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第19章 A 静寂の報酬

みなさん、こんにちは。

いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。


少しでも楽しんでいただけたら幸いです

——第19章 静寂の報酬


――ネクロソス島 魔王殿


黒い霧が天穹に渦を巻いていた。

魔都全体が見えぬ脈絡に貫かれ、尖塔は牙のように空を突き刺す。

黒曜石の街路の隙間からは微かな熔流の光が滲み、

焦げた鉄と硫黄の匂いが空気を満たしている。

低く響く詠唱がどこからともなく流れ、

まるで都市そのものが呼吸で主を讃えているかのようだった。


その魔界の心臓部、地底の深淵に――魔王殿が静かに聳える。

百尺の巨門は、百万の亡霊の黒き骨より鋳られたもの。

門に刻まれた悪魔と堕天の浮彫は囁き合い、

その眼窩で小さな焔が瞬いていた。


魅魔――セラフィナが殿内へ足を踏み入れる。

紅の瞳が焔に震え、背にはひとつの屍を引きずっていた。

独角魔人――イクサール。

その亡骸はまるで眠るように静かで、胸の角だけがかすかに暗光を放っている。


「……御身に報告を。任務……失敗いたしました。」

彼女は片膝をつき、震える声で告げた。


玉座の上――炎が形を成す。

それは、ルシファー。


影と炎の狭間に座すその姿。

背には黒炎で形づくられた十二の翼、

一枚一枚が破滅の光を宿す刃であった。

銀白の長髪は川のように流れ、淡い紫焔がゆらめく。

その彫刻めいた顔立ちは美しさすら超越し、冷たく凍りついた像のよう。

目を開いた瞬間、殿にいるすべての影が頭を垂れた。

その瞳に燃えるのは炎ではない――万物を呑み込む深淵だった。


「……語れ。」

地獄の底から響くような低音が空気を震わせる。


セラフィナはうつむき、息を震わせた。

「人間どもの抵抗は予想を超えておりました……

 彼らの力、組織――我らは軽んじすぎたのです。

 もしイクサールがもう少しだけ粘っていれば――」


彼女は顔を上げ、声を荒げる。

「あと少しで転送陣が起動できたのに!

 そのとき魔軍は一気に侵攻できた!

