後編
【第八章 ラプラスの悪魔】
「きみ、男の子、きみは算数は好きかね?」
科学者先生が唐突にプレトに訊きました。
「いえ、あの、あまり…」
「では理科は?」
「ええと…算数よりは好き、かな…」
「女の子、きみは?」
「わたしはどっちかというと算数が好きだわ」
「ふむ。まずここに現代の教育の問題が表れているな。算数と理科、つまり数学と科学をな
ぜかは知らんが別個に分けて教えるからこういうことになる。これは科学の健全かつ効率的
な発展の明らかな障害だよ。帰ったら学校の先生に言うといい。いいかね?数学と科学は不
可分のもの、元来分けられるはずのないものなのだ」
首を傾げるミホナとプレトに構う様子もなく、科学者先生は続けました。
「太古の人間が『なぜ昼と夜があるのだろう』『なぜ海の水は塩辛いのだろう』『なぜ空か
ら水が降るのだろう』と、たとえばこのような原初の好奇心、探究心を大自然に向けて以来
、我々人間は『知りたい』と思うモノや出来事をまずよく観察し、その仕組みを想像し、そ
の想像が合っていたかを検証し、そうして確かめた結果を記録し続けてきた。いいかね?『
好奇心もしくは探究心』『観察』『想像』『検証』そして『記録』。科学とは、一言で言え
ばこの一連の流れそのものであり、数学とは『記録』するための『言葉』なのだよ。『数学
』無くしては『科学』は次世代へ継承することは出来ず、また『科学』無しでは『数学』は
ただの小難しい数遊びに過ぎない。まずこれをようく覚えておきたまえ」
(数学は『言葉』…)
(好奇心…知りたいと思う気持ちが科学の入り口…)
ミホナとプレト、それぞれに感ずるところは異なっておりましたが、いずれにしても科学
者先生の言葉は二人の子供の『好奇心』をこれ以上ないほどに惹きつけました。
「太古の昔から現代まで、果てしなく繰り返されてきた『科学』という名の一連の流れと、
『数学』という名の膨大な記録の数々。これらの積み重ねでいまや現代の我々人類は様々な
道具や機械を創り出して大自然のなかで己の居場所を確保し、文明社会を築き、ついにはこ
の大自然そのものや宇宙の仕組みさえをも『数学』という再現可能な『言葉』でもって表す
ことが出来るまでになったのだ。そう、あと一歩で『ラプラスの悪魔』となれるところまで
になったのだ」
「ラプラスの…悪魔?」
科学者先生の言葉はところどころ難しい言葉も多く、ミホナもプレトも何となく分かる程
度にしか理解は出来ませんでしたが、二人の頭のなかには『なんとなく、でいいのです。そ
のほうが不思議をより楽しめるってものです』と、確かにそう言ったキツネの神さまの言葉
が浮かんでおりましたので、いまは何となく分かる程度でもいいんだと、分からないところ
はいつかもっと成長して大人になったら調べてみようと、そう思いながらおりました。けれ
ども、それにしても『ラプラスの悪魔』というのはさすがにすっかりわけの分らない言葉で
したので、二人の子供は思わず呟いておりました。
「そう。十九世紀だから、今から二百年と少し前に、ラプラスという科学者が創りだした空
想の生きものさ。簡単に言えばこいつは、この世界のありとあらゆるものの仕組みを理解し
ていて、従ってどのようなことであってもその過去、現在、そして未来の姿を言い当てるこ
とが出来るという生きものさ。即ち『ラプラスの悪魔』とは、人間の好奇心や探究心の究極
の落ち着き先、人類の夢そのものなのさ」
(すごい!)
プレトは胸がどんどん高鳴るのを抑えることが出来ませんでした。
(この世界の不思議すべてを理解しているなんて!科学って、人間って、本当にすごい!)
けれどもそうしたプレトとは裏腹に、ミホナはいかにも不安そうな声で訊きました。
「悪魔だなんて…ねえ先生、ラプラスという人はなぜ『悪魔』にしたのかしら?」
「さてね。これはわたくしの個人的意見だがね、何もかも知り尽くしたつもりの人間を、と
りわけその中でも自分と同じ科学者への皮肉を込めたのではないかね。『あまりいい気にな
るなよ』とね」
怪訝な顔をするプレトに気付く具合でもなく、科学者先生は言いました。
「ま、正解はラプラス氏に訊かねば分かるまいが、結論からするとこの『悪魔』という言い
回しは極めて言い得て妙だったことになる。なぜなら、最先端の科学が行き着いたこの世界
の真の姿は、まさしく『悪魔』そのもののいい加減で、でたらめで、意地の悪い変てこなも
のだったのだから」
この世界が変てこだという科学者先生の言葉は、もうたくさんの不思議を体験してきたミ
ホナとプレトにとっては、すうっと水の染み渡るように響きました。そう、確かにこの世界
は変てこなのです。
「いいかね、科学には『大きい科学』と『小さい科学』がある。少し粗雑だが、分かり易く
プラモデルに例えてみよう。『大きい科学』はプラモデルの『組み立て説明書を書く作業』
に例えることが出来る。たくさんの部品のうちどれとどれを、どういう順番で組み上げてい
けば何になる、それを『数学』という言葉で指し示すのさ。この『大きい科学』の、特にこ
の約二百年間の急激な発展によって人間は、この地球はおろか大宇宙の仕組み、つまり『組
み立て説明書』をもう少しで書き上げることが出来るくらいにまでなった。もちろんまだ完
全というわけではないが、『ラプラスの悪魔』のように実際我々人間は、太陽の昇る仕組み
から夜の星々の輝く仕組みや動き方まで説明することが出来るし、極めて正確な観測、検証
の結果がその説明は間違いでないことを裏付けている。ちなみに、プラモデルを組み立てる
作業は『文明』という言葉に置き換えることが出来る。まあ、これは余談だがね」
さて、と、ぐいと顔を二人の子供に近づけながら、科学者先生はいよいよぽかぽかの熱を
おびたようになって続けました。
「では『小さい科学』とはなにか。プラモデルでいえばそれは、一つ一つの部品がいったい
何で出来ているのかを遡っていく作業と言える。プラモデルはプラスチックで出来ていて、
プラスチックは主に石油から出来ていて、石油はまた炭素と水素から出来ていて…という具
合にね。そうして『小さい科学』はついにもうこれ以上遡ることが出来ないモノ、つまり万
物の大元となっているモノを見つけたのだ。これを『素粒子』という」
そこまで言うと科学者先生はごそごそと机の引き出しから一本の定規と一枚の紙を取り出
して、押し付けるような勢いでミホナに渡してから言いました。
「きみ、女の子、その定規と紙を使って一ミリの線を引きたまえ」
ミホナが言われた通りしますと、科学者先生は今度はプレトに向かって、ミホナが引いた
線の半分の長さの線を引くよう言いましたが、プレトはすっかり困ってしまいました。あん
まり線が短くて、いったいどこが半分なのかよく見えないのです。
「先生、ぼく出来ません。あんまり短くてどこが半分なのか分からないもの」
「ふふ、そうだろうねえ。つまりいまきみたちは、一ミリを半分にし、それをさらに半分に
しようとしたけれども出来なかったわけだ。いや、なにもきみたちをからかうつもりはない
さ。何度も言うが、からかうなんて時間の浪費以外の何物でもないからねえ。わたくしが伝
えたいのは素粒子がいったいどれほどの小ささかということなのだ。素粒子はね、きみらが
いました作業を少なくとも一千億回以上繰り返したくらいなのさ。少なくとも、だよ」
ミホナもプレトも、紙に引かれた一ミリの線を見詰めて、素粒子の途方もない小ささをせ
めて想像しようとしましたが、あまりの小ささにそれすらも上手く出来ません。科学者先生
はそんな二人の子供をにこりと見守りながら、驚くようなことを言い出したのです。
「さて、話を元に戻して、いよいよ本番といこうじゃないか。さきほど『大きい科学』はこ
の世界のありとあらゆるもの、つまり星や宇宙といった巨大なものから、炭素や水素といっ
た目に見えない小さなものまで、その仕組みや動き方をほぼ解き明かしつつあると言ったが
ね、しかし『大きい科学』が『小さい科学』、つまり『素粒子』と出会ったとき、『大きい
科学』は素粒子に対してもうほとんど通用しないことが分かったのだ!言っている意味が分
かるかね?つまり、素粒子という究極的に小さい物質に対しては、『大きい科学』ではその
仕組みも動き方もまったく予測出来ないということが明らかになったのだよ」
えっ!と二人の子供は弾かれたように線の引かれた紙から顔をあげました。
「『大きい科学』が…通用しない?」
ミホナもそうでしたが、特にプレトは、そう呟いたまま身動きすら出来なくなってしまい
ました。なぜならさきほどまで、科学は、人間は、あともう少しすれば『ラプラスの悪魔』
に、全知全能の生きものにさえなれるとばかりに思っていたからです。
「先生、それは『大きい科学』が実は間違いだったということかしら」
ミホナが訊きますと、先生はいかにも忌々しそうに答えるのでした。
「ふん、そうだったならばどれほど良かったろうねえ。きっと事は極めて単純だったろうな
。なにせ間違いを修正するだけでよいのだから。覚えておきたまえ、この世界の意地悪さを
。だいたい炭素や水素といった元素レベルからそれ以上の大きさの物質に対して『大きい科
学』は極めて正確で、極小の素粒子に対する『小さい科学』もまた極めてよくその性質を説
明できる。問題は、この二つの科学が互いに相容れないものであるということなのだ。どち
らかが間違っているのか、どちらも間違いなのか、それともこの二つの科学を一つに統一で
きるような『第三の科学』が存在するのか、現代の最先端の科学を以ってしても分からない
のだ。これは、およそ我々の常識から遠くかけ離れた素粒子の小ささにひとつの原因がある
。きみ、男の子、我々がモノを見るためには、何が必要かね?」
科学者先生の問いがあまりに唐突でしたので、プレトはええと、ええとと、しばらくうん
うん唸ってからようやく答えました。
「目、ですか…?」
「他には?もっと根本的に必要不可欠のものがあるだろう?」
「…光、かしら?」
「そう!それだ!」
ミホナが小さく呟いたのを、科学者先生は聞き逃しませんでした。
「光だよ。いいかね?光というのは実際、『光子』という粒で出来ている。『光子』も不思
議なモノでね、『粒』でありながら、可視光線とか赤外線とか紫外線とか、波長によって分
類できる『波』でもあるという特殊なモノなのだが、まあこれは話を混乱させるだけだな、
も少し大人になったらきみらが自分たちで勉強すればよいとして、ここでは『粒』として話
を進めよう。さて、『物を見る』という行為は、科学的に言えばこの『光子』を物に当てる
ことに他ならない。『光子』は元素なんかよりもっと、たいそう小さな『粒』だから我々が普段生活するうえで必要とするどのような小さな物に当てても支障はない。ところが、素粒子は違
う。だいたい『素粒子』を卓球の玉だとすれば、『光子』はボウリングの玉くらいに巨大で
かつ重いのだ。ボーリングの玉を卓球の玉に当てるとどうなるか、いくらちっぽけなきみら
の頭でも分かるだろう?そう、卓球の玉はすっかり弾き飛ばされてしまい、元々どの位置に
あって、ゆらゆら転がっていたのか、ぴたりと静止していたのかすら分からなくなってしま
う。つまり、素粒子は見ることが出来ない、『観察』することが出来ないのだよ。我々が観
察しようと光を当てた素粒子は、すでに『光子』によって弾き飛ばされた後の姿だ。元々そ
の素粒子がどこにあって、どのような運動をしていたのか、その情報は『観察』する行為に
よってとてつもなく大きな影響を受けてしまうのだ。このことが意味する重大さは分かるか
ね?」
「先生、それって…確か素粒子は万物の元なのでしょう?ぼくらの体も大宇宙の星々も、等
しく素粒子から出来ているのでしょう?だとすれば…それが『見ることの出来ないもの』な
のだとすれば…」
プレトは言葉にするうちにぞっと背筋に寒気を感ぜずにはおれませんでした。何やらこの
世界も、自分自身でさえも、そのような不可思議なものの固まりである以上、ふわふわして
いかにも頼りなく、ただ偶然の集まりでようやくここにあるような、そのような気がしてく
るのです。
「きみ、男の子、なかなか鋭いじゃないか。ようく要点をおさえている。やはり頭の固い大
人より、子供の直感というのは大した物かも知れんな…。そう、その通りさ。いくら『ラプ
ラスの悪魔』を気取ってみたところで、我々人類はそもそも物質とは何か、その大元につい
て何一つ分かっちゃいないし、それどころか今の最先端の科学を以ってしても、その正しい
姿をあるがままに正しく『観察』することすら出来ていないのさ。もうずいぶんと長い話に
なったがね、わたくしがきみらの問いに『分からない』もしくは『物事がそのように起きた
から』としか答えようがない理由を、分かってもらえたかね」
科学者先生はふとミホナとプレトの後ろ辺りに目を遣って、少しにんまりしてから、再び
二人の子供の目を覗き込むようにじっと見詰めて、ゆっくりとした口調でよく言い聞かせる
ように話を続けました。
「例えば九千億個の『一』と、一個だけの『二』が書かれたルーレットを想像してみたまえ
。きみらが一生をかけてルーレットを回し続けても、一回一回、ルーレットのてっぺんに来
る数字はまず間違いなく『一』だ。そうしてルーレットを回し続けるうちに、人は『このル
ーレットは一しか出ない』と思い込んでしまう。これは極めて非科学的な思い込みで、そし
て危険な考え方でもある。確かに普通、人は壁をすり抜けたりしないし、魚が宇宙を泳ぐこ
ともない。『常識』という、ルーレットで言えば『一』の出目が出続けている状態だ。けれ
ども、だからといって『出目は一しかない』と、そう確実に言い切ることは誰にも出来ない
のだ。人間はね、ぜんたいこの『世界』という名のルーレットの盤面にどの数字が、どの位
置に、どれくらいの割合で配されているかを『観察する』ことすら出来ていないのだ。これ
は、『世界』という名のルーレットには、どんな数字でも『書かれている可能性がある』と
いうことを意味する。即ち、どんなに信じられないようなことであっても、『すべてのこと
は起こり得る』のだ。『そんなことはあり得ない』『馬鹿げている』『信じられない』と、
不思議な出来事が起きたときにそう切って捨てるのは簡単さ。そのほうが難しい事を考えず
に済むから楽だし、安心だって出来る。けれどもそんな具合に切って捨ててばかりいたまえ
、『好奇心』や『探究心』という、人間が人間たる所以ともいえる崇高な感情はいつか消え
てなくなってしまうではないか。『もしかしたら』と柔軟に考えられる心の豊かさは消えて
なくなってしまうではないか。わたくしがこのしまにいる理由、わたくしというこのうえな
く偉大な科学者がこのしまに存在する意義と言い換えてもよいが、それはね、このしまがど
うやらルーレットで言えば『二の出目』、普通では起こり得ない『不思議』が、日頃の鬱憤
を晴らすかのごとく、ここぞとばかりに集中して起きる場所だからなのだ。わたくしは『不
思議』を純粋に『不思議なこと』と捉え、科学者として『分からない』と胸を張り、そうし
て『理解したい』の一念で研究を続けるのさ。後ろを見てみたまえ」
ミホナとプレトは同時に振り返って、あっと、これもまた同時に声をあげておりました。
二人の後ろにあったはずの黒板が掛かった壁はすっかり消え、かわりにそこには茜色に染ま
る夕陽に照らされた一本の林道が姿を現していたのです。
「ふふふ、驚いてるね。わたくしにも『分からない』よ。けれど研究対象がまたひとつ増え
たことは確かだ」
科学者先生は愉快そうに笑った後、真顔になって二人の子供を見詰めました。その表情は
、ミホナとプレトを子供としてではなく、対等な人間同士として見詰めるものでした。
「いいかね、人間にとって、正しく科学的に物事を捉えることは、実はひどく困難なことな
のだ。科学的な物の見方とは何か?即ち、勝手な思い込みや、根拠のない常識や、人の意見
に安易に流されることなく、自らの目と耳と頭を使って中立的に物事を捉える見識を持つと
いうことだ。『もしかしたら』という意識を常に持つということだ。ある物事に対して、お
よそ人間というやつは自分の納得いく常識だけを当てはめようとしがちだ。そして安易に人
の意見や世間の風潮というやつに流され、自分の目や耳で確かめもせず、考えもせずに物事
を判断してしまう。けれどもよく覚えておきたまえ。およそ過去から現在までの戦争という
戦争は、そうした偏見や根拠のない思い込みや社会の雰囲気に安易に流されたことが原因で
起きているのだ。そう、科学的な物の見方とはなにも科学者だけに求められることではなく
、全ての人が本来持ち合わせていなければならないものなのだ。物事を偏ることなく純粋に
あるがままにまず捉え、自らが確かめ、考え、そうして常に『もしかしたら』という疑問の
種を心のなかで撒き続けたまえ。忘れてはならんよ、決してね」
科学者先生の言葉は相変わらず難しくて、けれども心の奥のほうで何やらずしりと響く余
韻を二人の子供は感じておりました。そして同時に、その言葉の響きがキツネの神さまのお
別れの言葉と同じような、段々すうっと遠退いていくようにも感ぜられたのです。
「科学者先生?ねえ、まさかこれでお別れなんて仰らないでしょう?」
ミホナの言葉に、けれども科学者先生はやはりその姿さえもぐんぐん薄れさせながら応え
ました。
「ははは。ああ、やっと研究に戻ることが出来るというものだ。愉快、愉快。ささ、早く行
ってしまいたまえ。さようなら、御機嫌よう!」
「先生!ぼくはまだ先生にたくさん教わりたいことが…!」
そうプレトが叫んだとき、すでに科学者先生のほっそり背の高い姿は、深い霧の向こうの
、微かなひとつの光源のようにしか見えなくなっておりました。
「…正しく見る目を、忘れてはならんよ…」
ふいに柔らかな風が吹き、その風はふうっとその光源を吹き消して、かわりに微かな微か
な科学者先生の呟きを運んで、そうしてどこかへと吹き去ってゆきました。
【第九章 永遠の茜】
科学者先生があんまり凛として、いかにもしっかり自信と知性を漲らせておりましたので
、そんな科学者先生がいなくなってみますと、二人の子供は途端に何やらつっかえ棒を急に
外されたような、そんな心許なく不安な気持ちとなっておりました。ふわふわと二人ぼっち
でこのしまを右へ左へ、波に任せて漂っているようなそんな二人でしたが、けれども一方で
二人が足跡を刻み続ける林道そのものは、ふわふわの落ち葉や湿った土の替わりに次第に小
さな石ころや砂利やらが目立つようになり、ついにはあれほどびっしり生え囲んでいた大き
く太い木々はすっかり姿を消してしまい、今はいかにもしっかりした大きな岩に囲まれた道
となって、それはもはや林道とは呼べない、岩の狭間の一本道となっておりました。道は次
第に登り坂が続くようになり、大きな岩しか見えないその道を登って登って、二人の息がぜ
いぜい苦しげなものとなり始めたそのとき、ふいに目の前がぱあっと開け、そうしてミホナ
とプレトが目にしたのは、驚くことに辺りいちめんの大海原だったのです。
「まあ…これって、どういうことかしら…?」
「おかしいね。ぼくらはずっと登り坂を登ってきたはずなのに、海なんて…。でもミホちゃ
ん、ここはぼくらが最初に見たあの砂浜とはずいぶん景色が違うねえ」
「本当、ごつごつ大きな岩だらけ…岩づたいに歩いては行けそうだけれど…ねえプレちゃん
、わたし実はさっきから空が変に茜色の増しているようで、とても気になるの」
不安げに空を見るミホナに言われてプレトも見上げますと、確かにそれは科学者先生との
お別れのときとくらべて、まるで乱暴に幾度もあちこち油彩絵具の茜色を上塗りしたような
、なんとも言えない不気味な色をしております。プレトは思わずぞくりとするのでした。
「本当だ。日暮れてしまうようでもないし、いったいこの色は何だろう…おや?」
プレトはもう少し岩づたいに歩いた辺りに、ぽかりと洞穴らしきものがあるのに気付きま
した。
「ミホちゃん、ほら、少し先に洞穴みたいなものが見える。ねえ、頑張ってあそこへ行って
みよう。そう遠くはなさそうだし、うまい具合に少し高台にあるようだから、きっと雨や波
