前編
わすれな草の咲いた夏
【序】
きらりとむすんだひかりが、若草のにおいのする夜空に舞いました。
そのひかりはやがてふたつに分かれ、それぞれ正反対の方角へ流れ落ちてゆきましたけれ
ども、あんまり小さく、また細くひかってばかりでしたから、たとえば神社の御神木くらい
大きい望遠鏡を、それこそ一日中覗き込んでばかりのような人にさえ、そのひかりはおそら
く届かなかったろうとわたくしは思います。
けれども、動物や植物や、魚や昆虫たちには、そのひかりは琥珀くらいにとてもきれいに
輝いていて、そしてみんなはきっと、なにかわくわくするような、素適にやさしい眼差しで
、そのひかりの流れるのを眺めていたに違いありません。
これからわたくしのするお話しは、そんなふうに動物たちにふわり、やさしく見守られた
ひかりの物語です。
【第一章 真夜中の郵便物】
「きゃっ」
叫びながらミホナは夏掛けの薄い布団をはねのけてベッドの上にとびおきました。
けれどもすぐに頭が何やら変にぼんやりして、自分が出したさっきの叫び声も、もしかす
ると自分のものではなかったような気がします。ぐっすり眠っていたはずなのに、急にとて
も怖いような、あるいはとても不思議なような、そんなおかしな夢を見た気が、確かにしま
す。夢なら夢で、たいていはそれがどんな夢だったのか、おぼろげでも覚えているはずなの
に、もうまったく思い出せないのです。そのくせ、怖いような、不思議なような、とにかく
『夢を見た』ということだけは、自分のなかでもうとてもはっきりしているのです。こんな
わけのわからない気持ちは、ミホナには初めてのことでした。
ミホナはまるですがりつくような思いで、ベッド脇の置時計を手に取りました。
いま感じているこの変てこな気持ちがどんどん強くなってくるように思われて、一秒一秒
確かに時を刻み続ける『時間』というものにすがりつきたいという気持ちを、ミホナは抑え
ることができませんでした。
時計の針は、午前二時を指しておりました。
(午前二時!?)
ミホナは小学六年生となった今まで、大晦日の夜でさえこんなに遅い時間に起きているこ
となぞ一度もありませんでしたので、もうすっかりびっくりしてしまいました。
ミホナが初めて見る午前二時の部屋のなかは、なにやらぼんやり青白く照らされていて、
それはどうやら月のひかりが、いつもミホナがベッドに入る時間よりも、とてもとても大き
く明るく輝いているせいのようです。
(きれい…)
ミホナは窓から見えている、今まで見たこともない、大きく明るく輝く月のひかりに、
さっきの変てこな気持ちなぞどうでもよいと思えてくるくらい、もうすっかり見入ってしま
いました。
どのくらいのあいだそうしていたのでしょう。ふとミホナは普段見慣れている部屋の何か
が違うような、そんな気がしてきました。
部屋のなかはいつもよりたいそう明るい月のひかりのおかげで真夜中とは思えないくらい
隅々までよく見えるのです。ミホナはまず自分がちょこんと座っているベッドを見、何もお
かしなところがないのを確かめると次はドア、そして本棚という具合に部屋のなかをベッド
に座ったまま目だけで順番に確かめ始めました。するとおかしなことに、さっきの変てこな
気持ちはすっかり消えて、不思議と何やら宝探しをしているような、そんなわくわくするよ
うな気持ちがしてくるのです。
(きっとなにかあるわ。それもとても素適なものが)
そうして本棚に続いて勉強机に目をやったとき、ふいにどくんと胸がひとつ大きく跳ねま
した。
(ここだわ。きっとここよ)
ミホナはベッドから降り、ゆっくりゆっくり勉強机に近づいてゆきました。そしてとうと
う、ミホナの大好きな淡い水色をした、ちょうどてのひらほどの大きさの、うすい一枚の葉
書のような紙をそこに見つけたのです。
ミホナはお母さんの言いつけを守って、いつも寝る前には机の上をきれいに片付けており
ました。今夜も確かに机の上をすっかり片付けてからベッドに入ったことをはっきり覚えて
おりましたし、なによりミホナは今まで、目の前の机にぽつんと置かれた一枚の紙のように
、素適に淡く輝く水色を目にしたことなぞありませんでした。
(なんてきれいなのかしら)
ミホナはなぜそこにこんなに素適に輝くものが置かれているのか、いったい誰が置いたの
か、そういったことを考えるのも忘れて、もうすっかりその水色に見入ってしまいました。
月のひかりに浮かび上がってほんのりきらきら輝くそれは、もうまるきりその一枚の紙の
なかにひとつの透き通った湖があって、月のひかりによって、静かなその水面が、青白く淡
い水色に照らされてうつっているように思えるのでした。
ミホナはすっかりうれしくなって、どうしてもその水面に触れてみたくなり、そうっとゆ
っくり静かに手を伸ばしました。そうしないと湖の水がこぼれてしまうように思えたのです
。そうしてあとほんの少しでその水面に触れることができるというそのとき、今まで確かに
水色一色でしかなかった紙の水面に、なにやら点々と白い粒のようなものが浮かび上がって
きたのです。
驚いたミホナが手を引っ込めて見守るうちに、それらの粒々はお互いにくっつき始め、や
がてこのような文字となりました。
『ミホナさま』
今度こそもうすっかりびっくりして、ミホナは素早くその紙を手に取りますと、鼻のあた
まがくっつくくらい近くまで持ってきて、じっとその文字を見つめました。けれどもどれだ
け見つめても、文字は消えたり変わったりする様子はなく、また新しく浮かび上がってくる
ようでもなさそうでしたので、ミホナは紙を裏返してみました。
表側と同じく紙の裏側もそれはそれは素適な水色で、また同じように白い粒々の文字が浮
かんではおりましたが、けれども書かれてあることはまるで違う言葉で、ミホナはその言葉
を読んだ途端、ほんとうに目をまるくしてしまいました。
『じょうせんけん しまゆき のる のらない どちらかにまる』
(じょうせんけん?お船に乗るってこと?しまゆきって…どこのしま?)
ミホナの頭のなかはもうはてなでいっぱいです。こんなにきれいな水色の紙が突然現れた
だけでもほんとうにびっくりしたのに、そのうえ文字まで浮かんできて、しかも『じょうせ
んけん』だなんて…。
ミホナは紙に浮かんだ『のる のらない』の文字をしばらく呆然と見ておりましたが、や
がてびっくりした気持ちが少しずつ落ち着いてきて、するとなにやらこれはとてもとても素
適なことのような、そんなわくわくした気持ちがしてくるのです。もうこのころには、ミホ
ナにとって、この紙はいったいなにで、どうしてここにあるのか、そんなことはどうでもよ
いことになっておりました。
(もし、もしもだけど、わたしが『のる』のほうに丸をつけたとしたら、そのあと何が起こ
るのかしら。きっと、きっとまた新しく何かが起こるわ。だってここにはこの乗船券で乗る
お船がどんなお船で、どこから乗るのかとか、何ていう名前のしまに行くのかとか、もうま
ったく書かれてないのだもの。もしかすると誰かが迎えにきてくれて、それで何もかも教え
てくれるのかしら。それともまた新しい紙が届いて、そこにぜんぶ書かれてあるのかしら。
そう、こっちのほうがいいわ。だって新しい紙はきっとまた素適できれいな水色をしている
と思うもの)
ミホナはこの考えにもうすっかり夢中になって、机のペン立てからいちばんお気に入りの
ペンを手にとって、『のる』と書かれた文字にくっきりと大きく丸を書き入れようとしまし
たが、ペン先が紙に触れる寸前になって、こんなに素適な色をした紙になんだか傷をつけよ
うとしているような気がして、慌ててペン先を引っ込めてしまいました。
(どうしよう。これでは全然お返事ができないわ。これを送ってくれたひと、どこの誰かも
分からないけれど、そう、こんなきれいな紙を持っているひとだから、きっとこの水色と同
じくらい素適なひとだろうけれど、そのひとったら、もう少し普通の、こんなに素適で丸印
をつけるのがもったいないような紙を選ばないでくれたらよかったのに。そうしたらきっと
わたし、もうすぐにでも『のる』に大きな丸をつけていたわ)
ミホナはもうすっかりこの『じょうせんけん』で船に乗り、どこだか分からないけれども
『しま』へ行くことに決めてしまいましたが、けれどもやはりこんなにきれいな紙に丸を書
き入れることはもったいなくてとてもできそうにありません。ぐるぐるぐるぐると、なんと
かして紙をきれいに保ったままでお返事できる方法がないものかと考え続けましたが、よい
方法は浮かんできません。そうしているうちにもうすっかり眠くなってしまって、仕方なく
机の引き出しからいちばんお気に入りの水色のメモ帳を取り出して、『じょうせんけん』の
横にそっと置いてからベッドに戻り、そのまますとんと、眠りに落ちてしまいました。
そのメモ帳には、用紙からはみだすくらいに大きく、こう書かれておりました。
『のります ミホナ』
【第二章 アンタレスの野原】
北海道の白い壁の家でミホナがすとんと眠りに落ちたころ、九州のプレトの家の一部屋に
小さな小さな明かりが灯りました。
プレトは眠たい目をこすり、明かりの点いた懐中電灯を持ったまま、ひとつ大きな伸びを
すると、そっと静かにベッドから抜け出しました。ベッドの横の、ごちゃごちゃした勉強机
の時計を見ますと、午前三時半を指しています。プレトは着ていた寝巻きを、ベッドの下に
隠しておいた洋服に着替えながら、決めていた時間にきちんと起きることができたことにま
ずほっとして、それからこの後のことを想いやり、もう本当にうれしく、わくわくわくわく
するのでした。
『アンタレスの森』までは歩いて十五分くらいですから、友だちのヒロ君との、四時に森
の入り口でという約束にはじゅうぶんに時間があります。そっと足音のしないように部屋を
出て、階段で一階に降り、玄関の鍵を静かに開けて外に出たところまではうまくいきました
が、持っていた家の合鍵で玄関の鍵を閉めた途端、ガチャリと、普段は気にもしない鍵のか
かる音がとてもとても大きく鳴り、その音は家の前の、通りの端から端まで響き渡ったかの
ように思えて、プレトは思わず頭を両手に抱えてうずくまってしまいました。けれどもやが
て、しんと静まり返った家も、通りも、すべてがしんと静まり返ったままであることが分か
ると、プレトはまだ少しどきどきしている胸もそのままに、もうまるで風になった気持ちで
一気にアンタレスの森までの道を走り始めました。
さっきまで、鍵の閉まる音でお父さんやお母さんを起こしてしまったのではと、そうおび
えてどきどきしていた胸は今や、これから始まるヒロ君との真夜中の冒険のことを想って、
嬉しさと興奮にどきどきと、いっそう高鳴ってはちきれそうです。
夏休みが始まってすぐ、プレトとヒロ君は、今年の夏には絶対に、今まで見たこともない
ような大きくて、てらてらと黒く輝くクワガタを一緒に捕ろう、と約束していました。とこ
ろが今年の夏の始めの頃は、あんまり梅雨の長引いたせいでぼんやりとした日が多く、八月
に入ってようやく、お陽さまが今までの遅れを取り戻そうとするかのようにすっかり晴れ上
がるようになり、そこで今夜いよいよ約束を実行することとなったのです。
クワガタを捕るなら、夜と朝のちょうど境目の時間がいちばんです。けれども真夜中とい
うか早朝というか、とにかくそのような時間に起きているのはお巡りさんと消防士さんくら
いのもので、もしかすると新聞屋さんや牛乳屋さんもまた、起きているのかもしれませんが
、プレトやヒロ君のような子供は、もうみんなすっかり眠っている時間です。そのような時
間に子供だけで外に、しかも森に出かけるなぞ、お父さんもお母さんも許してくださいそう
にありません。もしかするとお父さんは、「子供だけでなくお父さんも一緒ならいいだろう
」と許していただけたかもしれませんが、遅い梅雨の明けるのを待っているあいだに、たと
えクワガタが見つけられなくてもいい、それよりヒロ君と二人きりで夜の森を冒険して歩く
ほうがよほど面白いようにプレトには思えてきておりましたので、とうとう今夜のことは、
お父さんにもお母さんにも内緒にしておいたのでした。
『アンタレスの森』というのは、秋になるとあんまり紅葉が真っ赤に美しいので、学校の理
科の先生がさそり座の赤い星、アンタレスのようだと仰って、名づけられた森です。森とい
ってもせいぜい学校の校庭くらいの広さしかないので、理科の先生以外の先生方や、クラス
のみんなのお父さんやお母さんといった大人の方々は、学校裏の雑木林というようにしかお
呼びにならないのですが、三階建ての学校の校舎の屋上が見下ろせるくらいこんもり盛り上
がっておりますし、木だってみんな、プレトたち小学六年生が三人で手をつないでやっと囲
えるくらいに太くて立派で、鳥たちはたくさん、キツネやタヌキだっているくらいですから
、やはりプレトには雑木林なぞではなく、『アンタレスの森』としか思えないのでした。
アンタレスの森の入り口、せまい林道の前に着いたときには、プレトはそれまであんまり
懸命に走り続けておりましたので、もうすっかり疲れて、道の脇にふらふら座り込んでしま
