貴方がくれた、ぼくのかたち【全年齢版】
物心ついた時から奴隷商の元にいた少年には名前がなかった。
奴隷商はいつだって彼を”白いガキ”と呼んでいた。
何故かといえば、それは彼の肌が透き通るような白さを持っていたからで、そしてその肌のおかげで、彼は高値で売られることになったのだった。
彼が売られたのは、実はこれが初めてではない。
以前にも一度買い手が付いたのだが、少しして売り戻されてしまっていた。
その時の事を、少年はほとんど覚えていない。
思い出そうとすると頭が痛み出すので、今ではもう記憶の片隅にすらないくらいだった。
そのため、少年はまるで初めて売られるかのように見えた。
初々しい反応を見て満足気に笑った買い手は、ものを知らない少年の目から見ても大層な金持ちだった。
指にはこれでもかと金銀宝石の光る指輪が嵌められ、首にも、手首足首にも、腰にも装飾品が揺れていた。
買い手の周りには何人もの屈強な男たちが控えていて、少年だけでなく全ての他者に対して殺気を放っている。
いつも強気な奴隷商が緊張しているところを、少年は初めて目の当たりにした。
奴隷商は少年の価値を誰よりも理解しており、いつだって身綺麗にさせていた。
金持ちが商品を探しに来ると分かっている時には特に念入りに少年を洗い、傷がないかを確かめた。
滅多に出番のない高級な石鹸を惜しげもなく使われて、奴隷商の目論見通り少年は金持ちに買われていった。
「私はクスルーム。君はね、私の娘に似ているんだ」
少年は、ただ頷く事しかできなかった。
そう言われて喜べばいいのか悲しめばいいのか分からなかったからだ。
男はニコニコと笑って少年の頭を撫で、表情とは裏腹に全く笑っていない瞳で真っ直ぐに少年を見た。
「君にはね、娘になってもらう」
「分かりました」
少年はただ、頷く事しかできなかった。
自分より大きく、力強い男たちに囲まれたまま、長く過ごした檻を後にした。
クスルームの屋敷は、正面から見ただけでは全貌が分からないほどに大きかった。
それまでに見てきた家々とは一線を画す豪華さで、寺院にも引けを取らない美しさだった。
こんな家に住んでいいのだろうか。
少年はそう思いながらも、促されるままに足を進めた。
「しばらくはこの部屋で過ごしなさい」
そう言われた部屋は、集団で容れられていた檻よりもずっと広かった。
部屋の至る所に絵画や、花瓶に活けられた花々や、見た事のない調度品が並んでいる。
目に見える全てが、自分より価値のあるものに思えて少年は震えた。
少年の様子など気にもかけず、クスルームは言葉を続ける。
「お前はここで、娘のことを学ぶんだ。一週間後、一度だけ娘と会わせる。その時までに仕上がっていなければお前に用はない、分かるかな?」
「はい。分かりました」
「よろしい。まずは身なりから整える。後のことは任せたぞ」
「はっ」
クスルームの言葉に返事をしたのは、彼を囲んでいた男のうちの一人だった。
誰よりも身体が大きく、筋肉質で、切れ長の瞳にはクスルームしか映っていなかった。
他の男たちと共に去っていくクスルームを、その姿が見えなくなるまで見送った男は、それからようやく少年を見た。
「行くぞ」
それだけを言うと、太い腕で軽々と少年を持ち上げてしまう。
突然の事に目を白黒させた少年は、しかし抵抗せずにその身を任せた。
「まずは湯浴みからだ」
連れていかれたのは、巨大な風呂だった。
見た事もないくらいのお湯が張られた風呂。そこに入れられるのかと身構えたが、「湯が汚れる」と言われてしまった。
男がどこかから持ってきた桶のような物は、少年が座っても足が伸ばせるほどの大きさをしていた。
「脱げ」