しぶきなぞもしのげるよ」
そうして二人が洞穴にたどり着いてみますと、そこは地面もほんのり温かく柔らかな砂地
になっていて、また奥は二人が十分寝転べるほどの広さもあり、遠目で見たよりはるかに過
ごしやすい洞穴であることが分かりました。
「ああ、よかった!ねえ、プレちゃん、ここはとても具合のいい洞穴ね。わたしもうすっか
り安心できるわ」
さほど奥まってもいない洞穴の奥まで行ってから嬉しそうにプレトを振り返ったミホナは
、次の瞬間、もう息の止まるほどの恐怖で叫び声すら出すことが出来ませんでした。プレト
のすぐ後ろに、ひどくやつれて両目をぎょろりと妙に光らせた、ぼろぼろの服に身を包んだ
男の人が立っているのです。ミホナの視線を追って振り返ったプレトが、あまりの恐ろしさ
に思わずすとんとその場に座り込んでしまったのと同時に、ひどくしわがれてお腹の底に入
り込むような、低い低い男の人の声が洞穴に響きました。
「日本人か…?」
ミホナもプレトも、もうすっかり恐ろしくて息をすることすら出来ません。そしてまた男
の人の声はどこかすがりつくような必死の響きさえ帯びておりましたので、それが二人の子
供をなおいっそう怯えさせました。
「日本人なのだろう?そう、俺には確かにきみたちが日本の言葉を話していたのが聞こえた
のだ」
そろりそろりと後ずさりしながら互いに身を寄せ合う二人の子供の怯えた目を見詰め、少
し考える素振りをしてから、男の人は低くて必死の声もそのままに、唐突に歌うのでした。
「…君が代は、千代に八千代に、さざれ石の…」
そうして途中で歌うのをぴたりとやめ、男の人は二人をまたすがるように見詰めるのです
。
「…岩音なりて…」
小さく小さく、ミホナが呟きました。男の人はたいそう恐ろしげでしたが、けれどもよく
見るともうほんとうに物悲しい目をしていて、ミホナはその目をなんとかしてあげたいと、
そのように思ったのです。
「苔の生すまで!ああ、ああ、日本人だ!日本の子供だ!」
ミホナの呟きを聴いた途端、あんなに恐ろしかった男の人の顔がもうすっかり力の抜けた
ようになって、そしてさっきまでぎょろりと不気味な光を放ってばかりいた両目から、大粒
の涙が堰を切るように次から次へ、ぼろぼろぼろぼろ流れ出しました。
「男の子はすっかり日焼けして、女の子は透き通るように真っ白で、そして二人とも、もう
まったく健やかじゃないか!時代の遷ろいは知ってはいたが、けれどこうして後世の子供た
ちに出会えようとは、思ってもいなかった…到底叶わぬ夢だと思っていた…」
「あの…あなたはいったい…?」
大人の男の人の涙を初めて見た驚きで、ようやく恐ろしさから解き放たれたプレトが、男
の人に訊きました。男の人は涙で濡れた顔を乱暴にも思える仕草で、ごしごししてから答え
ました。
「おれは、おれは大日本帝国陸軍上等兵、松原だ」
ミホナもプレトも、またもやってきた不思議の出会いにぽかんとするしかありませんでし
た。
「あの…大日本帝国って…陸軍…?上等兵…?」
すっかり戸惑って訊き返すミホナの言葉が聞こえているのかいないのか、松原上等兵はま
だすっかり熱に浮かされた様子で独り言のように話し続けるのでした。
「一度でいい、後世の人間と話したい。そればかりを願ってきた。己の罪深さを想えば、そ
も願い事なぞ抱いて良いはずもなかろうと諦めてもいた。だが何てことだ、願いは叶った。
そうしてひと度叶ってみれば、なにをどこから話してよいか見当すらつかん…だがおれはよ
ほどしっかりしなければ。やっと伝えられるのだから。しっかりしなければ…」
ミホナもプレトもそんな男の人、松原上等兵の様子を黙って見詰めるしかなく、長い長い
沈黙が、外の妙に濃すぎる茜色に照らされた洞穴に流れました。松原上等兵のうつむいた肩
越しにのぞく茜の空は、いつまで経っても茜の空で、いったいこの空はいつになったら暮れ
るのだろうと、そう二人の子供が思い始めたとき、ようやく松原上等兵はすっかり心のなか
で覚悟を決めたような顔つきで口を開きました。けれどもそこから出てきた言葉は、二人を
もうすっかり唖然とさせてしまうものでした。
「おれは戦死者だ。第二次世界大戦の、大東亜戦争の、戦死者だ」
「…え…?でも松原さん、いえ松原上等兵さんは、確かにわたしたちの目の前にいるじゃな
い?戦死者って…どういうこと?」
ミホナがすっかり訳の分からない顔で訊きますと、松原上等兵は少し淋しそうに笑って答
えるのでした。
「『松原さん』でいいよ。とうの昔にあの戦争は終わったのだから。帝国陸軍なぞもうどこ
にもないのだから。なあ、目の前に見えているからといって、必ずしも生きているとは限ら
んだろう?有り体に言えば、おれは幽霊さ。おれはもうずっと、六十年以上も昔に死んだ人
間なのさ。おれは、おれの身体が爆弾で微塵と散らばった瞬間を、はっきりと覚えているよ
。ああ、忘れるものか」
「でも、でも、松原さんはここにこうしているじゃないですか!体だって実際ぼくたちの目
の前にあるじゃないですか!」
プレトは松原上等兵がすっかり自分たちをからかっているようにしか思えませんでした。
色々不思議を体験してきたけれども、いくらなんでも六十年以上も昔に死んだ人が、幽霊が
、こんなにあっけなく現れるなんて、しかも自分で『幽霊さ』なんて、悪い冗談にしか思え
ません。そしてそのような冗談は、本当の戦死者の方々に対してこれ以上ないくらいにひど
いことに違いありません。プレトは憤る心を抑えきれずに言い放ちました。けれども松原上
等兵は変わらず淋しげな笑みを浮かべながら言うのでした。
「別に信じたくなければ信じなくともいいさ。おれは自分が死んだことを、幽霊となったこ
とを伝えたくてここにこうしているわけじゃないのだから。瑣末なことだ。どうでもいいこ
とだよ」
「どうでもよくなんかないわ!」
ミホナもやはりプレトと同じように憤って言い放ちました。
「人が死んだことを『どうでもいい』なんて、いけないわ!ねえ、松原さん、お願いだから
変なことを言うのはよして。そうでないと、わたしきっとあなたを嫌いになってしまうから
…」
「なあ、無理を言わないでくれ。逆に訊くが、ではきみたちはおれがどういう姿なら、どう
すれば、おれが幽霊だということを納得するのだ?いかにも恐ろしげに白い着物でも着て、
ゆらゆら現れたり消えたりすれば納得するのか?おれだって、死んでから分かったのさ。思
い知らされたのさ。戦争で死ぬ瞬間の絶望と、後悔と、体の痛みは、死んでからもその瞬間
のままに未来永劫続いていくということを。すべて戦争で死んだ人間は、未来永劫、互いに
出会うこともなく、慰めあうこともなく、独りぼっちの巨大な集合体となって、この血の色
を映した茜の空の海岸に吹き溜まり、各々の死の瞬間の姿を、ただひたすらに繰り返し繰り
返しするしかないということを…」
「なんて、なんて残酷なことを…!」
そう言い返そうとしたプレトの肩を、けれどもミホナがふいにそっと抑えました。ミホナ
の視線を追ってプレトが目にしたものは、さきほどと同じように淋しく笑みを浮かべながら
、けれどもまた新たに、ぼろぼろぼろぼろと、松原上等兵の流し始めた大粒の涙でした。
「科学者先生が仰っていたわ。『この世界で起こり得ないことなぞない』って…。ねえ、プ
レちゃん、わたし、松原さんのあんなに大きな涙が嘘だとは思えないわ。そうだとしたら…
残酷なことを言っているのは、わたしたちのほうだわ。ずっとずっと死を繰り返して、つら
い苦しい思いをし続けている松原さんを、嘘つきって言い張って…けれど松原さんが嘘つき
だっていう証拠なんて、どこにもないわ」
「…そうだ。嘘つきだっていう証拠なんてないかわりに、嘘つきじゃないって証拠はぼくに
もいまはっきり見える…あんなに悲しそうな涙を、ぼくは見たことがないもの」
ミホナとプレトのそう言い合うのを聴いて、松原上等兵は、けれども信じてもらえたこと
なぞどうでもよいことのように涙を流し続けながら、二人を手招きするのでした。
「おれには見えないが、きみらには見えるかもしれない。おれにはただそう感ぜられるだけ
だが、きみらにはきっと見えるだろう。こちらへ来て、この大海原に目を凝らしてごらん」
ミホナとプレトは立ち上がり、松原上等兵のすぐ横に並んで、指差す洞穴の外、茜色に染
められた海に目を凝らしました。すると、今まで少しも見えなかった、白くかすんで霧のよ
うな無数の影が海の上に浮かび、それらはやがて寂しげに肩を落として蹲る無数の人の形を
とりはじめたのです。
「見えるかい?」
「はい…たくさんの、たくさんの人が…」
「軍服の人ばかりじゃないわ…小さな子供や女の人もいる…金髪をした外国の人もたくさん
、たくさんいるわ…」
「そうだろう…みんなおれと同じ、『戦争で死んだ人』だよ」
「こんなに広い大海原なのに、どんどん人で埋め尽くされていくわ…わたし、もう見てはい
られない…こんなに途方もない数の人が、みんな戦争の犠牲者だなんて…」
「ぼくはこの景色を忘れることはないと誓う。忘れてはいけないことなんだ。こんなに、夜
の星よりもっとはるかにたくさんの『尊い犠牲者』がいる景色を、どうして忘れられるもの
か」
プレトは心底から戦争を憎みました。学校の先生は『戦争はいまも世界中で起きている』
ことを教えてくださいましたが、どんどん増え続けるばかりの寂しい無数の人影を見て、そ
の言葉の意味がやっと分かったように思うのでした。
「『尊い犠牲者』か…。その言葉は誰に教わったのだい?」
松原上等兵は二人の子供に座るように促してから、プレトに訊きました。
「お父さんやお母さんです。学校の先生からも教わりましたし、テレビに出ている人や政治
家の人も、みんなみんなそう仰ってます。戦争で犠牲となった尊い生命を忘れてはいけない
って…」
「間違ってる」
松原上等兵の言葉が、鋭く冷たい響きでプレトの言葉を断ち切るように遮りました。
「…え?」
「…松原さん?何が間違ってるの?まさかプレちゃんの言うことが間違いだなんて仰らない
でしょう?」
「そのまさかだ。きみの教わったことは、間違ってる」
「…どういう…意味ですか…?」
松原上等兵の言葉はいよいよ冷たく響き、二つの目は抑え切れない身の内から湧き出る怒
りをうつして、いまや爛々と光を放ち、その光の鋭さにプレトは声の震えるのを抑えること
が出来ませんでした。そうしてまたミホナが腕を絡ませてきて、その腕が同じようにぶるぶ
る得体の知れない恐ろしさに震えているのもはっきり感ぜられました。
「『尊い犠牲』…そんな間違った捉え方をしているから、この世界から戦争がなくならない
のだ」
松原上等兵は一言一言かみしめるように、話し始めました。
「過去の戦争の『尊い』犠牲者のおかげで、いまの平和がある。人はみんなそう考える。学
校でもそう教えるし、政治家もそう言う。実際おれだってそう教わっていた。しかし本当に
そうか?戦争は平和を生むのか?ぜんたい『尊い犠牲』とは、誰にとってどう尊いのだ?」
おれはな、と松原上等兵は続けました。
「あの戦争が始まったとき、結婚していて、ちょうどきみたちくらいの息子がひとりいた。
幸せだった。妻と息子はおれのすべてだった。だからおれは思った。妻と息子を守るために
死のうと。妻と息子の暮らすこの国のために死のうと。死した後も『英霊』となって家族と
国を守ってみせると、そう思った。おれだけじゃない。みんなそうだったのさ。『一億総特
攻!一億総玉砕!家族のため、国のために死なん!死して英霊となって靖国の御社に集い、
御国の為の人柱とあらん!』…誓って言うぞ。靖国神社になぞ誰一人いるものか。見るがい
い、この声なき嘆きに埋め尽くされた大海原を!」
松原上等兵の言葉はいよいよ冷たく、鋭く、えぐるような響きを帯びておりました。
「『無駄死に』なのだ!『英霊』も『神風』も、みんな嘘っぱちだ。死んで何かが守れるも
のか!己が生きてこその『家族』であり、『故郷』であり、『国』なのだ。そう、おれの死
は『家族』にとって、『故郷』にとって、『国』にとって、まったくの『無駄死に』なのさ
!」
「そんな、そんなことってないわ!ではすべてあの戦争で亡くなった方々は、軍人さんだけ
でなく普通の市民の方々は、そう、松原さん、あなたも、いったい何のためにつらい、苦し
い死を迎えたと言うの?そんなすべてが『無駄死に』だと仰るの?わたし、そんな仰り方は
あんまりだと思うわ。だって、そういう『尊い犠牲者』のお話しを聞く度にわたし、ほんと
うに、ほんとうに、戦争はいけないことだって、そう思うもの!」
「そうだろうさ。けれどもそう『思わせる』だけだ。『尊い犠牲』という考え方では、戦争
をいけないものと思わせるだけで、実際に戦争を永遠に放棄する行動とは結びつきはしない
のだ」
「…いったいどういうことですか?ぼくにはまったく正しい考え方としか思えません」
「子供たちよ、よくお聞き。恐らくおれはこれから話すことをきみたちに伝えるために、い
まこうして生前の姿できみたちの前にいるのだから。ずっとずっと伝えたいと思っていた。
願っていた。神か仏か、何の因果かは分からぬが、その願いは叶いつつある。けれどもそれ
ほど長い時間を許されているはずもなかろう。きっともうすぐおれはまた元の通り、あの海
辺に吹き寄せられる人影のひとつとなって、死の苦しみと、痛さと、後悔の未来永劫の繰り
返しのなかに戻らねばならない。己のしたことを考えれば、当然の報いさ。だが、そうなる
まえに、どうしても伝えたいのだ。どうかよく、心でおれの言うことを聞いてくれ。そのま
だ小さく幼い心に確かに刻んでくれ」
松原上等兵の冷たく響いていた声音は、いまはゆっくり諭すかのような穏やかなものとな
っておりました。
「いいかい。戦争を平和の礎とみなすこと、戦争の犠牲者を『尊い犠牲』とみなすことは、
いちばん安易で楽なことなのだ。仮に戦争が平和を生み出すというのなら、いまも続くこの
戦争だらけの世界をどう説明するのだ?戦争が平和を生み出すかわりに、平和は戦争を生み
出すとでも言うのかい?冷静になって考えてみれば、それは明らかにおかしいじゃないか」
一語一語を噛みしめるように松原上等兵は言うのでした。
「おれの妻や息子や父さん、母さんにとって、おれの死が『無駄死に』だという事実を受け
容れるのは、これ以上ないくらいに難しいことだろう。墓を作り、そこにおれが安らかに永
遠に眠っていると思えば、どんなに気が休まることだろう。その気持ちは痛いほど分かる。
けれど、事実はそうではない。おれは家族や親を見守ることなぞ出来ないばかりか、極楽で
もなく、地獄でもなく、ただ虚しいだけのこの海辺で、死んだまさにあのときとまったく同
じの、血の色をした茜の空をながめ、嘆き続けることしか出来ない。戦友と死して語らうこ
とも、幾千万の祈りに慰められることもなく、ただ独り寂しく身体を丸め、死の恐怖と後悔
と、体の痛みを受け止め続けることしか出来ないのだ。それでもなおおれの死が尊いものだ
というのなら、平和の礎だというのなら、おれが南京で殺した大勢の中国人、朝鮮人や、米
兵の死はどうなる?彼ら自身だけではなく、彼らの家族も、故郷も、国の平和も奪い去った
事実はどう取り繕う?おれが『尊い犠牲者』ならば、おれが殺した大勢の兵士や女、子供は
死んで当然の無意味な存在か?それをきみたちは許すのか?この巨大に虚しい矛盾を、どう
説明するというのだ?取り繕うというのだ?出来るはずもなかろう」
ミホナもプレトも、もう胸が張り裂けそうにぎりぎりと痛みました。耳ではなく、心それ
自体がもう聞きたくないと、そう叫んでいるように思えました。けれども、松原上等兵の言
葉は、そんな二人の心を射抜くかのように鋭く入り込んでくるのです。
「真実はたったひとつだ。すべて戦争で死んだ者の死は『虚しい』のだ。『意味なぞない』
のだ。『無駄死に』なのだ。戦争に勝った国の戦死者も、負けた国の戦死者も、巻き添えを
くって侵略された国の戦死者も、すべての死が『無駄死に』なのだ。対話する努力からも、
逡巡や躊躇いからも目を逸らし、『殺さなければ殺される』と、そうしたもっともらしい言
い訳を心に繰り返し、出会ったその瞬間にただ相手を殺すことのみを考える。おれたちは、
なんと下等な生きものか。細菌なぞよりもっともっと性質が悪い。なぜならやつらは『喰う
』ために殺すからだ。殺すなら喰らう、喰らわぬなら殺さず。人間以外の生きものはみんな
そうさ。自分の生命の糧とするためにのみ殺す。それにひきかえ、おれたちはどうだ?人種
、宗教、政治形態なぞといった、一見意味ありげに見せながら、実際は、生きものとしての
避けられない『業』とはまったく遠い無縁なもののために無駄に殺戮しあう。戦争と比べれ
ば、飢えを癒すための人間同士の共喰いのほうがはるかに意味がある。戦争とはそういうも
のだ。あらゆる生きもののなかで最も下等なふるまい。一片の意義もなく完全に『無意味』
な行い。途方もない『無駄死に』しか生み出すことのない行いなのだ」
「もうやめて!」
ミホナが泣き叫びました。
日本人だけではなく、いわれもなく日本人に殺された、中国や朝鮮やその他の国の人々の
死さえ『無駄死に』だと松原上等兵は言うのです。そのような酷いことをどうして言えるで
しょう。あまりに身勝手で、残酷なことをなぜこんなにも冷たく言い放てるのでしょう。ミ
ホナの心は悲鳴をあげておりました。プレトの顔はもう完全に血の気を失っておりました。
けれども、そんな二人の子供に、松原上等兵はさらに言うのでした。
「自分の子供や、親や、夫や、妻や、友の死を悼む気持ちはよく分かる。それが『悪』であ
るとは決して言うまい。だが、戦死者を悼むことと、戦争を反省することは、つながるよう
に見えて実は逆なのだ。真逆なのだ。人が戦死者を悼むとき、その心の奥底には、意識しよ
うとしまいと、『戦死させた者』に対する黒い感情が同時に芽生えてしまう。憎しみ、怒り
、恨み、偽りの無関心、装われた謝罪…それら黒い感情こそが、新たな戦争の種となるのだ
。戦死者に対する哀悼を、戦争に対する反省と混同し続ける限り、戦争は必ず再び起こる。
戦死者を『尊い犠牲』とみなし続ける限り、新たな戦死者は必ず生まれる。克服するのだ。
憎しみを、怒りを、恨みを、克服するべく努め続けるのだ。心に湧き起こる、認めるにはあ
まりに酷く、哀しく、虚しい真実と正面から向き合うのだ。尊い戦死者なぞあり得ない。戦
争は何も生み出しはしない。さも何かしら意義のあるように見せかけながら、途方もない数
の無駄死にを残していくだけなのだ。こう言うおれを人々は、ことにおれに殺された者とそ
の子らは、何を身勝手なと罵り、唾を吐きかけることだろう。おれはそれを避けない。避け
る資格はない。だが、そうしたうえでなお、おれは言う。すべての戦死者は『無駄死に』な
のだ」
洞穴の壁がふいに強く、赤く染められました。松原上等兵の振り返るのとあわせてミホナ
とプレトも洞穴の外に目をやりますと、海辺を染める茜色の空はいよいよ真っ赤に染まり、
それはまさしく不気味に濃い血の色にしか二人には思えませんでした。
「おれに許された時間はもう少ない…」
松原上等兵は呟きました。
「おれの言うことが、人間にとってひどく困難なことはよく分かっている。だが覚えておい
てくれ。戦争が始まろうとしていたあの頃、戦争の真の姿にいち早く気付き、理解し、反対
の声をあげる人々は、少ないけれど確かにいた。そういう人は『非国民』と罵られ、ひどい
仕打ちを受けた。おれもそういう人々を罵った。腰抜けだと嗤い、差別した。殴りもした。
しかしいまは思う。あの人たちは『非国民』だったけれど、『人間』だった。おれたちより
はるかに気高く、勇気を持った人間だった。けれど…そういう人々さえ、おれと同じように
この海辺に吹き寄せられ、嘆き続けている…。そう、戦争はいったん始まってしまえば、そ
ういう気高い人々の、真実の人間の死さえも無駄死ににしてしまう。けれど、それでもいま
おれは思う。同じ死ぬなら、そういう人々と共に死にたかった。戦争を起こす前に、戦争を
防ぐために、生命を散らしたかった。少なくともあの人々は、生命を賭けるべき時と場所を
理解していた。同じく死して永劫に嘆き続けるにしても、巨大な虚しさに呑まれるとしても
