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第18章 B · 皇宮の影

みなさん、こんにちは。

いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。


少しでも楽しんでいただけたら幸いです

【回想】伯爵邸・寝室


部屋には、一本の燭火だけが灯っていた。


外では細い雨が石壁を叩き、囁きのような音を立てている。


リヴィアナは伯爵の胸にもたれ、金の髪が彼の胸元に散らばっていた。

薄い寝間着の胸元はゆるく開き、それは誘惑ではなく――ただの疲労の証。

その倦怠が、彼女をいっそう“人間らしく”見せていた。


伯爵の荒れた掌が彼女の肩に触れる。

硬い皮膚の繭が肌をなぞり、かすかな音を立てる。

低く掠れた声が落ちた。


「殿下……そんなふうに寄りかかられたら、身動きができませんよ。まるで夢の中みたいだ。」


リヴィアナは唇の端を上げ、彼の胸元を指でなぞった。

「あなた、戦場の人には見えないわね。そんな言葉を言うなんて。」


伯爵はわずかに笑い、粗野な中にも不器用な優しさを滲ませる。

「戦場じゃ、こんな言葉を口にする暇もない。

 もしこうして殿下に話せるなら……私は一生、軍に戻らなくても構いません。」


「一生、戻らない? それじゃ帝国はどうするの?」

彼女は軽く肩を押し、からかうように言った。


伯爵は答えず、まっすぐに彼女を見つめる。

その眼差しは重く、まるで全てを曝け出すように真っ直ぐだった。


「帝国には陛下も宰相もいる。私なんかいなくても回る。

 でも、殿下のような方は――一人しかいない。」


その真っ直ぐな言葉に、リヴィアナはわずかに息を呑んだ。

胸の奥が、不意にざわめく。


「そんなふうに見ないで……まるで、私が本当に“神”みたいじゃない。」


伯爵は掠れた笑みを洩らす。

「いいえ。神は涙を流さない。でも、殿下は泣く。」


息が震え、彼の胸にそっと身を預けた。

「……じゃあ、あなたはどうするの?」


「何もしませんよ。」

微笑を浮かべたまま、彼は静かに言う。

「ただ、もう少し……このまま見ていたいだけです。」


彼女は答えず、彼の腕の中で目を閉じた。

その瞬間、雨音が遠のき、燭火は柔らかく滲んだ。


「こうして一晩、殿下を抱けるだけで――報われます。」


「……じゃあ、抱いてて。夜が明けるまで。」


雨が激しさを増す。


その夜、約束も、誓いもなかった。

ただ、互いの沈黙と温もりだけがあった。


――翌朝。


目を覚ましたとき、伯爵の姿はなかった。

窓の外の雨は止み、淡い陽が眠たげに差し込んでいる。


手を伸ばすと、隣の枕は空。

そこには、わずかな温もりと――持ち去られたはずの一通の手紙の痕。


彼女はしばらく黙って、やがて小さく笑った。

「……本当に。挨拶も残さないなんて。」


指先が、唇で触れたままの指輪に触れる。

冷たいのに、まだ彼の気配が宿っているようだった。


リヴィアナはそれを掌に握り、静かに目を閉じた。


――彼女は知らなかった。

机の上に置かれていたはずの封筒が、もうそこにはなかったことを


――ソルヴィア王宮・蒼曜軍議の間


朝の光が高窓から差し込み、青石の床に淡い金色を散らしていた。

壁に掲げられた戦旗がわずかな気流に揺れ、燭火が瞬く。

空気には墨と鉄の匂いが混ざり、重く、冷たい。


長卓の最奥に、アルドリック三世が無言で座していた。

幾多の戦場を越えてきたその双眸はいまだ鋭いが、疲労の影を隠せない。

左右にはカイン皇子、リヴィアナ王女、サイショウ、情報局長、騎士長、文武百官が並ぶ。

リヴィアナの背後にはレナが控え、手を前で重ねたまま、影のように静止していた。


しばしの沈黙ののち、サイショウが立ち上がり、恭しく口を開いた。


「陛下。昨夜、臣は水晶通話石を通じて各地の将より報告を受けました。

 三日間の巡回記録によれば、西方戦線でわずかに魔族の残党が動いておりますが、その他の地域はすでに安定を取り戻しております。

 北境ではレクト将軍が報告を。戦後三日、魔族の影を見ず、戦線は沈静化したとのことです。」


彼は一度息を整え、ゆっくりと言葉を続けた。

「将軍は特に、一つの小隊の働きを強調しておりました。

 風原の冒険者たち――彼らが上位魔人を退けなければ、北の要塞は陥落していたでしょう。」


ざわめきが広間を走る。

「冒険者が?」「上位魔人を?」「にわかには信じがたいな……」


アルドリックがわずかに顔を上げた。

「その者たちの名は。」


サイショウは手元の書簡を開き、落ち着いた声で答える。

「三名。アレン・スタッド、メアリー・ベック――そして、ハイシン。」


その名が響いた瞬間、広間の空気がわずかに揺れた。

まるで燭火に風が吹き込んだように。


リヴィアナの眉がぴくりと動く。

膝の上の指がきつく握られ、瞳の奥に複雑な光が走った。

――ハイシン。聞き慣れた、しかし耳障りな名。

伯爵邸の夜の記憶、眩しい笑顔、あの「小さな太陽」と呼ばれた少女。

その光の中で味わった屈辱と痛みが、喉元まで蘇る。


「ハイシン……どこかで聞いた名ね。」

声は低いが、十分に鋭い。

幾人かの文官が互いに視線を交わし、場の空気が緊張を帯びた。


「陛下。」

中年の文官が口を開く。

「臣、かつてロデリック伯の宴に出席した折、その名を耳にしました。

 風原でのゴブリン遊撃事件、巨大な火球を放ち、一撃で敵を壊滅させたとか。

 その功績は公会の記録にも残っております。」


もう一人の文官が思わず声を漏らした。

「それは……あの“太陽の少女”では?