言われるがまま、腰紐を解く。
穴から首を出すだけの簡単な布切れを脱いで、尻を隠すように巻いていた布も解いた。
今にも死にそうな程ではないが、余分な肉などひとつもないくらいに痩せた貧相な身体。
男は手桶に汲んだお湯を、少年の頭からざぶりと掛けた。
湯を使ってもらえると思っていなかった少年は目を瞬かせた。
てっきり水を掛けられるのだと思って覚悟していたのだが、温かなお湯はとても気持ちがよかった。
そんな少年の事など気にせず、男は何度も湯を掛ける。
流れる湯がようやく透明になってきた頃、男の手が少年の髪に伸びた。
光に透かすとキラキラと美しい黄金色の髪は、少年の売りだった。
白い肌と、黄金色の髪、そしてもうひとつ。
「その目」
「え? あ、はい。この目はぼくの売りだそうです。翡翠に似ていると言われました」
話しかけられると思っていなかった少年は、疑問の声を上げてしまった事に緊張した。
奴隷商はその手の発言を好まない。ご主人様は、もっと。
ずきりと頭が痛んで、少年は顔を顰めた。
「大丈夫か」
「はい、大丈夫です」
今度はすぐに答える。
いい香りのする泡を少年の髪に馴染ませながら、男は言った。
「痛みがあれば言え。なにか不都合があればすぐに教えろ」
「分かりました」
ざばり。また湯を掛けられ、髪の毛に付いていた泡が流れる。
それから男は、少年を大きな桶へと促した。
たっぷり張られた湯の中へ身体を浸からせるのは初めての事だった。
ちゃぷん、ちゃぷん。
まるでそのまま溶けてしまいそうな心地になって、少年はふるりと頭を振った。
「もう少し奥に行けるか? 髪の毛も浸からせてくれ」
「はい」
温かな湯の中で、少年の意識は少しずつ解けていった。
眠ってはいけないと思うほどに、瞼は近付いて、はたと気が付くと少年は籐編みの椅子に寝かせられていた。
見知らぬ天井に戸惑い、焦って起きようとすると、男の大きな手がその動きを制する。
「逆上せたんだ。もう少しじっとしていろ。お前の身なりを整えるのに女たちを呼んである。女たちの支度が整ったら移動する」
「すみません……ありがとうございます」
「……お前、名前は」
問われ、少年は言葉に詰まった。その反応をどう思ったか、男はミクダームだと名乗った。
寝転んだままの少年を見下ろし、大きな葉で風を送りながら男は少年の言葉を待つ。
「ぼ、ぼくには、名前はありません」
「ない?」
「はい。ずっと奴隷でした。白いガキとしか呼ばれなくて」
また、頭痛がした。
少年はこめかみに手を当て、顔を顰める。
ミクダームは少年の頭を優しく撫でた。その手がするりと頬に降りてきて、少年はミクダームを見上げた。
黒い短髪、鋭い視線。彫りの深い顔は、少年が今まで出会った人間の中で一番美しく思えた。
眉間に寄った皺さえもミクダームの男らしさを強調しているようで、少年はどこか居心地が悪くなる。
「あ、あの……ぼく、何か悪いことをしてしまったでしょうか」
「……いや、呼び名を考えていた」
「え?」
ミクダームの大きく、筋張った手が少年の頬を撫でる。
細められた瞳で見つめられると、奥底に眠るものまでも見透かされてしまいそうな心持ちになった。
「ラーミウ」
低い声でそう囁かれ、少年は胸の辺りがざわざわして落ち着かなくなった。
「俺がラーミウと呼んだら、それはお前のことだ」
「はい、分かりました」
声は、震えていなかっただろうか。
顔は、真剣な表情を作れていただろうか。
気を抜くと、泣いてしまいそうだった。
笑ってしまいそうだった。
自分だけのものを与えられたのは、生まれて初めてのことだった。
「気分は」
「大丈夫です」
「そうか」
