか?」
「え、えっと…」
「…子供でもできる計算ですわ」
(さすがにここまで言われると…メンタル病みそう…)
そして極めつけは公爵の冷たい視線。
氷のような金の瞳に射抜かれるたび、胸がぎゅっと縮む。
だが、それも初めの数日だけで、それ以降は私に見向きもしなくなった。
(何この地獄…味方が一人もいない…)
廊下を歩けば、背後でひそひそ声が追いかけてくる。
「どうして公爵様があんな娘を…」「礼儀も知らない没落貴族の娘だとか」「…前の方がまだマシだったわね」
(あー聞こえない、聞こえない…!)
両耳を押さえるように心の中で叫んでも、その言葉は胸の奥に突き刺さって抜けなかった。
◆
「う…うう…」
唸りながら帳簿とにらめっこを始めて、何日経っただろう。
数字は相変わらず頭の中でぐるぐる回り、吐き気すら覚える。
(数学なんて…前世でも大嫌いだったのに…もう嫌…)
それでもマリナに睨まれながら、震える手で書き写しを続けた。
(受験前でもこんなハード…合格点どこよ)
その日渡されたのは練習用ではなく、実際の寄付金の帳簿だった。
処分に回す古い帳簿を教材として取り寄せたのだという。
(やめてよ…まだろくに計算できないのに…)
そのとき――ページの隅に、朱色の印が目に飛び込んできた。
(…クラリスの承認印?へえ、こんなことも聖女様のお仕事なのね…)
一瞬感心したが、そのすぐ下に――見覚えのある文字があった。
(…これ、私の署名?)
確かに、あのとき聖女クラリスに言われるまま書いた名前。
――“セシリア様、よろしければこちらもご一緒に”
差し出された帳簿。
「善き行いを記すものですわ」と言われ、私は何も考えず署名をしたのだ。
だが今、記載されている金額の横には明らかに不自然な欠落があった。
(え…これじゃ、私が横領したみたいに見える…!?)
「うそでしょ…」
思わず声が漏れる。マリナも覗き込み、息を呑んだ。
(あの女…まさか、ここまでするの?)
聖女のあの笑みが脳裏をよぎる。怒りで震えが止まらない。
(私に罪を擦り付けてたなんて!)
「ひどい…私、聖女に落とし入れられたんだ…!なんでこんなことするのよ!」
マリナは冷ややかに言い放った。
「…騙される方も悪いのですわ」
「えっ…」
「礼儀も作法もろくにできず、周囲から信用を得られないお嬢様だからこそ、聖女様の言葉が絶対視された。
“信じてもらえるだけの下地”を作らなかった時点で負けていたのです」
その一言が、胸に突き刺さった。
(そんな…私が悪いって言うの…?)
思わず涙がこぼれる。視界が滲み、帳簿の文字が揺らいだ。
マリナは小さく息を吐き、言葉を継いだ。
「ですが――まだ間に合います」
「…え?」
「証拠を見抜ける目を持ち、礼儀を身につければ…もう誰も、簡単にお嬢様を貶めることはできません」
その瞳は真剣で、初めて私を真正面から見ていた。
私はずっと、令嬢は見目麗しさがあれば何とでもなると思っていた。
けれど今、初めて気づいた。
(そうか…この世界で生きるには、令嬢の肩書きや容姿だけじゃ駄目なんだ…)
帳簿に視線を落とし、震える指でページを撫でた。
◆
マリナの言葉に胸を揺さぶられたものの、心はまだ定まらなかった。
その夜、帳簿を抱えて廊下を歩いていると、不意に声が落ちてきた。
「マリナから聞いたぞ…その程度で挫けるなら、ここにいる価値はない」
振り返れば、ディール公爵が冷たい金の瞳でこちらを見下ろしていた。
胸の奥がぐらりと揺れ、わなわなと唇が震える。
「…確かに、私はバカです。公爵様のお荷物でしかないかもしれませんけど――」
公爵は一瞬だけ目を細めた。
「…口だけは達者になったな」
吐き捨てるように言い、背を翻す。
「せいぜい証明してみせろ。言葉ではなく――結果でな」
その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は廊下にひとり取り残された。
しばらく俯いたまま拳を握りしめ、震える唇を噛みしめる。
(言われなくても…やってやるわよ…!)
