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第17章 灰燼の残響

みなさん、こんにちは。

いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。


少しでも楽しんでいただけたら幸いです

第17章 · 灰燼の残響


——ハイシン


現実が崩れた。


モニターの光が瞬いている。そこは彼女のアパート、机、最も見慣れた世界だった。

書類は雪のように散り、アニメは微笑むキャラクターの顔で止まっている。

その笑顔には目も口もなく、ただまっすぐ彼女を見ていた。


息ができない。空気が膠のように喉を満たしていく。

ドアが、勝手に開いた。


出てきたのは――母親だった。

少なくとも、声は母親のものだった。


「また、成績が悪かったわね。」


柔らかい声なのに、氷のように冷たい。

母の顔は最初こそはっきりしていたが、

次の瞬間、口が裂け、もう一つの顔が現れた——父の目と、母の顎。

さらに次の瞬間、腹が膨らみ、その中から少女の顔がのぞく。

それは――中学時代の自分。ニキビだらけで、怯えた笑顔の彼女だった。


「みんな言ってたよ。ハイシンには友達がいないって。」

「ハイシンは、強がってるだけだって。」


その声が次々と、壁や天井、床の奥から滲み出る。

学校の廊下、体育の笑い声、トイレに押し込まれた日の記憶——

すべてが押し寄せた。


耳を塞ごうとしても、声はもっと鮮明になる。

魅魔が、その「家族たち」の背後に立ち、彼らの声を使って微笑んでいた。


「母親は君を仕事に押しつけ、友人は君を笑い者にした。

いじめられても、何も言えなかった。

――そんな君が、生きていて誰が悲しむの?」


ハイシンは後ずさる。足元は柔らかいカーペット。

……違う、それはカーペットじゃない。

退職届、謝罪文、休暇申請――封筒の山だった。

踏みしめるたびに、紙が泣いた。


「やめて……もうやめて……」


小さく懇願する。


魅魔が近づく。顔は母の姿に変わり、瞳だけが自分のもの。

耳元に唇を寄せ、囁く声は、ほとんど口づけのように甘かった。


「じゃあ……静かにしてあげる。

ここにいれば、もう痛くない。誰にも捨てられない。」


指先が額に触れた瞬間、世界から色が消えた。

すべてが灰に染まる。


ハイシンは、自分が笑っているのを見た。

空っぽの笑顔。頬を伝う涙だけが、まだ本物だった。


「嫌……」


声は胸の奥に吸い込まれ、喉が掴まれた。

――あの手。魅魔の手。冷たく、滑らかで、甘い香りを放つ指。


「嘘つきの子供は、愛される資格がない。」


黒い霧が視界を満たし、世界が崩れ落ちる。


——その時だった。

遠くから、現実を貫くような声が響いた。


「奴らはお前のものじゃない!」


轟音が襲う。

空気が裂け、夢が震える。魅魔は眉をひそめ、手を離した。


裂け目から光が流れ込む。

粗く、不完全で、それでも確かに「現実」の光だった。

その光が幻を粉々に砕く。


魅魔の顔が揺らぎ、半分は母、半分は自分に戻る。

低く唸り、紅い瞳がひび割れた。


「……現実の干渉?」


ハイシンの体が引き戻される。

幻は崩れ、家族の顔が一枚ずつ灰となって剥がれ落ちた。

笑い声、罵声、悲鳴――すべてが同時に消える。


彼女は地面に叩きつけられた。

初めて「本物の空気」を吸う。

それは塵と血の匂いが混ざった、現実の味だった。


耳の奥で、乱流の音がする。

誰かが彼女の名前を呼んでいる。

その声は夢でも恐怖でもない。


顔を上げる。

遠くで、魅魔が吹き飛ばされ、黒い翼が土煙を巻き上げる。

立っている男。胸元の炎はまだ消えていない。


——アレン。


ハイシンの目から涙がこぼれた。

震える唇で笑う。それは、生きていることを確かめる笑みだった。


塵が、ゆっくりと沈む。


ハイシンは地に伏し、激しく息をしていた。

夢の残滓が頭を支配する。

顔のない人々、溶けた食卓、母の声。

すべてが焦げついた幻のように、残り香を放つ。