ミクダームは頷くと、扉から顔を出して外へ何かを告げた。
すぐに数人の女性がゾロゾロとやってきて、ラーミウを囲む。
「まぁまぁ、なんてやり甲斐のある子でしょう」
「ほんと、昔のお嬢様を見ているようだわ」
「かなり細いから、たくさん食べてもらわないとねぇ」
台に寝かされ、全身を香油で揉まれたあとは、椅子に座らされて髪の毛を整えられた。
伸びっぱなしだった黄金色の髪は、傷んだ部分を丁寧に取り除かれ、絡んだ部分も指が楽々通るほどに梳かれる。
「こんなにピッタリな子が見付かるなんてね」
「ねぇ。顔付きは少し違うけれど」
「そんなの化粧でどうとでもなるもの。髪と目の色ばかりはどうしようもならなくて困っていたのよね」
奴隷商は正しかったのだなとラーミウは思った。
自分の売りであったもののおかげで、ラーミウはここに来ることができたらしい。
「目の色を変える薬、試した子の話聞いた?」
「聞いたわよ、可哀想にねぇ……」
「絶対上手くいくはずないって思ってたの。試さなくてよかったわ」
「いくら報酬が貰えるっていってもねぇ」
自分越しに交わされる会話を聞いて、ラーミウは気を引き締めた。
一週間後、上手くやれなければどんな目に遭わされるか分からない。
それにきっと、自分だけでなく自分のために手を尽くしてくれた人たちも、何かしらの罰があるのではないかと思った。
精一杯、背筋を伸ばす。
お嬢様は、どんな人なのだろうか。
学のない自分に、彼女の振りなどできるのだろうか。
できるかではない、やらなくては。
見た目を整えられていく間、鏡の中の自分を見る。
高く売られるために綺麗にしていたとはいえ、みすぼらしい少年ではあった自分はどこにもいなかった。そこにはキラキラと輝く、美しい少女がいた。
やれる。できる。
『ラーミウ』
ミクダームの手のひらの温かさを思い出す。
奴隷の少年は、もういない。
ミクダームが自分を生まれ変わらせてくれたのだ。
彼のためにも、結果を出さなくては。
ラーミウの見目を整えるのに掛かった時間は長かったが、一度も弱音は吐かなかったし、身動きひとつしなかった。
お陰でラーミウが開放される頃には、女たちにひどく気に入られていた。
特に、歳の頃が近いらしいニルミーンとは、緊張もせずに話すことができるまでになっていた。
「多分、毎日のお世話は私とマディーハがすることになると思うわ」
ニルミーンの隣に立っていた、少しふっくらとした優しげな女性が微笑んで頷いた。
ラーミウが二人に頭を下げると、ニルミーンがニヤッと笑って言う。
「お嬢様は私たちに頭なんか下げないから、今のを最初で最後にしてよね」
「わ、分かった」
「頑張って、応援してる」
支度が済むと、女たちはミクダームを呼びに行った。
部屋に入ってきたミクダームは、ラーミウを見て目を細めた。
問題はないだろうかと不安になるラーミウだったが、特に何も言われることはなかった。
やり直しを命ぜられなくてよかったと思う心の中で少しだけ、何も言ってくれないことを残念に思った。
頭から黒い布を被せられ、ニルミーンが握ってくれた手に導かれるまま歩く。
今、自分がどこを歩いているのかも分からぬまま、何度かの曲がり角を経て部屋についた。
身綺麗にされたおかげで、ラーミウは少しだけその部屋に近付けた気がした。
調度品は相変わらず輝いて見えて、恐ろしかったが。
「食事は日に三度、女が運ぶ。午前と午後、教師が来て教育を施すことになっている。教える事に関連した本が並んでいるから、字が読めるようになったら空き時間に読むといい。机の引き出しには紙とペンが入っているから好きに使え。なくなったら俺に言ってくれ」
「分かりました」