、真に意義ある声をあげながら死んだあの人々と共に嘆きたかった。呑まれたかった…。け
れどもう遅い。おれはこれからもここで、独りで、後悔し続け、苦しみ続けるしかない…。
後世の、平和の時代の愛すべき子供らよ、どうかおれのために祈らないでくれ。おれの冥福
を願わないでくれ。そんなことは無駄だから。ただおれの話した言葉を、ありのままに覚え
ておいてくれ。そして成長していつの日か、憎しみと哀しみを堪え、つらく苦しい覚悟と向
き合い、人間がずっと繰り返し続けてきた過ちの鎖を断ち切ってくれ」
そう言うと、松原上等兵は立ち上がり、洞穴の入り口へと歩き出しました。後を追おうと
ミホナもプレトも立ち上がろうとして、そしていつの間にか自分たちの体が、なにかに縛ら
れたようにもうまったく動けなくなっているのに気付きました。そう、一言の声さえ発する
ことも出来ないのです。松原上等兵はそんな二人を振り返ることなく、けれども洞穴のすぐ
外のあたりで立ち止まり、背中で最後の言葉を発したのでした。
「親を疑え。子を疑え。もし彼らが戦争を、即ち人殺しを是とするなら。世間を疑え。歴史
を疑え。もしそれらが戦争を、平和の糧とか犠牲とか、そんな言葉で伝えるならば。神を疑
え。言葉を疑え。もしそれらが戦争を、正義や権利で飾るなら。愛を疑え。幸を疑え。もし
それらが見も知らぬ、他人の血の上に輝くならば。殴られ、蹴られ、罵られ、軽蔑されて嘲
られ、臆病者で腰抜けで、非国民だと呪われようと、顔をあげ、堂々胸を張れ。膝つきおも
ねり流るより、燦然とひかる孤独を歩め…子供らよ、きっと、託したぞ」
ざざっと、強くて冷たい風が洞穴のなかに吹き入りました。細かな砂や砂利さえもが容赦
ないほど二人の子供の顔を打ち、ぎゅっとつむった目をようやく二人が開けたとき、そこに
は松原上等兵の姿も、洞穴も海辺もすっかり失われ、かわりに空には星々が輝き、また大き
く青白い月さえ浮かび、辺りはいちめん、水色の花に埋め尽くされた、広大な夜の野原とな
っておりました。
【第十章 ものがたり】
無数に水色の花が大きな月にほの明るく照らされている野原は、それはもう夢のような景
色で、まるで夜空の星々がそのまま地上に引っ越してきたように素適なものでした。けれど
も、ミホナもプレトもぽつんと膝を抱えて座ったまま、一言の言葉さえ交わさぬままでずっ
とたたずんでおりました。二人の子供の心のなかは、松原上等兵と、海辺に浮かんだ無数の
寂しい人影のことでいっぱいでした。よく理解するにはとてもとても難しいけれど、それで
もこのうえなく大切な何かを松原上等兵は二人に託していきました。その託されたものをこ
れからどのように心のなかに育んでゆけばよいのか、そのことばかりを二人の子供はそれぞ
れ考え込んでおりました。
そんな具合でしたから、後ろからさらさらと静かな足音が近づいてくるのに二人が気付い
たのは、もうすっかり足音がすぐ後ろまで来たあとのことでした。慌てて振り返った二人の
目の前には、しわくちゃだけれどもなんとも優しい顔つきをした、ミホナやプレトと同じく
らいの背丈の、けれどもいかにもがっしりと丈夫そうな、長くて真っ白なひげをはやした一
人のおじいさんが、大きな大きな、水色の野原の花をたくさん詰め込んだ籐の籠を片手に立
っておりました。
「おやおや…今夜は『わすれなぐさ』のあんまりひかるので来てみれば、何とも久しぶりの
小さなお客さんのようじゃの」
おじいさんの声はその表情と同じ、とても優しくて深みのあるものでした。
「それにどうやらこのお客さんは、なんとも哀しそうな目をしておるじゃないか…。どうか
ね、小さなお客さん、こんなじじいでよければ、どうしてこんな野原の真ん中で、しかもた
いそうきれいに月に照らされておるなかでそんな哀しい目をしておるのか、わけを話してみ
てはくれんかの」
そう言っておじいさんは花籠を大切そうにそっと地面に置くと、ミホナとプレトの隣にゆ
っくりと腰をおろすのでした。
「『わすれなぐさ』…?」
ミホナが訊きますと、おじいさんはにっこり笑って答えました。
「そう、『勿忘草』。ほれ、もう見渡す限り咲いておるこの花、わしのこの籠にたくさん詰
まった花の名前じゃよ。勿忘草は初めてかね?この野原は、夜になるとこうして星の数ほど
の勿忘草が咲くのじゃよ。ま、ここの勿忘草は他のよりちいとばかり水色が薄くて透明がか
っておるからの、勿忘草を知っておる人も、もしかするとそれと気付かんかもしれんがのう
」
そうして静かに笑うおじいさんに、ミホナもプレトもようやく心の安らぐ思いでしたが、
すると何やら今までぴんと張り詰めていた心の糸がぷつりと切れたようになって、もう二人
してくたりと肩を落としてしまうのでした。
「おやおや、どうやら小さなお客さんには、いまはお話しよりもあったかいスープとベッド
のほうがよほど大事とみえる。どれ…」
まるでミホナとプレトの心がすっかり見えているようにおじいさんはそう言うと、籐の花
籠を大切そうに手にとってゆっくりと立ち上がりました。
「さあ、もうほんの少しだけ元気を出して立ち上がるといい。わしの家においで。ひなた草
のスープでもこさえてあげよう。そしたらほかほかのやわらかいベッドで一眠りするといい
。なに、ほんのすぐそこじゃて。ほれ」
おじいさんがそう言い終えますと、おじいさんのすぐ後ろからぼんやり白い影が浮かび、
それはみるみるうちに形を成して、やがて小さな茅葺きの小屋が現れたのでした。その小屋
はちょうどこのしまに来るときの船の船室ほどに小さい小屋でしたが、入り口の木戸の丸い
窓から漏れる明かりが、暖かい春の夕暮れそのもののように思え、ミホナとプレトは折れそ
うになる心を懸命に奮わせて立ち上がり、おじいさんに続いて小屋のなかへと入りました。
そうして足を踏み入れた小屋のなかには小さな台所と、ミホナとプレトの二人が並んで眠れ
るくらいの木で出来たベッドと、そしてひとつおかしなことに、あの船の炭火の鍋と同じよ
うに、けれども大分底の浅くて鍋口の広い大きな鉄の鍋が部屋の真ん中に置かれてあって、
そこではなにやらとてもよい匂いのするものがぽつぽつぽつぽつと煮込まれておりました。
小屋のなかはこの鍋から立ち昇る湯気でとても暖かく、二人の子供の目はもうすぐにとろん
としてしまうのでした。
「これこれ、も少しだけ寝るのはお待ち。疲れておるのに何も食べずに眠ってはいかんよ」
そう言っておじいさんは二人をベッドの端っこに座らせると、小さな台所で湯を沸かした
り、なにやらよい匂いのする草を刻んだりして、本当にあっという間で、とても香ばしく少
しとろみがあって、うすいみかん色をしたスープをこさえてくれました。
「ああ、なんていい香りなのかしら」
「ほんとうだね。焼きたてのお芋に似た甘い匂いだ」
「さあ、おあがり。ひなた草はお陽さまのひかりを夕暮れどきに少しずつ取り込みながら育
つ草じゃての、スープに出来るほど育ったものは、それはそれはじんわり体の奥まで元気が
染み込むものじゃよ。たんと食べて、あとはゆっくり眠るとええ」
ミホナとプレトはごくりと大きく喉を鳴らしてから、スープをすくって食べました。する
とおじいさんの言う通り、体の奥の奥のほうからじんわりほかほかと暖かくなって、少しぬ
るめのお風呂に存分に浸かったときのように、心と体の強張りがすっと解けて、なんとも心
地良いのです。
「ああ。おじいさん、こんなに素適なスープをありがとう。わたし、ミホナといいます」
「ぼくはプレトといいます。ぼく、ひなた草という名前は初めてです」
「ふふふ。食べ物をおいしく食べることは、それはたいそう幸せなことじゃて、喜んでくれ
てわしも嬉しいよ。ひなた草はの、このしまの松の林の陰あたりでよう咲いておる。明日、
目が覚めたら案内してあげるから、今日はもうぐっすり眠るとええ」
「ありがとう、おじいさん。わたしもうすっかり眠くなってしまったわ…けれどおじいさん
、わたしたちがベッドを使ってしまったら、おじいさんはどこで眠るの?」
「やさしい子供たち、わしのことなら心配せんでええよ。わしには二人、弟がおるでの、今
夜はどちらかの弟の小屋で眠るから。さ、ゆっくりお眠り。朝になったら、今度は『鳴きい
も』あたりをほくほくにふかして、わしと三人で朝ごはんとしよう。朝の『鳴きいも』はま
た格別じゃて」
そう言っておじいさんは部屋の真ん中の鍋の火をふうっと消して、ごつごつたくましい手
をひらひら振りながら、おやすみと言って小屋から出て行きました。
「ミホちゃん、あのひなた草のスープ、とてもおいしかったねえ」
「ほんとう。どんな草かしら。それに『鳴きいも』なんて、なんだかおかしい名前ね」
「お芋が鳴くのかな。ぼく笑ってしまいそうだ」
そんなやりとりをするうちに、二人の子供はいつしかぐっすりと、深くて安らかな眠りに
落ちておりました。
『ぴい、ぴい』
ひよどりの鳴き声のような音に気付いて先に目を覚ましたのはミホナでした。音のするほ
うを見ますと、昨晩のおじいさんが台所に立つ背中が見えました。ミホナはまだぐっすり眠
っているプレトを起こさぬよう、そっとベッドから抜け出して、おじいさんのところへ歩い
てゆきました。
「おじいさん、おはよう」
「おお、おはよう。よう眠れたかの?」
「ええ、とっても。わたしもうすっかり元気よ。おじいさん、ぴいぴい言うのは、昨日仰っ
ていた『鳴きいも』の音?」
「そうじゃよ。ごらん」
おじいさんが台所の火でしゅうしゅう湯気を吐くお鍋の蓋を取りますと、そこには三つの
、真ん丸くてうすい橙色をしたお芋がありました。
「ころころして面白いじゃろ?こいつは焼いてもうまいがの、こうして蒸してぴいぴい音を
させて食べるのがいちばんうまいのじゃよ」
「う…ん、ああ、なんていい匂いだろう」
おじいさんが話すそばから、プレトがごそごそベッドから起き出して来ました。
「おはよう、ミホちゃん、おじいさん。ああ、ぼくもうすっかりお腹が減ってしまった」
まあ、とミホナが笑い、おじいさんもまた笑って、こうして三人の一日が始まりました。
蒸したての鳴きいもは大豆とよく似た味がして、不思議と大きさは手のひらの半分しかない
のに、一個食べただけでもうすっかりお腹がふくれ、体の奥からは元気が湧いてくるのです
。ミホナもプレトも、昨晩のあの疲れ果てた心と体が嘘のように思えました。そうして朝食
を終えた二人がおじいさんに連れられて小屋から出てみますと、その景色は昨晩とはまった
く違う、背の高い松やら杉やらのびっしり生えた、針葉樹の森となっていたのです。
「まあ…昨夜はあんなに小さな勿忘草のたくさん生えていたのに、いまはすっかり違う景色
だわ」
「ほんとうだ…昨日のあの野原は、夢だろうか…」
森のなかを案内して歩きながらミホナとプレトの言うのを聞いて、おじいさんは笑って言
いました。
「この辺りはの、日暮れを境に、お陽さまの空に高いうちはこうした松や杉の森。お陽さま
の沈んだあとはいちめんの勿忘草の野原。二つの景色を持つ場所なのじゃよ。なぜかは知ら
んし、深く考えたこともないがの。じゃがそのお陰でわしら三人の兄弟は生きてゆけるし、
仕事も出来る。ほれ、二人とも足元を見てごらん」
二人が足元を見ますと、ミホナの足元には小さな黄色い花が、プレトの足元には薄茶のひ
ょろりとした草が生えておりました。
「ミホナちゃんの足元のがひなた草、プレトくんの足元のが鳴きいもの蔓じゃ。わしら兄弟
の仕事ときたらたいそう力が要るでの、こうして元気の出る食べ物が生えてくれるのは有難
いことじゃて」
「ねえ、おじいさんたちのお仕事って、なに?そういえば昨夜は勿忘草のあんなに詰まった
籠を持ってらしたけれど、お花を摘むのがおじいさんのお仕事なの?」
「ん?まあ、あれも仕事のうちではあるがの」
「おじいさん、小屋の真ん中に置いてあるあの大きな鍋、あれもお仕事に使うのですか?」
ミホナとプレトに訊かれ、おじいさんは少し考えてから言いました。
「どれ、ちょうどここらは松の切り株もたくさんあるで、ひとつゆっくり話しをしようかの
。さ、二人ともお座り」
ミホナとプレトがそれぞれ切り株に腰を降ろすのを待って、おじいさんは不思議な話しを
始めました。
「人の一生とはの、一冊の分厚い本に書かれた物語じゃよ」
唐突な一言が二人の子供に染み通るのを待つように少し間をあけてから、おじいさんは続
けました。
「幸せな物語もあれば、つらく哀しい物語もある。じゃがの、本人がどう感じておろうと、
幸せなだけの、あるいはつらいだけの物語なぞ一つもないんじゃ。どの人の、どの一生も、
確かに起伏豊かな、素適な一つの物語なのじゃよ。人はの、自分の人生がひとつの立派な物
語じゃということをよう忘れおる。昨日のこと、今日のこと、明日のこと。せいぜい数年の
過去や未来。そうした最近のことばかり考えて、それでもって時に自分の人生は無意味じゃ
とか言うて絶望したりするがの、それは良うない。産まれたばかりの赤ん坊が一才になるだ
けでも、本に置き換えれば何百頁、何千頁にもなるんじゃ。まして大人になれば、頁の積み
重ねは何億、何千億じゃ。そうしてせっかくに積み重ねてきた途方もなく分厚い人生の物語
の、ほんの最近の数頁だけを読んで自分の物語に絶望したりするのは、ほんとうにもったい
ないことじゃ。今の自分が何千億もの頁の分厚い一冊の物語じゃと考えれば、そう簡単に『
自分は無意味だ』なぞと勘違いすることもなかろうに。じゃども実際、人というのはそうし
た勘違いで哀しく絶望したり、有頂天で自惚れたりしがちじゃて。わしら兄弟からすればま
ったくもったいないことじゃ。ちと話しが逸れたがの、わしら兄弟はそうした一人一人の物
語を見守っておるのじゃ」
「一人一人!?じゃあおじいさんたちは、世界のすべての人の、一冊一冊が何千億頁もある
本を整理するのがお仕事なの?図書館みたいに?」
すっかり驚いたミホナが訊きますと、まさかの、と笑っておじいさんが答えました。
「そんなことはいくらなんでも無理じゃよ。人の人生はだいたいにおいて本とは違う形で、
けれども確かに物語として自然に形を成しておる。どういう形か分かるかの?」
ミホナもプレトも顔を見合わせましたが、想像すら出来ませんでした。
「あの『勿忘草』じゃよ。夜の野原に月に照らされて淡く水色に輝くあの小さな勿忘草の一
つ一つが、いま世界に生きておるほとんどの人の『人生という物語』なんじゃ。物語はの、
なにも本という形でなければならんというわけではないからの」
ミホナとプレトは驚きと同時にあの広大ないちめんの勿忘草の野原を思い浮かべました。
それはとてもとても小さいけれど、一つ一つが確かにとても美しい勿忘草の咲き誇る景色で
した。あの無数の花々のひかりすべてが人の人生という物語なのだと思うと、とても言葉に
出来ないような、神秘的な気持ちがします。
「それでは、おじいさんたちはあの無数の勿忘草の手入れをしてあげるのが仕事なんですね
。ぼく、見てみたいな」
「それがのう…確かに手入れといえば手入れなのじゃが…」
プレトの言葉に、おじいさんの顔から初めて笑顔が消え、少し困ったような哀しいような
、不思議な顔つきとなりました。
「正確に言えばわしら兄弟はの、このしまにやってきた人がこのしまで過ごした間の出来事
の記憶を、一冊の紙の本にすることを仕事としとる。このしまの出来事の記憶はの、放って
おくとどういうわけか持ち主から離れて、松ぼっくりやらひなた草やら、そうしたものに姿
を変えてしまうでの、そこでわしら兄弟はそうならんうちに一冊の紙の本として、持ち主が
このしまにいる間、持ち主からはぐれたりせんように、このしまでの出来事を『ものがたり
』に移し変えるのじゃ」
「それって…じゃあおじいさんたちはひょっとして、わたしやプレちゃんの本を作ってくだ
さるの?」
「そうじゃよ。これから作り始めるのじゃよ」
「すごいや!本当にすごい!」
「本当!なんて素適なのかしら!」
「けれど、おじいさん。ぼくとミホちゃんと、二人でいったいどれだけの量の頁になるので
しょう?ぼくたちはもうずいぶんたくさんの不思議な出来事や人や、キツネの神さまにさえ
会っているのだから、きっとくらくらするくらいの量になると思うけれど…」
「いやいや、作るのは『インキ』と『活字』と『紙』だけでいいのじゃよ。この三つさえ用
意すれば、あとは自然に『ものがたり』が頁を作り、そしてどんどん増やしてくれるでの」
「『活字』?ねえおじいさん、『活字』って、なにかしら?」
「活字はの、『あ』とか『う』とか、文字が刻まれた細い棒のことじゃよ。インキを塗って
紙に押し付ければ刻まれた文字が写る、そう、印鑑みたいなものじゃ。ひらがなとカタカナ
さえそろえてやれば、漢字や数字やらは同じように『ものがたり』が自然と作り出してくれ
るでの、よう出来ておるものじゃ」
「なんだかとても面白そうだわ、ねえ、プレちゃん?」
「うん!ぼくはぜひおじいさんたちと一緒にぼくたちの『ものがたり』を作ってみたい。お
じいさん、ぼくとミホちゃんにもお手伝いさせてください。ね?いいでしょう?」
「ふむ…」
きらきら輝いた顔でそう言うミホナとプレトでしたが、なぜかおじいさんはひどく考え込
む様子で、やがて真剣な顔になって二人に言いました。
「このしまでわしと出おうたということは、わしらと一緒に『ものがたり』を作るために『
ものがたり自身』がそう仕向けたということじゃろうて、手伝うのは構わんし、もしかする
とそうせにゃならんのかもしれんが…よくお聞き。手伝うてもらうには三つばかし覚悟をし
てもらわにゃならんことがあるのじゃ」
おじいさんの真剣な顔と声音に、みるみる緊張しながら二人はおじいさんの言葉を待ちま
した。
「まず一つ目じゃ。インキと活字と紙を作るのは、それはそれはたいそうつらい仕事じゃよ
。たくさんたくさん汗をかかにゃならん。わしらがあんなに元気の出るひなた草のスープや
鳴きいもを食べるのは、体も心もそれだけ疲れ果てるからなのじゃ。そう、昨日の夜にわし
と会うたときのおまえさんたちみたいに、の」
ミホナもプレトも途端にしゅんと肩を落としてしまいました。松原上等兵のお話しを聞い
てからおじいさんと出会うまでの、あの底無しのような哀しい疲れを想いますと、どうして
もそうなってしまうのです。
「二つ目はの…」
おじいさんはそんな二人を見詰めながら続けます。
「ひと度わしらを手伝うと決めたなら、もう途中でやめることは出来んくなるということじ
ゃ。たとえこのしまでの出来事だけとはいえ、すでにそれは確かにおまえさんたちの人生の
一部となっておる。ひと度それに関わっておきながら途中でやめたなら、おまえさんたちの
人生そのものも途中でぷつりと消えてしまうということじゃ。面白そうに思えるかも知らん
が、中途半端な気持ちでは到底出来ない仕事なのじゃよ。まあ、これはわしらの仕事だけで
はなく、すべてのありとあらゆる仕事にも言えることじゃがのう」
ますますしゅんとなってしまったミホナとプレトでしたが、最後の、三つ目のおじいさん
の言葉こそは、二人の子供の心を凍りつかせるものでした。
「三つ目…。のう、わしらが初めて会うた昨日の夜、わしが持っておった花籠を覚えておる
かの?そう、水色の勿忘草のたくさん詰まったあの籠じゃよ。あの籠のなかの勿忘草はの…
いろんな理由でその生命の尽きた勿忘草なのじゃ。生命尽きて、もう語られることのない『
ものがたり』なのじゃ。そして、わしら兄弟の作るインキも活字も紙も、すべてはこうした
生命尽きた勿忘草を素として作るのじゃ。分かるかの、ミホナちゃん、プレトくん。生命の
尽きた勿忘草を使って、おまえさんたちの『ものがたり』は作られるのじゃ。このことにお
まえさんたちは耐えられるかの?このことの意味するところが分かるかの?さあ、よく考え
てごらん」
おじいさんはそう言って、あとはじっと足元にあったひなた草を見詰め、黙り込んでしま
いました。けれどもいまやミホナとプレトは、おじいさんがさきほどから少し困って哀しそ
うな顔つきだった理由も、いまこうして黙り込んでしまった理由も、もうすっかり理解する
ことが出来ました。おじいさんはきっと、この三つ目の話しをしなければならないのがつら
く、哀しかったのです。
