嘘と小細工
「ねえ、私たちの婚約だけど、解消した方がいいんじゃないかしら」
学園の中庭で私がそう言うと、子供の頃からの婚約者のレイトは驚いた顔をした。
「私たちの婚約って親同士仲が良かったからだけでしょう?お互い六歳の頃に、男女の愛なんかあったら怖いわ。私だってあなたは単に一緒に遊ぶ仲間って感覚だったしね。でも私たち、もう十五歳。成人したんだし、子供の頃の約束なんて解消してもいいって思うの」
レイトはまだ、驚きから覚めないようだ。
「……確かに親同士が決めた婚約だが、なんで急にそんなことを言い出したんだ?リュシー。好きな奴でもできたのか?」
私は苦笑した。
「そうじゃないわ。それはレイトの方よ。だってあなた、気になる子がいるんでしょう?最近、妙に距離が近い子がいるじゃない、ほらあのピンクの髪の」
レイトは再び驚愕すると、顔を逸らした。バレていないとでも?
「あの子は、そんなんじゃない。ただ最近、よく話しかけられるだけで……」
「でも遠ざけてもいないみたいじゃない?あのね、私はね、あなたがあの子とうまくいかなかった時の為のスペアになるなんて、真平ごめんよ。あの子と仲良くするなら、私との婚約はちゃんとしてからにしてよ。もしあの子とうまくいった時にも、二人の恋のスパイスになるのも真平ごめんだからね。今のうちにちゃんとしておきましょう」
彼は口を開けたが、何も言葉は出てこなかった。私は大げさにため息をつくと彼の隣に座り直し、その手を取った。
「レイト、私はね。あなたのこと好きよ、家族のように大切に思っているわ。こんなに長く一緒にいたんですもの。でもね、だからこそあなたには幸せになってもらいたいし、私だってこの先、私のことを一番に大切に思ってくれる人が現れたら、その人と幸せになりたいわ」
彼は真剣な顔で真っ直ぐに私を見つめている。
「今ここで、すぐに答を出すのなんて無理でしょう?だからね、来月にお宅で茶会があるでしょう?私の両親も来るから、その時に解消の話をするつもりよ。それまで婚約をどうしたいか、よく考えてね。その間に手続きの方法とか手順とか、起こりうる問題とか、いろいろ調べて準備するから。とりあえずその茶会までは、両親にも友人にも使用人にも、誰にも何も言わないでおくわね。婚約解消の決心がついたら、私だけに準備させないで手を貸して欲しいわ」
彼はまだじっと私を見つめている。私はあえて笑顔を作り、朗らかに言った。
「もう、しっかりして。転んでギャンギャン泣いてたあの頃から、全然成長してないんじゃない?」
彼は苦笑した。
「……それをいうなら、リュシーだって木登りして落ちて捻挫した頃から、変わらずお転婆だ」
「あら、誰かしらそれ。覚えがないわ。私は淑女よ、他の女の子と間違えてない?」
「ひどいな、他の子の仕業にするつもりか?」
私たちは笑い合った。
レイトが答を出したのはそれから割とすぐだった。
「例のあのピンクの髪の子なんだけどね。あの子が君にいじめられているって言い出した。僕とあの子の仲をリュシーが嫉妬しているからだって」
「ええ?」
私は驚いたが、同時にホッともした。婚約解消を先に言い出していなかったら、レイトは私を疑ったかもしれない。わたしがあの子をいじめていると。間に合って良かった。
「そんなはずないと言ったんだけど、教科書を隠されただの、平手をされただの、階段から落とされただのと言い始めたんだ」
私はため息をついた。
「婚約解消の話が進んでいるのに、そんなことするはずないわ。彼女は知らないから仕方ないけど」
「話が進んでいるのか!?」
「誰にも話はしていないわ、約束ですもの。でも、準備は進めておくって言ったでしょ?」
レイトは顔を歪めた。