それだけ言うと、ミクダームもニルミーンたちも皆行ってしまった。全員が外に出たあと、閉まった扉に鍵のかかる音が聞こえた。
部屋に窓はなく、空気は重かったが、不衛生な檻の中とは比べ物にならないくらいに素晴らしい部屋だった。
もうひとつ扉があったので開けてみると、用を足すための小部屋だった。
驚いたことに、嫌な匂いが全くしなかった。
恐る恐るベッドに触れると、柔らかな手触りにまた驚く。
ここが、自分の部屋。
昨日の夜は硬い床に直接横たわっていたのに。
ラーミウは、己が触れることで、使うことで、それが汚れることを恐れた。
散々綺麗にされたのだから大丈夫だと言う自分と、染み込んだ汚さは簡単に消えたりしないと言う自分。
右へ左へウロウロと悩んだ結果、部屋の隅に丸まって眠った。
肌に触れる床の感触も、檻の中とは異なっていた。
冷たくはあるのだけれど、痛くはなかった。
ツルツルとした床に腕が触れて気付いたのは、自分の腕も床と同じくらいに磨かれていることだった。
翌朝、起こしに来たミクダームは部屋の隅で丸まるラーミウを見て驚いた顔をした。
既にラーミウは目覚めていたが、ベッドを使わなかったことは一目瞭然だった。
「そこで寝たのか」
「はい」
「今夜からはベッドで眠れ。お嬢様は床では寝ない」
「あっ。は、はい、すみません」
考えれば当然だった。
ラーミウは己の軽率な行動を恥じた。
「それと、俺に敬語はいらない。俺だけでなく、誰に対してもだ。早く慣れた方がいい」
「分かりま……分かった」
「女言葉も、可能な限り使ってみろ。人前で喋る機会はないだろうが、備えておくに越したことはない」
「…………そうね、気を付けるわ」
ラーミウがそう答えると、ミクダームの口元がふ、と緩んだ。
その微妙な表情の変化を目にした瞬間、ラーミウは胸が締め付けられるような心地がした。
普段より鼓動が早い気がして、戸惑う。
「どうした」
ミクダームの口元はもう固く結ばれていて、ラーミウは二度首を振る。
「大丈夫」
「そうか」
ミクダームは短くそう答えると、扉から外に顔を出して合図をした。
ニルミーンとマディーハが部屋に入ってきて、ラーミウの身支度を整えていく。
ミクダームが外に出るのを待って、ニルミーンが声を潜めて言った。
「ベッドで寝なかったの?」
「うん……汚すわけにはいかないと思って」
「バカね。いい? お嬢様になるためには人のことを考えちゃダメよ。自分のことだけ考えて」
「ちょっと、ニルミーンったら」
「あ、これ絶対誰にも言わないでね。ここだけの話よ。でも、本当のことなの」
ちらりとマディーハを見ると、困ったように眉をひそめていた。けれど、ニルミーンの言葉を否定することはなかった。
自分のことだけを考える。ラーミウには想像もできないことだった。
物心付いてから今まで、ずっと人の顔色を窺って生きてきたのだ。
だが、なりきらなくてはならないお嬢様は、自分のような人間を所有する側に立っている。
ラーミウは、奴隷商の言動を思い出すことにした。
「いつまで喋っているの。無駄口を叩く暇があるのならさっさと済ませて」
二人の手がピタリと止まり、ラーミウは戸惑った。キョロキョロと視線を彷徨わせ、困ったように眉根を寄せる。
「なんて顔してるの。いい感じすぎて驚いちゃった。その調子よ」
「ぼ、ぼく、怒られないかな」
「私たちで練習するといいわ。何を言われても大丈夫だから、ね?」
「えぇ、そうね」
ニルミーンが言うと、マディーハも頷いた。
二人の目は優しく、ラーミウは嬉しくなった。
今まで、自分にそんな目を向けてくれる人はいなかった。
そんな人は存在しないのだと思っていた。