 なのに……こいつ、この無能がっ!」


彼女は屍を指さし、唇を歪める。

「たかが三人の人間すら仕留められないとは……笑わせるわ!」

その瞳に宿るのは狡猾と怨毒。


ルシファーは沈黙のまま、ゆっくりと立ち上がる。

足音は軍勢の行進のように殿堂を揺らした。

一歩踏み出すたび、炎の揺らめきが震える。


彼は彼女の目前に立ち、刃のような視線を落とす。

「……セラフィナ。」


その声は柔らかいのに、魂を砕くほどの重圧を帯びていた。


「貴様、己の行いを知らぬとでも思ったか。」

ルシファーは手を伸ばし、指先で彼女の頬をなぞる。

その一瞬、彼女は赦しを得たと錯覚した。


「イクサールを見捨て、持ち場を離れ、

 人間の都市に潜り込み、欲と精気に溺れたな……」

声は冷え、嘶くように低くなる。

「結果、イクサールは孤立し、廃墟で死んだ。

 転送陣は破壊され、全ては水泡に帰した。」


セラフィナの全身が震え、唇が震えた。

「ち、違います、私は――」


「黙れ。」


――指先が締まった。


首骨が「ゴキ」と鳴る。

セラフィナの身体が宙に浮き、黒い翼が激しく乱れる。

紫炎がルシファーの掌から這い上がり、

喉から胸、腕へと絡みつく。肌の一寸一寸が燃え上がった。


彼女の悲鳴が殿に反響する。

「あぁぁぁっ……お許しを……お許しを、ルシファー様ぁっ!」


炎はさらに明るく燃え、

壁際に並ぶ悪魔像の瞳までもが揺らいで見えた。


ルシファーは冷然と見下ろす。

「失望した。イクサールの死が僅かでも価値を残したゆえ、

 貴様を今ここで灰にしないだけだ。」


彼は手を放した。


セラフィナは地に叩きつけられ、

紫炎は消え、焦げ跡と震える息だけが残る。

彼女は這いつくばりながら嗄れた声を絞り出す。

「セラフィナ……二度と過ちは犯しません……どうかお慈悲を……」


ルシファーの声は氷刃のように鋭い。

「次はない。再び愚を犯せば、貴様の魂を裂き、殿門の松明にしてやる。」


「……承知……いたしました、ルシファー様……」

彼女は額を地に押しつけ、狂ったように頷いた。


ルシファーは背を向け、再び玉座へ戻る。

黒炎の衣が床を滑り、歩と共に静かに燃え上がる。

その身が座に沈むと、殿は再び死のような静寂に包まれた。

岩壁の奥から聞こえるかすかな鼓動だけが――

ネクロソス島そのものの心臓の音のように響いていた。


セラフィナは地に伏したまま、息を荒げ、血と涙を口元に垂らす。

瞳の奥に宿るのは、恐怖と憎悪が絡み合う光。


「ふふ……ルシファー様……今度こそ……

 人間どもを……一人残らず滅ぼしてみせますわ……」


焔が弾け、黒い霧が再び彼女の姿を飲み込んだ。


――北境要塞・療養所


午後の陽光が厚い石壁の隙間から差し込み、カーテンを柔らかく照らしていた。

舞い上がる微細な塵が金の光の中をゆっくり漂い、

外からは兵士たちの訓練号令が響く。

薬草と鉄の匂いを含んだ風が窓の隙間を抜け、

部屋の中に穏やかな温もりを運んでいた。


ハイシンは大きなあくびをしながら、布団に潜って呻いた。

「あああああーーー! ひまーーーっ!!」

彼女はごろんと転がり、布団を頭までかぶって丸くなる。

声は布に吸い込まれてくぐもる。

「カビ生えそう……こんな暇な日々、残業より地獄なんだけど……」


ベッドの脇でアレンが苦笑混じりに言った。

「まだ傷が治ってないんだ。少しくらいはゆっくりしてろ。」


ハイシンはばっと布団を跳ね上げ、勢いよく起き上がる。

「どこが治ってないの!? 見てよ、超元気!」

胸を張ってピースサインまでしてみせた。

「ほら、ぴんぴんしてるでしょ!」


次の瞬間――


「きゃあああっ!!!」

ハイシンはバランスを崩し、そのまま前につんのめってベッドの端に膝を打ちつけ、

腰をひねって床に顔面から倒れ込んだ。


「いったたたたっ! ぎ、ぎっくり腰ぃぃぃ!!!」

彼女は床に突っ伏したまま腰を押さえ、半泣きで叫ぶ。


その様子を見たライオンは、飲んでいたお茶を吹き出しそうになりながら大笑いした。

「はははははっ! ぴんぴん? 今のは“ぴん”でも“ぴょん”でもないぞ!」

腹を抱えて笑い転げる。