「そうなんだが……。あの子は明らかに嘘をついている。だから、僕の婚約者はそんなことをしない、彼女を侮辱しないでくれって言ったんだ。そうしたらあの子は……、聞くに耐えない雑言を吐いて去っていったよ」
「まあ……。あの子のこと、あまりよく知らないけど、そんなことをする人には見えなかったわ。辛かったわね」
彼は情けない顔で私を見上げた。
「慰めてくれるのか」
「そうね。私、恋をしたことがないから、どんなに辛いのか理解してあげられないけど、元気を出してね」
「彼女に恋をしていたわけじゃない、本当に付きまとわれていただけなんだ。それでも疲れた。リュシー、僕らの婚約の解消はやめにしないか?」
私は瞬きを繰り返した。
「……だから、あの子とうまくいかなかった時のスペアなんて嫌だって、言ったじゃない」
レイトは席を立って私の隣に座って、私の手を取った。あの時私がしたのと同じように。
「スペアじゃない。君がいなくなるって考えると、考えられなかったんだ。つまり、ああ、僕は何を言っているんだ?」
私は次の言葉をじっと待った。心臓が口から飛び出そうなほど、ドキドキしている。
「あの子は本当に一方的に付きまとわれただけだし、あの子のことは関係なくリュシーがいなくなるなんて嫌だ。君が大切なんだ。そばにいるのが当たり前になりすぎてて、いなくなることだってあるってこと考えてもみなかった。僕はバカだ」
私は彼を見上げた。少し赤らんだ彼の顔は、真剣そのものだった。
「君はあの時、『いつか自分のことを一番に大切にしてくれる人と幸せになりたい』って、言ってただろう?それ、僕ではダメかな」
私は、言うべき言葉を選び出せず、ただ俯いた。高ぶった感情に目頭が熱くなってくる。
「君がまだ僕のこと、家族のようにしか思っていないのはわかっている。でも、やっぱりどうしても、君がいいんだ」
嬉しい。良かった。私は涙を抑えきれなかった。彼は慌ててハンカチを取り出した。
「そ、そんなに嫌だったかな」
彼が差し出すハンカチを受け取りながら、私は首を振った。
「違うわ、誰かにそんな風に言ってもらえることがあるなんて、思ってもいなかったから嬉しいの。私も、一緒にいるなら他の人よりあなたがいいし、あなたとならきっと、恋人になれる日が来る気がするの」
私たちは手を取り合い、抱擁を交わした。
恋をしたことがないなんて嘘だ。私はずっと、レイトが好きだった。ずっとレイトと家族のように過ごし、卒業後は結婚して本当に家族になるんだろうと思っていたが、あのピンク髪の子が現れた。
私はあの子が本気で彼のことを略奪しようとしていることに気付いていた。彼に婚約の解消を持ちかけたあの日、あの子が影から私とレイトの様子を覗き見ていることを知っていた。だからわざと彼の隣に座り、手を取って顔をのぞきこんだのだ。遠目には、まるで手を取り合い見つめ合っているように見えただろう。笑い声も聞こえたはずだ。
あの子はきっと、焦って私を貶めようとするはずだと思っていた。例えば、私は不正をしているだとか私にいじめられていると訴えるとか。予想は当たり、結果、彼はあの子に幻滅した。
こうなるだろうと思っていたとはいえ、それでも彼があの子を選ぶ可能性はあった。もちろんそうなれば、すっぱりと身を引くつもりだったけど。惜しいが他人のモノになった時点で興醒めだ。そうならなくて良かった。
そう簡単には彼をあの子に渡すつもりはなかった。危ない賭けだったけど、勝負に出て良かった。私は愛しい人の抱擁を堪能した。
僕の可愛い婚約者、リュシー。僕らはあまりに長く一緒にいすぎて、恋人のように振る舞うことなど今更できない。でも僕は彼女が好きだし彼女に触れたいし僕をもっと意識してもらいたい。
そんな僕を見て悪友どもはからかう。