うほどでした。けれども、そうしたおかげでヒロ君との約束の時間まではまだ十五分と少し
、残っておりました。プレトは、はあはあいう自分の息を聞きながらしばらく休んでおりま
したが、やがてそれがおさまると、アンタレスの森の奥のほうから、とてもゆっくり静かに
吹き降りてくる涼しい風と、その風の、木々の葉っぱや、少し湿った、落ち葉混じりの土の
いい匂いのすることに気づいて、もう本当に嬉しくなってしまいました。
(ヒロ君がきたら、もうきっとすぐにくるはずだけれど、そうしたらぼく、まずこの涼しく
ていい匂いのする風のことを教えてあげよう。ヒロ君もきっと気に入るもの。それからぼく
たちは森のなかへ入って、この風が森のどこから吹き始めているか探してみよう。クワガタ
がもし見つからなくても、きっと風の元は見つけよう)
そうわくわく思いながらプレトは、ヒロ君のやってくるはずの一本道をじっと見つめまし
た。すると、空にはぽっかりと月が浮かび、プレトがもう風のように走っていたときにはそ
の月のひかりがとても明るく感じたものですのに、いま見るとなにやらとても辺りが暗く、
まるで大雨の夜のように右も左もわからないような、そんなように感ぜられるのです。
(おかしいな。今夜は満月。雲だってちっともないのに、なぜこんなに暗いのだろう。ぼく
あんまり懸命に走ったから、まだ目が疲れているのだろうか)
プレトは腕時計で時間を確かめることにしました。一人でここにいることがなにやらとて
も怖く思えてきたので、ヒロ君にもう一分でも一秒でもはやく来て欲しかったのです。まだ
息がはあはあしているときは約束の時間まで十五分と少し残っていましたが、もうそろそろ
約束の時間ちょうどの頃合いです。
そうして腕時計の針を確かめようとして、ふいにプレトの心のなかに不安がむくむく湧き
出てくるのでした。どうにも、さきほど家の鍵をかけたときにたててしまった、ガチャリと
いう大きな音の響きが気になって仕方がないのです。
(もしかするといまごろ、あの大きな音のせいでお父さんかお母さんが目を覚まされて、そ
してぼくのいないことに気がついて、お巡りさんにでも連絡してしまうかもしれない。そし
たらぼくはきっとすぐに見つかってしまう。お父さんもお母さんも、たいそうお怒りになる
に違いない。ぼくどうしたらいいだろう。やはりお父さんに打ち明けて、一緒に来ていただ
いたほうが良かったろうか。けれどもぼくはどうしてもヒロ君と二人で冒険したいもの。ど
うしたらいいだろう)
そう考えるあいだにも、プレトのいるアンタレスの森の入り口を除いて、辺りはさっきよ
りいっそう暗く、怖くなってきているように思えて、プレトはとにかくいまは時間だけ確か
めて、あとのことはヒロ君が来てから相談しようと、そう考えて腕時計に目をやりました。
「えっ…」
プレトの口から小さな叫びがあがりました。時計の針は、もうとっくに約束の時間を過ぎ
ていたのです。
(どうしたことだろう!ヒロ君、約束を忘れてしまったろうか。でも昨日一緒に遊んだとき
も、その前の日も、今夜のことは確かめ合ったもの。きっとヒロ君、もうすっかり寝入って
しまって起きれなかったに違いない。ヒロ君、あんまりひどい)
プレトは怖いやら悲しいやらでとうとう泣きたい気持ちになってしまい、家の鍵を閉めた
ときのように、もうすっかり頭を抱えてうずくまってしまいました。
どのくらいそうしていたことでしょう。
ふいにあの、森からの涼しい風と、それが運んでくる木々や土の匂いがとても強く、また
濃くなったように思えて、プレトは顔をあげました。すると、アンタレスの森の、いちばん
てっぺんの辺りが妙にほんのり明るくなっているようです。
(どうしたろう。もう夜明けだろうか)
けれどもプレトのいる森の入り口辺りは、さっきと同じくらいか、ひょっとするとなお少
しずつ暗さを増しているようなのです。
(そうだ。ぼくはあの明るそうな森のてっぺんに行こう。そしたらきっと辺りはここよりず
いぶん明るくなるし、学校の屋上だって見えるし、それにヒロ君がようやく目を覚まして急
いで走って来たとしても、森のてっぺんからならたいへんよく見渡せるもの)
プレトは、森の入り口でさえこんなに暗いのだから、てっぺんに出るまでの森の中はもっ
と暗く怖いかもしれないと少し思いましたが、それでもここよりはもっともっと木々や土の
よい匂いがするだろうことを考えると、それはとても心強いことのように感ぜられて、思い
切って一気に森のてっぺんを目指し、落ち葉混じりの土の坂道を駆け登り始めました。
(ああ、やっぱりここらは木々や葉っぱや土の、とてもいい匂いでいっぱいだ)
そう思った矢先、プレトの目の前にひょっこり、広い広い野原が現れたのです。
その野原は見渡す限り、りんどうの青紫色をした小さな花でうめつくされていて、ちょう
ど野原の少し向こうのあたりに、一本のくぬぎの木がにょきりとたっているほかは何も景色
をさえぎるものがなく、夜空の大きな月の白いひかりと、そのまわりいちめんに散らばる数
え切れない星々のひかり、そしてそれらをうつして、ますます青紫に輝くりんどうのひかり
と、もう次から次へと目にとびこんでくるひかりの洪水に、プレトはただ大きく口を開けて
その場に立ち尽くしてしまいました。
(ああ、なんてきれいだろう。学校の理科室の標本棚にある鉱物の見本、そう、たとえばシ
トリンだとか琥珀とか、それはもうきれいなものだけれど、ぼくこの野原ほどきれいなもの
は見たことない)
プレトはただもううっとりして、うれしくて、自分ひとりでいることを、とてももったい
なく思うのでした。ヒロ君がいたらきっとふたりで一緒に星座を探したり、このりんどうの
青紫の匂いを楽しんだりできるのです。そう思うと、うれしい一方でとても悲しいような気
もしてきます。
(ヒロ君どうしたろうか。そうだ、もしかするといまごろやっと目を覚まして、こちらへ走
ってきているかもしれない)
プレトは森へ続く一本道を見下ろしてみようとして、ようやく辺りのすこし変だというこ
とに気づきました。あんまり月やら、星やら、りんどうやらが素適にひかりを放ってばかり
なので、うっかりしていたのです。
(おかしいな。ぼくもう何度もアンタレスの森のてっぺんまで登っているけれど、こんなに
広くて素適な野原は初めて見た。そう、このまえ登ったときも、森のなかもてっぺんも、大
きな木がびっしりと生えていて、広さもぼくの部屋くらいしかなくて、木の枝の隙間からや
っと学校の屋上が見えるだけだったもの。だいたいこの野原ときたら、それこそ学校の校庭
なぞよりよほど広いし、それに考えてみれば、りんどうがこんなにいい匂いをさせて花をつ
けるには、まだあんまり季節が早すぎやしないだろうか)
考えるうちにプレトはとてもとても怖くなってきて、いままでのきれいな月や、星や、り
んどうのひかりも、何やらこの世のものではないように思われるのでした。
とにかく森を降りようと、プレトがそう考えて後ろを振り返りますと、けれどもそこには
ついさっき通り抜けてきたはずの道なぞ、もう跡形もなく消えてしまっているのです。辺り
はどこまでもいちめんのりんどうばかり、プレトがいくら懸命に右に左に、また前や後ろに
と走って走って走り続けても、見えるのはいちめんのりんどうと、やたらに宝石を散らせた
ようなつめたい夜空ばかりです。やがてプレトはもうすっかり疲れ果て、息をはあはあさせ
ながら、あおむけに倒れこんでしまいました。目にはいまにもこぼれおちそうなたくさんの
涙が溜まっています。
(ああ、ぼくは死んでしまったのだろうか。ここは天上の野原だろうか。きっとそうだ。こ
こはあんまりきれいで、あんまりいい匂いで、けれどもとても静かで、右も左も、前も後ろ
も、もうまったく果てのないのだもの。ああ、ぼくはもうヒロ君や学校の友だちや先生方や
、そしてなによりお父さんとお母さんからも、すっかり別れてしまったんだ…)
涙でぼやけて見える夜空の星々のひかりのなかに、ひときわ大きく赤くひかる星が見えま
した。アンタレスが、さそり座のなかにひときわ明るく光っていたのです。プレトはその真
っ赤に大きな星をよく見ようと身を起こしました。すると、アンタレスはまるで指し示すよ
うに大きなくぬぎの上で光っております。野原のなかにただ一本だけ、高く大きくたってい
るあのくぬぎの木です。
プレトはふと気づきました。
あのくぬぎの木は、プレトがさきほどからあちらこちらと、もうすっかりあてずっぽうに
走り続けていたにも関わらず、最初に見たときとまったく同じ場所にたっているようなので
す。するとプレトには、もうすっかり泣きたい気持ちをこらえながら懸命に走り続ける自分
を、あのくぬぎがそっと見守っていてくれたように感ぜられました。
プレトは、この素晴らしくきれいだけれども、冷たく凍ったようなひかりの海で、ようや
く見つけた灯台にすがる気持ちで、一歩ずつゆっくりくぬぎに向かって歩き始めました。
この野原と同じように、くぬぎにもまた果てがなく、追いかけても追いかけても同じ分だ
けくぬぎが遠ざかってしまうのではと、最初のうちは恐る恐る歩いていたプレトでしたが、
ようやく、くぬぎが自分の歩いた分だけはっきり近づいてくるのが分かると、もうプレトは
たまらなくなって、すっかり疲れ果てていた小さなからだを転がすように、くぬぎに向かっ
て一直線に走りました。
そうしてようやくくぬぎの根元までたどり着いてみますと、その木は遠くから見て思って
いたよりずっとずっと、もうまるで夜空を覆い尽くすかのような、高く大きく立派なくぬぎ
で、またその太い幹には大きくて、てらてら黒く輝く立派なクワガタもたくさんおりました
が、けれどもプレトの目はくぬぎの根元に釘付けになっておりました。
そこには一枚の、透き通るようにきらきら淡い水色に輝く、葉書のような紙がぽつんと置
かれていて、たった一言、このように記されておりました。
『プレトさまへ』
プレトはゆっくりとその紙を手に取ると、しばらくその文字を眺めてから紙を裏返してみ
ました。するとそこにも文字が記されており、それはこのように読めるのでした。
『じょうせんけん しまゆき のる のらない どちらかにまる』
ほんとうなら不思議で不思議で仕方ないはずのこれらの文字を、けれどもプレトはまるき
りぼうっとただ眺めることしか出来ませんでした。びっくりしたり、わくわくしたり、もう
そうした気持ちになるにはあまりにひどく、プレトの小さな体も心も疲れ果てていたのです
。
プレトはふらふらくぬぎの根元に座り込み、手にした素適にきれいな紙とそこに書かれた
文字をぼんやり眺めながら思いました。
(『じょうせんけん』だなんて、ここには海も湖も、小さな池ですらどこにもありはしない
のに。けれども、もうぼくはなにからなにまでどうだっていい。このひどく広くて、冷たく
照らされた野原から出ることができるなら、ぼくはきっと船だって、他のどんな乗り物にだ
って乗ることにしよう)
ふらふらとそこまで考えて、プレトはとうとうくぬぎの根元に寄りかかるようにして、さ
びしく疲れ果てた眠りに落ちてゆきました。くぬぎの上に輝くアンタレスが、そんな一人の
子供をほんのり赤く照らしておりました。
第三章 板張りの小屋
パチ…パチ…
なにかがはぜるような音がして、ミホナはゆっくり目をあけました。目覚めたばかりで、
頭はまだふんわりぼやけています。
(ああ、わたし不思議な夢を見たわ…けれども夢のなかに出てきたあの紙は、ほんとうに素
適だった…)
そうぼんやり思ううちに、なにやらひのきあたりの、まだ真新しい木材のとてもいい匂い
がしているようです。ミホナは二、三度目をこすってから不思議な気持ちで周りを見渡しま
すと、えっ、と小さく呟いたきり言葉をなくしてしまいました。なぜなら本棚も勉強机も、
自分が寝ていたはずのベッドでさえもがどこにもなく、見慣れた自分の部屋とはもうすっか
り景色がなにもかも違っていたのです。
その景色は、どうやら小さな小さな木の小屋のようにミホナには見えました。広さはミホ
ナの部屋と同じくらいでしたけれども、四方の壁も天井も床もすべてがむき出しの木材でで
きていて、どの面の壁にも、壁の長さと同じ長さの木のベンチが置かれています。ミホナは
いつのまにか、そうした木のベンチのうちのひとつに乗っかっているのでした。天井や壁に
は豆電球のような灯りですら見当たりませんでしたが、けれども部屋の真ん中あたりに銀色
をした、胴の長い、ちょうど給食のお味噌汁が入っている鍋のようなものが置かれていて、
けれどもそのなかには火のついたたくさんの木炭が詰まっていて、辺りをうっすら夕焼け色
に照らしています。
パチ…パチ…
(ああそうか。わたしの聴いたのはこの木炭のはぜる音だったのね…)
するとミホナの頭のなかも急にパチっと木炭のはぜるようになって、ミホナはベンチの上
から飛び起きました。
(ここはどこ!?わたしなぜこんなところにいるのかしら?それに、真夏だというのにあん
なにどしどし火を焚いて…けれどもわたし少しも暑くないのは、どうしてかしら?)