ラーミウが嬉しさに浸っているうちに、二人は手際よく髪を結い、化粧を整えていく。
着替えを済ませると、食事の時間になった。
ニルミーンとマディーハがテーブルに料理を並べる中、ミクダームが長身の男性を伴って室内に入ってきた。
「お前に教育を施すヤアルブだ」
「初めましてお嬢さん」
差し出された手に、どう対応したらいいか分からず戸惑う。
「あぁ、これは握手といってね、挨拶のひとつさ。君も右手を出して」
おずおずと差し出した手を、ヤアルブがぎゅっと握り、上下に少し動かした。
すぐに手は離され、ヤアルブのにこやかな顔がラーミウを見下ろす。
「うん、確かに似ているね。髪と化粧は君たちが?」
ヤアルブが問うと、ニルミーンたちが作業を止めて直立した。
「はい、そうです」
「上出来だ、この調子で頼んだよ」
「はい」
ヤアルブの顔はにこやかなままなのに、部屋に流れる空気がヒリヒリと肌を刺すように感じられてラーミウは震えた。
この空気を、知っている。
ヤアルブは、きっとクスルームと同じくらいに偉いのだろう。
そして、彼の機嫌を損ねると、痛い目にあうのだろう。
ラーミウは、改めて自分にのしかかる責任に気付いた。
ニルミーンたちとは既に顔見知り以上の関係になってしまった。
彼女たちを見捨てることは、できない。
「ヤアルブさま。今日からよろしくお願いいたします」
覚えている限り丁寧な所作で、柔らかな声で、ヤアルブに挨拶をした。
ヤアルブは、クスルームと同じように笑って、主人と同じように笑わぬ瞳でラーミウを見る。
「うん、よろしく。まずは食事のマナーから始めようか」
そうして、ラーミウへの教育が始まった。
毎食、向かい側に座るヤアルブから細かくマナーを教えこまれる。
スプーンやナイフの使い方、スープの飲み方、肉の食べ方、何もかも。
椅子に座る時やベッドに寝る時のスカートさばきに関しても、ヤアルブの目は鋭かった。少しでもバランスを崩せば不格好だと指導され、背筋を伸ばすよう檄が飛ぶ。
食事の時間以外は言葉遣いと、文字の読み書きの勉強に充てられた。
必死になって全てを吸収しようとするラーミウを見て、ヤアルブは満足気に微笑むことが増えていった。
小さな子どものために作られたらしい絵本が、ラーミウの味方だった。
夕食が終わったあと、就寝までの少しの間、ラーミウは絵本を一生懸命音読した。
書かれた文字を指でなぞりながら、ゆっくり、ゆっくりと。
部屋の中でそうしているのは、見張りとして外に立っているミクダームには筒抜けだった。
絵本を一冊読み終えると、ミクダームは外からそっと次の本の題名を言ってくれた。
ミクダームは常に居る訳ではなかったが、護衛の代表ということで一番多くラーミウのそばに居た。
ミクダームに無様な姿を見られたくないという一心で、ラーミウの勉強には更に熱が入るのだった。
ラーミウが新しいことを会得する度、ミクダームのまなじりがほんの少しだけ下がる。
そのことがラーミウの唯一の喜びだった。
ラーミウが基礎的なことを全て身に付けると、ヤアルブの指導が苛烈さを増した。
些細な間違いも許されず、鞭を打たれる。
「お嬢様は誰にも涙を見せないよ」
「お嬢様はどんな時も高潔でいらっしゃる」
ヤアルブの言葉に気を引き締め、キッと睨み返すと、ヤアルブは獣のような光をその瞳に宿した。
ああ、やはりこれが、この人の本性なのだ。
その晩、ラーミウが湯浴みを終えて着替えようとしていると浴場に一匹の虻が飛び込んできた。
虻は勢いよくラーミウの額に追突したので、思わず情けない悲鳴が漏れる。
「どうした」
戸を開けて中に入ってきたミクダームに、飛び回る虻を指で示す。
「何ごとかと思った」