枯葉が新たに芽吹く花の養分となるように、すべて生命あるものは次の生命の糧として受
け継がれていくことは、学校でも教わりましたし、自分自身も分かっているつもりでした。
けれどもいざ実際それが自分と関わることになってみて初めて二人は、実は自分がただ理解
したつもりになっていただけであることを痛いくらいに実感し、声を失ってしまいました。
それに正直なところ、死んだ人そのものとさえ言ってよい生命尽きた勿忘草を手に取ること
は不気味で、悪いことをするように思え、またそう思ってしまう自分がとても卑しくも思え
、結局二人の子供は互いに顔を見合わせることもなく、膝を抱えてじっと黙り込むことしか
出来ずにおりました。
そうしてずいぶんと長い、静かな時間が流れたとき、ふいにふわりと優しい風が二人の頬
を撫でました。そしてその風には、ほんの少しだけ、磯の香りがしたのです。そのことに気
付いた瞬間、二人の心のなかで松原上等兵の言葉が響きました。
『戦争は何も生み出しはしない。さも意義のあるように見せかけながら、途方もない数の無
駄死にを残していくだけなのだ…。』
確かにそうかもしれません。いや、きっとそうなのでしょう。あの、血の色をした茜の海
辺に吹き寄せられていた無数の寂しげな人影。あれは確かに夢でもなければ幻でもないので
しょう。けれど…。
「おじいさん、ひとつ訊きたいことがあるの」
ミホナの発した言葉におじいさんは優しく顔をあげ、けれども黙ったままで先を促しまし
た。
「おじいさん、あの野原の、たくさんのたくさんの勿忘草のなかには、戦争で亡くなった方
々の『生命』もあるの?他の勿忘草と同じように、生命尽きた勿忘草として、おじいさんの
花籠のなかに摘まれるの?」
おじいさんは一瞬いかにも意外そうな顔をして、それから真剣な顔で少し考えてから答え
ました。
「…わしらは見たことがないのじゃが…このしまには、戦争で死んだ人の集まる海岸がある
らしいのじゃ。もう大分昔の話になるがの、いつか『偉大なる科学者先生』という科学者と
ひょっこり会うたときに、あの科学者が言うておった…」
「え?『科学者先生』って、あの、白衣を着て、背のたいへん高くて、手足の細長い科学者
先生のことですか?」
「ん?おまえさんたち、『科学者先生』を知っておるのかね?」
プレトが訊きますと、おじいさんはにこりと笑って言いました。
「そう、確かにその『科学者先生』じゃよ。このしまは不思議なしまじゃからのう、わしら
以外の誰かに会うてみたいと思うても、こことは違うどこぞへ探検に行きたいと思うても、
そう思う間はそれが叶ったためしはないのじゃが、ほんに時々、何にも考えておらんで、仕
事に夢中になっておるときに限って、ひょっこり出会うときがあるのじゃよ。出会うという
ても一回一回はほんに短い間で、せいぜい長くて半日程度しか一緒におれんのじゃがの。じ
ゃからたまに出会うたときは、お互いびっくりしてしまうものなのじゃ」
「じゃあ、『キツネの神さま』は?『松原上等兵さん』は?」
ミホナが慌てて訊きました。
「さあ、わしらが会うたことがあるのはあの科学者だけじゃ。じゃども、『キツネの神さま
』のことは科学者から聞いたことはある。『松原上等兵』という人には、あの科学者も会う
たことはないのじゃろう、何も言うておらんかったよ」
「そう…ねえ、おじいさん。わたしたち、ここに来るまえ、おじいさんの仰っていた海岸に
いたの。そこで、『松原上等兵』という人に会って、そしてこういう話しを聞いたの」
ミホナは松原上等兵の言っていたことを、プレトにも確かめながら伝え漏れのないように
、なるべく正確に、一所懸命になっておじいさんに伝えました。おじいさんは二人の子供の
話しをじっと真剣な顔で聞き終えてから、言いました。
「…科学者の昔言うておったことじゃがの、『生命と意識は別かもしれない』そうじゃ。な
んじゃ、難しい言葉ばかりでよう分からんかったがの、『生命とは純粋に『素粒子』を起源
とするあくまでも『物質』だけれども、意識とは『心』を起源とする、生命に似て、けれど
も物質とは違うもの。『心』に起源を発し、物質から抜け出して科学に縛られることのない
ものかもしれない…』確かそう言うておった。科学者自身もあんまり自信は無さそうじゃっ
たがね」
じゃども、とおじさんは続けました。
「もし科学者の言う通りとすれば、ここで夜咲く勿忘草のなかには、松原という人のような
、戦争で死んだ人の勿忘草もあるはずじゃ。…確信はないがの、じゃどもわしはそう願いた
い。松原という人の言うたことは、わしには哀しいけれども、やはり正しく思える。戦争は
やはり虚しいものじゃて…可哀相な戦死者の海辺に吹き寄せられたまま漂い続ける『意識』
を想えば、せめてそんな人々の勿忘草だけは、『ものがたり』だけは、この野原に残り、次
の『ものがたり』を生み出す『糧』になっていてほしい…わしはそう思うのじゃ。」
ミホナとプレトの心は、おじいさんの言葉を聞いてはっきりと決まりました。松原上等兵
の、勿忘草となった『ものがたり』がここにあると、そう確実には言えないけれど、無いと
決まったわけでもないのです。そうであるなら、少しでも可能性があるのなら、松原上等兵
や他の戦死者の『ものがたり』を、勿忘草を、自分たちの『ものがたり』のなかに受け継い
でいきたい。二人はそう固く決心しておりました。
「おじいさん、ぼくたち、やります」
「ええ。わたしたち、勿忘草でわたしたちの『ものがたり』を作ります」
りんと辺りに響く二人の子供の声を聞いて、おじいさんは言いました。
「それじゃあ、昼ごはんとするかの。食べ終わったら、わしの二人の弟に、かわいい小さな
弟子を紹介するとしよう」
三人のおじいさんには名前がありませんでした。『もしかすると昔はあったかも知らんが
、忘れてしもうた』と笑って言うので、仕方なくミホナとプレトは『インキのおじいさん』
『活字のおじいさん』『紙のおじいさん』とそれぞれ呼ぶことにしました。
『インキのおじいさん』は三人兄弟のいちばん年上で、ミホナとプレトが最初に出会った
のは、このおじいさんでした。おじいさんの小屋の真ん中にあったあの大きな鍋は、インキ
を作るためのものだったのです。摘み取った勿忘草の小さな花びらを一枚一枚丁寧に取って
、それがミホナとプレトの腰くらいの高さまで積み上がったら、鍋に入れて一晩中茹で、そ
うして茹で上がった花びらの山をぎゅっとしぼると、小さなコップ一杯分くらいの、きれい
な紺色のインキとなるのでした。
このコップが五十杯になるまで二人はインキを作り続け、『インキのおじいさん』は、そ
れはそれは厳しくその出来の良し悪しを確かめ、残る二人のおじいさんがインキを作るため
の勿忘草を集めました。インキ作りはとても細かい作業で、二人の子供の目はもう毎日しょ
ぼしょぼとなりましたが、けれども二人はくじけませんでした。こうして、インキが完成し
たのです。
『活字のおじいさん』は三人兄弟の真ん中で、けれども三人のなかでいちばん背の高く、
また体つきのがっしりしたおじいさんでした。おじいさんの小屋には、それこそインキのお
じいさんの小屋そのものほどもある大きな大きな万力があって、摘み取った勿忘草の細い茎
を一本一本取って、ミホナとプレトの体の幅くらいまで並べ終わったら、その茎の束を万力
でぎゅっと挟みますと、ちょうど指一本分くらいの太さの棒になり、その棒の端っこに、ひ
らがなやカタカナの一文字を鏡で映しながら逆さまに刻むと、一本の活字となるのです。
ひらがなとカタカナが全部揃うまで二人は活字を作り続け、『活字のおじいさん』はそれ
はそれは厳しくその出来の良し悪しを確かめ、残る二人のおじいさんが活字を作るための勿
忘草を集めました。活字作りはとてもとても力の要る作業で、二人の子供の腕はもう毎日こ
ちこちとなりましたが、けれども二人はくじけませんでした。こうして、活字が完成したの
です。
『紙のおじいさん』は三人兄弟のいちばん年下で、ミホナとプレトよりやや低いくらいの
背丈でしたが、その手は三人のおじいさんのうちいちばんごつごつしておりました。おじい
さんの小屋は活字のおじいさんと同じくらい大きく、広くて、そしてすぐそばにはとても澄
んだ小川が流れておりました。摘み取った勿忘草の葉っぱを一枚一枚丁寧に細かく刻んで、
それをその小川の水で百ぺんくらい漉くことで、ようやく向こうが透けて見えるくらいのう
すい膜となり、この膜を十枚重ねるとやっと一枚の紙となるのでした。
一枚一枚の積み重ねがちょうど学校のノートくらいの厚みになるまで二人は紙を作り続け
、『紙のおじいさん』はそれはそれは厳しくその出来の良し悪しを確かめ、残る二人のおじ
いさんが紙を作るための勿忘草を集めました。小川の水はきらきら輝いて、またたいそう澄
んできれいでしたが、触ると飛び上がるくらいの冷たさで、二人の子供の手はもう毎日あか
ぎれてばかりでしたが、二人はくじけませんでした。こうして紙が完成したのです。
インキと活字と紙のすべてが完成した夜、三人のおじいさんと二人の子供は、あの勿忘草
の咲き誇る野原におりました。
「ミホナちゃんもプレトくんも、ようがんばったのう」
インキのおじいさんが言いました。
「そうそう、ほんによう頑張ったでのう」
活字のおじいさんが続けました。
「じゃから、わしらからご褒美をあげねばのう」
紙のおじいさんはそう言うと、一枚のなにやら文字の書かれている紙を二人に手渡しなが
ら、言いました。
「これはの、あの科学者がこのまえ来たとき、自分の『ものがたり』に挿しいれてくれと言
うて持ってきた詩じゃよ。あの科学者の『気持ちの手紙』じゃ」
「『気持ちの手紙』?」
二人が紙を見ますと、そこには一篇の詩が書かれておりました。
『七つ森のこっちのひとつが 水の中よりもっと明るく そしてたいへん巨きいのに わた
くしはでこぼこ凍ったみちをふみ このでこぼこの雪をふみ 向こふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のように 急がなければならないのか』
(すこし哀しげなのに、りんと張り詰めて、なにより何て素適な言葉の響き…)
「それはの…」
二人の子供に詩の余韻の染み渡るのを待って、インキのおじいさんが言いました。
「『屈折率』という名の詩じゃが、あの科学者の創ったものではないんじゃ」
え?という顔をするミホナとプレトに、活字のおじいさんが言いました。
「もうずいぶんと昔になるがのう、おまえさんたちと同じようにお客さんとしてやって来た
一人の男の人がおっての、その人はもう植物やら鉱物やら科学やらが大好きで、あの科学者
とたいそう気が合ってのう、もうこのしまの端から端まで二人で歩き回っては、ああでもな
い、こうでもないと研究しておったものじゃよ。またその人は科学と同じくらい詩や物語を
書くのが好きでのう、このしまにいるあいだも、たくさんたくさん書いておった。これは、
その人の残した詩のうちのひとつじゃよ」
「あの科学者が言うにはの」
活字のおじいさんが言いました。
「ものごとを正しく見る、という点では、科学も詩も同じだそうじゃ。その男の人がこのし
まのひとなつを終えて自分の元来た場所へ帰るときには、あの科学者もたいそう悲しがって
の、じゃども科学者は詩なぞ詠んだことがないでの、それでその人の残したなかからこの詩
を選んで、わしらに言うたんじゃ。『わたくしのいまの気持ちとして、この詩をぜひわたく
しのものがたりに残してくれたまえ』との」
「それが『気持ちの手紙』ということなのね…プレちゃん、科学者先生、わたしたちのこと
はどういう詩に置き換えるかしら?」
「ううん…けれど先生はぼくらのような子供は嫌いだから、きっと詩に置き換えたりはしな
いと思うな」
「ふふふ」
そう笑って紙のおじいさんが言いました。
「実はの、その詩をあの科学者が持ってきたのは二度目なんじゃ。このまえ、とさっきは言
うたがの、正確にはおまえさんたちがちょうどもう少しで紙を作り終えるというときに、あ
の科学者がきて、おまえさんたちを遠目で見ながら、この詩を渡していったんじゃ。おまえ
さんたちには絶対言うなと言っておったがのう…ふふふ、これがわしらの『ご褒美』じゃよ
」
(科学者先生…)
ミホナもプレトも無性に、科学者先生にもう一度会いたいと、そう心から思いました。と
ても気難しくて、せかせかしてて、子供が大嫌いで…でもほんとうはとっても寂しがりやな
、科学者先生のほんとうの姿が、この詩には確かに現れていたのです。
「おじいさん、ありがとう。とっても素適なご褒美、ほんとうにありがとう…」
インキのおじいさんはそう言う二人をにこりと笑って見詰めながら言いました。
「おまえさんたちも、時にはこうして『気持ちの手紙』を自分自身に送ってみるとええ。人
の一生という『ものがたり』はの、時と場所を遷ろいながら、小川に水の流れるようにどん
どんひとりでに流れておる。幸せなときも悲しいときも、等しく同じはやさで流れておる。
そうして『ものがたり』のひとりでに紡がれてゆくままにするのも悪くはないがの、時には
栞のように、自分の言葉でそのときの笑顔や涙のわけを挿しはさむようにすれば、『ものが
たり』もただ紡がれるよりもっともっと豊かになるものじゃて」
「なに、あの科学者のように照れ屋なやりかたをせんでもよいのじゃよ」
活字のおじいさんが大きな体を愉快そうにくすくす動かしながら言いました。
「うれしいときや悲しいときに、ちょうど日記でも書くように文字を使って、言葉を使って
、その時々の気持ちを紙に刻んで残せばいいだけの話じゃよ。するとときには、つらくて悲
しくて仕方のない気持ちが、ふっと楽になったりもするものじゃて」
「そうそう、文字や言葉は使いようでいくらでも『ものがたり』を豊かにするでの」
紙のおじいさんがやさしい目で語りかけました。
「ミホナちゃんもプレトくんも、たいそう苦労してインキも活字も紙も全部作ったのじゃ。
『ものがたり』の素を作ったのじゃ。なら、その『ものがたり』にもうこれきり手を加えず
に放っておくのは、もったいなかろうて」
ミホナもプレトも、自分の『ものがたり』を作るために懸命に働いた日々を想いました。
本当に、本当につらかったけれども、そうして苦労したからこそ、おじいさんたちの言うよ
うに、もっともっと大切に、豊かに紡いでゆきたいと、そのように思うのでした。
「ああ、もうすぐ夜が明けるのう…」
インキのおじいさんの声に二人が辺りを見回しますと、煌々と野原を照らしていた大きく
青白い月も、照らされていた無数の勿忘草も、夜明けの太陽の暖かい橙色のなかで、もうす
っかりと姿を消しつつありました。
「…そろそろお別れのときじゃのう…」
インキのおじいさんに言われずとも、『ものがたりの素』をすべて作り終えたときから、
ミホナもプレトも、おじいさんたちとのお別れの近いのを予感しておりました。なぜなら、
キツネの神さま、科学者先生、松原上等兵、いずれのときもなにか区切りのような出来事や
言葉を境にお別れが来ていたことを、この頃には二人ともすっかり学んでいたからです。け
れども、そうして頭では予感していても、おじいさんたちと働いた長い長い日々を想うと、
悲しくて悲しくて、二人とも涙がこぼれるのを抑えることが出来ませんでした。三人のおじ
いさんも、そんな二人の子供と同じように、寂しそうに微笑んでおりましたが、やがてイン
キのおじいさんがすっと前に出て言いました。
「二人ともよう頑張ったの。覚えておおき。額に汗して生み出したものは、必ず人生という
、長いようでいて短い『ものがたり』のなかで大切ななにかを刻むのじゃよ。それが何なの
かは、いまはまだ分からんかもしらんし、ひょっとするとはっきり分からんままかもしらん
。じゃども、分かろうと分かるまいと、確かに大切な何かを刻み、『ものがたり』を豊かに
彩ってくれるのじゃ。さ、これを持ってお行き…」
インキのおじいさんが、キツネの神さまに頂いた竹筒と竹皮と一緒に手渡してくれたもの
、それは二冊の、透き通るような水色の表紙のついた、ノートくらいに薄い本でした。
「おまえさんたちの一所懸命こさえた『ものがたり』じゃよ。額に汗して生み出した、まっ
たくその通りの『ものがたり』じゃよ」
「…ありがとう、おじいさん」
「大丈夫じゃよ」
活字のおじいさんが言いました。
「わしらが見守っておるから」
「そう、おまえさんたちの幸せも、悲しみも、正しいときも、過ちのときも、等しくすべて
見守っておるから」
紙のおじいさんが続けました。そして最後に、もうすっかりその姿を薄れさせながら、イ
ンキのおじいさんが言いました。
「『ものがたり』は、時と場所を遷ろいながら紡がれるのじゃよ。さ、涙を拭いて、顔をき
っと凛々しくあげて、歩いてお行き」
夜明けのひかりがいよいよ強く輝き、ミホナとプレトはまったく夏の陽射しそのもののお
陽さまの下、二人きりで、またあの大きく太い木々に囲まれた林道のなかに立っておりまし
た。
【第十一章 コンクリートを塗るひと】
とてもとても陽射しが強く、ぎらぎら照りつけてばかりおりましたので、手にした本の感
触がなにやら変わっているのにようやくミホナが気付いたのは、林道を歩き始めた二人が、
水を飲むために四度目の休憩をとった頃でした。プレトは竹筒から湧き出るひんやりと美味
しい水をごくごくと飲みながら、ふとミホナがひどく戸惑っているようなのに気付き、言い
ました。
「ねえ、ミホちゃん。何だか様子のおかしいようだけれども、どうかしたの?体の具合でも
よくないの?」
「そうじゃないの、ありがとう…ねえ、プレちゃん。わたしのもらった本だけれど、どうも
厚みが増しているみたいなの。プレちゃんの本はどう?」
言われてプレトが確かめますと、ミホナの言う通り、確かにプレトの本もその厚みが明ら
かに増しておりました。
「本当だ。ぼくの本も厚みが増している…ねえ、ミホちゃん。そういえばぼくたち、なにや
ら表紙をさすったりするだけで、この本をまだ一度も開いていなかったね」
「だって…何だかもったいない気がして…それに眺めたりさすったりするだけでも嬉しくな
るくらいこの表紙は素適だもの…けれど、せっかくあんなに働いて作ったのだもの、少しだ
け、中を見てみようかしら」
そうして二人がもうすっかりわくわくしながら表紙を捲りますと、少しざらついた感触の
厚めの紙に、いかにもしっかりと、そう、少し紙の表面がへこむくらいにしっかりとした活
字が、鮮やかな濃紺のインキで刷られておりました。出来立ての紙とインキのいい匂いをさ
せながら刻まれている文字は、このように読めました。
『わすれな草の咲いた夏』
続けて二人が各々の本の頁を捲りますと、そこにはまるで物語そのものといった調子で、
ミホナとプレトがあの水色の乗船券を手にするまでのいきさつが書かれておりました。
「まあ!わたしすっかりここに書かれてあるのと同じ具合で、あの乗船券を手に入れたのよ
!」
「ぼくもさ!ここに書かれてあることは、もう本当にその通りのことばかりだよ!」
それから二人は夢中になって『わすれな草の咲いた夏』を読み耽りました。本はまだノー
トにほんの少し厚みを加えた程度でしたから、二人はすぐに最後の頁にたどりつき、そこで
はミホナとプレトがあの青白く照らされた静かな大海原を船で進んでいるときの様子が途中
まで描かれておりました。けれどもその最後の頁は半分くらいがまっさらの空白となってい
て、また文章もいかにも中途半端にぷつりと途切れているものですから、おかしいなと二人
が戸惑いながらぽかりと空いた空白の頁を見詰めておりますと、うっすらうっすらと、次第
に一文字ずつ活字が浮かんでくるのに二人は気付きました。
「ねえ、プレちゃん。どうやら、とてもゆっくりだけれど、物語がわたしたちの後を追いか
けてきているようね」
「そうだね。こうしてゆっくり一文字ずつ文字を、文章を浮かび上がらせながら、確かにぼ
くたちの後を追いかけているね。この調子だと、物語がぼくらを追い越してしまうことは無
さそうだけれど、いまこうしてミホちゃんと話していることも、やがては新しい頁に物語と
して加わるのだろうね」
「わたし、この本があんまり確かにわたしの気分や考えたことまで書き記していて、少し恥