立ち上がろうとして、膝が崩れる。

彼女は笑った。——それは強がりではなく、生き延びた者の震えだった。

アレンが眉を寄せる。

その笑みが勇気ではなく、恐怖の余韻であることを理解していた。


少し離れた場所で、ライオンが目を開ける。

荒い息。額の血が乾ききらず、汗が頬を伝う。

掌に宿る光が揺らぎ、それが力か幻か、彼自身にも分からない。

ただ――眩しすぎた。

その光が、恐ろしいほどに。


深く息を吸い、彼は目を閉じた。

「……幻じゃない。」

光が安定し、掌の聖なる輝きが広がる。

周囲の暗影を一掃していく。


その隣で、メアリーが身を丸めていた。

肩が小刻みに震え、掠れた声が漏れる。

「お母さん……ごめんなさい……」

その言葉は嗚咽と共に霧へ溶けた。


ハイシンは彼女を見て、空ろな目を瞬かせる。

何か言おうとして、やっと絞り出した。

「……泣かないで。」

掠れた声。自分自身すら慰められないほどの小さな囁き。


アレンはまだ剣を握り、三人と魅魔の間に立つ。

腕は反動で震えていたが、背筋は真っすぐだった。

「立てる者は、準備しろ。」


その瞬間、灰が再び舞い上がる。


黒い霧が地の裂け目から滲み出す。

囁き、呼吸、呻きが重なり合う。

一枚の羽根が燃え、地に落ち、灰へと変わった。


魅魔セラフィナが姿を現した。

黒翼の端から血が滲み、羽根は燃えながら舞う。

それでも彼女は笑っていた。

紅い瞳の輝きは、今や空間そのものを呑み込むほど深い。


舌打ちと共に、彼女は低く呟く。

「惜しいわね……あと少しで、あなたたちの心は全部、私のものになったのに。」

視線がアレンに向き、笑みが毒を帯びる。

「全部、あなたのせい。せっかくの楽章を台無しにしてくれたわ。――ならば。」


指先から黒い影が滴り、地に落ちて広がる。

黒霧がうねり、声があちこちから漏れ出した。

囁き、笑い、泣き声。重なり合う音の波。


「……暗影精神汚染。」


地面が揺れる。

光と闇が空気の中でせめぎ合い、どちらが現実かを奪い合う。


アレンが振り返り、低く言う。

「下がれ。」


ライオンの光は震え、メアリーはまだ泣き、ハイシンは必死に立ち上がる。

鼓動が耳を満たし、全身を圧迫する。


魅魔の黒翼が再び広がる。

羽根が散り、空気が凍りつく。


天蓋がうねり、静電が走る。髪が逆立ち、乾いた痛みが肌を刺す。

彼女は低く囁き、足元に黒霧の渦を生み出す。

その声は呪文にも、笑いにも聞こえた。


「——静寂に、呑まれなさい。」


手が上がる。影が地を這い、空間が歪む。

再び幻の裂け目が開こうとした——


空が閃光で裂けた。

雷鳴が咆哮し、大地を白く焼く。


稲光が黒霧を貫き、魅魔の体を直撃する。

悲鳴は金属が折れるように響き、翼の片方が焦げ落ちた。

体が痙攣しながら墜ちる。

黒霧は爆ぜ、無数の影となって逃げ散る。


塵と風が混じり、オゾンと血の匂いが鼻を刺す。

空は白く濁り、崩れた石柱が灰の中へ沈んだ。


遺跡の南壁の向こう、煙を切って兵士たちが現れる。

鎧は焦土の光を反射し、靴音が短く鳴り響いた。


先頭の男がマントを翻し、腰の剣に手をかける。

声は低く、掠れているが、確かな威圧を帯びていた。


「やはりか……化け物が暴れていたか。」


隣の副官が膝をつき、掌に青い雷を灯す。

雷紋が腕甲を走り、空気が乾いた音を立てた。

「雷域、展開済みです。――将軍。」


「よくやったな、ガウド。」


レクト将軍は焦土の果てを見上げた。

「要塞からでも、この影の渦が見えた。戦闘音も聞こえた。

先に動かなければ、死者はもっと増えていたはずだ。」


その声は低く、砂を噛むように荒い。


ハイシンは身を支えながら立ち上がり、

まだ霞む視界の中で口を開いた。

声は紙やすりで擦ったように掠れていた。

「あなたたち……どうしてここに……」


レクトは彼女を一瞥し、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「その黒い霧に感謝しな。あれはどんな信号弾よりも目立つ。