そうして木炭の焚かれている鍋を見ているうちに目がうっすら照らす夕焼け色に慣れてき
て、すると鍋をはさんでちょうど反対側のベンチに、同い年くらいに見える男の子が、目覚
めたときのミホナと同じように木のベンチに横になってすやすやと眠っていることにミホナ
は気がつきました。
あらためて部屋のなかをじっくり見ても、なかにいるのはミホナとその男の子の二人きり
で、また部屋には窓はおろか出入り口の扉さえ見当たらないのでした。
(わたしどうしたらいいかしら。あの男の子を起こしてみようかしら。けれどあの子がクラ
スの男の子たちみたいに意地悪だったら、わたしとても嫌だわ)
ミホナのクラスの男の子たちはいつもうるさくさわいでばかりで、それにてらてら変にひ
かる気味の悪い虫を捕ってきて自慢しあってばかり、ときには面白がって虫の嫌いなミホナ
たち女の子にわざと虫を寄越してみせたりするので、ミホナのクラスの女の子と男の子は互
いにたいへん仲の悪いようになっていたのです。
それにもうひとつ、ミホナはこの窓も扉もない小さな板張りの小屋に不思議と、たとえば
閉じ込められているとか、そういう怖いような気持ちはせず、むしろ自分が来たいと思った
からここにいるような、そういううれしい気持ちがしておりましたので、男の子はそのまま
にしておいて、しばらくは自分ひとりで起きていることに決めました。
(こんなに不思議なことってあるかしら。ある日おきてみたらもうまったく見たこともない
ところに自分がいて、それなのに怖くも心細くもないなんて、いったいなぜなのかしら…)
ひのきのいい匂いを楽しんだり、木炭のきれいに夕焼け色に焚かれているのをほくほくし
た気持ちでながめながらそんなことを考えているうちに、ミホナはすばらしいことに思い当
たりました。
「…あの素適な水色の紙だわ!そう、きっとあの紙になにか秘密があって、こんな素適なこ
とが起こったんだわ!」
ミホナはこの思いつきにもうすっかり興奮しておりましたので、知らないうちに自分が大
きな声でひとりごとを叫んでしまったことに気づいたのは、向かい側に寝ていたあの男の子
がゆっくり起き上がりはじめたあとでした。
ミホナはあっと慌てて口をふさぎましたけれども、いまやもう男の子はすっかりベンチか
ら起き上がり、ぼんやりとした具合で頭をかいております。
(どうしよう、起こしてしまった!神さま、どうかあの男の子がクラスの男の子みたいに意
地悪でありませんように!)
ミホナがそうお祈りしながら見ておりますと、男の子はいつまでもいつまでもぼんやりし
たまま、まるで冬眠から覚めたばかりの子熊みたいで、ミホナはそれを少し可笑しく思うの
でしたが、けれどもそうして見守っているうちに、ミホナは男の子がただ眠いのではなく、
それよりひどく疲れているように思えてくるのでした。
(いったいどうしたのかしら)
そうミホナが心配し始めたとき、やっと男の子の口から小さな呟きが聞こえました。
「ううん…ぼくいったいどうしたことだろう…」
男の子の声は少し低くて、けれどもどことなく優しげな声のように思えましたので、ミホ
ナは勇気を出して男の子に話しかけました。
「あの…」
「えっ…わあっ!」
けれども男の子はそう驚きの叫び声をあげて、それにあんまり急に体をのけぞらせたので
、ベンチの後ろの木の壁にひどく頭をうちつけてしまい、その振動は反対側にいるミホナに
もはっきり伝わってくるほどでした。
男の子はまだ目が覚めきっておらず、また木炭の夕焼け色の灯りにも慣れていないはずで
すから、そんなときに話しかければ誰でもひどく驚くに違いありません。ミホナはそのこと
に気づいて、男の子を驚かせてしまったことを申し訳なく思いましたが、ごめんなさいを言
えばまた男の子を驚かせてしまうかもしれませんし、またなにより男の子がどうも怒ってい
るような顔つきをしているのが見えたので、結局なにも言えないままうつむいてしまうので
した。
プレトは、もう体がつらくてつらくて、もっともっと寝ていたかったのに、どうも人の声
が聞こえてきますので、ようやく体の半分だけ起こしたところにはっきりとした女の子の声
が聞こえたものですから、もうすっかり驚いてしまい、また体のびくっとした拍子に頭をひ
どく固いものにうちつけてしまったようで、ミホナの思った通り、心のどきどきと頭の痛み
で思わずかっと腹をたてておりました。
けれどもやがてプレトは、自分がほんとうはひどくなにかにおびえていて、また怖がって
いることに気づきました。きっとアンタレスの森の、あの果てしないひかりの野原で感じた
心細さが残っているせいに違いありません。
そうしてあらためて辺りを見回しますと、あのくぬぎの根元とは何もかも景色の違ってい
ることに気づいて、プレトの頭も、ミホナと同じようにパチっと、木炭のはぜるようにしゃ
んとなるのでした。
ひとたびそうなってみると、パチパチとはぜながら燃えている木炭の灯りは小さくて、ど
うにかやっと部屋の様子が分かる程度でしたから、はっきりとは見えませんでしたが、けれ
ども木炭をはさんだ反対側にいるのが自分と同い年くらいの女の子で、その子がとても困っ
た具合で顔をうつむかせていることは分かります。
プレトは、せっかく声をかけてくれたのに、自分がひどく驚いてかっとしてしまったせい
で女の子がうつむいてしまっているに違いないと思い、またもしかすると女の子に聞けば、
自分がいるこの景色がいったい何なのか、なぜ自分と女の子がここにいるのかといったこと
も分かるかもしれないと思いましたので、まずはごめんなさいと、そう謝ろうと思いました
。
けれどもプレトがそうして口を開きかけたちょうどそのとき、二人の子供のいるこの不思
議な景色に、さらに不思議な出来事が起こったのです。
その出来事は、ミホナにもプレトにも、もうまったくわけの分からない出来事でした。
二人の子供のいるこの小屋のなかは、確かに四方が板張りになっていて、窓も扉もなく、
ただ木製のベンチが壁に沿って置かれているだけのはずでしたのに、いつのまにかミホナの
左側、ミホナと反対にいるプレトからすると右側の壁がベンチごときれいに消え去ってしま
っていたのです。かわりにそこはもう吸い込まれそうに真っ暗な闇となっており、なにより
驚いたことに、その真っ暗な闇のなかでもはっきり見てとれるくらい真っ黒な膝丈ほどのコ
ートと、つばが大きく、てっぺんの丸い、これまた真っ黒の帽子をかぶった、とても背の高
くてがっしりとした体つきの男の人がひとり、闇を背にしてぬっと立っていたのです。
その人ときたら、まるで闇のなかの影そのもののようにミホナとプレトには思えました。
ほんとうにほんとうに体の大きな人で、それはたとえばミホナやプレトのお父さんの二人
分くらいあるのではと思えるほどです。それだけでもおそろしいのに、さらに不気味に思わ
れるのは、その人の顔のまったく見えないことでした。その人の顔のあたりは、帽子のつば
に隠れているせいか、帽子そのものや着ているコートよりなおいっそう真っ暗にかげり、け
れども不思議にその人が大人の男の人であることだけは、ミホナにもプレトにももうこれ以
上ないほどにはっきりと感ぜられるのです。
こんな具合でしたから、ミホナもプレトもあまり恐ろしくて声も出せず、ただもう後ずさ
りするしか出来ずにおりました。
するとその男の人は、一言もしゃべることなく、やがてゆっくりゆっくりと二人の子供に
近づきはじめたのです。
男の人が一歩進むたびに、小屋の天井も壁も、床もベンチも、何もかもがその歩幅にあわ
せ、まるで男の人の真っ暗な顔に吸い込まれるようにすうっと消えてゆきます。
やがて男の人が小屋のちょうど真ん中あたりまで来ますと、あれほどどしどしたくさんに
燃えていた木炭も、それが入っていた大きな鍋もすっと闇に吸い込まれ、辺りは何も見えな
い真っ暗闇となってしまいました。
ミホナもプレトもすっかり恐ろしくて、もうきっと自分は死んでしまったに違いないとそ
う思ったとき、ふいに真っ暗な闇のなかかから真っ白な手袋をした手がふたつ、すっと現れ
て、それと同時に頭のはるか上のほうからずしりと低く響く、静かでゆっくりとした声が聞
こえてきました。
「…乗船券を回収させていただいて…ようございますか」
「えっ…」
同時に声をあげた二人の子供の頭のなかに、はっきりとあの水色の葉書のような紙のこと
が浮かびました。『乗船券』だなんて、あの紙のほかになにかあるはずもありません。
『じょうせんけん しまゆき のる のらない どちらかにまる』
確かにそう書かれていたあの水色の紙を見て、自分が『のる』と心に決めたことを思い出
したのはミホナもプレトも同じでした。そして自分がいま体験しているこの不思議な景色は
、あの不思議な水色の乗船券と不思議同士で結びついているようだと、たいへん奇妙だけれ
どもどこか納得がいった気がしておりましたが、はたと困ってしまったのもまた、二人して
同じでした。なぜなら肝心のあの水色の乗船券そのものは、ミホナは部屋の勉強机の上に、
プレトはくぬぎの木の根元に、それぞれ置きっ放しで、手元には持っていなかったのです。
「あ、あの、わたし持ってません、机の上に置き忘れてきたんです、ごめんなさい!」
ミホナはもうすっかり恐ろしくてはんぶん涙声になりながら、勇気を振り絞って言いまし
た。自分のどこにそんな勇気があったのか、ミホナは自分でもびっくりするのでしたが、も
しかしたらもう自分のまわりは真っ暗で、目の前の白い手袋のほかは何も見えなかったのが
良かったのかもしれないと思いました。これでもし男の人の顔がはっきり見えて、そしてそ
の顔がとても怖い顔をしていたなら、きっとわたしは何も言うことなぞ出来ないに違いない
と、ミホナは確かにそう思うのでした。
一方プレトは、女の子が涙声でも乗船券を持っていないことをはっきり口にしたことに、
とても感心しておりました。なぜならプレトはそのとき、とてもではないけれどただただ怖
くて、たった一言ですら言葉を口にするなぞ到底出来ないような気持ちでいたのです。
(あのアンタレスの森といい、この男の人といい、なぜ今夜はこんなに怖い夜になってしま
ったろう。ほんとうはヒロ君と二人で幸せな夜のはずだったのに、なぜこんなに恐ろしい夜
になってしまったろう)
そんなことを果てしなく頭の中でぐるぐるまわすことしか出来ずにいたのです。ですから
「あの、ぼくも持ってません。アンタレスの森のりんどうの野原のくぬぎの根元の…えっと
、ですからそこに置いたままなんです、ご、ごめんなさい」
ようやくこのようになんとか言葉として口に出せたとき、プレトは男の子のくせに女の子
に勇気をもらったような、そんな少し恥ずかしい気がしましたが、それよりもっと、女の子
は男の子より勇気がないと、そのようにいままで決めつけてきた自分自身のことをとても恥
ずかしく思うのでした。
ミホナもプレトもこのようにして、お互いがあの不思議な乗船券のことを知っていること
に驚いたのでしたが、いまはそれより、この大きな大きな男の人が、乗船券を持っていない
ことにいまにも怒り出すに違いないと、そちらのほうがはるかに気になって、ミホナもプレ
トもそろって目の前の白い手袋を恐ろしく見つめるほかありませんでした。するとふいに手