もうこれ以上、馬鹿にされるものか――絶対に見返してやる!
◆
それからの私は変わった。
帳簿にかじりつき、夜更けまで筆を動かし続けた。
カーテシーも、食事の所作も、鏡の前で何度も繰り返す。
「また裾を踏んでます、お嬢様」
「…やり直しです。静かに」
「この計算…あれ、合ってる?」
小さな失敗を繰り返しながらも、少しずつ形になっていく。
特訓の合間、マリナがふと告げた。
「なぜお嬢様の裁きがあれほど早かったか…。
あの方は裁判所や役人とも深い繋がりを持っております。
お言葉ひとつで判決を動かすことなど、造作もないのです」
背筋に冷たいものが走った。
「だからこそ――お嬢様自身が力をつけなければなりません。
礼儀も、計算も。二度と、簡単に罪を押し付けられぬように…」
数日が過ぎるころには、裾を踏まずに礼をし、スープも啜らずに口へ運べるようになっていた。
帳簿を前にしても怯えなくなっていた。
「…ようやく数字をまともに扱えるようになりましたわね」
マリナの声に、胸の奥で小さな灯がともる。
気づけば、屋敷の使用人たちの視線も変わっていた。
廊下ですれ違えば、陰口の代わりに驚きの眼差しが向けられる。
「前よりずっと背筋が伸びていらっしゃるわ」
「…本当に同じ人なのか?」
帳簿だけではなく、公爵家の事務仕事にも触れるようになった。
「収入の合計と支出、ここでちゃんと釣り合ってるよね…」
「ええ、そうですよ」
やり取りを重ねるうちに、支出と収入の流れが見え、文字も乱れなくなっていった。
ある日、机に広げた書類に顔を寄せ、必死に数字と格闘していた。
額に汗をにじませ、震える指で一行ずつ計算を写す。
「…すみません、この値、収支が合わないのですが」
隣にいた書記官の一人に、おずおずと帳簿を差し出した。
彼は目を細め、さらりと数字を追ってから低く言った。
「よく気づきましたね。確かに計算違いがあります」
「えっ、本当ですか…!」
胸が熱くなった。
「最初は数字を見るだけで震えていたのに、もう訂正までできるとは。見違えましたよ」
その様子を、廊下の影からディール公爵がふと目にした。
金の瞳が、わずかに揺れる。
「…お前は、立ち上がるか」
低くつぶやいた声は、誰の耳にも届かない。
公爵は何事もなかったかのように視線を逸らし、冷ややかな足音を響かせて去っていった。
◆
――数か月後。
王宮で催された夜会の広間は光と音楽に満ちていた。
その場に立つ自分が、数か月前には処刑寸前だったなんて、誰が想像できるだろう。
周囲の視線が集まる。
「…誰だ?」「見覚えが…処刑されかけた、あの…?」
驚きと戸惑いがざわめきに変わる。
彼らの目に映るのは、裾を優雅にさばき、微笑を崩さずに挨拶を交わす令嬢の姿。
金糸の髪が揺れ、磨き抜かれた所作に一片の乱れもない。
「信じられん…あれがセシリア様だと?」
「なんて…淑やかで、美しい…」
冷ややかな視線は、驚愕と憧れに変わっていく。
その瞬間、正面に見慣れた白衣が現れた。
「まあ…セシリア様」
聖女が清らかな微笑みを浮かべて近づいてきた。
(来たわね…)
慈愛の光をまとった姿に、周囲の視線が集まる。
「この場に姿を見せるなど…ご立派になられましたのね」
胸の奥で冷たいものが燃えた。
けれど私は、優雅にスカートの裾を摘み、流れるように会釈した。
「聖女様にそう言っていただけるとは…光栄です」
一瞬、聖女の表情が固まる。
「ふふ…お強くなられましたのね」
聖女はすぐに笑顔を取り戻し、杯を傾けた。
「けれど、善き行いにお力添えくださるお気持ちは、今も変わらぬはず」
「…」
「では、セシリア様。こちらにもお名前を――」
帳簿を差し出した瞬間、私は静かに微笑んだ。
「いたしません」
「…え?」
「聖女様。私は、あなたの横領の罪をこれ以上かぶるつもりはありません」
広間が水を打ったように静まり返る。
楽団の演奏も止まり、杯を持つ手が凍りついた。
聖女はにっこりと笑ったまま、声をひそめる。
「何を仰って…冗談はおやめくださいませ。皆さま、誤解なさっては――」
「誤解ではありません」
私は卓上に帳簿の写しを広げた。
「同じ孤児院に、同じ金額が二度。存在しない施療院への寄付。
そして…そのすべてに、私の署名が利用されていました」
ざわめきが広がる。
視線が一斉に聖女へと注がれる。
私は帳簿をクラリスに見せつけるよう開いた。
「署名は確かに私のもの。けれど――」
「まあ、セシリア様」
クラリスが軽やかに遮った。あくまで聖女の顔を崩さない。
「それはご自身でなさったことでしょう?