――それに、あの耳障りな戦闘音もな。」


副官へ顎をしゃくると、すぐに指示が飛ぶ。

兵たちは陣形を整え、魔導師たちが杖を掲げる。

詠唱の声が低く重なり、北風のような震えを帯びて響いた。


ライオンは膝をつき、まだ震えるメアリーを支える。

掌の光が再び明るさを取り戻し、

空気の中の影を押し流していく。

それは浄化であると同時に、心を静める光だった。


「……深呼吸して、大丈夫だ。」

穏やかな声に、メアリーはゆっくりと顔を上げる。

涙がまだ頬を伝っていたが、呼吸は整っていた。

「うん……もう平気。」


ライオンは小さく頷き、掌の光を絶やさぬまま、恐怖を呑み込んだ。

退かないと決めたのだ。


その時、焦げた空気の中に、冷たい笑い声が響いた。


魅魔セラフィナの姿が再び現れる。

黒翼は裂け、羽根は燃えながら落ちる。

それでも黒霧が滲み出し、彼女の傷をゆっくりと縫い合わせていく。

紅い瞳の光は液体のように滴り、冷たく輝いた。


「形勢は崩れたか……まったく、退屈な盤ね。」


視線が戦場をなぞり、倒れ伏した独角魔人へと止まる。

その肉体はすでに動かず、生命の気配もない。


「最後の駒まで壊れるとは。」

彼女は膝を折り、指先でその胸元をなぞった。

黒霧がざわめき、生き物のように蠢きながら死骸を包み込む。


「少なくとも――まだ使い道はある。」


呟きは甘く、まるで口づけのようだった。


次の瞬間、紅い瞳が閃く。

「……人間の執念を、甘く見たわね。」


唇の端の笑みが消え、瞳の光は氷のように冷たくなった。

「いいわ。遊びはまだ始まったばかり。」


彼女は指先に唇を寄せ、軽くキスを落とす。

血のような霧が唇から立ち昇り、無数の光粒となって散る。


「次に会う時は――“死ぬほどの快楽”を、教えてあげる。」


黒霧が爆ぜ、風が咆哮した。

その身は霧の中に溶け、残ったのは歪んだ笑声だけだった。


レクトが眉をひそめる。

「逃げ足の速い奴だ。」

副官は杖を下ろし、指先で弾けた雷光が数度閃いた後、静かに消える。

兵たちは警戒を解かず、風が霧を吹き払うのを待った。


灰が舞い、空は鉛のように白んでいく。

メアリーはライオンの肩にもたれ、ハイシンは地に座り込み、

震える手をぎゅっと握りしめた。

――まだ生きている。

だが、これが「勝利」と呼べるのかは誰にも分からなかった。


ハイシンは顔を上げ、雷で焼け焦げた空を見つめる。

高空の煙が薄れ、ゆっくりと脈打つように揺れていた。

「少なくとも……生きてる。」


風が一瞬止まり、再び焦土を撫でた。

世界がようやく、呼吸を取り戻した。


レクト将軍は中庭の焦げ跡に立つ。

その眼差しが、力尽きた四人の冒険者を捉える。


「動けるか。」

低く響く声は、戦況の確認のようで、哀悼にも似ていた。


ライオンが唇を結び、短く答える。

「……なんとか。」

アレンも剣を握りしめたまま、低く呟く。

「まだ、息はある。」


「医療班、前へ。」

レクトは淡々と命じた。

「彼らを要塞に戻して休ませろ。ここは我々が片づける。」


数人の兵士が駆け寄り、四人を慎重に馬車へと運ぶ。

車輪が焦土を軋ませ、乾いた音を立てる。

風が灰を巻き上げ、ハイシンは振り返った。

崩れた穹頂と割れた石板が、陽光に鈍く光っていた。


馬車が遠ざかる。

中庭に再び静寂が戻り、焦げた匂いだけが残った。