袋が動いて、白い人差し指がそれぞれミホナとプレトの手元を指すようにするのです。人差
し指を追って二人がそれぞれ自分の手元を見ますと、不思議なことにいつのまにか、自分の
手がまるで自分のものではないかのように、あの水色の乗船券をぎゅっと握っているのでし
た。
二人の子供がもうすっかり呆気にとられているうちに、みるみるその水色の乗船券はうす
く透明となってゆき、やがてまったく見えなくなってしまいました。
「…確かにいただきました…それでは…出航いたします…『しま』には明日の朝…到着いた
します…」
頭のはるか上から届く声がそう言い終えると同時に、男の人の大きな大きなからだは段々
と透き通ってゆき、やがてその向こうに男の人が現れる前の板張りの壁や天井、そしてどし
どし燃える木炭までが見えはじめ、男の人の姿がすっかり消えたころには、元通りの小屋の
景色が戻っておりました。けれどもただひとつだけ、ちょうど最初に男の人が現れたあたり
の壁に、真鍮の取っ手と丸窓のついた扉の現れているのが、元の景色とは違っておりました
。
【第四章 さびしいうみ】
男の人と入れ替わりに突然現れた扉を見て、ミホナもプレトも驚きました。
そう、とてもとても驚いて、扉ばかりでなく、あの水色の乗船券のこと、この小屋のこと
、さっきの男の人のこと、そうした不思議ばかりのこの夜のすべてについてお話ししたい気
持ちは、ミホナにもプレトにも確かにありました。
けれども実際は、男の人のいなくなったあと、ミホナもプレトも元々座っていたベンチに
戻り、うつむいて黙ったままでおりました。気恥ずかしさであったり、またあるいはお互い
一緒にいて楽しい子なのか、もし話しかけてみて嫌な、意地悪だったりいじめっ子だったり
、そういう子だったらどうしようと、そう色々考え出すと話しかけるのもためらわれて、結
局二人とも、一言も相手に話しかけることが出来なかったのです。
そうして黙ったままの時間が長くなればなるほど、いまさら話しかけるのはもうまったく
不自然なことのように感ぜられて、とうとうミホナは、二人きりでこのさほど広くない部屋
にいることに我慢出来なくなってしまいました。
(扉の向こうのことを考えると怖いようだけれど、でもわたし、こんなに不自然に黙ったま
までいるのは、つらいわ)
ミホナは男の子を見ないように気をつけながら扉に向かってそっと歩き、少しためらうよ
うにしてから恐る恐る扉をゆっくり開き、小屋の外へと足を踏み出しました。
後ろ手に扉を閉めながら、ミホナは思わず目を見張りました。
さっと青白い、とても透明な月のひかりが目に飛び込んできて、そう、扉の外はそのひか
りに照らされたいちめんの大海原だったのです。
透き通った月のひかりはとても明るく照らしておりましたので、ミホナには、自分がいま
細長い板の並んだ船の甲板のうえにいて、この青白い大海原にぽつんと浮かんでいるのがは
っきり分かりました。その証拠に、歩いて五、六歩ほどのところがまったく船の舳先のよう
にとがっているのです。ミホナはゆっくりその舳先まで歩いて、それから後ろを振り返りま
した。
(あの男の子、やはり出てこないわ)
さびしくそう思いながらよく見てみますと、小屋のように思っていたあの板張りの部屋は
どうやらこの船の船室で、操舵輪とか羅針盤とか、そうしたものは何もないようです。船は
波止場でよく見る漁師さんの船と、湖や池にあるような手漕ぎのボートのちょうど中間くら
いの大きさで、もちろんあの大きな男の人の姿もどこにもありません。
辺りはどの方角を見ても、もうまったく青白く透き通ったいちめんの海ばかりで、けれど
も波はなく、海はまるで洗面器にはった水のようです。そんな静かな海の上を、わずかにさ
らさらと、舳先の水を分け進む船音だけが聞こえてきます。
(発動機のごとごという音もしないし、帆もないし、このお船はどうして走るのかしら。そ
れにこんなにまったく揺れないで走るお船ってあるかしら)
そう思いながらミホナはまた舳先の進むほうへ目を向けました。
船のゆく正面は青白く照らされた水平線で、その向こうの夜空にはなにやら怖くなるくら
いの無数の星が瞬き、そしていままで見たこともない大きな大きな満月が、まるで昇ったば
かりの朝の太陽のように、水平線すれすれのあたりにぽかりと浮かんでおります。そうした
景色はもうほんとうにきれいで素適で、まるで信じられないくらいの青白く静かにひかる世
界でしたが、けれどもミホナにはひどくさびしくて、悲しいように思えるのでした。
(もしかするとわたし、もう死んでしまったのかしら。だってここはほんとうにきれいだけ
れど、あんまり静かすぎるもの)
ミホナはもうこれ以上この景色を見るのがつらく思われたので、あの板張りの小屋、この
船の船室に戻ることにしました。
扉を開けて船室のなかに入りますと、あの男の子は最初に見たときと同じように、けれど
もこんどは寝息もわずか、ほんとうにほんとうにつらそうな顔をして、ベンチに横になって
眠っておりました。
ミホナは思いました。
あの素適な水色の乗船券がそっと机に置かれていたのを見つけたときの、あのとてもわく
わくした気持ちは何だったのでしょう。乗船券とおんなじくらい、きっととても素適なこと
が起こるようにばかり思っておりましたのに、疲れ果ててすこし怒った具合で、結局一言も
、挨拶さえしないまま寝入ってしまった男の子。服も顔も真っ暗で、それはそれはおそろし
く体が大きくて、そしてあの素適な乗船券を持ち去ってしまった不気味な男の人。確かにき
れいだけれども、しんと静まり返ってさびしい夜空と海…。
(こんなことになるなんて、もうまったく思ってもみなかった。こんなことなら、メモ帳に
『乗ります』なんて、書かなければよかった。あの大きい男の人は、明日の朝に『しま』に
着くと言っていたけれど、あんなに大きく透き通った青白い月が沈んで、かわりに明るい朝
がくるなんて、わたしどうしても思えない。もしかすると朝は確かにくるのかもしれないけ
れど、きっとその朝もしんと静まり返っていて、『しま』だってあの大きな男の人のように
、真っ暗で気味の悪い島に違いないわ。やっぱりわたしは死んでしまったかもしれない。き
っと、あの海のように見えるのは、いつかおばあちゃんが教えてくれた、三途の川だわ。だ
からあんなに青白くて静かなんだわ…。でも、あんなにきれいな水色をした乗船券のせいで
死んでしまうなんて、そんなことってあるのかしら…)
ミホナは何度も何度もぐるぐるおんなじことを考えては打ち消し、打ち消しては考えて、
そうしてとうとう反対側で眠る男の子のように、ひどくつかれてつらそうな顔で眠りに落ち
てしまいました。
寝息もかすかに、固くて冷たいベンチで眠る二人の子供の小さな体を乗せて、その船は透
明で静かな海を、さらさらとかすかな船音のまま、水平線すれすれの大きな満月に向かって
進んでゆくのでした。
プレトは、辺りのやけに橙色をした、暖かいひかりのするのに気づき、目を覚ましました
。
小屋の真ん中に置かれていた鍋を見ますと木炭はすでにすっかり火が消えていて、すると
どうやらこの暖かいひかりは部屋の扉の丸窓のほうから差しているようです。
そうして照らされた小屋の反対側に目をやりますと、昨晩、一人で扉の外に出て行った女
の子が、なんともさびしそうで、頬のあたりにかすかな涙の跡さえ残して眠っております。
(やはり夢なんかじゃなかったんだ…)
プレトは昨夜のことを思いました。
アンタレスの森のてっぺんの、広い広いりんどうの野原。くぬぎの根元に置かれた乗船券
。薄暗い板張りの小屋と固いベンチ。そしてあの、顔の見えない真っ暗で大きな大きな男の
人。
昨夜のプレトは、もうとてもとても疲れ果てていて、これらの出来事はすべてあんまり疲
れたせいの、不思議で気味の悪い夢としか思えなかったのです。真っ暗で大きな男の人が消
え去ってしまったあと、結局向かいに座る女の子に話しかけもせず、また女の子の独りさび
しそうな顔で扉の外へ出て行ったあとをついてゆきもせず、むすっとしたまま寝入ってしま
ったのも、どうせ夢なのだからと、そのような、もう何もかもどうでもいい気持ちがしてい
たからでした。
しかしいま、ぐっすり眠って元気をいくぶん取り戻したプレトの目の前には、昨夜の女の
子が疲れて、またなんとも悲しい顔で眠っております。すると昨夜のことは不思議で気味の
悪い夢なんかではなかったということで、プレトは自分が女の子にひどく冷たく、つらくあ
たってしまったことに、ほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいとなってしまいました。
(あの女の子の涙の跡は、もうほんとうにぼくのせいだ。ぼくはあの女の子にほんとうにひ
どくしてしまった)
女の子が目を覚ましたら、きっとごめんなさいとあやまろう。
そう決めてプレトはしばらく女の子の目を覚ますのをじっと待ち続けましたが、女の子は
すっかり昨夜のプレトのように、つらそうにぐっすり眠ったまま目を覚ましそうにありませ
ん。
プレトは仕方なく、女の子を起こしてしまわないようそうっと立ち上がり、真鍮の金具を
静かにひねって扉を開け、小屋の外へ出てみることとしました。
外に出たプレトの目の前にはいちめんの大海原が広がり、はるか水平線の向こうには昇っ
たばかりと見える太陽が、まるでりんどうの野原で見たアンタレスのように真っ赤に浮かん
でおりました。
昨夜のミホナと同じくプレトも、自分が木の船に乗っていて、波のない大海原のなかをさ
らさらかすかな船音で進んでいるのを知りました。
(これはいったいどうしたことだろう。あの、くぬぎの根元の乗船券とは、この船のことだ
ろうか。ぼくはあのとき、りんどうの野原のあんまり広いのに疲れてしまって、野原から出
たい一心でもうどんな乗り物にでも乗ろうと、確かにそう心に思ったから、ぼくがいまこう
しているのは、そのせいだろうか…)
けれどもそうぼんやり考えながら船の走るさきを眺めているうちに、プレトは何やら遠く
のほうに、かすかに胡麻粒のような白い点が見えることに気づいたのです。
(おや、あれはなんだろう…)
そう思った途端、白い胡麻粒のようなものはお煎餅くらいの大きさに、そうしてさらに学
校の教室くらいの大きさにと、ぐんぐんおそろしいほどの速さで近づいてきて、また驚いた
ことにプレトの足元の甲板も舳先も、もうすっかり船自体が同じようにぐんぐんとぼやけて
透き通り始めたのです。
「えっ、えっ!」
なにがどうなっているのか、どうしたらよいのか、ただもうすっかりうろたえているうち
に、ぐんぐん近づく白いものはすっかり目と鼻の先にまでやってきて、プレトにはそれが、
もうあのりんどうの野原と同じくらい、広く広く果てしない広さの、真っ白な砂浜であるこ
とが分かりました。そしてそれと同時に、ぼんやり透き通ってゆくのは船だけではなく、プ
レト自身の体もまた、ぐんぐん透き通って消えてしまいつつあることに気づいたのです。
すっかり色の抜けてしまった自分の両手の向こうに、真っ白な砂浜のなおいっそう近づい
てくるのがはっきり見てとれます。
(ぶつかってしまう!消えてしまう!)