ずかしいわ」
「本当だね。こんなことなら、ぼくもう少し、しゃんとしておけば良かったな」
「うふふ、わたしも」
そうして二人が笑い合っていると、ふいになにやら辺りがとても暑くなり、時折吹く風な
ぞは、まるで真夏のストーヴのようにさえ感ぜられるのです。
「おかしいな、何だろう、急にとても暑くなったようだけれど…」
「…本当。わたし、真夏の昼間でさえ、こんなに暑いのは初めてだわ…」
「どこかに木陰を探さないと。ここらはもうまったくお陽さまを遮るものがないようだから
」
「こんなに大きい木に囲まれている道なのに木陰がないなんて…えっ?」
ミホナは林道を囲む木々を見上げようとして、唖然としてしまいました。さきほどまであ
んなに繁っていたはずの木々の葉っぱが一枚も見当たらないのです。そう、葉っぱどころか
枝さえもなく、その景色はまるで木の姿を真似ただけの、太くて高いぬっぺりとした電信柱
が立ち並んでいるようにしか見えません。
(これはいったいどうしたことかしら…)
急いで辺りの景色の変わりようを伝えようとしたミホナは、プレトがいかにも不思議そう
に地面をじっと見詰めているのに気付きました。プレトの見るさきをミホナが見ますと、足
元の地面がいつのまにか、ふわふわ湿った落葉の林道から、こちこちのアスファルトですっ
かり固められたものに変わっているのです。ぎらぎら照りつける陽射しは何の遮るものもな
く地面にあたり、すっかり熱くなったアスファルトはむんむんとした熱気を放っております
。ミホナもプレトも、上と下から照りつけるあまりの熱気に、もうあっというまに体の奥が
じんじんと痛み、肌はかさかさ音をさえたて、頭はくらくら眩暈のするのをどうすることも
出来なくなってしまいました。
「こらこらきみたち、いったい何てことをしてるんだ!」
ふいに後ろから高くてきんきん細い声がしました。二人が熱気ですっかりとろんとしてし
まった目で振り返りますと、そこには銀色の、体をすっぽり覆う毛布のようなものをかぶり
、頬がふっくらして目が大きく、低くて丸い鼻のついた顔だけを出している男の人が立って
おりました。
「こんな昼間にこの銀のマントを被らずにいたら、きっと死んでしまうよ。見ればもうすっ
かりふらふらじゃないか。さ、さ、早く入りなさい」
男の人がそう言って後ろを指差しますと、まるで幻のように、ぬっぺりした木々はアスフ
ァルトの林道と一緒に姿を消して、かわりにそこには、黒と白の格子柄に塗り分けられたア
スファルトの、それこそ校庭くらいはあるような広場が現れ、またその広場を背景に、目の
前には学校の校舎くらいの大きさの、金色の正三角形の建物が現れていたのです。
(ああ、またこのしまの『不思議』が現れた…科学者先生の仰った『素粒子』の不思議だろ
うか…)
ミホナもプレトもそんな具合にぼんやり思うのでしたが、それよりも、ぎらぎら照りつけ
る陽射しを何倍にもして照り返すその金色の建物の光りようといったら、広場を取り囲むぬ
っぺりした木々や地面のアスファルトから出る熱とも重なって、もうそれだけで体が溶けて
しまうように二人には思えました。
そのような具合でしたから、ミホナとプレトがようやく口を開けるようにまで元気を取り
戻したのは、音も無くぽかりと開いたその建物の入り口を男の人に続いてくぐり、中のなん
ともいえない、秋の夕暮れどきのそよ風のような、建物の涼しい空調にしばらくあたった後
のことでした。
「ああ、なんて涼しい風…。あの、助けて頂いてありがとうございます。わたし、ミホナと
いいます。こっちはプレトくん。わたしたち、本当に助かりました」
「いいってことさ!ああ、何て久しぶりのお客さんだろう!もうずっと長い間待ち続けてい
たのさ、おれは。ようこそ、シュミトの最先端科学のしまへ!」
「シュミト?」
「おれの名前さ!知らないのかい、このおれを!?」
プレトの言葉にシュミトさんはいかにも心外そうに言いました。
「ふん、まあきみらは随分と子供のようだし、仕方ないか。けれども今からは、はっきりと
覚えておくがいい。おれはシュミト。最先端かつ最も優れた応用科学者さ!」
「応用科学者って…シュミトさんは科学者なのね。じゃ、あの科学者先生のお友だちでいら
っしゃるの?」
ミホナが訊きますと、みるみるうちにシュミトさんの顔は不愉快極まりないといった具合
に歪むのでした。
「ふん!『科学者先生』だって?あいつは『科学者』でも『先生』でもなんでもない、ただ
のうすのろさ!真の科学者とはおれのような科学者をいうのだ。見るがいい」
シュミトさんが指を触れた途端、のっぺりした建物の壁にぽかりと窓が現れました。窓越
しにはさきほどの広場と、そしてそれを取り囲む電信柱のような木々が見えます。
「どうだい、この整然とした景色は!それもこれもみんなこのおれが最先端の科学を駆使し
て、元は落葉やら石ころだらけだった地面をアスファルトで固めたのさ。ほんの少し風が吹
いただけでざわざわうるさく葉っぱを散らして地面を汚すだけの、ぶなやら松やらケヤキや
杉やらをコンクリで固め、あのような整然と美しい柱の列に整えたのさ。それだけじゃない
ぞ。この、そよ風のように自然と涼しい風を送り出す装置も、触れるだけで好きな場所に開
く窓も、この建物自体だって、すべておれが一人で、科学を駆使して作ったんだぜ」
「一人で?シュミトさん、どうしてそんなことが出来るのですか?」
プレトはもうすっかり驚いて訊きました。
「そうそう、そうやって何でも訊いてくれ。それでこそ長い間待ちに待ったお客さんっても
のだ。このしまときたらもうやたらと訪れる人の少ないしまでね、だからおれの偉大な功績
が世界に広まらないのだ。きみらはきっと、ここにシュミトという偉大な科学者のいること
を世間に言いふらすのだぞ?約束だからな。さて、と」
シュミトさんはごそごそとズボンのポケットから何やら透明の卵のようなものを取り出し
て、プレトの目の前に突き出しました。
「プレトくんといったね、きみの質問の答えがこいつだ。こいつは『原子蟻』といってね、
おれの最大の発明品さ。さ、よく顔を近づけてごらん」
プレトが覗き込んでみますと、透明な卵のなかに、小さな小さな、芥子粒のような透明な
蟻が無数に動いているのが見えました。けれどもその蟻はよく見ますと本物の蟻とは違って
、動き方がかくかくと機械的で、お腹の辺りはうっすら銀色に輝いているのです。
「シュミトさん、これって?」
驚いたプレトの顔を満足そうに見ながら、いよいよシュミトさんはのけぞるくらいに胸を
張るのでした。
「ロボットさ!おれはこいつを使って木々にコンクリを塗り、地面をアスファルトで整え、
この建物を作ったのさ」
「ロボット!こんなに小さいのに?すごい!」
プレトはもうすっかり夢中になって、卵のなかの無数の『原子蟻』に見入ってしまいまし
た。
「だろう?そうだろう?この建物や広場には、こいつを何百、何千万匹も放してあるんだ。
こいつらはね、それこそ蟻の群れるように木々によじ登り、中に入り込んでコンクリを注い
でいくのさ。地面も同じだ。木の根っこやら石ころやら土や葉っぱを見つけては、片っ端か
らアスファルトで固めてゆくのさ。こいつらはね、おれの命令通り忠実に動くのさ。だから
おれは、文明の象徴とも言えるピラミッドの形の、金の鍍金で焦げるような陽射しを平然と
跳ね返すこの建物のなかで、原子蟻の淹れてくれたコーヒーでも飲みながらゆっくり過ごす
だけでいいのだ。そう、こうやって話している間も、原子蟻たちは働き続けているのだよ。
おれさまのこの格子柄の広場も、整然と整った柱の列も、どんどん広がり続けているのさ。
おれの目標はね、こうしてこのしまをもっと人の住みやすいしまにすることなのさ。石ころ
に躓いて怪我したり、落ち葉で道が見えなくて迷ったり、そんなことの起きないようにする
のさ」
「すごい!こんな小さなロボットが、あんなにたくさんの木や広い地面を心地良く作り変え
ているなんて…ねえ、シュミトさん、他には?原子蟻の他にも、たくさんの機械があるので
しょう?」
プレトはすっかり興奮してしまいました。
「ははは、プレトくん、きみはお利口だねえ。もちろんあるさ。けれど、原子蟻と同じよう
に、最初に作るときには、それはそれは苦労したんだぜ?おれだから出来たのさ。これだけ
は忘れないでくれよ。さ、きみらに色々と見せてやるまえに、そうは言ってもまずはゆっく
りご飯を食べ、お風呂に入って眠るといい。さっきまであんなにふらふらだったんだ、まず
は元気を取り戻さないと。それに、元気な頭でないと、おれの数々の発明の素晴らしさも分
かるまいからね」
こうしてシュミトさんと二人の子供の最初の一日が過ぎてゆきました。その夜、シュミト
さんが寝室に二つ並べて用意してくれた銀色のベッドに寝転びながら、プレトはまだすっか
り興奮の醒めない様子で隣のミホナに話しかけました。
「ね、ミホちゃん、シュミトさんときたら、もうまったくすごいねえ。お風呂もご飯も全部
機械が世話してくれるなんて。それにこの建物の空調の心地よさといったらどうだろう。ぼ
くらの体温や気分を機械が測って、いちばん心地いい具合の温度に調節してくれるなんて。
そうそう、さきほどシュミトさんが仰っていたこと、覚えてるかい?この銀色のベッドも空
調の機械と一緒で、ぼくらの『眠りたい』という気持ちを読み取って、よりよく眠れるよう
なガスを出す仕組みになっているって。ぼくあんまり便利で、すっかり嬉しくなってしまっ
たよ」
わくわく早口で話すプレトの横で、けれどもミホナはどうもそんなプレトが不安に思えて
仕方ありませんでした。プレトのベッドの隅っこには、キツネの神さまから頂いた竹筒と竹
皮、三人のおじいさんと作った『ひとなつのしま』さえ、もうすっかり飽いてしまったよう
に放られていて、それを見るとミホナの不安はどんどんと強くなるのです。
「ねえ、プレちゃん、わたし、ここにはあまり長くいないほうが良いと思うのだけれど…」
「なに言ってるんだい、ミホちゃん。あ、そうか、女の子はあまりロボットやら機械やら好
きではないものね。けれどもミホちゃん、ぼくらこのしまに来てから、こんなに楽で便利な
ことはなかったよ。ああ、ぼくはもう明日を待ちきれない。早く眠らなくてはね。おやすみ
、ミホちゃん!」
プレトがミホナの返事も待たずにベッドにごろんとなった瞬間、しゅっという音がベッド
の枕元あたりからして、プレトはあっというまにすうすう眠ってしまったのでした。
(…プレちゃんはああ言うけれど…そう、確かにわたしロボットとか機械とか興味はあんま
り無いけれど…でも何か違う。きっとそういうことではなくって、何かが違っているわ…)
竹筒と竹皮、そして『ひとなつのしま』をまるでお守りのようにぎゅっと胸に抱くミホナ
のベッドからは、その夜、とうとうしゅっという音はしないままでした。
次の日から、プレトはシュミトさんの助手になりました。
まるで人間のように話が出来る演算機、自転車よりたいそう軽くペダルを漕ぐだけですい
すい空を走る竹とんぼのような形の乗り物、夜をまるきり昼間に変えてしまうような懐中電
灯、一粒飲むと肉やら野菜やら色んな味がして美味しくお腹いっぱいになる錠剤…シュミト
さんの発明品はどれも驚くものばかりで、プレトはすっかりそれらに魅せられてしまったの
です。けれども、そんな発明品の数々のうち、とりわけプレトの気に入ったのは、やはりい
ちばん最初に見た『原子蟻』を使って地面や木々を作り変える作業でした。シュミトさんに
教わりながら、むきだしの地面や木々の近くにそっと原子蟻を放してやると、みるみるうち
に地面は黒白格子のアスファルトに固まり、木々はその葉っぱの生い茂るたくさんの枝をあ
っという間に引っ込めてコンクリの柱と変わるのですから、もうまったく見ていて飽きるこ
とがありません。プレトはシュミトさんと一緒に、もう毎日うきうきとあちらこちらへ竹と
んぼの乗り物を上手に操って出かけては、原子蟻を放してまわるのでした。
一方ミホナはといいますと、そんなプレトを不安そうに見守ることしか出来ずにおりまし
た。確かにシュミトさんは、たとえば同じ科学者である『科学者先生』と比べてもたいそう
親切で優しい人でしたし、その発明品は確かによく出来ていて便利なことこのうえないので
すけれども、どうも心の奥に言い表せないしこりのようなものが詰まっていて、それが日に
日に大きくなってくるように感ぜられたのです。結局、シュミトさんとプレトが出かけてい
る間、ミホナは膝を抱えて留守番の日々を過ごし、今やうっすらとほこりさえかぶり始めた
、プレトの竹筒、竹皮、そして『ひとなつのしま』を見詰めては、独りぼっちを噛み締めて
おりました。どうにもどうにも寂しくて、幾度かは夜寝る前、シュミトさんのいないときを
見計らってプレトに話しかけようともしましたが、けれどもプレトは毎晩きまってミホナの
口を開くのより早く、「今日は何本の木に原子蟻を放した」とか、「今日は何百メートルの地
面をアスファルトできれいにした」とか、そのようなことばかり嬉しそうに早口でしゃべり
、そうしてひとしきり自分のしゃべるのを終えると、すぐに「ミホちゃん、おやすみ!」と
せわしなく言って、しゅっとガスの出る音とともにすやすやと眠ってしまうのです。ミホナ
に出来ることは、結局また独りで膝を抱え、眠れない夜をじっと過ごすことしかありません
でした。
そうして二週間ばかりが過ぎた朝、とうとうミホナは倒れました。
顔は高い熱のせいで真っ赤に火照り、手足を小刻みに震えさせ、はあはあと苦しげにスト
ーヴのような熱い息を吐くばかりのミホナの様子に、シュミトさんもプレトもすっかり仰天
してしまいました。
「や!や!これはいかん!」
シュミトさんはそう言うと、ミホナをベッドに寝かせながら枕元の、ちょうどガスの出る
あたりにいくつか並んでいるつまみの一つをひねるようにプレトに言いました。プレトが言
われた通りにしますと、するすると天井から蛍光管ほどの長さの白い棒が降りてきて、ミホ
ナの頭から足先まで音もなくなぞり始め、それと同時に買い物伝票のような細長い紙を吐き
出し始めたのです。シュミトさんはプレトを見てにやりとしながら言いました。
「プレトくん、まだ見せてなかったがね、こいつもおれの発明品さ。こいつが吐き出すこの
細長い紙を見れば、体の具合の悪さの原因と、何の薬をあげたらいいかがたちどころに分か
るのさ。どうだい?たいそうなものだろう?」
その瞬間、プレトの全身にぞくりとするものが走りました。
(…ぼくは…ぼくは何かとんでもなく間違いをしたのではないだろうか…)
そんなプレトの様子に気付く具合でもなく、細長い紙を手のひらで繰りながら、シュミト
さんは首を傾げて、それからいかにも嬉しそうに笑って言ったのです。
「おや…これは睡眠不足による疲労だな…ふむ、なにやら興味深いぞ。いったいどうしたら
このベッドで眠れないなんてことが起きるのだ?…うん、興味深い、興味深いぞ!ははは、
これはまた面白いじゃないか!最先端科学でさえ眠れないとは!こりゃいい研究課題が出来
たぞ、ははは!」
「研究課題ですって!!」
プレトは顔を真っ赤に怒らせて思わず叫びました。はあはあ苦しむミホナをまるで物のよ
うに言うシュミトさんを、プレトはまったく許せない気持ちとなっておりました。けれども
そんなプレトの様子にさえ気付く具合でもなく、愉快げに顔をにんまりさせたままでシュミ
トさんは言いました。
「さてさて、こいつは忙しくなったぞ。ははは。おい、プレトくん、おれはこのベッドの更
なる改良と、ついでにミホナちゃんの治療もしなければならなくなったから、きみ、今日は
一人で原子蟻を放しに行ってくれ。もうすっかり要領は分かっているだろう?今日原子蟻を
放すべき場所は竹とんぼの演算機に入れてあるから、ペダルを漕ぎさえすれば迷うことはな
いよ。さ、早く行った、行った!」
プレトはもうすっかりひどいシュミトさんの言い様に我慢のならない気持ちでいっぱいと
なりましたが、けれどもぐっと歯を噛み締めてシュミトさんの言いつけに従うことにしまし
た。そうでもしないと、きっとしュミトさんはミホナの治療より先に原子蟻を放す作業を優
先してしまうに違いないと思ったのです。
音もなく進む竹とんぼのペダルを漕ぎながら、プレトは呟き続けておりました。
(ぼくは正しいことをしている…道をきれいに固めることは、人が転んで怪我をするのを防
げるし、木を固めてやれば、すっきりとして見栄えもいいし、それに…それに…)
見えない誰かに責められて、その言い訳を必死でするように顔を手で覆いながら呟き続け
るプレトを乗せて竹とんぼは飛んでゆき、やがて浮き上がるときと同じようにふわりと音も
なく地面に降りました。しばらくしてやっと竹とんぼの地面に降りているのに気付き、顔を
あげたプレトは思わずこれ以上ないほどの悲痛な叫び声をあげておりました。
「…ああ、ああ…!」
いちめんの勿忘草の野原が、プレトの目の前に広がっておりました。三人のおじいさんと
過ごしたあの野原とは、丘やら遠くに見える山並みやら、そうした景色が大分違っていて、
おそらくは別の野原なのでしょうが、けれどもそこは確かに勿忘草の野原で、この一つ一つ
の儚い花々が何を意味しているのか、何をうつしたものなのか、忘れようにも忘れられるは
ずがありません。
「…間違っていた…ぼくは、確かに間違っていた…。うまく言葉にならないけれど、もやも
やとよく分からないけれど、確かに、確かにぼくは間違っている。ぼくは、ぼくにはこの野
原に蟻を放すことなぞ、アスファルトで塗りつぶすことなぞ出来ない。出来るわけがない…
」
プレトの目から大粒の涙が次から次へと零れ落ちました。自分がとても幼く、情けなく、
無知で単純で、まるきり馬鹿げた『子供な子供』のままであることへの、悔し涙でした。
【第十二章 科学者と科学者】
「おお、おお、プレトくん、おかえり!」
金色のピラミッドに帰ったプレトを、シュミトさんのすっかり待ちわびた声が迎えました
。
「いやあ、助かった、助かった!まあ聞いてくれ、ミホナちゃんときたら…」
「おかえりなさい、プレトさん。今日は何本の木を殺したの?何百メートルの地面を窒息さ
せてきたの」
シュミトさんの言葉が終わらないうちに、冷たく、鋭いミホナの言葉がプレトの胸を突き
ました。きっと言葉と同じように鋭くひかっているに違いないミホナの目を、プレトは見る
ことが出来ませんでした。そうしてうつむいたままのプレトを覗き込むようにしてシュミト
さんは言いました。
「な?な?おれがせっかく治療して、すっかり元気にしてやったというに、この子は起き上
がるなりそのお礼すら言わずに、おれのやることに文句ばかりさ。なあ、ミホナちゃん、ぜ
んたいおれの何が間違ってるか、きみは言葉に出来すらしないじゃないか。なのに『あなた
は間違ってる』ばかり言うのだから、もうきみにはすっかり参ってしまったよ。プレトくん
、きみからもひとつこの子に言ってやってくれよ。これじゃすっかり駄々っ子だ」
「確かに、なにが、とはっきり言葉にすることは出来ないわ。だってあなたはわたしなんか
よりすっかり大人で、頭も良くて、色んな難しい言葉を知っているもの。それに比べてわた
しは、わたしのいま感じている気持ちをどう表せばいいのか、その言葉さえ知らないもの。
あなたのしてること、全部が全部間違ってるとは思わないし、思えない。けれど、それにし
てもいまのあなたのやりかたはどこかひどく不自然で、身勝手だわ。間違ってるわ」
プレトがそっと顔をあげると、大人のシュミトさんに対して、ミホナはりんとした姿で正
面から向き合っておりました。言い表す言葉が分からないのは一緒でも、自分と違って正面
から大人の、しかも科学者というとても頭の良いシュミトさんに毅然と向き合うミホナの姿
に、プレトはなおいっそう自分を恥ずかしく、情けなく思うのでした。
「ふん!きっちり論理的に説明も出来やしない子供のくせに、よく言うものさ。そんな具合
で人を間違ってるだのなんだの言うのは、きみ、極めて失礼というものだぜ?少しはプレト
くんを見習うこった!そうだ、おいプレトくん、今日の作業はすっかりはかどったろうね?