ミクダームは慣れた手つきで虻を窓の外へと逃がしてやり、ラーミウへ向き直った。
そして、ラーミウの身体に残る鞭の痕を見付け、顔を顰めた。
「ヤアルブめ、やりすぎた」
「いえ! 私がいけないの。言われたことをやれないから」
「お前の白い肌がどれほど美しいか知らないんだ。こんなに腫れて」
つ、とミクダームの指が赤紫に腫れた肌をなぞる。
たったそれだけのことで、ラーミウの身体はジンと痺れて熱を持った。
「すまない、痛むか」
「大丈夫……その……あなたが触れたところから、痛みが消えていく気がするの」
言ってしまってから、ラーミウは我に返った。
今、何を。
真っ赤になって否定しようとするラーミウの腕を、ミクダームが優しく握った。
「お前は、どうしてそう可愛いことを言う」
「あ……」
抵抗をやめたラーミウの素肌に、ミクダームの手が触れる。
少しカサついた肌が、温もりが、直接感じられて気持ちがいい。
「もっと、触れてもいいか」
その問いに、ラーミウはただただ頷いた。
肩、首筋、胸、腹、ミクダームの指が傷口をなぞる度、ラーミウの口から吐息が漏れる。
ミクダームの唇が傷口に触れ、舌が這わせられた。
「こんなことなら、もっと早くに痕を残せばよかった」
「え……?」
よく聞き取れずに首を傾げると、「なんでもない」と言いながらミクダームの唇がラーミウの白い肌に吸い付く。
何をするのかと見れば、己の肌に赤紫の印が刻まれた。
いくつもの印を刻まれながら、ラーミウは自分が興奮していることに気付いた。
「ミクダーム……ごめん、なさい」
「なぜ謝る」
「だって……ッ」
己の中心が熱を持つことを、ラーミウは酷く恥じた。
このままではミクダームを汚してしまうと、涙が零れる。
「大丈夫だ、我慢するな」
けれど、そんな自分にミクダームが優しく囁くから。
ラーミウはミクダームの腕にしがみつくようにしながら、意識を飛ばした。
くったりと力の抜けたラーミウを、ミクダームが抱きかかえて清めていく。額に落とされた口付けは、まるで愛されているみたいだった。
翌朝目覚めたラーミウは、自分に都合のいい夢を見ていたのではないかと思った。
けれど、身体のあちらこちらに残る小さな鬱血の痕が、昨夜のことが現実なのだと教えてくれた。
ミクダームの唇が触れた場所を、そっと指で確認していく。
甘い痺れが全身を包み、己の身体が反応するのをラーミウは慌てて抑え込んだ。
もうすぐ身支度の時間なのだ。
ラーミウは冷たい水で顔を洗い、また勉強に励んだ。
初めて会った時からずっとミクダームのことは特別だった。それでもその気持ちは感謝と信頼で。
けれど昨夜、ミクダームへの想いはまるきり変わってしまった。
そして己に付けられた名も、あまりに特別だった。
ミクダームだけが呼ぶ自分の名前は、ラーミウの中でいっとう輝いていた。
「ねぇ、ラーミウってあなたの名前?」
ニルミーンにそう問われた時、ラーミウは上手く言葉が紡げなかった。
どうしてその名前を知っているのか、聞きたいのに聞けなかった。
「ミ、ミクダームが付けてくれたの」
そう答えるのが精一杯で。
だから次のニルミーンの言葉を聞いて、ラーミウの目の前はいよいよ真っ暗になった。
「ラフィーアお嬢様と音が似てるわね。咄嗟に反応出来るようにしたのかしら」
(ああ、そうか)
ラーミウは思った。
ミクダームが自分に向けるあの眼差しも、唯一の宝と思っていた名前も、全ては自分ではなく、その向こう側のお嬢様のものだったのだ、と。
その日、クスルームがラーミウの仕上がりを確認しにやってきた。
化粧を施し、着飾って挨拶をしたラーミウを見て、クスルームは満足気に頷いた。