プレトに出来ることは、心のなかで叫びながら、すっかりわけの分からない怖ろしさに両
目をぎゅっとつむることしか、もう残されておりませんでした。
【第五章 ともだちの儀式】
さらさら
さらさら
ひどく遠くのように思える方角から、かすかな波の音が聞こえます。
プレトはぎゅっと閉じたままだった目をゆっくり、ゆっくりと開きました。
プレトの目に映ったもの、それは広い広い真っ白な砂浜と、大きな入道雲のひとつだけぽ
かりと浮かんだ、真っ青な真っ青な空でした。
砂浜の砂はどれもシトリンのように半分透き通った不思議な白い砂粒で、いつのまにか空
のてっぺんに移っているお陽さまのひかりを受けて、なおいっそう白く透き通ってきらきら
輝いております。
それはプレトが今まで見たこともない白さの砂粒で、もともとプレトの暮らす九州の土は
白っぽくて、真夏の午後なぞは、やはり同じように太陽のひかりを浴びてたいそうきれいに
白く輝いて見えるものですが、いま目の前に広がる砂浜の白さといったら、まっさらな新し
いノートよりもっともっと白くて、ほんとうにこの世のものとは思えないほどなのです。
そうした砂浜のずっと向こう、水平線より少し手前くらいのはるか遠いあたりには波打ち
際らしきものがうっすらと見えており、そこだけはぎゅっと目を閉じてしまう前まで広がっ
ていたあの大海原の青白い色をしているようでしたが、それにしてもそこはもうあんまり遠
くに思われて、プレトはアンタレスの森でのことを思い出し、もうやみくもに右や左や前や
後ろへと走り回るのはやめて、そのかわり、たとえばあのりんどうの野原のくぬぎの木のよ
うな、広い広い場所での目印となるようなものがないか、まずそうしたものを探してみよう
と思いました。
そうしてふと後ろを振り返りますと、驚いたことにすぐ目の前に、あの船の船室にあった
木のベンチがひとつだけぽつんと置かれていて、そのうえにはあの女の子が、今朝船室で見
たときのように、疲れ果てた悲しい寝顔のままで眠っていたのです。
ベンチと女の子のほかには、広い砂浜のどこを見渡してもほかには何も見当たりません。
(ベンチとあの子だけを残して、あの船はどこに消えてしまったろうか。あんなにはやくま
っすぐに進んでいたはずなのに…)
船がすっかり消えてしまったことはほんとうに不思議で、それにわずかに心細くもありま
したが、それでもたとえばあの真っ暗で大きい男の人も船と一緒に消えてしまったと思えば
、どことなくやっと安心できるようにもプレトには思えました。
けれども、一本の実のなる木も山菜らしき草も、また池や小さな泉さえ見当たらないとい
うことは、つまり食べ物も飲み物もなにもないということで、それはやはりとても困ったこ
とに違いありません。これからどうすればよいのか、そう考えるとさっきの少し安心したよ
うな気持ちも薄れてしまい、プレトはだんだんひどく心細く思われてくるのでした。
そのような気持ちでしたから、ううん…と、そうつぶやきながら女の子が目を覚まします
と、プレトはもうすっかりうれしくなって、
「あの、あの、おはよう、おはようございます」
そうつっかえながらもようやく女の子に話しかけたのでした。
一方、ミホナはといいますと、目を覚ました途端やけにどこもかしこもまぶしくて、それ
に昨夜はあんなに疲れてつらくて、むすっとした顔で眠っていたはずの男の子が、いまはも
うすっかりうれしくてたまらないといった顔で、そう、はっきり笑顔さえ浮かべているもの
ですから、これはいったいどうしたことかとすっかり戸惑ってしまって、
「…あ、おはようございます…」
そう小さく返事をするのがやっとでした。
そのように戸惑いながらも辺りを見回してみますと、昨夜、船の舳先のあたりで見たとき
はもういちめん、見渡す限り果てしなくしんと静まりかえった大海原しか見えなったという
のに、いまは右も左も前も後ろも、もうすっかり真っ白な砂浜となっていて、それに確かに
乗っていたはずのあの板張りの船さえどこにも見当たらないのです。
(わたしどうしてこんな砂浜の真ん中にいるのかしら。あの真っ暗で大きな男の人がわたし
を運んでくれたのかしら…ここが、あの乗船券のいう『しま』なのかしら…それにしても、
岩とか木とか草とか、丘のようなものさえまったく見当たらないなんて、こんなどこまでも
平らな場所、わたしはじめてだわ)
それからミホナは考えました。
(あの男の子なら、なぜ、どうしてわたしたちがこんな広くて平らな砂浜の真ん中にいるの
か知っているのかもしれないわ。それにわたしが目を覚ましたら、おはようございます、な
んて挨拶してくれたもの。きっと意地悪で嫌な子ではないはずだわ)
ミホナはまだいかにもうれしそうに自分を見ている男の子に、ゆっくり話しかけました。
「あの、わたしはどうしてここにいるのか、知っていますか?ぜんたい、ここはどこですか
?」
すると男の子は急に困った顔をして言いました。
「その、ぼくにはまったく分かりません。あの板張りの船室で目を覚まして、どうも夜明け
のように思えたので舳先のあたりまでいって、船のゆく先を見ていたら、すごい速さでこの
砂浜が近づいてきて…」
そうして男の子は今朝、橙色の暖かいひかりが船室の扉から射しているのに気づいてから
いままでのことをすべて話してくれました。特に、この砂浜に木も草も池も泉も見当たらな
くて、食べ物も飲み物も見つかりそうにないということは、確かにミホナにもとても困った
ことでしたから、男の子が急に困った顔をしたのも尤もだと思うのでした。
(これからどうしたらよいかしら。なにかよい方法がないか、この男の子と相談してみよう
かしら)
そう思って男の子に話しかけようとしたそのとき、ミホナの目に、男の子の少し斜め後ろ
のあたりから、何か細長くて黒っぽい、とても大きな棒のようなものがぼんやり現れてくる
のが見えました。
「ねえ、後ろ!」
すっかり慌てたミホナの声にびっくりして後ろを振り返った男の子も、
「わっ!」
すっかり驚いてそう叫ぶと、ミホナの横に駆け寄ってくるのでした。
そうして二人の子供が驚きと恐ろしさで身動きすら出来ずに見守るうちに、そのぼんやり
したものはやがてくっきり、一本の黒く古びてひょろ長い、木の電信柱となって二人の目の
前に現れたのです。
二人の子供はあまりのおかしな景色に思わず顔を見合わせました。
真夜中の水色の乗船券。
木炭のどしどし焚かれた板張りの船室。
真っ暗で顔の見えない大きな大きな男の人。
水平線すれすれに浮かぶ真ん丸の大きな月と、それに照らされた波ひとつない青白く静ま
り返った海。
とてつもなく広い広い真っ白な砂浜。
そして跡形もなく消えてしまった板張りの船。
もうこれだけでも信じられない、不思議なことばかりなのに、さらに砂浜の真ん中に突然
すうっと現れた、黒く古びた一本の電信柱。
考えたってもう分かりっこないと、そう投げやりになりそうな心を何とか抑えつけながら
、プレトは考えました、
(そうだ。電信柱の電線をたどってゆけば、その先には家かなにか建物のようなものが必ず
あるはず。そしてそこには電線の電気を使う人が、良い人か悪い人かは分からないけれど、
とにかく誰かがいるはずなんだ)
そうして上を見上げたプレトはそのまま呆然となってしまいました。
電信柱には電線の一片の切れ端すらもなにもかかっていなかったのです。それはまるで古
くなって役立たずとなった電信柱を、誰かがこの砂浜に無造作に打ち捨ててしまったような
、そんな虚しい景色でした。
「ねえ、これを見て」
上を見上げて呆然としている男の子を不思議そうに眺めながら、ミホナは電信柱の根元の
あたりを指差しました。その指差す先には一枚の白い紙が貼られてあって、そこにはこう記
されておりました。
『友だちの儀式なくして島への立ち入りを禁ず』
二人の子供は、もう今度こそほんとうに途方に暮れてしまいました。
(『友だちの儀式』…?友だちといっても、ここにはヒロ君はいないもの。すると、この女
の子と友だちになりなさい、ということだろうか)
プレトは必死に考えました。
(友だちの儀式もそうだけれど、『島への立ち入りを禁ず』って、いったいどういうことだ
ろう。ぼくたちはどうやらもう島のなかにいるようじゃないか。それとも、この広い広い砂
浜の島のほかにべつの島があるのだろうか。うん、きっとそうだ。だってこの島ときたら、
もう食べ物も飲み物も、ほんとうに何もないのだもの。でもぜんたいなにをすればこの女の
子と友だちになれるだろうか)
プレトは女の子に向かって言いました。
「あの、たぶんぼくたち友だちにならないといけないように思うんだ。そうすればもしかす
るとこの砂浜の島とは別の、実のなる木や飲み水の湧く泉のあるような、そんな島が現れる
ように思うんだ。きっとそうだよ。だってもしこの島があの乗船券のいう『しま』だとした
ら、ぼくたちはもうこうして島に入っているのだもの。そしたらこんな貼り紙に『島への立
ち入りを禁ず』なんて書く必要はないだろう。ね。だからぼく、ぼくらが友だちになるよう
に、まずとりあえず名前を言うよ。ぼくはプレトっていうんだ」
女の子は、けれどもなぜかひどく悲しい顔でうつむいているのです。それでもやがてひど
く弱々しい、小さな声で、
「…わたしはミホナ。ミホナっていうの…」
そう言い終えるやいなや、女の子はわあっと、そう大きな声をあげて泣き出して、とうと
う真っ白な砂浜にふらふら座り込んでしまったのです。
ミホナは電信柱の貼り紙を読んだとき、プレトとはまったく違うことを考えておりました
。
(友だちの儀式…『儀式』だなんて。友だちって、そんな具合にしてできるものかしら。き
っと違うわ。友だちって、たとえば誰かのことをとても大切に思って、優しくしたり、困っ
ているときに一緒に困ってあげたり、はげましてあげたり、ふざけあったり笑いあったり、
そうしてできるものだもの。『儀式』だなんて、そんな無理矢理にできるものではないわ)
そう悲しく感じているところで、ミホナはさきほどのプレトの言葉を聞いたのです。
(『友だちにならないといけない』だなんて。『とりあえず名前を言うよ』だなんて。そん
なことを言われて、わたし友だちだなんて、とても思えない…)
それでも男の子がせっかく名前を教えてくれたのに自分はなにも言わないなんて、それは
男の子にあんまりひどいと思い、気持ちを振り絞って何とか自分の名前を口にしましたが、
もうそれがミホナにとっては限界でした。
きれいな水色の乗船券は、とてもわくわく素適なことを運んでくるとばかりに思っていた
のに、船の板張りの上で独りぼっちで眺めた、静かでさびしい夜の海、星、月。泣きながら
眠って、そうして目が覚めたら『友だちの儀式』なんてひどく悲しい言葉の書かれた貼り紙
。そしてそんな悲しい言葉に気づくようでもなく、『とりあえず』なんて言って自分と友だ
ちになろうとする男の子…。
いままで何とか耐えてきた、さびしかったり、怖かったり、悲しかったりといった感情が
もうどうにも抑えられなくなって、すべてがとうとう自分でもびっくりするような泣き声と
たくさんの涙という形となって、次から次へと、どっと噴き出してくるのです。
プレトは、ミホナと名乗ったその女の子が突然大声で泣き出したので、すっかりびっくり
してしまいました。
真っ白な砂浜にしゃがみこんで泣きじゃくるミホナに何か言ってあげるべきとは思うので
すが、何を何と言えばよいのか、まったく分かりません。
「どうしたの、ミホナちゃん」
何とかそれだけ口にはしましたが、ミホナはいっこうに泣きやみそうにありません。
(困ったな、弱ったな、これでは別の島へなんか行けなくなってしまう。そしたらこんな、
食べ物も飲み物もない島にずっといなければならなくなってしまう。なんとしてでもミホナ
ちゃんと友だちにならなければ…)
そこまで考えたとき、プレトの背中にぞっとするような、冷たい感触がはしりました。
何か自分がひどく間違った考え方をしているような気がするのです。
ふいに、ヒロ君のことが頭に浮かびました。
(ぼくとヒロ君とは、ほんとうに友だちだ。そう、ぼくらがほんとうに仲良くなったのは、
ヒロ君がクラスのみんなにいじめられていたのがきっかけだった…)