わたくしが強いた覚えはございませんわ。
“お名前をお貸しすれば善き行いになる”と、快く署名してくださったではありませんか」
「はい。確かに署名は私がいたしました。
ですが――この数字、この孤児院の記録は私が書いたものではありません」
私は帳簿を指さし、声を張った。
「公爵家の書記に確認していただきました。
筆の運び、文字の癖……似せてはありますが、私の筆ではないと」
「なっ…!」
私はさらに一枚の羊皮紙を掲げた。
「そして、これが今月の孤児院の受領証です」
机に置かれたそれを、人々は食い入るように見つめる。
「寄付は百金貨のはず。
ですが、孤児院が実際に受け取ったのは三十のみ」
どよめきが広間を駆け抜けた。
「この国では、すべての寄付金はクラリス様を経由して支払われる仕組みです。
帳簿に記され、彼女の承認を経て――孤児院や施療院に渡る」
私は机上の帳簿を叩いた。
「残りの七十が消えた理由を、説明できるのは…ただ一人。
聖女クラリス様、あなたです」
クラリスの顔から血の気が引いた。
「ち、違いますわ…これは、何かの間違いで…!」
その瞬間、低く鋭い声が会場を切り裂いた。
「――取り押さえよ」
ディール公爵が一歩進み出て命じる。
金の瞳が氷のように光り、護衛たちが一斉に動いた。
「いやっ、放しなさい! 私は聖女なのよ!
神に選ばれた…!」
取り押さえられ、引きずられる聖女の叫びが広間に響く。
「まさか…嘘だろう…聖女様が…」
「いや、でも証拠が…」
「気安く私に触れるな! 誰のおかげで祈祷会も施療院も成り立ってると思ってるの!?」
「平民どもに施す金など無駄! あの者らは祈りさえすれば満ちるのよ!」
静寂。
広間に冷水を浴びせたような沈黙が落ち、崇拝が一瞬で疑念に変わった。
その喧騒の中で、私は静かにスカートの裾を持ち上げ、一礼をした。
「…失礼いたします」
それだけを告げて背を向ける。
去りゆくセシリアの背を、ディール公爵はしばし無言で見送った。
その金の瞳は、初めて氷の冷たさを離れ、わずかに柔らかな光を宿していた。
◆
夜会が終わった後、私は公爵邸の応接間にいた。
煌めく広間と違い、ここは静けさに包まれている。
ディール公爵は窓辺に立ち、腕を組んだまましばし沈黙していたが、
やがて振り返り、低く言った。
「…くだらん女では、なかったな」
その言葉に目を見開く。
けれど、私は苦笑を浮かべて首を振った。
「いいえ、私はくだらない人間でした。
抜け出せたのは、あなたのおかげです。……感謝しております」
そう告げて、柔らかく微笑んだ。
ディール公爵の瞳に、一瞬だけ驚きが走る。
そして次に浮かんだのは、氷を溶かすような淡い光だった。
「そうか…」
ディール公爵はそう答えながら、飾りの欠けた銀の髪飾りを一度だけなぞった。
蝋燭の灯が揺れ、二人の影を重ね合わせる。
その静けさの中で、物語はひとまず幕を下ろした。
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