 たしか伯爵が彼女を第二夫人に――」


「控えよ!」

隣の同僚が慌てて袖を引いたが、時すでに遅い。


リヴィアナの顔色が一瞬にして変わった。

笑みは消え、瞳に走る冷気がそのまま刃となる。

背後のレナが静かに目を伏せ、掌を強く握りしめた。


「ふん……伯爵も随分と趣味がいいな。」

カインが肘をつき、皮肉な笑みを浮かべる。

「戦場だけでなく、女でも火球を上げたというわけか。」


「兄上!」リヴィアナの声が鋭く弾けた。


その空気を裂くように、サイショウが軽く咳払いをした。

声は柔らかだが、冷えた刃のように場を収める。

「殿下、噂は噂にすぎません。北境将軍の報告によれば、その冒険者は確かに戦功を挙げました。

 帝国の誉れは身分によって測るものではありますまい。」


その一言で、流れる冷気が静まり、カインは鼻を鳴らして黙り込む。


アルドリックは短く息を吐き、重々しく告げた。

「真実ならば、相応の報奨を与えるべきだ。

 北境の兵に恩賞を。――そして、その小隊を王都へ召せ。傷が癒え次第、朕の前に。」


「御意。」サイショウが深く一礼した。


軍議は一旦の区切りを迎える。

しかし静寂の裏では、別の火が燃え始めていた。


リヴィアナは机の下で指先を叩き、俯いたまま微笑を消す。

胸の内では、嫉妬が鋭い刃となって形を取る。

――第二夫人?

――“小さな太陽”?

唇が白くなるほど噛み締める。


背後のレナがそっと公主の肩越しに視線を送る。

その口元には、冷ややかで、しかしどこか甘い笑みが浮かんでいた。


燭火が揺れ、石床に影が交錯する。

静かな軍議の終わりに、目に見えぬ戦が芽吹いた。

それは――女と女の、沈黙の戦争。


――ソルヴィア王宮・王女の寝室


夜は凍るほど静かだった。

月は雲に隠れ、燭火だけが部屋を揺らしている。


会議のあと、リヴィアナは一言も発せず宮を戻った。

扉が閉じた瞬間、笑みが砕けた。


首飾りが床に落ち、真珠が転がる音が響く。

重いドレスを引き裂くように脱ぎ捨て、肩が震える。

鏡の前で彼女は荒い息をつき、叫んだ。


「偽りだわ……全部偽り!

 あの男――あの伯爵――あの誓いも、全部!」


耳の奥に蘇るのは、あの夜の囁き。

『殿下の微笑みは、帝国の栄光です。』


「違う……あれは嘘じゃない! あの眼差しは本物だった……!」

彼女は拳を握り、唇を噛む。

「奪ったのは――あの女……! あのハイシンが!」


怒りが尽き、虚しさだけが残る。

鏡の中の自分は、化粧をしたまま――見知らぬ女のようだった。


その時、足音。


レナが静かに入ってきた。

燭火の光が彼女の影を壁に伸ばす。

琥珀の瞳が暗闇に溶け、冷たくも優しい光を宿す。


「殿下、また……ご自分を責めておられるのですね。」


リヴィアナは顔を上げない。

「彼は私を裏切ったの。レナ……彼は“愛している”と言ったのに。」


レナはそっと近づき、背後から囁く。

「そんな男、泣く価値もありません。」


手が肩に触れる。冷たく、しかし包み込むような温度。

「殿下の光は、誰にも奪えません。

 奪おうとする者がいるなら――私が消します。」


リヴィアナの身体が硬直する。

「……何を言ってるの、レナ?」


レナの指先が、滑るように彼女の腕をなぞり、落ちた紐を整える。

「何も。――ただ、私がいれば大丈夫。

 殿下を傷つける名前は、私がすべて消します。」


その声は甘く、囁きは情のように耳を包んだ。

リヴィアナの胸の奥で、怒りがかき消え、代わりに微かな安堵が滲む。


「レナ……あなた、どうしてそこまで……?」


レナは微笑んだ。瞳の光は柔らかく、それでいて深く危うい。

「だって――殿下こそ、私のすべてだから。」


その一言が糸のように心を締めつける。

リヴィアナはふらりと身を預け、レナの腕に倒れた。


レナは黙ってその身体を支え、ベッドに座らせる。

柔らかな寝具が肌を包み、疲労が波のように押し寄せた。


金の髪が黒髪の上に落ち、影が壁でひとつになる。


レナは背を撫でながら、低く囁く。

「もう大丈夫です、殿下。今夜は……もう、何も考えないで。」


リヴィアナの呼吸が次第に穏やかになり、目を閉じる。

彼女の頬を撫でるレナの指が、わずかに震えた。


窓の外で雲が流れ、月の光が戻る。

燭火が揺れ、静かに、夜を包んだ。


――夜が、ようやく眠りについた。


——第18章・終

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

みなさんの応援が、次の物語を書く大きな力になります。


もし気に入っていただけましたら、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

できるだけ早く更新しますので、どうぞお楽しみに!

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