それは一年前の、プレトとヒロ君が小学五年生のときのことでした。
ヒロ君は生まれつき心臓が弱くて、そのせいで運動が苦手でした。お医者さまからも駆け
っこや野球のような激しい運動はしてはいけないと言われていたのです。
ある日、クラスでいちばん体が大きく、力も大人のように強いタロという男の子が、ヒロ
君をからかい始めました。
「きっとヒロのやつ、女の子より腕相撲が弱いに違いないよ」
タロはそう言ってしつこくヒロ君に自分と腕相撲をするようにせまったのです。
ヒロ君はとても困った顔をして、それでも仕方なくタロと腕相撲をして、当然にあっとい
う間で負けてしまいました。
タロは言いました。
「ぼく、まだ三年生の妹がいるけれど、ヒロはその妹よりまったく弱いや。ははは」
タロが笑うとクラスの男の子も女の子も、みんな笑いました。
プレトはそのとき、たった一度の腕相撲をしただけで顔は真っ青、息もはあはあさせてい
かにもつらそうなヒロ君をとても気の毒に思いましたが、けれどもタロに対してもほかのみ
んなに対しても、何も言うことができませんでした。
しかし翌日、タロやクラスのみんなが、ヒロ君の給食に消しゴムのかすを入れてやろうと
相談しているのを耳にすると、プレトはもう我慢ができなくなり、タロとみんなの前できっ
ぱり言いました。
「ぼく、そんなひどいことをしてはいけないと思う。タロ君もみんなも、あんまりひどいと
思う」
(タロのように力の強い子は、たとえば腕相撲をするなら自分と同じくらい力の強い子とす
ればいい。最初から勝てると分かっている相手に勝って得意になるなんて、どうかしてる。
それに、給食に消しゴムのかすを入れるなんて、あんまり卑怯で穢らわしい)
プレトはどうしてもそのように思われて、タロやほかのみんなに対してひどく腹を立てず
にはいられませんでした。
次の日から、ヒロ君だけでなく、プレトの給食にも消しゴムかすが入るようになりました
。けれども、プレトは平気でした。
(確かにつらいし、悲しいけれど、ぼくの言ったことは間違っていないんだ。人をいじめて
はいけないという、こんなに簡単で分かりやすいことを、どうしてみんなは行わないのだろ
う。一足す一とか、あいうえおとか、もうまったくそれと同じくらい簡単で易しいことなの
に、みんなはどうして間違うのだろう。ぼくをいじめたければいじめればいい。こんな給食
、こっちから願い下げだ)
それから毎日、プレトは給食を全て残すことにしました。お腹は空くし、給食を作ってく
だすっている調理人の方や農家の方には申し訳ない気持ちで一杯でしたが、給食を食べずと
も平気にふるまうことで、タロや他のいじめっ子たちに挑むことにしたのです。
やがてほどなくヒロ君もプレトを真似るようになると、ヒロ君やプレトがすぐにでも、自
分たちに頭を下げて謝りにくると考えていたタロやみんなは段々真剣になり、とうとうプレ
トやヒロ君をまったく仲間はずれにして、目も合わせず、口もきかないようになったのです
。プレトもヒロ君も、二人とももうすっかり独りぼっちとなってしまいました。
そんなある日、学校が終わって家に帰ろうとしていたプレトは、ヒロ君に呼び止められま
した。そのときまで、プレトとヒロ君は不思議と一言も話したことがありませんでした。い
まから思えば、きっと二人ともいじめられている自分のことで精一杯だったせいでしょう。
ヒロ君は言いました。
「プレト君、ぼく、お母さんからお小遣いを頂いたんだ。帰り道にお店に寄って、パンを二
つばかし買えるくらいの。プレト君、おなか空いてるでしょう。一緒にお店に行って、パン
を一つずつ食べながら帰るというのは、どうだろう」
プレトは突然話しかけられたことにびっくりして、またヒロ君がせっかくお母さんから頂
いたお小遣いを自分のために使わせては申し訳ないと思うのでしたが、実際、プレトはその
ときも、給食を食べていないせいでくらくらするほどお腹を空かせておりましたので、戸惑
いながらも、
「ヒロ君はそれでいいの?」と聞いてみました。
「うん。ぼく、プレト君さえよければ、ほんとうにそうしたいんだ」
プレトはヒロ君の言葉にもうすっかりうれしくなってしまいました。考えてみれば、こう
してクラスの誰かとお話しするのは、もうずいぶん久しぶりのことでしたし、それにヒロ君
が、体は弱いけれども、心はとても優しい子だということが分かって、プレトはいっぺんに
ヒロ君のことが大好きになりました。うれしさに顔を赤らめながら、プレトは言いました。
「では、あのアンタレスの森で一緒に食べるのはどうだろう。きっと夕焼けもぼんやり、風
だって涼しくてとても気持ちの良いように思うけれど」
「うん、ぜひそうしよう。きっと楽しいね。ぼくは、プレト君がそう言ってくれて、ほんと
うにうれしい」
そう応えたヒロ君の顔も、やはりほんのり赤く染まっておりました。
そうして二人、アンタレスの森で食べたパンは、お腹が空いていることを差し引いても、
もう格別のおいしさで、次の日からはプレトも自分のパンを買うだけのお小遣いをきちんと
持って、毎日、学校が終わるとヒロ君と二人でお店に行ってパンを買い、アンタレスの森の
てっぺんまで登って、夕焼けの橙色のひかりや涼しい風にあたりながら二人で食べるのが決
まりごととなったのでした。
それから半年くらいが経って、いじめっ子のタロがお父さんの仕事の都合で学校を転校し
ますと、タロに言われていじめに加わっていたクラスのみんなは、また元通りプレトとヒロ
君に話しかけるようになり、もういじめも嫌がらせもしなくなりましたが、それでもプレト
とヒロ君は、あの最初にパンを食べた日のうれしさや、パンの格別にやさしい味や、なによ
りお互いいじめられている日々を、二人してときにいたわり、ときに励まし合いながら心通
わせ耐えてきたこともあって、他の友だちとはどこか違う、お互いに特別な友だちであり続
けたのです。
いま、目の前で泣きじゃくる女の子を見ながら、プレトは思いました。
(そうだ。ぼくはたいへんな思い違いをしてしまった。友だちというのは『儀式』なんかで
なるものではないんだ。ヒロ君のときのように、お互いを思いやって、優しい気持ちを持っ
て接することで、はじめてなれるものなんだ)
すると、自分がいままで、ミホナと名乗ったこの女の子に対して、思いやりや優しい気持
ちなぞ少しも持たずに接していたことにプレトは気づくのでした。
(ああ、ぼくはなんてひどいことをしてしまったろう。昨夜、ミホナちゃんはぼくがむすっ
と眠ってばかりいたせいで、あの変な船のうえでずっと独りぼっちだったんだ。そして目が
覚めたら覚めたで、こんな訳の分からない場所に放り出されていて、きっと不安でさびしく
て仕方のないはずなのに、ぼくはそんなミホナちゃんの気持ちをこれっぽかしも考えていな
かった。『友だちにならないといけない』なんて言って、『とりあえず』なんて名前を名乗っ
て、少しでも思いやりがあればそんなこと言えるはずもないのに、ぼくはなんてひどいこと
を言ったろう)
プレトは自分をとても恥ずかしく思い、電信柱の貼り紙のことなぞすっかり忘れて、やさ
しくミホナに話しかけました。
「ミホナちゃん、ごめんね。ほんとうにごめんね。ぼく、もうとてもきみにひどいことばか
りしていた。ほんとうにごめんなさい」
「…え?」
ミホナは思ってもみなかった言葉にびっくりして、プレトを見ました。
プレトもまた、しっかりとミホナの目を見て、心からすまないという顔をして言うのでし
た。
「ごめんね、ミホナちゃん」
ミホナはプレトのその言葉を聞いて、その優しく自分を気遣ってくれている目を見て、よ
うやくいままで感じることのなかった安心感を覚えました。それはとてもとてもうれしいこ
とでした。
「ううん、もういいの。わたしこそあんなにたくさん泣いたりして、ごめんなさい」
「ミホナちゃんが謝ることではないよ。もうまったくぼくがひどかったのだから」
「そんなことないわ。わたしだって、プレト君に話しかけたりしなかったのだもの」
いや、ぼくのほうが悪いんだ。
ちがうわ、わたしのほうよ。
そんなやりとりがずっと続いて、するとミホナもプレトもだんだん可笑しくなってきて、
「うふふ」
「ははは」
とうとうこらえきれずに二人とも笑い出してしまいました。
『笑う』とは、なんとさわやかで気持ちの良いものなのでしょう。
ミホナもプレトも昨夜の船室で会ったばかりですのに、もうずっとお互い長い間仲良しで
いたかのように思われて、それがとてもうれしくて、広くて真っ白な砂浜にぽつんと立った
電信柱の根元には、しばらくのあいだ二人の子供の透き通った笑い声が心地良く響き続けた
のでした。
そうしてようやく可笑しさもおさまりかけたとき、もうまったく突然に、まるで体の浮い
てしまうくらいの勢いの風が二人に吹きつけてきて、砂浜の白い砂粒もばらばらと舞い上が
り、目を開けていることさえ出来ません。
「ミホナちゃん、大丈夫!?」
「プレト君、わたし目が開けられないわ…!」
「ぼくも、体がいまにも浮いてしまいそうだ!ミホナちゃん、手をつなごう!それでなけれ
ばぼくたちきっとばらばらに吹き別れてしまう!」
そうして手探りにやっと二人が手をつないだ途端、ぴたり、あんなにひどく吹きつけてい
た風がまるでうそのように吹きやんだのです。そのさまはまるで吹きやむというより消え去
るといったほうが合うような、まるで夢か幻の覚めるような不思議なものでした。
「ミホナちゃん、ミホナちゃん…」
またすぐにでもあの風が吹いてくるように思われて、プレトの手をしっかり握り締め、目
をぎゅっとつむったままでいたミホナの耳に、しばらくしてプレトの呟く声が聞こえました
。
「…見て…」
プレトの呟きがあんまり小さく、またどこかふわりと頼りなく揺れているのが気になって
、ミホナはようやく目を開き、そしてそのままプレトとおなじ、頼りなく揺れる小さな声で
呟きました。
「…なに、これ…」
二人の子供の目の前では、あの電信柱が風に吹かれて、もうまったく斜めに傾いておりま
したが、ミホナとプレトの目はその電信柱の後ろへ注がれ、釘付けとなっておりました。
そこには、アンタレスの森を幾千個も集めたかのような、およそでたらめな夢のなかにさ
えも決して出てくることのないような、途方もなく高く太い木々に隙間なく覆われた、広大
で立派な森がどこまでもどこまでも広がっておりました。
アンタレスの森のてっぺん。
いつものてっぺんではなくて、昨夜の不思議なりんどうの咲き乱れるてっぺんの野原で、
一本だけ、いかにもすくっと立っていた、大きな大きなくぬぎの木。疲れ果てたプレトが乗
船券を見つけ、そしてそのまま寝入ってしまった、あのくぬぎの木。
いまミホナとプレトの目の前にある森は、そのくぬぎの木の三倍くらいはあろうかと思え
る、それこそ信じられないくらいに大きく高い木々が、隙間なくびっしりと生い茂っていて
、右を見ても左を見てもその木々の集まったさまは果てしなく続き、また上を見上げても木
々のあんまり背の高いせいで空すら見えず、そしてもっとも困ったことに、どうしたわけか
二人の子供の後ろには、もはやさきほどまでの真っ白な砂浜はどこにもなく、足首にしぶく
ほどのすぐ近くまで大海原の寄せる波が迫っておりました。見るとただ一箇所、傾いだ電信
柱の向こうの森に、ちょうど二人がようやく並んで歩けるほどの、せまくて暗い林道らしき
道がぽかりと口を開いております。
「…もうぼく、昨夜からあんまり驚くことばかりで、どうも頭がぼんやりとしてきてしまっ
た…」
「…わたしもよ。ねえ、でもこのままいたらわたしたち、きっと海にのまれてしまうのでは
ないかしら」
「確かに波が寄せてきている。それにさっきまでよりよほど高くしぶき始めた気もするね」
「わたしたち、暗くて怖そうだけれど、あのぽっかり開いた道を行ったほうがいいのではな
いかしら」
「けれどもあんまり木が太いし高いし、ぜんたいこの森がほんとうに森なのか分からないよ
。雑木林のように、木が森よりいくぶん少なくて、やがては通り抜けられるものならいいけ
れど、もしかすると深い谷や険しい崖のある、大きな大きな山の入り口なのかもしれない。
なによりぼくらには食べ物も飲み水もまったくなくて、ミホナちゃんはそれでも平気かい?