「ほら、もう一回跳ねてみろよ! なぁ、ハイシン!」


ハイシンの顔が真っ赤に染まり、枕を掴んで投げつけそうになる。

「うるさいっ、このバカ! 笑ってないで助けなさいよ!!」

慌ててアレンに手を伸ばす。

「アレン……お願い……動けないのっ!」


アレンはため息をつき、膝を折って彼女の傍にしゃがんだ。

「まったく……お前ってやつは本当に強がりだな。」

優しい声で言いながら、彼は片腕で彼女の肩を支え、もう片方の腕で膝の下を抱え上げる。


「ちょ、ちょっと待って! 近い、近いってば!」

ハイシンは真っ赤になり、慌てて手を振る。

「自分で歩けるからっ!」


アレンは小さく笑って首を振る。

「さっきの悲鳴、部屋中に響いてたぞ。これ以上無理したら、明日ほんとに歩けなくなる。」


彼は丁寧にベッドへと戻し、シーツを整える。

ハイシンは枕に顔を埋め、耳まで真っ赤にして小さく呟いた。

「……ありがと。」


アレンは穏やかに微笑んだ。

「もう無茶すんな。しばらくはちゃんと休め。」


ハイシンが何か言い返そうとしたその時――視線の端に、もう一つのベッドが映った。


――メアリー。


彼女はベッドの隅に膝を抱え、壁にもたれて黙っていた。

金色の光がその頬をなぞるが、瞳の奥の陰りは深く、動かない。

いつからそうしていたのか分からない。

ただ、沈黙のまま、まるで時が止まったように。


ハイシンは思わず息を呑み、胸が少し締めつけられた。


小さく呟く。

「……あの日から、ずっとこのままだね。」


アレンも視線を向け、眉を曇らせる。


言葉のない静寂が三人の間に広がった。

陽光は石壁を照らすが、メアリーの瞳には届かない。


ハイシンは布団の中で小さく身を縮め、先ほどまでの笑いが嘘のように消えた。


アレンが低く、しかし確かな声で言う。

「誰にだって、癒えない傷がある。

 ……彼女が話したくなった時でいい。その時、俺たちがそばにいるってことを――わからせてやろう。」


ハイシンはゆっくり頷いた。


窓の外で、遠くの鐘が鳴る。

その音は北境の空気を包み、療養所の中には三人の呼吸と、

夕陽に染まる静けさだけが残った。


――二日後・北境要塞の外


真夏の陽射しは眩しすぎて、目を開けるのもつらいほどだった。

雪線は遠い山頂まで後退し、そこから吹く風は焦げた草と鉄の匂いを運んでくる。

荒野一面が淡い金色を帯び、戦いの後特有の静けさと倦怠が空気を満たしていた。


要塞の前、広場には四人の影。

ハイシン、アレン、ライオン、そしてメアリー。

ハイシンはいつものように白いTシャツと黒いショートパンツ、

風にあおられた白髪はぐしゃぐしゃ、

まるで戦場帰りの怠け者のような格好だ。


「ふぅ――ようやく出発できるんだね。」

ハイシンは腰に手を当て、長いため息をつく。

「今回の任務、ほんっと死ぬかと思った。カップ麺食べ損ねるとこだったし!」


アレンは笑いながらも、心配げに視線を向ける。

「冗談を言えるなら安心だ。傷はもう完全に治ったのか?」

「当たり前! 超健康だもん!」

ハイシンは胸を張って手を振り、得意げな笑みを浮かべた。


ライオンは手袋を締め直し、風に舞うマントを軽く払う。

その表情はいつも通りの飄々としたものだ。

「俺はまだ戻れないさ。宰相からの命令は続いてる。

 ネクロソス島の動きを追え、だとよ。」


ハイシンは肩をすくめた。

「気の毒に。あんな不気味なとこ、もう行きたくもないでしょ?」

「仕事だからね。」ライオンは軽く笑い、少し近寄って声を落とす。

「でもさ……」


ハイシンがきょとんとする間に、

彼の指先がすっと伸び、彼女の手の甲を軽くなぞった。


「寂しがるなよ。」

悪戯っぽく笑う声。


「なっ……なにしてんのよ、変態!!」

ハイシンの顔が一瞬で真っ赤に染まり、

慌てて手を引っ込める。

「もう一回触ったら火球ぶっ放すからね!」


ライオンは腹を抱えて笑い、

「はははっ、やっぱそうでなくちゃ可愛くないな!」

と手を振ってそのまま背を向けた。

灼熱の太陽の下、彼の影が長く伸び、

笑い声だけが風に残る。


「まったく、あのバカ!」

ハイシンは歯を食いしばるが、