きっとうまくやったろうね?明日からはいよいよきみもひとりだちだぜ。おれときみの二人
、別々の場所で作業しようじゃないか。そうすれば今までの倍、作業が進むというものだ。
どうだい?うれしいだろう?」
「プレちゃん、ねえ、あなた本当に何も感じてないの?あなたのしてることは本当に正しい
の?プレちゃんがもしそう言うのなら、わたしもう独りぼっちだわ。プレちゃんが隣りにい
ても、わたし本当に独りだわ…」
なんとも諦めきった寂しい、哀しいミホナの顔を見て、プレトはやはり自分がずっと間違
っていたことをはっきりと知りました。思い返してみればシュミトさんと出会ってからの自
分とミホナは、友だちの儀式をする以前、ちょうどあの静かで青白い海のうえの船室でそう
であったように、一緒にいても心の通い合うことのない、独りぼっち同士そのもので、そう
してしまったのは自分があんまり浅はかで、単に形やら動きやらが格好がいいというそれし
か目に入らず、自分の頭でよく考えてみることもなくシュミトさんを受け容れてしまってい
たせいなのです。プレトは強く、心の底から思いました。もう意気地なしで単純な、『子供
な子供』から卒業しよう、と。
「シュミトさん、ごめんなさい。ぼく、やはりミホちゃんの言うことは正しいと思います。
ぼく、今日は作業をしていないのです。作業せずに帰ってきたのです。明日も、明後日も、
その次の日も、ずっとずっと、ぼくはもう原子蟻を放しにいくことはないと思います」
え、という意外の顔でシュミトさんとミホナは二人してプレトをぽかんと見詰めました。
そして、この二週間分、溜めに溜め込んだ笑顔を夏の陽射しのそのままに浮かべるミホナの
横で、シュミトさんの顔からは笑顔がすうっと消え、かわりにどんなに大きな山火事も敵う
まいと思えるほどの凄まじい怒りの炎が、がりがりと音をたて、シュミトさんの全身から沸
き立ったのです。
「作業をしなかったっ!?おれの隣りの、この無知で言葉知らずで礼儀知らずのほうが正し
いだとっ!?おいきさま、いったいそれはなんの真似だっ!?今朝まですっかり嬉しそうに
尻尾を振っておれさまの助手をしていたくせにっ!」
シュミトさんの怒り様は、ミホナもプレトも初めて見る、大人の男の人のすっかり我を忘
れた怒り様で、その凄まじく渦巻くような感情の炎は二人の子供にとって、まさに恐怖その
ものでした。
「おまえたち!あのぎらぎらの陽射しに倒れそうだったのを介抱してやったのは誰だ!おれ
の創り出した空調機械の涼しい風にあたって気持ち良さげにしてたのは誰だ!おれの創った
錠剤で毎日腹いっぱいになってるのは誰だよ!考えてみろ!よくぬけぬけと言えたもんだ!
」
「ごめんなさい、ごめんなさい、シュミトさん!」
あまりの怖ろしさに涙も出せず、ふらふら崩れ落ちそうになるミホナの肩を抱いて、そし
てまた自分自身のがくがくする膝を必死に奮わせて、プレトはなんとかシュミトさんに自分
の気持ちを分かってもらおうと言いました。
「ぼくもミホちゃんも、助けていただいて本当に感謝しているんです。快適で、便利に過ご
させていただいて、本当にありがたく思っているんです。それに、いまこのときも、決して
シュミトさんが悪い人のようには、ぼくらは思っていないんです。ただ…」
「ただ?」
「…その、シュミトさんのしているやり様が、何となく間違っているように…」
「へえ、そうかい!そいつはありがたいご注進だな!」
いまやシュミトさんは、まったく吐き捨てるように、渦巻き立ち昇る真っ黒な感情を言葉
にのせて容赦なく投げつけてくるのでした。
「『何となく間違ってる』『どことなく不自然』『ひどく身勝手』!おれを『悪い人ではな
い』だとか、妙に訳知り顔で言う一方で、おれのしてることにはまったく曖昧な言い様で難
癖をつけるわけだ。失礼にも程がある!いいか?『言い表す言葉を知らない』だとか、そう
して都合のいいときに子供ぶって訳の分からんことを言うくらいなら、最初から黙ってろっ
てもんだ!」
シュミトさんの言葉は、ぎざぎざした刃でプレトとミホナの胸をえぐり、その痛みと怖ろ
しさにとうとう二人の子供の小さな心が音をたてて折れそうとなったそのとき…。
「やれやれ、相も変わらず非科学的かつ非論理的で、しかも到って非理性的な男だな、きみ
は。子供というのは実際、都合のいいときに子供ぶる生きものさ。そんな明々白々の習性を
きみは未だ理解出来ていないのかね」
頭の上から聞こえた、確かに聞き覚えのある低くてせかせか、はきはきとした声にミホナ
とプレトは驚いて声のしたほうを振り返り、同時に驚きの声をあげたのでした。
「科学者先生!!」
シュミトさんを真っ直ぐ見据える眼差しをちらと二人の子供に向けて逸らしながら、科学者
先生は素っ気無く言いました。
「しばらくぶりに会ったのだ、挨拶のときくらい、わたくしのことは正式に『偉大なる科学
者先生』と呼びたまえ」
「きさま!このいんちき科学者め!何しに来た!」
科学者先生を目の前にしたシュミトさんの憎悪の炎は、いまやいよいよばりばり天を衝く
までに燃え上がり、またその声音は幾本も束ねた雷鳴そのもののようでした。けれども科学
者先生は涼しい顔で穏やかに応えるのでした。
「いよいよ非理性的も極まれり、というところだな、シュミトくん。理性を失えば論理的か
つ科学的な見方も出来なくなる。『何しにきた』とは驚いた。何もしにきてはいないさ。素
粒子の不確定性によって、つまりこの世界の壮大な気まぐれによって、たまたまわたくしが
ここにあるだけのことさ。以前教えただろう?そんなことも忘れてしまったかい?」
「うるさい!うるさい!うるさい!このいんちき!いんちきめ!」
「いよいよ言葉遣いも原初的になってきたようだよ、シュミトくん。『いんちき』だって?
きみ、わたくしの教えた科学法則や数理原則を応用して暮らしているわりには、ずいぶんと
また自己矛盾した見解だねえ」
(シュミトさんに科学を教えたのは、科学者先生だったんだ…)
二人の大人の、極めて対照的なやりとりを呆気にとられて見詰めながら、ミホナとプレト
は思いました。けれども、それではなぜ、このように二人は正反対の様子で、特にシュミト
さんは憎しみさえ抱いて、こうして向き合っているのでしょう…。
「う、うるさい!このいんちき科学者め!」
二人の子供の疑問をよそに、シュミトさんは怒鳴り続けるのでした。
「おまえなんか、小難しい数式やら実験やらばかりじゃないか!実際そうした科学を用いて
何かを生み出したり創り出したりなぞ出来やしないくせに!せいぜいあの『キニーネ』とか
いうちっぽけな薬を創るくらいで、ほかには何も、やろうともしないくせに!何も生み出さ
ない科学なぞ、実際用いることの出来ない科学なぞ、無意味だ!」
シュミトさんがそう言い終えた瞬間、ミホナとプレトの耳に、きん、と鋭い耳鳴りが、微
かな痛みさえ伴って響きました。
「言葉を慎むがいい、シュミト!おまえに科学の何たるかを語る資格はない!」
耳鳴りは、科学者先生の言葉の響きでした。そしてこの響きは、シュミトさんのあの暴れ
まわる憎悪の炎をあっというまに吹き消し、いまやミホナとプレトには、シュミトさんの体
が、ひとまわりもふたまわりも、もうすっかり小さくなったように見えました。科学者先生
は元の穏やかな声音となって、そんなシュミトさんをまるで癒すかのように優しく言うので
した。
「シュミトくん。きみは科学を応用してたいそう便利なものを次々と生み出している。確か
にそのこと自体はたいしたものなのだ。しかしながら、きみは応用すべき時と場所を考えな
さ過ぎる。この子供たちの感じた『不自然さ』や『身勝手さ』の原因はそれなのだよ。
「違う…おれだってそのくらい考えてる。行きたい場所に素早く、安全に行けるようにアス
ファルトを敷き、そうしてせっかく作った道が落ち葉で隠されて、痛んでしまわないように
木々にコンクリを塗った…。ここらあたりの照りつける夏の陽射しに負けない建物や空調を
創りだした…。結果としてどれもがおれを快適にしてくれる。おれは間違ってはしない…」
シュミトさんはそう言いましたが、それは『どうだ』と胸を張るような言い様ではなく、
上目遣いにちらちら科学者先生を見ては目を逸らし、そうしたいかにも不安げなものでした
。
「いいかね?」
科学者先生はそうして逸らしがちのシュミトさんの目を穏やかな眼差しで追いかけながら
言うのでした。
「アスファルトで固められた地面は、地中の栄養を作り出すバクテリアや木の根を窒息させ
、結果として地上の木々は弱り、本来以上のたくさんの落ち葉が落ちる。それが邪魔できみ
はコンクリで木々そのものをぬっぺりとした柱に変えてしまう。すると遮るものが無くなっ
た陽射しは、土の地面のようにその熱を吸収することが出来ないアスファルトの地面を容赦
なく焼き、焼かれたアスファルトはさらなる熱気を吐き出す。そうしてすっかり灼熱となっ
たここらあたりの気温を避けようと、きみはあの金ぴかの建物を建て、空調の機械を創りだ
した。けれども、建物に跳ね返された陽射しの熱は、下がることなく建物の周りに澱み、ま
た空調機械は建物の外に膨大な熱を放出してしまう。なぜというに、元々摂氏六十度にもな
っている建物の気温を二十五度くらいに下げるのだから、残りの三十五度は外に放り出すし
かないからね。するとこの建物のあたりはさらに気温が上がり、きみはさらに強力な空調機
械を創る破目となり、また熱で溶けたアスファルトやコンクリも塗りなおさねばならなくな
る…。分かるかね?きみの生み出した本当のもの、それは終わることのない、同じ場所をぐ
るぐるするだけの、不毛な自然との追いかけっこでしかないのだよ」
「仕方ないじゃないか!」
シュミトさんの目に涙が溢れておりました。
「そうするしかないじゃないか!放っておいたら、もうおれはここに住むことが出来なくな
ってしまう。実際、ここらあたりの気温ときたら、陽射しときたら、もうむやみやたらにぐ
んぐん上がり続けるばかりなんだ。どうにかするしかないじゃないか!」
科学者先生は哀しそうな目でシュミトさんを見ながら言いました。
「きみは科学を使いこなしているつもりかもしらんがね、実際のところ、きみは科学にいい
ように使われているのだよ、シュミトくん。ひと度暴走を始めた科学ほど、性質の悪いもの
はない。それはまるで悪魔のように周りのすべてを巻き込みながらむやみやたらに走り続け
る。それを抑し留めるのは、もうほとんど不可能なくらい至難の業だ…。科学を応用し、実
践すること自体は良いことだ。けれどね、それをするときには科学の生来具え持つ悪魔性と
でもいうべき側面をよく考えて、本当に必要な場所で、必要な時に、必要最低限を以って行
うべきなのだよ」
「…使うべき時って、いつさ?使うべき場所って、どこさ?必要最低限って、なにさ?どれ
もこれも、ぜんたい何を以って判断するのさ?」
シュミトさんの言い様は、もはやミホナとプレトには、自分たちと同い年の子供のような
言い様に聞こえました。
「『自然』だよ、シュミトくん。空、大地、風、川、そして動物たち…そうした『自然』が
許してくれる範囲で、『自然』に必要以上に干渉したりしない範囲においてはじめて、科学
はその本来の輝きを放つのだ。自然と調和することではじめて科学は成り立つのだ。『自然
との調和』…。この言葉の意味を人はよく勘違いする。人はこの言葉を口にするとき、科学
は人間のものであるという先入観を持って口にしがちだが、それは違う。科学は『自然のも
の』であって、決して『人間のもの』ではないのだ。『人が自然から科学を生み出した』の
ではなく、『自然が人に科学を与えてくれている』のだ。前者の考え方は『傲慢』を生み、
後者は『謙虚さ』を生む。極めて重大で、決して勘違いしてはならない要点なのだよ。いい
かね、この世界が、自然そのものが、巨大な科学なのだ。我々人間はそのうちのほんのわず
かを共有しているに過ぎないのだよ」
「そんな馬鹿なことってあるものか!人間の科学は、空はおろか宇宙まで飛び、山を削り、
川の流れを変え、海を大地に変える。人間は科学で、洪水やら旱魃や暑さ、寒さを克服して
きた。自然は大事さ。けれど人間はそれを土台として科学を生み出したんだ!科学とは、人
間が自然を土台としてその上に積み上げた、人間の生きるためのものだ。根底だ。これまで
も、これからも、ずっとだ!」
「きみは哀れな男だよ、シュミトくん…。見るがいい」
科学者先生は足元の地面を指差しました。シュミトさんが、そしてミホナもプレトもその
指す先を見ますと、そこには一筋のアスファルトの裂け目が出来ていて、そしてそこから小
さいけれどもいかにも若葉の緑をした、一本の木の芽がのぞいているのです。
「あああ!」
無理矢理にぎりぎり引き絞ったような、なんとも悲痛な叫び声がシュミトさんの口からあ
がりました。
「おれの、おれの道路が、アスファルトが!」
そのシュミトさんの叫び声を合図としたように、アスファルトの道という道すべてに無数
の新たなひび割れがはしり、同じく無数の木の芽がそのひび割れをさらに押し広げ、いっせ
いに咲き誇り始めたのです。
「…シュミトくん。きみがどう思おうと、どう解釈しようと、自然の営みの前では、人間が
無理矢理生み出したような科学は無力だ。自然が科学を生み、育て、見守っているのだ。人
はね、その原則に沿って科学を応用するべきなのだよ。そうした、『自然と沿い合った科学
』のみが、この世界に受け容れられてゆくのだ。これまでも、これからも、ね」
シュミトさんに、科学者先生の最後の言葉は届きませんでした。
シュミトさんはただただ、摘み取っては生え、摘み取っては生えする木の芽を、もうむや
みやたらにあちらへ、こちらへと摘み取ってまわり…けれどもその木の芽は、夏の、雲ひと
つない陽射しに咲き誇る向日葵の勢いでアスファルトを押しのけ、その若く輝く緑青の生命
をいっせいに芽吹かせるのでした。
「ああ…!ああ…!」
摘み取っても摘み取っても追いつかない、いちめんの芽吹きに包まれ、やがてシュミトさ
んの姿はうっすらと薄れてゆき、もうすっかり白くてぼんやり動く霧のようになってゆきま
した。ミホナにもプレトにも、そんなシュミトさんがどうにも可哀そうで、やりきれない気
持ちがして、ただただ言葉も無く、その霧の漂うさまを見守るしかありませんでした。する
とふいに、二人の子供は手に何かが触れるのを感じました。それは、細くて長い科学者先生
の手でした。
【第十三章 刻】
若い木の芽がぐんぐんと育ち、ちょうど辺りが足首ほどのいちめんの緑の野原となったと
き、二人の子供の手を優しく握ったままで、科学者先生が呟くように話し始めました。
「人間はね、往々にして自分たちがこの星の、およそ四十六億年という長い歴史のてっぺん
にいる生きものだと思いがちだ。意識的にせよ、無意識にせよ、ね。けれど、ごらん」
科学者先生は目の前に広がる、いまや見渡す限りの大草原に目を向けて言いました。
「人間の作り出すものも、あるいは人間そのものも、この大自然のなかでは無力に等しい。
たとえば、同じ『生きてゆく』ということについて、動物や植物や昆虫や魚と比べてみると