歩けるかい?」
「…わからないわ。もしかするとひどくつらく思うかもしれない。けれどわたし、プレトく
んと一緒ならきっと歩けると思うわ。独りぼっちはいちばん、なによりもつらいもの」
「うん…ぼくはね、男の子のくせにこんなこと言うのはとても恥ずかしいけれど、ほんとう
はずいぶん怖いように思うんだ。けれどやはりぼくも、ミホナちゃんと一緒なら、我慢でき
るように思う」
ミホナはプレトが正直に『怖い』と言ってくれたことをうれしく思いました。ほんとうは
、ミホナはプレトよりもっともっと怖く思っていたのです。自分ひとりが怖がっていてはプ
レトが迷惑かもしれないと、そう我慢して言い出せなかっただけだったのです。こんなに不
思議な出来事のなか、二人しておんなじ気持ちでいることが、ミホナにはとても幸せに思え
ました。
「わたしたち、友だちかしら」
ミホナはまだ握ったままのプレトの手を見つめながら言いました。
「そうさ。ぼくらはもうすっかり友だちさ。行こう、ミホナちゃん」
「うん!」
二人の子供はしっかりと小さな手を握り合い、ぽっかり開いた薄暗い道の奥へと歩き始め
るのでした。
林道のなかはやはり、両脇にそびえる大きな木々のせいでお陽さまのひかりもほんとうに
うっすらとしか届かず、ひどく暗くてひんやりとしておりました。木々はミホナやプレトの
ような子供でさえ入り込むことも出来ないほどに、いかにも奇妙に隙間なくびっしりと生え
ておりましたから、二人の子供はただ薄暗い道の続くがままに真っ直ぐ歩き続けるほかあり
ません。そのさまはどこかこの世のものとは思えないくらい不気味に怖いものでした。
ミホナもプレトも、きっと何かお話しをしながら歩けばそんな不気味さも怖さも少しは和
らぐと思いましたので、お互いに昨夜、どのようにしてあの乗船券を手に入れたのか、また
今までどのような心持ちでいたのかを伝え合いました。
「そうか、ミホナちゃんはそんなにわくわくした気持ちであの乗船券を見ていたんだね。す
るとぼく、あの船のなかでほんとうにきみに悪くしてしまった」
「もういいの。だっていまはこんなに仲良しだもの。けれどプレトくん、そんなに疲れてい
たのね。果ての見えないりんどうの野原だなんて、きれいかもしれないけれど、やはりわた
しも怖いわ」
「うん。あんなにきれいな花を、あんなに怖く思うだなんて、ぼく初めてだ。ねえ、それに
してもぼくたち、もうずいぶん長いこと話しているね。それにしてはこの道は、登るでもな
く降りるでもなく、あんまり平らで長く続いている。よほど広い林に違いないよ。だって森
とか山なら、少しは登ったり降りたり、そんな具合の坂道があるはずだもの」
「ほんとうね。ねえ、わたし少しのどが渇いてきたわ。どこかに池とか川とか湧き水とかが
あるといいのだけれど…」
「ぼくもだよ、けれどこうびっしりと隙間なく木が詰まっていると、どうやらまだしばらく
は我慢しなければいけないかもしれない…おや、あれは何だろうか」
果てしなくこのまま真っ直ぐ続くように思われた林道の向こうに二人が目を凝らしますと
、遠くのほうに何やらぼんやりと赤いほっそりとした棒のようなものがあるようです。
ずっと平坦で薄暗い林道にようやく現れた新しい何かに、すがるように二人が早足で近づ
いてみますと、それは神社にある鳥居であることが分かりました。
「神社の鳥居だね」
「うん。良かった。神社ならきっと『ちょうずばち』があるわ」
「『ちょうずばち』?」
「そう、手水鉢。ほら、神社にお参りするときに、柄杓で手や口を水ですすぐでしょう?あ
の、水が入った石の水鉢のことよ」
「ああ、あれって手水鉢っていうのか。ぼく知らなかった。ミホナちゃん、物知りだね」
「お母さんが教えてくださったのよ。ねえ、早くなかへ行きましょう。わたしもうのどがか
らからよ」
二人が鳥居をくぐって奥へ行きますと、正面に小さな、ちょうどあの船の船室くらいの古
いお堂があって、その脇のあたりに確かに手水鉢のような大きな石鉢が見えました。けれど
も二人が駆け寄って中を覗いてみますと、手水鉢には一滴の水もなく、二人ののどとおんな
じくらいにからからに干乾びていたのです。
「…空だわ…」
もういまにも泣き出しそうなミホナを見て、プレトは言いました。
「ぼく、お堂とその周りを見てくるよ。神主さんがいるかもしれないし、他にも手水鉢があ
るかもしれないもの。ミホナちゃん、ここで座って待っているといいよ」
言い終えるとプレトは急いでまずお堂の周りをぐるりと見て回りましたが、手水鉢どころ
か狛犬や御神木といった、およそ神社で目にするようなものは、もうほんとうに何もありま
せん。それどころか、いままで歩いてきた林道の続きらしき道さえどこにも見当たらないの
です。するとどうやらこのお堂は、林道の終点のようです。
プレトののどもからからでしたし、また林道がこのような何もないところで途切れてしま
っているのが分かって、プレトはとても不安に思うのでしたが、それでもミホナをこれ以上
悲しませないように懸命に明るい顔をつくりながら元のお堂の正面まで戻りますと、今度は
お堂のなかを調べてみようと、三段しかない古びた木の階段を昇って、格子窓のついた木の
扉を、ぎいっと木のきしむ音をさせながら開きました。
お堂のなかはいかにも暗くて、目が慣れるのにしばらくかかりましたが、ようやくうっす
らとなかの様子が分かるくらいになりますと、
「あっ…」
プレトは思わず呟きました。
お堂のなかはその広さといい、なかの様子といい、あの船の船室とそっくりおんなじ造り
だったのです。違うのは入り口の扉の格子窓だけ。壁に沿って置かれた木のベンチも、お堂
の真ん中に置かれた、木炭の夕焼け色に燃える鍋さえ確かにあの船室そのままなのです。
けれども、そう、確かにこのことは驚くような出来事ではありましたが、いまのプレトに
は驚くのもそこそこ、それよりミホナに、飲み水はどこにもなく、また続きの林道も見当た
らないのでここより先に進みようがなく、たとえば川とか湧き水なぞがこの先に見つかると
いうこともなさそうだということをどのように話したらよいか、まったく困り果ててしまい
ました。扉の格子窓越しに、さきほどの手水鉢の傍らにぼんやり座り込んでいるミホナを見
ますといかにもつらそうで、そんなミホナにかける言葉をプレトはいろいろと考えるのでし
たが、いっこうに良い言葉が思い浮かびません。それでも、このお堂のなかのベンチに横に
でもなれば、せめて体はわずかでも楽だろうと思い、プレトはなるたけ明るい具合を装って
ミホナのもとへ歩いて行きました。
「おかえりなさい、プレトくん、どうだった?」
「うん…あのね、実はあのお堂のなか、ぼくたちが乗ってきた船の船室とまるきりおんなじ
なんだ」
「え?あの船の?」
「そう、ベンチも、木炭の焚かれた鍋も、もうみんなそっくりおんなじなんだ。ね、ミホナ
ちゃん、一緒にお堂のなかに入って、ベンチに横になるといいよ。きっと体が楽だもの」
「…うん、プレトくんの言う通りだわ。行きましょう」
ミホナはまた新たな不思議が出てきたことにすっかり気も滅入ってしまい、体だけではな
く心もまた疲れ果てる思いでおりましたが、けれどもふと気づくのでした。
(きっと…きっと、お水はどこにもなかったんだわ。だってプレトくん、すっかり無理して
笑っているようだもの。きっとわたしに何て言ったらいいのか、分からなくて困っているの
だわ)
ミホナはプレトがほんとうに優しい男の子で、そんな男の子と友だちになれたことをうれ
しく思うのでした。
(わたし、あんまりがっかりした顔をしてはいけないわ。だって、プレトくんだってのどが
渇いてつらいはずだもの)
ミホナはくじけそうになる心と体をなんとか励まして、プレトの後についてお堂のなかへ
と入りました。
そうして、プレトが水のどこにもないことを話し出したときには、ミホナはそれをうすう
す思っていただけに、なんとか耐えることが出来ました。プレトを困らせないよう、明るい
顔を取り繕うことさえ、どうにか出来たのです。けれどもそれに加えて、プレトがいかにも
言い難そうに、このお堂が林道の終点らしく、どこか別の場所へと続くような道さえ見当た
らないと話すのを聞くと、そんなことを考えてもみなかっただけに、急に鳩尾のあたりがひ
くひくしだして、両目からというよりもむしろ、鳩尾の奥の奥のほう、体のいちばん底のあ
たりから次々湧き出してくる涙を、まるで心の折れてしまったように、もうどうすることも
出来なくなってしまいました。
そんなミホナの涙を見て、プレトはなにか、ミホナが少しでも元気になるようなことを言
ってあげなければと、もう必死になって頭の中をぐるぐるかきまわすのでしたが、今までに
観た面白い映画のことや、ヒロ君と二人で笑い合ったおかしい出来事なぞ、どれも確かに面
白いけれど、いまこのとき、ミホナに元気をあげるにはひどく場違いに思える話しか思い浮
かんできません。
結局、プレトにできたことといえば、次々湧き出してくるミホナの大粒の涙を黙って見つ
めることだけでした。
(あんなに大粒の涙を流して…きっと、きっとミホナちゃんはずっと我慢していたんだ。ぼ
くが水のどこにもないことを話したときには、明るい顔さえしていたけれども、きっとそれ
はぼくのことを気遣ってくれていたからなんだ。いまだって、とうとう涙はこぼれてしまっ
たけれども、きっとミホナちゃんはぼくを気遣って我慢を続けているに違いない)
プレトはミホナにゆっくりと近づいて、そうしてそっとそのふるふる震える肩にやさしく
手を置いて言いました。
「ね、ミホナちゃん、ぼくのことは気にしなくていいから。そんなにぎゅっと我慢なんてし
なくていいから。泣きたいように泣いていいんだから。だって、泣きたいときに泣けないの
は、きっととてもつらいことだもの」
一瞬ミホナはきょとんとした顔をして、けれども、すぐにさっきよりもっとたくさんの涙
と、そして心の底からの泣き声を大きく大きくあげて、もう自分の全ての力を込めてぎゅっ
と、プレトにしがみつきました。
けれどもミホナがそうしているあいだ、ずっとプレトの手は優しくミホナの肩に置かれた
ままで、ミホナは、自分がいま流している涙のうちの半分くらいが、プレトのように優しい
男の子と一緒にいられてよかったという、安心の涙であることに気づくのでした。
【第六章 かみさま】
ぎい…
ふいに木のきしむ音がして、そしてその音はやけに大きくお堂のなかに響きましたので、
あれほどぽろぽろ大粒に湧き出ていたミホナの涙が、『ひくっ』というしゃっくりのような
声とともにぴたりと止まりました。肩に置かれていたプレトの優しい手もびくりというよ
うに動きましたので、ミホナには、プレトもこのやけに響く木のきしみに気づいたのがわ
かりました。
二人の子供は恐る恐る音のしたほう、つまり自分たちが入ってきたお堂の入り口のほう