「これなら大丈夫そうだな。ラフィーア、来なさい」
クスルームの言葉に従って部屋に入ってきたラフィーアは、自分よりもずっとずっと美しかった。
気高くて、澄ましていて、部屋の入口に立つミクダームにお似合いの、人。
「これが身代わり? まぁ、それなりね。いいこと? さっさと私を狙う不埒な輩を捕らえるのよ」
「はい、お嬢様」
「いつまでも私の部屋に居られると思わないことね」
ラフィーアはそれだけ言うと、すぐに部屋を出ていってしまった。
ニルミーンの言っていたことが、よく分かった。彼女は自分たちのような者に、頭を下げたりはしないだろう。
その夜から、ラーミウはラフィーアの部屋で過ごすことになった。
ラフィーアが外から帰ってきたら、彼女は屋敷の警備が厳重な部屋へ。代わりにラーミウが無防備な姿を晒して不審者を誘い出すということらしかった。
いつも部屋の外にいたミクダームは、もういなかった。
篝火の爆ぜる音だけが、静かな部屋に響いていた。
数日経っても、何も起きなかった。
けれどまだ安心は出来ないと、ラーミウの仕事は続けられた。
何か不審なことがあればすぐに叫ぶように言われていたが、何も、なかった。
ラフィーアが外出している間は今まで使っていた部屋に戻されたので、まだ読んでいない本を読んで過ごした。
元の部屋にいる時も、ミクダームはいなかった。
きっとクスルームの警護に戻ったのだろうと思った。
もう完成したラーミウに、厳重な警備を敷くことはない。ただ何かが起きた際に駆け付ける数名がどこかにいれば、それでいいのだから。
ラーミウは、あの夜のことと、そしてラフィーアと同じ部屋にいた時のことを交互に思い出しては苦しんだ。
あの夜をただの思い出に出来ればどれほど良かったか。
自分が女のように美しく華奢であることも、もう自分の強みとは思えなかった。
労働力になれる力強さがあれば、そもそもミクダームに出逢うことすらなかったのだから。
この名も、この想いも、知らずに済んだのに。
その日の夜は、生暖かな風が吹いていた。
どこからか、甘い匂いがしている。
厨房で菓子でも焼いているのだろうかと考えていると、ラーミウの思考はどんどんボヤけていった。
まださほど遅い時間ではないのに、もう眠気が襲ってきたのだろうか。
ラーミウは覚束ない足取りでベッドに倒れ込んだ。
柔らかなベッドがラーミウを包む。
白いシーツ、女のような格好、あの日も、そうだった。
ラーミウは甘い香りに包まれる中、忘れていた記憶に飛び込んでいった。
ヒラヒラとした服、下着は付けず、手首と足首には鈴の付いた装飾品。でっぷりとした裸の男が手招きをして、ラーミウはベッドに押し倒される。
何をされるかも知らなかった。
全身を愛撫され、舐められ、抵抗すれば殴られた。
ラーミウが暴れる度にシャンシャンと鈴が鳴って、それが男を悦ばせた。
男の蹂躙は、ラーミウが壊れるまで途切れることはなかった。
男がラーミウを奴隷商に二束三文で売り捨てた時、ラーミウはほとんど死にかけていた。
奴隷商は医者と掛かる費用について話し合い、再びラーミウを美しく磨き直して売る方が儲かると踏んだようだった。
ラーミウは生かされた。
死にたかった。
生かされてしまったから、死にたい理由を忘れていた。
それを。
ラーミウの意識がほんの少し現実に戻る。
いつの間にか部屋の中にはフードを被った細身の男がいて、ラーミウに小刀を向けていた。
「欲望に正直になる香を焚いたんだ、身体が熱くなって来ただろう? 服を脱いでいいんだよ。オレが受け止めてあげるからね」
男は下卑た笑いを浮かべ、ラーミウの服を脱がすためか上着の留め具に刃先を当てた。
「う、うぅ、あぁぁああ!」