「簡単だ、押し倒してキスでもするんだな」
「このムッツリが、それだけで済むか?」
悪友どもが哄笑をあげる。バカ友どもが、そんな真似ができるわけない。
僕が悶々としていたら、妙に接近してくるピンク髪の女が現れた。攻略がどうとか主人公との運命がどうとか言って、僕の行く先々にやってくるのだ。鬱陶しかったが、その女は不気味で考えなしで、とんでもないトラブルを起こす類に見えたので、僕は女を刺激しないよう、当たり障りのない対応をしていた。
そんなある日、またあのピンク髪の女に話しかけられているところを、僕の可愛い婚約者が見ていた。リュシーは眉根を寄せて、難しい顔をしている。
そろそろ真剣にこのピンク頭を振り切る算段をつけようと考えていたが、天啓が降りた。リュシーとの関係を進展させる触媒になってもらおう。
その後僕はあの女をやんわりと躱し続けたが、はっきりとは遠ざけなかった。そして「あの女に困っている」とリュシーに相談して、追い払うためにそばにいて欲しいとでも言うつもりだった。あのピンク頭にはずいぶん迷惑をかけられたのだから、このくらい利用させてもらおうじゃないか。
だがリュシーの行動は、そんな僕の呑気な想像などはるかに超えてきた。婚約の解消を持ちかけてきたのだ。
そんなにあっさりと僕を見捨てるなんて。ショックで言葉もすぐには出てこない。その上、彼女はいつか僕ではない野郎と幸せになりたいなどと言うのだ。
そんなことはさせない。
僕はある放課後、ピンク頭の教科書を机の中から失敬して隠した。隠したと言っても、持ち帰る規則なのに置きっぱなしだったので、忘れ物箱に放り込んだだけだ。これも規則通りちゃんと教科書に記名していれば、すぐにでも手元に戻るはずなのだ。
だが、予想通り、あの女は教科書がなくなったと嬉々として僕に報告に来た。遺失物届を出すよう助言したのに聞く耳を持たない。楽しそうですらあった。案の定、その次からは、平手されただの暴言を吐かれただの階段から突き落とされただの、事実無根な妄言を訴えてきた。
「だって、リュシーさん、あたしのこと、すごい目で睨んでくるのよ。怖いわ、だから一緒に帰ってくれない?」
「なんで僕が。大体、僕の婚約者は君が言うようなことをするはずない。リュシーは僕の大切な婚約者なんだ。彼女を侮辱するな」
「本当なのよ、きっとリュシーさん、あたしがあなたと仲がいいから嫉妬していじめるんだわ」
「君と仲なんか良くない。この際だからハッキリ言うが、僕は世界で一番、婚約者が大事だ。君よりもずっとリュシーを信じている。これ以上、彼女を貶める発言を続けるなら許さない。君は嘘つきだ」
あの女はショックを受けたようだったが、騙されているだの癒してあげるだのと聞くに耐えない戯言を一通り喚き尽くすと、悪役は断罪される運命、という訳のわからない捨て台詞を吐いて去っていった。
もう意地を張っている場合ではない、あの女がリュシーに何をするかわからない。さっさとリュシーを手に入れに行こう。僕は彼女に、婚約を解消したくないと告げた。僕の言葉に、彼女は喜んでくれた。
僕はバカだと彼女に言ったが、本当にバカだったと思う。もっと早くにこうしていれば良かった。ただ、僕がリュシーを好きなほどにはリュシーが僕を好きではないのが悔しくて、僕ばかりが彼女に愛情を示すのが悔しくて、意地を張っていたのだ。
本当に彼女に見放されてしまう可能性もある危険な賭けだったが、勝負に出て良かった。僕は愛するリュシーを強く抱きしめた。
三人全員、自称策士ですね、ホホエマシイですねぇ。こうやって仔犬の噛み合いみたいにじゃれあって、陰謀渦巻く貴族社会で生き抜く術を身につけていくのでしょう。多分。
お読みいただきありがとうございました。