レクトは外套を整え、副官に視線を向けた。

「行くぞ。内部を確認する。」


兵を従え、彼らは崩れた正門をくぐる。

遺跡は荒野と枯林の狭間に沈み、外周は黒く焼けた柱と瓦礫で覆われていた。

拱門はすでに崩壊し、開いた傷口のように口を開けている。

壁の浮彫は煤に焼かれ、神像は原型を失っていた。


裂けた穹頂から陽が射し込み、地に散った石片と亀裂を照らす。

地面には魔力の焦痕が残り、それぞれが中心へと伸びていた。

副官が屈み、指先で灰を撫でる。

「暗影エネルギーの残滓……濃度が高い。」


「セラフィナの痕跡だ。」

レクトの声が低く響く。

「想定よりも濃い気配だ。……ここで、何をした?」


彼らはさらに奥へ進む。

内部の通路はほとんど崩れ、湿気と焦げた臭いが混ざり合う。

傾いた壁に刻まれた浮彫が、揺れる光の中で歪んでいた。


倒れた拱門を抜けると、裏庭に辿り着く。

地面は陥没し、中央には巨大な魔法陣が刻まれていた。

線は錯綜し、まるで異なる工法を無理やり繋げたようだった。

素材には黒焦げの石粉と銀灰色の鉱質が混じり、

各線が脈動するように微かな魔力を放っている。

まるで不規則な鼓動のように。


「……魔族の造物か?」副官が眉をひそめる。

レクトはしゃがみ、符文に触れた。

指先が一瞬、凍るような冷たさに包まれた。

「いや……完全にそうとも言えん。

構造が精密すぎる。魔族特有の波形とも違う。

だが素材の気配は暗影に染まっている。……不気味だ。」


「まさか、あの女が?」

「違うだろう。」レクトは小さく首を振る。

「彼女は使っただけだ。造ったのは別の誰か。」

声を落とし、鋭い眼光で陣を見据えた。

「こんなものを残せば、また災いを呼ぶ。」


彼は立ち上がり、剣を抜いた。

刃が光を受けて冷たく輝く。


「こんな陣、存在そのものが毒だ。」


剣先が地を突き、金属音が遺跡に響く。

魔法陣が一瞬光を放ち、歪み、崩壊した。

爆風が灰を巻き上げ、石片が散る。

兵たちは本能的に身を引き、耳を打つ低音と共に陣が砕け落ちた。


光の粒が漂い、やがてすべてが静まる。

地面は黒く焼け、陣はただの灰と化した。


レクトは剣を収め、しばし灰を見つめた。

「……これで、扉は閉じた。」


副官が呟く。

「一体どこへ繋がっていたんだろうな。」


「知ったところで、何になる。」

レクトは淡々と答え、背を向ける。

「求めるのは安定だ。答えではない。」


灰の上を外套が掠め、風が吹き抜ける。

空は低く垂れ込め、雲が遺跡を覆う。


レクトは最後に振り返った。

崩れた中庭に、陽光が斜めに差し込み、

灰が呼吸するように舞い上がる。


「……惜しいな。この嵐は、まだ終わらん。」


背を向けると、風だけが彼の返答のように鳴った。

遺跡は再び、沈黙の中に沈んでいった。


——第17章・終

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

みなさんの応援が、次の物語を書く大きな力になります。


もし気に入っていただけましたら、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

できるだけ早く更新しますので、どうぞお楽しみに!

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