ラーミウは男に飛びかかり、無我夢中で刃物を持つ手を掴んだ。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
ただ、それだけだった。
初めて買われた時に味わった絶望と痛みと恐怖に支配されていた。
光る刃を胸に突き立てて、早く全てを終わらせたかった。
急な抵抗に驚いた男の手から、小刀を奪う。
(ああ、これで、ぼくの望みが叶う)
躊躇いなく胸に向かって突き刺した小刀は、しかしラーミウには刺さらなかった。
「やめろ、ラーミウ」
ミクダームの手のひらが、血で染まっていた。
「ミク、ダーム……」
ラーミウの、ラーミウとしての記憶が濁流のようにラーミウを呑み込み、そのまま意識を手放した。
気が付くと、ベッドの上だった。
ラフィーアの部屋ではなく、自分の部屋の。
状況が飲み込めず辺りを見回すと、ベッドの横に座っていたミクダームと目が合った。
「気分は」
「特に……大丈夫、です」
ミクダームがホッとしたように溜息を吐き、ラーミウの頬に触れる。
その手には包帯が巻かれていた。
「自分を刺そうとしたことを覚えているか」
そう言われ、思い出す。
忘れていたことも全部、何もかも。
ラーミウは震え、泣いた。
「ぼく、ぼくは、汚い。汚くて、使い物にならないから、死にたかった……こ、こんな風に、貴方に触れてもらえるような人間じゃないから」
ミクダームの手を引き離そうとして、その手に触れると握りこまれてしまった。
ダメだと振りほどこうとしてもビクともしない。
「やだ、やめて……ッ」
こぼれ落ちる涙ごと、ミクダームに口付けられる。
驚いて開いてしまった唇を割り開けるように舌が入り込み、言葉も抵抗も何もかも喰らい尽くされるような感覚に陥った。
しばらくの間ずっと口付けられ、ようやく離れた唇が酸素を求めてはくはくと動く。
真っ赤になったラーミウを、ミクダームの真剣な眼差しが射抜いた。
「俺のために生きろ。それも無理なのか」
息が、詰まる。
「貴方は、ぼくが欲しいの? お嬢様ではなく、ぼくが?」
震える声で尋ねると、ミクダームは不思議そうな表情を浮かべた。
「なぜお嬢様が出てくる。どうでもいい男の肌に痕など残さん」
「で、でも……ぼくの名前、お嬢様と音が似ているって……見た目も似ているのでしょう? だから、貴方はぼくをお嬢様の代わりにしているのだと……」
そう言うと、ミクダームは顔を顰めた。
「ラーミウ、俺の光。他の誰でもない、お前が欲しい」
「あぁ……あぁ、ぼくも……ぼくも貴方が、ミクダームが欲しい」
「俺の全てはお前のものだ、ラーミウ」
「ぼくの全ても、貴方のものです。これから先、ずっと」
掴まれていた手に、ミクダームの唇が落ちる。
それから全身で、愛を伝えあった。
ラフィーアを狙っていた男は捕らえられ、関係者諸共に粛清されたらしいとミクダームに教えられた。
クスルームはラーミウに褒美を取らせると言ったが、ラーミウはそれを断った。
ミクダームと共に自由をくれたクスルームに、それ以上のものを貰うのは申し訳がなかった。
ラーミウは髪を切り、すっかり少年の姿になった。
髪と服を整えてくれたニルミーンたちに礼を言い、ラーミウはミクダームの元へと走る。
「変ではないですか?」
「どんな姿でも似合うなと思っていた」
「それなら、良かった……」
手を繋ぎ、顔を見合せて笑う。
こんな日が訪れるとは思ってもみなかった。
こんな幸せが、得られるとは。
行く先は、決めていなかった。
知らない場所へ、行ってみたいと言ったから。
まだ見たことのない世界も、二人でならきっと、素晴らしいに違いないと思った。
[了]