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第16章 B 静寂の微笑

みなさん、こんにちは。

いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。


少しでも楽しんでいただけたら幸いです

——北境の古代遺跡 · 中庭


壁の裂け目からまだ煙が上がる。

砕けた石が散らばる中、黒霧は逆流し、裂痕を辿って戻っていく。まるで彼女自身を癒すかのように。


セラフィナはゆっくりと顔を上げた。黒翼が開くと、その羽の隙間に赤黒い血光が滲む。

霧の縫い目が呼吸するように蠢く。唇の端がわずかに上がった。その笑みは冷たく、怒りを孕んでいた。


「……私に血を流させるなんて。」

声は怒号でも悲鳴でもなく、抑え込んだ震え。まるで深淵そのものが目を覚ますような響きだった。

「——代償を払ってもらうわ。」


翼が打ち鳴らされ、黒霧が爆ぜる。中庭の空気は一瞬で粘ついた。


ライオンとハイシン、メアリーは互いに目を合わせる。言葉はいらなかった。


メアリーが先に踏み出す。掌の風が渦を巻き、裂けた腕から血が滲む。

「行くよ——風よ、舞え。」


その気流が塵煙を切り裂き、上昇する道を開いた。

ハイシンは傷を押さえながら両手を合わせ、掌に火を呼ぶ。

制御を捨てた魔力の火——反動の熱で喉が焼ける。

深く息を吸い、その火をメアリーの風に投げ込んだ。


轟音。


炎が風に呑まれ、長い蛇のように空へ伸びる。

ライオンはその炎を追い、跳躍。光の短剣が燃え上がり、風と火に包まれた光刃となる。


三人の連奏。


空が一瞬、昼のように白く染まった。


——だが、届かなかった。


炎が黒霧を突き抜けた刹那、魅魔の姿は炎海に飲まれた。

しかしすぐに、空気が「逆戻り」した。

火の波が縮み、灰が逆流し、霧が再び彼女の形を描き出す。


完全な姿で、遠空に立つ。血の光が羽から滴り落ちた。


「滑稽ね。」

その声は小さく、絶対的だった。


ライオンがまだ空中にいる間に、周囲の空気が歪む。

刃を振り上げようとする——が、気づく。

自分の影が、身体より先に止まっている。


世界が止まった。


「光も風も、」

彼女の声が四方から響き渡る。静かで、抗えない。

「——安らぎなさい。」


黒霧が炸裂し、音のない衝撃が広がる。


メアリーの風が最初に崩壊した。空気の流れが途切れ、息が詰まる。

ハイシンの視界を闇が覆い、掌の炎が消え、熱すら奪われた。

最後に、ライオンの胸の光が瞬き、ろうそくの火のように消えた。


——時間が止まる。


塵は宙に浮いたまま、落ちない。

三人の瞳に、同じ紅の光が映る。


セラフィナは空に漂い、双眸は月蝕のように黒い。

指先で空をなぞると、三人の影が震えた。


「いいわね。」彼女は囁く。

「ここから——あなたたちの意思は私のもの。」


色が消える。

炎も、光も、血も、すべて灰白に溶ける。

ただセラフィナの紅い瞳だけが揺れ、脈打つ。


霧の隙間から血が滲み、それでも彼女は微笑む。まるで自分の創った芸術を見つめるように。


「さあ——壊れなさい。」


両手を広げる。黒霧が垂れ下がり、無数の糸のように三人の影へ突き刺さる。


世界が、裂けた。


——ライオン


最初に砕けたのは「光」だった。


白い霧の中、地はどこまでも続く。

遠くから光が押し寄せ、潮のように、裁きのように。

そこに現れたのは一人の男——帝国の軍服、まっすぐな背筋、記憶に刻まれた父の顔。


「ライオン。」

骨の奥で響く声。

「信仰で誰を救う? この俺すら救えなかったお前が、世界を救うつもりか?」


光が喉を貫く。

彼は自らの首を掴み、血管が浮き上がる。

胸の中で光が暴れ、苦鳴が漏れる。


「ちがう……俺は……違う……」


膝をつき、金の光が消えかけた蝋燭のように揺らめく。


——静寂。

自分の息だけが、暗闇に落ちていく。


——メアリー


風が、言葉を持った。


母の声が遠い記憶から響く。泣き声混じりの呼びかけ。

「メアリー、帰って……行かないで——」


若い自分が夜風の中を走る。

その風が今、喉を締めつけた。


手を伸ばしても、掴めるのは空気だけ。

風が口から入り込み、肺を満たし、反響して壊れた笑い声になる。

「ごめん……お母さん……置いていくつもりじゃ……」


膝をつき、掌を地に。

風が彼女の周りで渦を巻き、皮膚を裂く。