アレンは静かに首を振った。

「彼はいつもああだ。」

ハイシンはぷいと横を向きながらも、

唇の端に小さな笑みが浮かんでいた。


その時、背後から小さな声が響いた。


「……先に行って。私は……少し遅れて戻るわ。」


メアリーが立っていた。

黒い髪が陽光を受けて柔らかく光り、

腕を胸の前で組みながらも、どこかその仕草に迷いがある。


「え? 一緒に帰らないの?」

ハイシンが眉をひそめる。

しかし次の瞬間、彼女の視線がメアリーの瞳を捉えた。


――泣き腫らした跡があった。

何度も涙を流した者の目。

赤く滲んだ瞼が陽光にきらめき、

その顔には疲労と悲しみの影が残っている。


ハイシンは言葉を飲み込み、唇を噛んだ。

アレンは静かに言う。

「……ゆっくり休め。」


メアリーは短く頷くだけで、何も言わなかった。

風が彼女の髪を撫で、影を細長く引き伸ばしていく。


やがて、ハイシンとアレンは城内へ戻り、別れの挨拶を済ませる。

要塞門前でレクト将軍が二人を迎えた。

銀の鎧が陽光を反射して、鋭く輝く。


「今回はよくぞ持ちこたえた。

 生きて帰れたこと自体が、奇跡だ。」

彼の声は静かだが、深い敬意が滲んでいた。


ハイシンは手をひらひら振って笑う。

「もう二度と呼ばないでよ。ここの魔物、税務官より怖いんだから!」

将軍は苦笑した。

「お前の口の悪さは、相変わらずだな。」


アレンは一礼して言う。

「生きて功績を報告できる、それだけで十分です。」


別れを告げ、二人は城楼へ。

魔導士たちが待機しており、転送陣の紋が光を放ち始める。

空気が魔力に揺れ、熱が満ちる。


「準備はいいか?」

アレンが問う。


ハイシンは短パンの腰紐を締め直し、息を吸い込む。

「今度こそ、絶対酔わない!」

言葉と同時に光が弾け、二人の姿は魔力の渦に飲み込まれた。


――東北前線拠点。


熱風が頬を打ち、遠くから車輪と蹄の音が響く。

麦畑が波打ち、空は灼けるように明るい。


転送陣から転げ出たハイシンは、

深呼吸して叫んだ。

「うわぁーっ! これぞ夏の匂い!」

アレンが笑う。

「北よりずっとましだろ?」

「最高! お風呂入って、アイス食べて、一日中寝る!」

両手を広げて、満面の笑み。


その姿を見て、アレンは小さく笑った。

「その顔を見られてよかった。」


二人は馬車の停留所へと歩く。

灼ける太陽の道の先には、フウゲン城――風原の街が待っていた。


ハイシンがふと尋ねる。

「ねぇ、アレン。メアリー、どこへ行くと思う?」


アレンは少し考え、遠い金色の地平を見つめた。

「覚えてるか? 彼女、海港都市は故郷だって言ってたろ。

 きっと……帰るんだよ。」


ハイシンは額を叩いて、舌を出す。

「あー、そうだった! 完全に忘れてた!」

声は明るいが、瞳の奥にわずかな心配が残っている。

「元気になるといいな。」


アレンは微笑む。

「きっと大丈夫。彼女には、まだ時間が必要なだけさ。」


馬車の鈴が鳴り、手綱が鳴る。

車輪が石畳を滑り、砂塵が舞う。

ハイシンは窓辺に身を預け、夏の風を受けながら、

ふくらむ白いTシャツ越しに遠い空を見つめていた。


――それは戦場を離れ、ようやく訪れた“本物の夏”の匂いだった。


――遠く北境の要塞。

空にはまだ、薄く黒い雲の残影が漂っていた。

メアリーは要塞の外に置かれた木の椅子に腰かけ、

黒髪を肩に垂らしながら、彼らが去っていった方角を静かに見つめていた。

風が髪を撫で、舞い上がる灰をひとすじ運んでいく。

彼女はそっと目を閉じた。

陽光は頬を照らすが――その心の奥の陰りまでは届かない。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

みなさんの応援が、次の物語を書く大きな力になります。


もし気に入っていただけましたら、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

次回更新:10月18日 18:00 JST

どうぞお楽しみに!

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