いい。『生きてゆく』ために、人間ほどたくさんのものを必要とする生きものはいない。動
物に衣服は必要かい?植物に暖房や冷房が必要かい?昆虫のように体が固く頑丈でもなく、
魚のように群青の深海を一晩眺めて過ごすことも出来ない。こう考えると、わたくしには少
なくとも自分たち人間がこの星のてっぺんにいるとは、とても思えないのだよ」
ミホナにもプレトにも、科学者先生の言うことはそのように思えました。けれどもその一
方で、どの生きものがいちばんかということを除いて考えれば、人間の『物を創りだそうと
する心』や、『家族や友だちを想う心』や、『みんなで助け合って生きていこうとする心』
といった、『人間らしさ』のようなものは、それはそれで素晴らしいことのようにも思えま
す。
「ねえ、科学者先生…」
ミホナがすっかり考え込んだ具合で訊きました。
「わたしたちって、人間って、何なのかしら?この自然や他の生きものにとって、わたした
ちは良い生きものなの?悪い生きものなの?…もし悪い生きものだとしたら、わたしもプレ
ちゃんも、科学者先生も、三人のおじいさんも、お父さんもお母さんも、友だちも、みんな
みんな本当はいてはいけない生きものなの?…わたし、すっかり分からないわ」
「きみ、男の子、きみはどう思うね?」
科学者先生から問われて、プレトはすっかり考え込んでしまいました。ミホナの言うよう
に、ぜんたい人間は良い生きものなのか、悪い生きものなのか、そのようなところから最初
は考えてはみるのでしたが、けれども心のなかで、どうにもそううまく割り切れないような
、そのような気がしてくるのです。しばらくぐるぐる頭のなかで考えて、結局プレトはもや
もやした頭のなかに浮かんでくる言葉を、そのまま口にするしかありませんでした。
「科学者先生、ぼくは、確かに山の削られたり、川の堰き止められたり、そういうのを見る
のはたいへんつらいように思いますけど、けれども詩人の人の書いた詩や、画家の人の描い
た絵を読んだり観たりするときは、人間って素晴らしいのだなと、そう思ったりします…だ
から、きっとぼくには人間が良い生きものか悪い生きものか、はっきり言うことは出来ない
ように思います」
『詩』とプレトが口にしたとき、ほんのわずか顔を何やら恥ずかしそうに赤くした科学者
先生でしたが、すぐ元の素っ気無い、それでいて穏やかな、そういう科学者先生独特の、不
思議な表情に戻って話し始めました。
「『突然変異』という言葉は分かるかね?分かるまいな。実はね、この星の長い歴史のなか
では、それはそれはたくさんの、その時代の生きものたちとはたいそう違っている変てこな
生きものが生まれては消え、消えては生まれてきたのだよ。そういう変てこな生きものを総
じて『突然変異体』と呼ぶのだがね、まあ大抵ほとんどの突然変異体は、ほんのわずかの期
間で絶滅してしまっている。それはそうだろう?例えば真夏に毛糸の襟巻きと羊毛の外套を
着込んでいる人を想像したまえ。体の熱が上がりすぎてすぐ病気になってしまう。ほとんど
の突然変異体はこの外套の人のように、その時代の環境に適応出来ずに滅んでいった。けれ
ども、だ。まさにこのか弱い突然変異体こそが、約四十六億年にもわたるこの星の生きもの
の歴史において、ひとつの時代から次の時代へ生命をつなぐ『生命の鎖』となってきたのだ
。さっきの外套を着る人の例えで考えよう。真夏ではすぐ病気となってしまうこの人も、も
し季節が初秋、これからどんどん寒くなる時季だったとしたら、どうなるね?そう、周りの
人々がいや増してゆく寒さに耐え切れず健康を崩してしまうのに対して、この人は羊毛の外
套のおかげでまるで健康だ。すると、最初は怪訝な顔で外套の人を見ていた他の人々も、や
がて寒さをしのぐために外套の人を真似るようになり、いつしか人は外套を身に纏うのが普
通となる。『生命の鎖』とはこういうことさ」
ミホナもプレトも頭に『外套の人』を思い浮かべ、そして、何となくではあっても理解し
ておりました。突然変異体とは、とてもか弱いけれども、『時』と『場所』によっては他の
生きものよりはるかにうまく生き延び、子孫を残してゆけるのです。
「さて、そろそろさきほどの女の子の質問、つまり我々人間はこの世界にとって良い生きも
のなのか、そうではないのか、その答えといこう。わたくしの答えは、『分からない』さ。
いやいや、素粒子はここでは関係ないのだ」
ミホナとプレトの心を先読みして急いでそう付け加えると、科学者先生は『分からない』
理由について話し始めたのでした。
「さきほどわたくしは、突然変異体のほとんどが『わずかな期間』で絶滅した、と言ったが
ね、この『わずか』というのを、一年や十年や百年程度と勘違いしてもらっては困る。ここ
でいう『わずかな期間』とは、大体にして数万年間と考えてくれたまえ。おや、驚いている
ね?ふふ、この星の歴史を思い出したまえ。四十六億年という途方もない歴史と比べれば、
数万年なぞ『わずかな期間』に過ぎないじゃないか。そして、我々栄光の人類の歴史といえ
ば、まさにせいぜいこの『わずかな期間』、数万年程度でしかないのさ。この意味するとこ
ろが分かるかね?」
「わたしたちは、人間は、突然変異体だと、そういうことかしら…」
「ぼく、何となく分かった気がする…」
ミホナの呟きに、プレトのそれが重なりました。
「ねえ、ミホちゃん。ぼくたちはきっとまだ、突然変異体かどうかすらも、はっきりしない
のではないだろうか。それほどにぼくたち人間はまだ短い間しか生きていないんだ。ぼくた
ちがこれからこの世界で生きてゆけるのかどうか、まだまったく分からない程度にしか生き
ていないということではないかな…?」
「そう…そうだわ!きっとそう。だとしたら、この世界にとってわたしたちが良い生きもの
なのか悪い生きものなのか、それはこれからのわたしたちの生き方によるのではないかしら
」
ぱちぱちぱち!
科学者先生が、キニーネの効力を確かめたときのような満面の笑顔で、拍手さえしながら
言いました。
「きみたち、少し見ない間にずいぶんと立派な『大人な子供』になったねえ。まるでこの草
原の若草のように、子供というのもあっという間に育つものだねえ…」
けれども、同じように満面の笑顔で応えたミホナと違い、『草原の若草』という科学者先
生の言葉に、プレトは暗くうつむいて呟きました。
「その、ぼくたちの『生き方』だけれども…ぼくは、ぼくやシュミトさんがやったようなや
り方でいてはいけないように思う…」
「…うん、わたくしもそのように思うよ…」
科学者先生は温かくいたわる視線をプレトに向けながら応えました。
「ねえ、科学者先生。わたしたち、どうして生きてゆけばいいのかしら?先生は答えを知っ
てらっしゃるのでしょう?わたし、教えていただきたいの、どうしても。先生、どうしたら
いいの?」
「きみ、女の子、わたくしはただの『偉大な』科学者でしかないのだよ?人類の未来の予言
なぞ無理さ。言ったろう?我々は『ラプラスの悪魔』なぞではないのだから。我々人類がた
だの突然変異体に過ぎないのか、それとも恐竜みたいに二億年近くの永きに渡ってこの星に
受け容れてもらえる生きものなのか、それは『神のみぞ知る』ならぬ、まさしく『この世界
のみぞ知る』さ。ただね…」
科学者先生は、シュミトさんが消え去った方角を見詰めて言うのでした。
「わたくしはね、どうにもシュミトくんが哀しく思えて仕方ないのだよ…」
二人の子供と一人の科学者は、そうして同じ方角を黙って見詰めながら、いつしか若草の
草原に座り込み、湿った土や落ち葉の香りに包まれて、ずいぶんと長い時間を過ごしました
。
その時間はとても静かに、ゆっくりと流れて、またたいへん温かい時間で、ミホナもプレ
トも、この時間にずっと浸っていたいと、そのように心から願っておりました。けれども、
二人の子供が心の底で予感していたように、やがて『そのとき』はやって来ました。
透き通った、初秋の晴れ空のような澄んだ水色に…そう、『わすれな草の咲いた夏』の表
紙とそっくりの水色に包まれて、草原の景色も、若草の匂いも、すべてがその水色に染み渡
るように薄らぎ始めたのです。
「…ああ、そろそろお別れのときが来たようだねえ…」
科学者先生がぽつりと呟いて、そのときになって初めて、ミホナとプレトはようやく、ず
っとつないだままの科学者先生の手は、とても華奢でほっそりしているけれども、とてもと
てもふんわりと温かいことに気付いたのでした。その温もりを、本当に、本当に手放したく
なくて、ミホナはすがるように言いました。
「先生、科学者先生、もうお別れなんて言わないで…ね?ずっと一緒にいてくださるでしょ
う?実際、いちどはお別れしたのに、いまこうして一緒にいてくださるじゃない。ずっとず
っと一緒でしょう?」
けれども科学者先生はゆっくりと首を振りながら立ち上がり、二人の子供の手をやさしく
ひいて同じように立ち上がらせると、自分は高い背丈を折り曲げて二人の子供の目をじっと
見詰めながら言いました。
「人生という『ものがたり』は、時と場所を遷ろいながら紡がれてゆく。あの三人のじいさ
またちの口癖だがね、けれども実際わたくしもその通りだと思うのだよ。なぜというに、あ
るとき、あるところで経験したことを、次のとき、次の場所へ持ち越して、そうして積み上
げ積み上げしたものがその人を形作り、その人の『ものがたり』を豊かにするからさ。それ
に、ぜんたい人はね、時間も場所も、同じひとつところにとどまっていることは、したくと
も出来ないのだよ。これはね、素粒子のように小さなものから、この星や大宇宙のように巨
きなものまで、すべてに等しく言えることなのだよ。『刻の流れ』さ。すべてのものはその
流れのなかで遷ろいゆく。真の意味での『神』とは、もしそれが『全知全能』を意味するの
なら、実のところこの『刻の流れ』のことなのかもしれないね、ふふふ。さあ、いいかね、
よくお聞き。これからきみたちの経験する数々の苦しいことや哀しいこと、それらはすべて
そのとき、その場所でしか経験できない等しく貴重なもの、『ものがたり』を紡ぐためのか
けがえのない糧なのさ。どんなに辛くとも苦しくとも、やがて『刻の流れ』のなかでやさし
く癒され流れてゆく。少なくともわたくしは心からそう信じている。よく覚えておくのだよ
」
「でも!それでも…もう少しだけ、もう少しだけでいいから、ぼくは先生と一緒にいたい」
「ねえ、先生、お願い。お願いだから…」
そうして涙を流す二人の子供の手をぎゅっと握り締め、科学者先生は言いました。
「このしまは『ひとなつのしま』。きみたちの人生のほんの一瞬、不思議の合間にしか存在
しないしま。始まりがあれば、必然に終わりもある。ごらん、きみたちのお迎えが来たよう
だから…」
科学者先生の目で指す先を二人が振り返り見ますと、空の澄んだ水色の景色はいよいよ強
く、その陽射しの下にはいつのまにか、二人の子供が始めてこのしまに着いたときと同じ、
一本の電信柱の立つ見渡す限りの砂浜と大海原が広がっておりました。そしてその黒く古び
た木の電信柱を真ん中にはさんで、金色の毛並みをしたキツネと、藍色の毛並みをしたキツ
ネが一匹ずつ、前足をきっちりそろえて静かに二人を見詰めていたのです。そして…。
「…科学者先生!」
ふっと手のひらが急に軽くなったのを感じ、ミホナもプレトも慌てて叫びました。つない
だ手のひらにはまだうっすら温もりが残ってはおりましたが、けれども二人の子供が振り返
って砂浜の景色を目にしたそのわずかなあいだに、科学者先生の、あのりんとした鋭く優し
い眼差しも、しゃんと背筋の通った背の高い立ち姿も、もうすっかり見えなくなっていたの
です。
ふわ。
科学者先生の姿を必死の想いで追い求める二人の頬を、ふいに若草の匂いの微かに残る風
がやさしく吹き撫でました。その風は手のひらに残った科学者先生の最後の温もりを消し去
るとともに、小さく小さく、けれども確かに囁きました。
「ミホナちゃん。プレトくん。わたくしは子供は嫌いだよ。けどね…やはりね、わたくしは
きみたちと出会えて嬉しかった。さよなら、さようなら…」
【第十四章 お別れの儀式】
「…このしまはね、思い出の集まる場所なのです」
呆然と、科学者先生の消えてしまった温もりを探し求めるかのように手のひらを撫でてい
るミホナとプレトの背後で、どこか申し訳なさげな、遠慮がちな声がして、二人の子供が振
り返りますと、このしまの『神さま』、あの真珠がかった美しい白い毛並みの神さまと毛並
みの色の違うだけで、ほっそりした目元やら少し笑みを浮かべたような口元やら、あとはも
うすっかりキツネの神さまとそっくりな二匹の大きなキツネのうち、金色の毛並みのキツネ
が二人の子供に話しかけておりました。
「たくさん、たくさんの思い出が集まる場所なのです。あなたがたもご覧になったでしょう
?あの勿忘草の野原を」
けれどもミホナもプレトも、もうすっかり哀しい気持ちでおりましたので、ぼんやりうな
ずいて応えることしか出来ませんでした。すると、藍色のキツネが言いました。
「思い出は確かに大切だよ。けれどね、それでもね、人は思い出だけでは生きていけないの
さ。このしまに住む人は少ないけれど、でもその人たちのことを考えれば、こんどのきみた
ちのように、まだ人生の『ものがたり』を書き終えていない人と出会う機会を、『新しい思
い出』となる出会いをつくってあげないと、あんまり可哀そうだろう?」
「ですからわたしたちは、あの水色の乗船券にそっと息を吹いて、風にのせたのです。その
風はあなたたちにそよぎ、そしてあなたたちはこの『ひとなつのしま』にこうしてやって来
てくれました。ほんとうにありがとうございました」
金色のキツネはそう言うと、藍色のキツネと一緒にぴょこりと頭を下げるのでした。そう
してから、藍色のキツネが言いました。
「きみたちはこのしまで色んな人に会ったろうね。そして色んなことを感じたり考えたりし
たのだろうね。ぼくらには分からないけれど、きっと楽しいことばかりでなく、つらかった
り、哀しかったり、あるいは苦しいときも、たくさん、たくさんあったろうね…。けれど、
そんなきみたちのひと夏は、いま終わろうとしている。あとは、『お別れの儀式』をするば
かりだよ」
「お別れの…儀式?」
ミホナとプレトの呟きに、金色のキツネが応えました。
「そうです。あなたがた二人がひと夏を過ごしたこのしまとの、そしてもうひとつ…あなた
がたお二人のお別れの儀式です」
「ぼくたち二人の…お別れ!?」
プレトが思わず叫びました。
「そうです…。あなたがたお二人の不思議なひと夏はもうすぐ終わります。それはつまり、
あなたがた二人の不思議な出会いの終わりでもあります。不思議が終わり、あなたがたは元
の世界に戻ります。元の『刻の流れ』のなかに戻ります。あなたがたがあの水色の乗船券を
手にした晩に…。心苦しいですが、はっきり申し上げねばなりません。あなたがたお二人は
また元通り、違う場所で暮らす、まったく見ず知らずの他人同士に戻ることとなります」
「…なに、それ?…どうして、どうしてそんなことを?…ねえ、キツネさん、あんまりよ!