それは懺悔となり、彼女を囲む輪となった。


やがて——風が止まった。

残ったのは、震える呼吸だけ。


——ハイシン


現実が崩れた。


彼女は自分の部屋を見た。

止まったアニメの画面、散らばった書類。

懐かしい日常が、溶けたプラスチックのように歪む。


テーブルのそばに「人々」が座っている——顔がない。

歩み寄ると、壁から伸びた黒い影が、喉を掴む。


空気が消えた。

叫ぼうとして、笑いが出た。

熱を帯びた笑いが、割れたガラスのように喉から流れ落ちる。


「やめて……やめてよ……ハハハ……」

笑いと涙がひとつになる。


世界が回り、壁が空へ、空が彼女の瞳に変わる。

すべてが彼女を見て、笑った。


——セラフィナ


空に浮かび、紅い瞳が震える。黒霧の中で血が滲む。

彼女は深く息を吸い、人間の魂の香りを嗅ぐように微笑む。


「甘い……人間の恐怖は、後悔の香りがするわ。」


首を傾げ、笑いが軋み、ガラスの擦れる音に変わる。

そして静かに呟いた。


「光も、風も、火も——眠りなさい。」


指先が弧を描く。三人の身体が痙攣し、影が震える。


舌を噛み切り、血が顎を伝う。その血は地に落ち、新たな影となった。


「これが——最も純粋な美。」


声が途切れ、震える息。

「さあ、黙りなさい。」


音が、途切れた。


静寂の中——それでも、何かが笑っていた。


塵がゆっくりと沈む。

炎はとうに消え、空気の中には灰が浮かぶ。

まるで、絞め殺された光の残骸のように。


魅魔セラフィナは崩れた壁の前に立ち、紅い瞳から血を滲ませていた。

彼女はゆっくりと俯き、足元の三つの人影を見下ろす。


ライオンは喉を押さえたまま、指先が首筋に食い込み、動かない。

メアリーは膝を折り、目の焦点を失い、涙と血が頬を一筋に伝う。

ハイシンは仰向けに倒れ、口元に硬い笑みを残し、息は浅く、壊れかけた風箱のよう。


三人はほとんど動けなかった。

心も肉体も、一度砕かれ、無理やり貼り合わせられたようだった。


セラフィナは腰をかがめ、まるで芸術品を鑑賞するかのように眺めた。


「知ってる?」

声は子守歌のように柔らかかった。

「昔、一匹の猿がね、水に映った影を“魂”だと思って掴もうとした。

でも、水面が割れて、猿も割れたの。」


彼女は微笑み、唇の端から血が一滴こぼれ落ちる。


「私はただ、あの物語を再現しているだけ。

あなたたちは——その猿よ。」


笑いながら、ゆっくりと指を伸ばす。

「映し身、信仰、愛……全部幻。

あなたたちが必死で掴んでいるものは、水面に映った自分の腐敗。」


手が持ち上がり、ライオンの額へ向けられる。

空気が糸のように張り詰め、世界が息を止めた。


「さあ、その瞳を閉じてあげる——」


指先が彼の頬に触れた瞬間——


空気が震えた。


黒霧が巻き上がり、次の瞬間、何かに引き裂かれた。


銀の閃光が横から突き抜け、セラフィナの身体を打ち砕いた。

その速さは現実を裂く剣閃。魅魔は避ける間もなく吹き飛ばされ、黒翼が反転し、暗い羽が雨のように散る。


轟音。


彼女の身体が遠くの壁に叩きつけられ、瓦礫が崩れ落ちる。


砂塵の中から、アレンが立ち上がった。

両手で大剣を握り、瞳は鋭く、世界を貫くようだった。


「……彼らは、お前のものじゃない。」


わずか六つの言葉。

それだけで、止まっていた空気が再び流れ始めた。


セラフィナは瓦礫の中から歩み出る。黒翼は半ば折れ、霧が傷の間を這う。

紅い瞳が再び焦点を結び、その光には苛立ちと——歓喜が混ざっていた。


「あら……まだ起きている子がいたのね。」

唇を引き上げた笑みは、裂けた傷のように痛々しい。


アレンは応えず、ただ剣を構えた。

血と灰が風に舞い、二人の気配がぶつかり合う。


空気が、張り詰める。

次の瞬間——誰も、息をしていなかった。


——第十六章・終

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

みなさんの応援が、次の物語を書く大きな力になります。


もし気に入っていただけましたら、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

次回更新:10月10日 20:00 JST


どうぞお楽しみに!

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