あんまりだわ!どうしてそんなにひどいことを仰るの?ねえ、どうして!?」
科学者先生とのあんまり哀しいお別れも癒されぬうちから、今度は他ならぬプレトともお
別れだなんて、ミホナにはもうあんまり残酷にしか思えませんでした。すっかり言葉を失っ
て立ち尽くすプレトも、その気持ちはまったく一緒でした。そんな二人の子供に、藍色のキ
ツネは哀しそうに言うのでした。
「…ごめん、ごめんね、ミホナちゃん、プレトくん…。二人はとっても仲良しになったんだ
ね。きっと嬉しいときも、哀しいときも、ずっとずっと二人で笑い合ったり、歯を食いしば
って耐えたりしてきたんだね。でもね…それでもね、やはりぼくたちはきみたちに『お別れ
の儀式』をしてもらわなければならないんだ。きっと、もうすっかりきみたちはぼくたちの
ことをひどく思うだろうね…」
金色のキツネが、やはりいかにも哀しそうな目で続けました。
「わたしたちは、あなたがたが出会ったこのしまの、あの真珠の毛並みの『神さま』の仲間
です。真珠の毛並みの神さまがこのしまを見守っているように、わたしはミホナさんの、こ
っちの藍色の神さまはプレトさんの、それぞれが元いた世界を、そのあるがままに見守らな
ければなりません。それがわたしたち『神さま』の仕事ですから。木々の林の松の一本や、
群れ咲く野原の向日葵の一本と同じように、ある日突然いなくなってしまったままでは、困
るのです。ひとつの不思議は、不思議ではない普通の世界があってはじめて『不思議』とし
て存在できるのです。あなたがたお二人がこのまま元の世界に戻らなければ、このしまは、
いかにも『不思議』なこのしまは、きっと存在することが出来なくなってしまうでしょう。
なぜならこの世界は、『普通』と『不思議』を常に等しく均衡させているからです。このし
まの不思議が不思議であり続けるためにも、お二人には元の世界へ、『普通』の世界へ、戻
っていただかなければ、困るのです」
プレトは、自分の元いた世界を見守っているという藍色のキツネの神さまをきっとにらん
で言いました。金色のキツネの神さまの言うことは、確かにその通りかもしれませんが、そ
れでもやはりひどく身勝手に思えて仕方ないのです。
「キツネの神さま、神さまにこんなことを言ってはいけないし、失礼なのかもしれないけれ
ど、それでもぼくは、神さまたちはあんまりひどいと思います。だって実際、あの水色の乗
船券を風にのせたのは神さまたちなのでしょう?そうしておいて、ぼくとミホちゃんをすっ
かり仲良くさせておいて、けれども『突然いなくなっては困る』とか、『このしまが存在で
きなくなってしまう』とか、そうしてぼくたちを哀しい気持ちにばかりさせて…ぼくは神さ
またちのしたことは、あんまりだと思う。そう、本当にあんまりです!」
「そう…その通りかもしれないね…」
藍色のキツネの神さまは、うつむいて呟くのでした。
「このしまの人たちのためにしたことだけど、確かにきみたち二人にはあんまりつらいひと
夏になってしまうのは、そう、確かだよね…。けれどね、この世界のすべての生きものは、
このようにしてつながっているようにぼくたちには思えるんだ。つまりね、ある生きものに
とって良いことや嬉しいことが起きれば、別の生きものにはそれがひどく哀しく、つらいこ
とにもなる。その逆も言えるだろうね…。ひとつだけ確かなことは、みんなみんな、生きと
し生けるものはみんな、必ずどこかでそうしてつながっているということ。人間さんはとき
にそれを『輪廻』とか言うようだけれど、ぼくらはその『輪廻』とかいう、くるくるまわっ
てつながり続ける生きもの同士の関係を、あらゆる生きものになるたけ平等となるように見
守るのが仕事なんだ。この夏、このしまは確かにきみたちを必要としていた。きみたちが来
てくれたこと、ほんとうに感謝しているんだ。ほんとに、ほんとにありがとう。けれどね、
やはりね、そんなきみたちにぼくらがしてあげられることといえば、きみたち二人の心から
、この夏のこと、このしまでのこと、そしてきみたち二人、お互いのことを、せめてすっか
り消し去って、忘れさせて、そのうえであの水色の乗船券の夜に戻してあげることしか出来
ないんだ」
ミホナがとうとう耐え切れずに、ぽろぽろぽろぽろ大粒の涙もそのままに、これ以上ない
くらいの哀しい声をあげました。
「なぜ?なぜそんなことをするの!プレちゃんとお別れして、そのうえこのしまでのことを
全部忘れさせるなんて!真珠の毛並みの神さまも、科学者先生も、松原上等兵さんも、三人
のおじいさんも、あの可哀そうなシュミトさんのことも、全部全部忘れるなんて、そんなこ
と出来るわけないじゃない!真珠の毛並みの神さまがくれた竹筒のお水の美味しさ、科学者
先生の不思議なお話し、松原上等兵さんの大切な伝言、三人のおじいさんとたくさん働いて
作った『わすれな草の咲いた夏』、シュミトさんの可哀そうな背中…みんなみんな忘れるこ
となんて出来ない!忘れてはいけない大切なことばかりなのに…!」
嬉しさも楽しさも、哀しみもつらさも、全部全部一緒にわかち合ってきた二人。ひとつず
つ大切に紡いできた、二人でひとつの想い出。成長の記憶。大切な、大切な友だち。心から
の友だち。その友だちがいま、失われようとしているのです。
ミホナはもう何も言うことが出来ず、その場に泣き崩れてしまいました。プレトもそんな
ミホナの肩をぎゅっと抱きしめながら、支えようとしながら、それでも自分の頬を大粒の涙
が次から次へと零れ落ちるのをどうすることも出来ませんでした。
そして、そんな二人の子供を見守る二匹の神さまも、やはりうっすら涙を浮かべておりま
した。
とてもとても長い、静かな時間が流れ、ミホナとプレトの目から、もう流す涙もすっかり
枯れ果ててしまったころ、金色のキツネの神さまがそうっと二人の子供に語りかけ始めまし
た。
「ミホナさん、プレトさん…。ほんの気休めかもしれませんが、聞いていただけますか。厳
密に申し上げれば、わたしたちはこのしまでの全てをあなたがたから消し去るわけではあり
ません。わたしたちが消し去ることが出来るのは、このしまの景色、このしまでの出来事、
このしまで手にした物、そしてこのしまでの出会いのみです。どういうことか分かりますか
?つまり、このしまでの数々の出来事や出会いを通じてあなたがたが得た、物事に対する感
じ方、考え方、捉え方、そうした『心で得たもの』について、わたしたちは消し去ることは
出来ませんし、そもそもするつもりもありません。あなたがたは、おそらく色々なこと、そ
う、たとえば友情や、科学や、戦争や、人生や、そうした事柄について様々に感じ、また考
えたのでしょう?そうして感じたこと、考えたことは、あなたがたの心のなかにしっかりと
刻まれ、あなたがたの一部としてすっかり溶け込んでいます。わたしたちが消し去るのは、
それらが具体的に誰から、どのような会話や出来事を通じて心に刻まれ、取り込まれたのか
ということだけです。刻まれたもの、取り込まれたもの自体はわたしたちにも、誰にも、消
し去ることなぞ出来ません。なぜならそれらはあなたがたの人生という『ものがたり』を彩
る、欠かすことの出来ない宝ものだからです。どうかそれだけは分かっていただきたいと思
うのです」
『ものがたり』…。
金色のキツネの神さまの一言が、ミホナとプレトの胸にぽつりと小さな灯を燈しました。
ものがたり。それは時と場所を遷ろいながら、紡がれてゆくもの。
ものがたり。それはあるとき、ある場所で経験したことを次のとき、次の場所へ積み上げ
ることで形作られ、豊かになってゆくもの。
ものがたり。それは戦争による悲惨な死、途方もなく虚しい『無駄死に』も含め、様々な
理由で生命尽きた勿忘草を素として刻まれてゆく言葉。自分たちが何としても伝え続けねば
ならない言葉。
どんなにつらく、哀しい出来事も、そのとき、その場所でしか得ることの出来ない『もの
がたりの貴重な糧』であり、澱み留まることのない『刻の流れ』のなかで、やがてやさしく
癒されるもの…。
ミホナとプレトは、自分たちがいかに大切なことをこのしまのひと夏から学んだことか、
ようやくにして気付きました。キツネの神さま、科学者先生、松原上等兵、三人のおじいさ
ん、シュミトさん、そして、他ならぬミホナとプレト、お互いのこと…。忘れてしまうのは
とても、とてもつらくて哀しいけれど、だからといってこの『ひとなつのしま』にしがみつ
くことで、何かが生まれるのでしょうか。紡がれるのでしょうか。「よくとどまってくれた
」と、このしまの誰かがそうして喜んで迎えてくれるでしょうか。この大切な、大切な『ひ
となつ』を本当の意味でひかり輝くものとするには…そうするには…。
「…『お別れの儀式』って、どうすればいいのですか…?」
ミホナが呟くように訊き、プレトはキツネの神さまの答えを待ちました。
「…握手をして、心からの『さよなら』を交わす。それが『お別れの儀式』です」
金色のキツネの神さまが言い、藍色のキツネの神さまがこくりと頷きました。
プレトは、真珠色のキツネの神さまからいただいた竹筒と竹皮、そしておじいさんたちと
作った『わすれな草の咲いた夏』の表紙をゆっくり、ゆっくりと撫でてから、その三つすべ
てを大切に胸にぎゅっと抱きしめているミホナを見詰めました。
「ミホちゃん…」
「…うん」
ミホナもまた、プレトをしっかりと見詰めて、そして言いました。
「真珠色のキツネの神さま、本当にきらきらでふわふわのきれいな毛色だったわ」
「科学者先生、最後の最後に、ぼくらをちゃんと名前で呼んでくれたね」
「照れ屋さんなのよ。わたし、ずいぶん最初のほうから気付いてたわ」
「松原上等兵の言葉、ぼくはしっかりと心に刻んだよ。ずっとずっと、ぼく伝え続けるよ」
「三人のおじいさんたち、きっと喜んでくだすってるわ。わたし、『気持ちの手紙』を出し
続けるわ」
「シュミトさんは、またコンクリを塗り始めたろうか」
「きっとね。でも大丈夫よ。シュミトさんは決して悪い人ではないし、していることすべて
が間違いというわけでもないし…」
「そうだね。それに科学者先生もいるものね。きっと今度は大丈夫だね」
「…。」
「…。」
そうして、プレトはすっと、ミホナに手を差し出して、言いました。
「…ミホちゃん。ぼくは、ミホちゃんと過ごせてほんとうに良かった…。これから後のこと
は、ぼく今は考えない。いまミホちゃんとこうして向き合っている嬉しさで、心をいっぱい
にする。そう、いっぱい、いっぱいにして、その嬉しさで『ものがたり』を豊かにしようと
…そう思う…」
そう言うプレトの声は、最後のほうでゆらゆら震えておりました。枯れ果ててしまったは
ずの涙がまた、頬を伝い始めておりました。けれども流れる雫はそのままに、プレトは精一
杯の笑顔を浮かべました。
差し出されたプレトの手をじっと見詰めて、ミホナが言いました。
「ね、プレちゃん…。わたしね、きっとプレちゃんのこと、覚えてるわ。そんな気がするの
。キツネの神さまの言う通り、プレちゃんの顔とか声とか、忘れてしまうのかもしれない。
けどね…それでもね…やっぱりわたしきっと…覚えてるから。きっと、きっと、覚えてるか
ら…」
ミホナの頬にも、涙が流れました。二人の子供の流す雫は、空と、海と、白い砂浜のひか
りに照らされて、とても、とてもきれいな、素適に澄んだ水色に輝いておりました。
ミホナの手がプレトの頬を撫で、そしてそれから二人の子供の小さな手は、しっかりと結
ばれました。涙の雫とまったく同じ、素適な水色の最後のあいさつとともに…。
『さよなら。きっとまた、どこかで…ね』
【終章 勿忘草】
その男の人は、大きな大きな建物があちこちにある街を、ぐいぐいたいそう忙しなく早足
に歩いておりました。もうずいぶん長い間そうして歩いておりましたので、男の人の額には
すっかり汗さえ浮かんでおります。まったくそんな具合でしたから、大きな建物にはさまれ
た細い路地を曲がった先に、人のいるのに気付いたのは、男の人の肩がすっかりその人の肩
とぶつかってしまったあとのことでした。
「きゃっ!」
とても透き通った、小さな叫び声がして、それからばさりと鞄の落ちる音がしました。
「や!しまった!ぼくとしたことが…お怪我はありませんか?…本当に失礼しました。申し
訳ありません」
そうして慌てて謝る男の人の視線の先には、すっかり驚いて頬を赤く染めた女の人がおり
ました。
すん、と筋の通った細くて高い鼻、少し薄くて上向いた唇、きらきらして柔らかく風にそ
よいでいる少し短めの髪。それだけでも十分綺麗な人でしたが、なにより、大きくて茶色が
かったその女の人の瞳がとても澄んでいて、男の人はいっそう慌ててしまい、急いで道に落
ちたままの女の人の鞄を拾おうと身をかがめたとき、その瞳と同じくらい澄んだ響きの、女
の人の声が聞こえました。そう、その声はたとえば、夏の夜の森のなかで、どこからともな
く微かに吹いてくる涼しい風のようにさわやかで、心地良い響きのする声でした。
「…偉大なる科学者先生みたい…」
「え?」
半分かがんだまま驚いた具合に見上げる男の人の視線を受けて、女の人は我に返ったよう
に少し恥ずかしげに言いました。
「あ、いえ…わたしのほうこそごめんなさい。あんまり夕焼けが綺麗で、少しぼうっと見上
げてばかりいたものですから…」
「いや、ぼくが悪いのです。大学の授業に遅れそうだったもので、つい…」
男の人は鞄を手に立ち上がりますと、女の人に手渡しながら言いました。
「どうもぼくは夢中になると周りが見えなくなる癖があるようで…友人からよく言われるの
です。『きみはいつも昼間の猫のようだ』と。ほら、昼間の猫の目はあんまり細いでしょう
?ぼくの、夢中になると視野のせまくなる癖をそれにひっかけるのですよ」
「まあ、ふふふ」
女の人は茶色の瞳をいたずらっぽくいっそう大きくして澄んだ笑い声をあげました。
「そんなに急いでらしたのなら、早く行かないと…すっかり遅れてしまいますよ?」
「ええ…では、本当に失礼しました」
男の人はそうして女の人に背を向けて、けれども二、三歩ゆきかけて、はたと立ち止まり
ました。
(なんだろうこの感じは…ぼくはあの人とどこかで以前会った気がする…それに、さっきの
あの言葉…『偉大なる科学者先生』って…もしや)
男の人が振り返りますと、おかしなことに女の人も小首を傾げ、頬に手をあててこちらを
見ているのです。
「…あの…」
女の人がいかにも遠慮がちな声で言いました。
「お急ぎのところご迷惑でしょうけれど…わたしたち、以前どこかでお会いしたことはなか
ったでしょうか…?あ、いえ、やはりきっとわたしの勘違いね…すいません」
「いや、迷惑なんて、そんなことは…。おかしいですね、実はちょうどぼくもあなたと同じ
ように感じて、それであなたを振り返ったのですよ」
「まあ!でもおかしいわ…わたしずいぶんと物覚えは良いほうなんですけれど、まったく思
い出せないなんて…」
「ぼくもです、偶然や思い違いとはどこか異なる気がして…。ところで、あなたはさっき、
確か『偉大なる科学者先生』と仰いましたね?奇妙で不躾な質問とお思いでしょうが、あの
言葉はどこから…」
「やだ…」
女の人はすっかり恥ずかしそうに顔を赤らめて言いました。
「ごめんなさい、たいした意味ではないんです。わたしったらつい…あなたが、わたしの大
切にしている本の登場人物に、姿も仕草もあんまり似ているように思えて…」
「そ、そ、それって!」
男の人があんまり大きく叫びましたので、路地を往き交う人たちが驚いて振り返りました
。男の人は恥ずかしそうに小声になって、けれども明らかに興奮した様子で女の人に訊きま
した。
「その本ってもしや、『わすれな草の咲いた夏』という本ではありませんか?」
「まあ!」
今度は女の人が大きく驚きの声をあげましたので、周りの人は、ぜんたいあの二人は何を
話しているのだろうと、そのような怪訝な顔で往き過ぎていきます。けれどももはや女の人
は、そのようなことを気にする具合でもなく、すっかり驚いた様子で鞄の中から一冊の、と
ても古びた本を取り出して、男の人に手渡しながら訊き返すのでした。
「あなたの仰った『わすれな草の咲いた夏』って…この本?」
「ええ、ええ、そうです!これは驚いた!ぼくはこの本を持っている人を、あなた以外知ら
ないのです」
「わたしもよ!なんて偶然かしら!わたし、ずいぶん子供の頃からこの本を持っているの。
ほんとうに大好きで、大切で、こうして今でも、いつも持ち歩いているくらいなのに、けれ
ども、どこでどうして手に入れたのかまったく覚えてなくて…」
「ぼくもまったく同じなのです!ですから気になって、ずいぶんとたくさんの友だちや、図
書館の司書の方にさえ訊いてみても、みんな『そんな本は聞いたことがない』と、そう言う
のです。いや、まったく驚いたな…。あの、もしあなたさえよければ、少し中身を拝見して
もよろしいでしょうか?」
「もちろん…けれど、授業は?急いでらしたのでしょう?」
「なにを言うのです。こんな貴重な体験を見逃すなんて出来ません。今日は休みます」
まあ、といたずらっぽい瞳で笑ってから、女の人が訊きました。
「大学では、何を勉強なさっているの?」
「自然科学です。大自然と科学は、どうしたらいちばんよい具合に調和出来るかを研究して
います。あなたも大学生ですか?」
「ええ。文学部なの。大学をでたら出版社で本を作る仕事がしたくて」
「やあ、それは素晴らしいですね。いや実際、文学や音楽や絵画といった芸術ほど、自然と
よく調和しているものはありませんからね。ではお言葉に甘えて…」
そう言うと、男の人は本の最初の数頁をめくり、それから、おや?というように呟きまし
た。
「これはどうしたことだろう…。表紙も題字も、物語の大筋も同じようだけれど、ぼくの本
とは微妙に表現の仕方や構成が違いますね…何より主人公が別人です。ぼくの持っている本
は男の子が主人公で、ちなみにぼくとおんなじ名前なのですが…」
「え!」
女の人がまた大声をあげて、言いました。
「わたし、主人公の女の子とおんなじ名前なのよ!」
「何ですって!これは不思議だ!本当に不思議だ!」
男の人も大声で驚いて、もうこのころには路地を往き交う人たちもすっかり足をとめて、
二人のやりとりを不思議そうに見詰めておりました。
「…ぼくたちはどうも、通行人の人たちにわるいようですね」
「ふふふ、そうみたい。でもきっとこれからもっと驚かせてしまうわ。だってこの本には、
まだまだ不思議な秘密がいっぱい詰まっていそうだもの」
本当に嬉しそうに笑いながら言う女の人に、男の人はすっかり恥ずかしそうに、喉をえへ
んえへんと妙に詰まらせながら言いました。
「あの、その…もしよろしければ、これからぼくの大学へ来ませんか?もうさほど遠くでも
ないですし、大学にはくぬぎの並木道さえあって、それはたいそう気持ちの良い景色なので
す。並木道をご案内したら、それから図書館へ行って、あなたと一緒に、この本のことや、
ぼく自身のことや…あなたのことなども交えながら、お話しできるといいのですが…」
女の人は少し恥ずかしげに、けれどもすぐにとても嬉しそうに、いたずらっぽい笑顔を浮
かべて言いました。
「きっとわたしたち、こんどは図書館の人たちを驚かせてしまうわね」
男の人と女の人が楽しそうに肩をならべて立ち去った路地の隅には、大きな建物にはさま
れて、小さく古ぼけた祠がありました。
まったく小さく、たいそう色もくすんだ古い祠でしたから、男の人も女の人も、路地を往
き交う人たちさえも気付くことはありませんでしたが、もし気付いていたら、そしてもしそ
の前でじっと耳をすませていたら、微かに微かに囁きあう二つの声が聞こえていたかもしれ
ません。
「うふふ」
「ふふ」
「わたしたち、少しだけずるっこでしたね」
「けれどあの子らは、あんなにつらそうに別れたもの、仕方ないさ」
「わたしたち、うそつきでしたね。『しまのものは何一つ持ち出せない』なんて」
「けれど良いうそつきさ。だってあの二人、さっきはあんなに嬉しそうだったもの」
「ええ。ほんとうに嬉しそうでしたねえ」
「それにさ、人間はみんなぼくらを神さまみたいに言うけれど、ぼくらはぼくらでしかない
もの」
「ええ、ほんとうに。でしたら、少しばかりずるっこしたって、いいですね」
「うふふ」
「ふふ」
誰が捧げたものでしょう。祠に供えられた二本の勿忘草に、かすかに秋の香りのする風が
そよぎ、その水色の小さな花は夕暮れをうつしてふわり、やさしく静かに揺れておりました
。
【あとがき 読者のみなさまへ】
黒目川に沿ってわずかに盛り上がり、けれどこんもりと木々の生い茂る城山公園は、かつ
てプレトが『アンタレスの森』と呼んでいた丘です。
夏の青葉の香りのなかで、あるいはしんとした冬の透明な夜のなかで、わたくしは確かに
この丘のてっぺんのあたりにいて、そしてミホナとプレトの声を聞いたように思います。
わたくしは二人の子供の声のするあとを、とても、とてもわくわくする気持ちで追いかけ
て、けれども、ときにはじっと考え込んだり、また、たばこの一本に火を点けたりもしなが
ら、ようやくその後ろ姿を、インキと活字で紙に刷り終えました。
およそ三十年ちかくかけて紡がれたこの物語は、大体にして、わたくしがアンタレスの森
のてっぺんあたりで聞いた声の、その通りに語られていると、わたくしは信じます。
願わくば、この物語の語る物事や出来事が、みなさまのなかで、人生という長い長い物語
と同じように、時と場所を遷ろいながら、決してひとときに白か黒かと思い定められること
なく、ずっとずっと流れ続けますように。
ときに白く、あるいは黒く見えながら、けれども、いつもわずかにどこか混ざり合って、
白っぽかったり、黒っぽかったり、そうした心象の中間に浮かぶ透明な色が、みなさまのな
かで保ち続けられるとすれば、わたくしはそれをこのうえなく幸いに思います。
このようなことをぼんやりと考えながら、わたくしは今日か明日にもまた、アンタレスの
森へ行ってみようと思います。実際、森へと続く川沿いの道ときたら、川底のさほど深くも
ないくせに鴨やら鯉やら、ときには山羊さえいて、それはもうほんとうに気持ちの良いもの
なのです。
【追悼】
偉大なる『心象の人』、宮沢賢治に。
電燈は失われても、ひかりはいかにも確かにかに保ち続けております。
あらゆる天災と、哀しき人災に失われし、あまりに多くの勿忘草に。
わたくしたちのなかで、あなたの『ものがたり』は保ち続けております。
刻よ、すべてをやさしく包み、癒し給え。
(作中の詩『屈折率』は、筑摩書房刊 宮沢賢治全集第一巻より部分引用したものである)