に目を向けました。すると、確かにしっかり閉めたはずの木の扉が少しばかり開いていて
、そしてまたゆっくりゆっくり、さらに少しずつ開いてゆくのです。ミホナもプレトも、
今度はいったい何が起こるのか、扉の完全に開かれるのを見守るよりほかに出来ずにおり
ました。
とうとう木のきしむ音が止み、扉が完全に開かれますと、そこにはミホナやプレトと同
じほども背丈のある、少し真珠がかった白い毛並みのとても見事な、大きな一匹のキツネ
が、そのほっそりした瞳にかすかな驚きと赤味を湛えて、しゃんと行儀よく座っていたの
です。
二人の子供と一匹のキツネは、そうしてしばらくお互いに見詰め合ったままでおりまし
た。
「…キツネだね」
「ええ、真っ白なキツネね…」
まだ身動きできないまま、けれどもようやくミホナとプレトが小さく小さくそう囁きあい
ますと…
「ええ、そう、真っ白なキツネですよ、見た目は確かにね」
りんと鈴の鳴るような透き通った声で一言一言はっきりと、その白いキツネは人間の言葉
で答えたのです。
ミホナもプレトももうすっかり呆気にとられて、体だけではなく、怖いとか不思議とか、
そういう心の動きも含めて、まるで石のお地蔵さんにでもなったかのように、その場にぴた
り、かたまってしまいました。
そんな二人の子供の様子を少し心外そうに、また少し可笑しそうにしばらく眺めてから、
白いキツネは言いました。
「まあ、人間さんというのはどうも、動物やら植物やら昆虫やらは人間さんの言葉を分かり
もしないし、ましてしゃべるなんて到底あり得ないと思い込んでいらっしゃるようですから
、いまのあなたがたみたいにもうすっかり驚いてしまうのも仕方のないことだとは思います
けれどね、けれどもわたしからすると、ようやっと一仕事終えて、さあゆっくり寝ようかと
家に戻ってみれば、いつのまにやら人間の子供さんが二人も入り込んでいて、わたしの家だ
というのに、この人間の子供さんたちときたら、家主のわたしをまるでキツネのように…ま
あ確かに見た目はキツネなのですが…とにかくそうしたいかにも妙なものが現れたように見
るじゃありませんか。どうです、わたしだって少しばかり心外に思ってもいいようなものじ
ゃありませんかねえ?」
白いキツネはそう言い終えるとずかずかとお堂のなかへ入ってきて、空いている木のベン
チにひょいと飛び乗り、それからいかにも気持ち良さそうにそのうえでふわりと寝そべって
から言いました。
「ふふ、まだすっかり心も体もかちこち、かたまってますね。先回りして言っておきますけ
れども、これは夢でも幻でもありませんよ。人間さんというのはとかくせっかくの『不思議
』や『奇妙』を、ろくに楽しみもしないで夢や幻のせいにしてさっさと素通りするのがお好
きなようですからねえ。さてと、ぜんたい、あなたがたはここで何をしているのです?」
何をしているのか、と訊かれてもミホナとプレト自身が昨夜からの一連の出来事を含めて
それをいちばん知りたいわけですから、白いキツネの問いかけに答えたくても答えられるは
ずがありません。けれどもそうして押し黙っているうち、あんまり驚いて混乱してしまった
せいでしょう、ミホナの目からまた一粒二粒と涙の落ちるのがプレトには見えました。
(とにかくぼく、しっかりしなければ。詰まってしまっても、話しが上手に出来なくてもよ
いから、ぼくが答えなくては)
そう心に決めて、プレトは言いました。
「あの、その…なにから話したらいいのか分からないのですけど、えっと…まずここはあな
たの家なのですか?」
そう言いながらプレトは、よりによってキツネに向かって必死に話しかけている自分を、
もうまるで信じられない気持ちでおりました。昨夜の乗船券からまったく不思議なことばか
りでしたが、それにしてもまさかキツネとおしゃべりをするなんて、白いキツネに先回りさ
れていなければとっくに夢か幻のせいにしていたでしょうし、そうできていればどれほど気
も楽だったことでしょう。なにせ夢か幻なわけですから、どんな不思議も『現実には無かっ
たこと』にできるのです。そう考えますと、目の前のこの白いキツネには、ミホナやプレト
の考えることなぞ何もかもお見通しなのではないかと、そのようにさえ思えてきます。
「さっきも申し上げたでしょう。確かにここはわたしの家ですよ。さあ、もう少し落ち着い
て、深呼吸のひとつでもしてごらんなさい。わたしのことをキツネだと思わずに、おんなじ
人間だと考えてみたらどうです?だって実際こうしてお話しも出来ているわけでしょう?さ
あ、わたしの質問に答えてくださいな。ぜんたいあなたがたはここで何をしているのです?
」
プレトは白いキツネに言われた通り、目を閉じて深く深呼吸しながら考えました。
思えば、ミホナとプレトはいままでまったくの二人ぼっちでした。正確には、あの船のな
かで出会った真っ暗な男の人がいましたが、あの人は二人から乗船券を持っていってしまっ
ただけで、ミホナとプレトは次から次へと押し寄せる不思議のなかで流れ流されるだけ、誰
とも出会わず、誰からも話しかけられることも無かったのです。振り返って考えれば、それ
はなんてさびしいことでしょう。けれどもいまやっと、二人に普通に話しかけてくれる人に
出会ったのです。正確には人ではなくてキツネですけれども、それでもようやく二人ぼっち
ではなくなったことを思えば、相手がたとえキツネであっても、もしくは他の動物やら植物
やら昆虫やらであったとしても、もうそうしたことはどうでもよくて、大切なのは互いに話
が出来る、会話が出来る相手に出会えたことなのだと、そのようにプレトには思えてくるの
でした。ひと度そう思い始めると、もうみるみるうちにいままでの不安や孤独といったもの
が薄らいでゆき、これが『夢』や『幻』でなくてよかったと、ほんのり幸せな心持ちさえし
てくるのです。
プレトは目を開くと、目の前に気持ちよさげに寝そべる白いキツネにむかって少し微笑ん
でから、昨夜からいままで、ミホナとプレトが体験してきた信じられないような不思議な出
来事をひとつひとつ話し始めました。プレトの声はもうすっかり落ち着いていて、またどこ
となく幸せな音色もしておりましたから、その声を聞くミホナもやがてすっかり落ち着いて
きて、プレトの話し足りない部分や、プレトが眠っている間に見た、大きく静かな月に照ら
された青白い大海原のことを白いキツネに話し始めていました。
白いキツネはほんのり赤味をおびた細い目をさらに細めたり、また反対に大きく見開いた
りしながら二人の子供の話しを興味深そうに、時折質問なぞもはさみながら聞いてくれまし
たから、ミホナもプレトも、もう嬉しくて嬉しくて夢中になって話しました。
ミホナとプレトの長い長いお話しがようやく終わって、二人の子供がどのようにしてこの
お堂にたどり着いたかをすっかり聞き終えた白いキツネが、ほんとうに心の底から労わるよ
うに言いました。
「あなたがたはまだ子供だというに、もうまったく大変でしたねえ。心細かったでしょうし
、不安でしたでしょうねえ」
「そうなんです。ぼく、まるで神さまがぼくとミホナちゃんをからかって意地悪しているよ
うにしか思えないほどなんです」
プレトがそう応えた途端、白いキツネは木のベンチのうえで、もうすっかり信じられない
というようにびゅんと飛び上がると、真珠がかった白い毛並みをわずかに紅く染めさえしな
がら、大声で言いました。
「あなたがたをからかったですって!意地悪をしたですって!それはひどい、あんまりな思
い違いですよ!いやまったくそんなはずありませんよ、ええ、確かにありませんとも!」
ミホナもプレトもびっくりして顔を見合わせてしまいました。毛並みが染まるくらい、い
ったい何にこの白いキツネがここまで驚くのか、慌てるのか、まったく見当もつきません。
「あの、ねえ、キツネさん、プレトくんは、あなたがわたしたちをからかったとか、意地悪
したとか、そんな具合には言ってないのよ?プレトくんだけではなくて、わたしだって、そ
んな具合に思ったりはしてないわ。なのにどうしてそんなに驚いているの?」
ミホナがなだめるように優しい声で言いましたが、白いキツネは変わらずわずかに紅く染
まった毛並みのままに言うのでした。
「どうして、ですって?あなた、ミホナさんでしたっけ、もうお忘れですか?そんなわけは
ないでしょう。その男の子、プレトさんですか、彼が実際ついさっき言ったじゃありません
か!『神さまがぼくとミホナちゃんをからかって意地悪してるみたいだ』って!そうでしょ
う?わたしはしっかりと覚えていますよ」
「そう、その通りよ、キツネさん。プレト君は神さまについて確かにそう言ったし、わたし
もはっきりと覚えているわ。だからキツネさん、神さまのかわりにあなたが、そのきれいな
真珠の毛並みをそんなにすっかり紅くしてまで驚いたり慌てたりすることはないでしょう?
」
「何を言ってるんです、大有りですとも!」
白いキツネはいかにも心外そうにそう言うと、木のベンチのうえにしゃんと座りなおして
から、ミホナとプレトの顔をじっと見て、そして言いました。
「はじめまして、こんにちは。わたし、かみさまです」
「はあ??」
ミホナとプレトはもうすっかりぽかんとして、そろって間の抜けた声をあげました。
白いキツネはといいますと、そうしたミホナとプレトの様子に、伝えたいことが伝わらな
いもどかしさをどうにかしたいせいでしょうか、ぶるぶるぶるぶる子犬のよくするような仕
草でからだを三度か四度かもふるわせてから、あのりんとした鈴の声でもういちど言うので
した。
「ですから、わたし、かみさまです!」
はっとしたような顔をして、プレトがそうっとミホナにささやきました。
(ミホナちゃん、ぼく、アンタレスの森の近くの道端で、このキツネさんと似た石の像を見
たことがあるように思うのだけれど…えっと、なんていったかな…)
(あ!そういえばわたしもどこかで…そう、たしか小さな祠のなかにあって…)
少しのあいだ頭のなかをぐるぐるさせて、それからミホナはもうすっかり興奮して叫ぶよ
うに言いました。
「わかったわ、思い出したわ!キツネさん、あなた、お稲荷様でしょう?キツネの神さまと
いったら、お稲荷様しかいないもの!」
「そうだ!ぼくも思い出した。お稲荷様だね!」
もう顔からはみ出すくらいの笑顔でそう言う二人の子供に、けれども白いキツネはまだ少
し心外そうな顔をして言いました。
「ううん…まあ、わたしが神さまだとわかっていただけたのはうれしいですけどねえ…そう
、あなたがたのような子供でなくて、大人の人間さんだったら、わたしをこうもすんなり受
け容れてくれるはずもないでしょうし…それと比べれば、うん、まあいいでしょう」
白いキツネがふうっとひとつ息をつくと、あんなに紅く染まっていた毛並みもようやく真
珠がかったまっさらの、元の毛色に落ち着いてゆくのでした。
「お稲荷様、ですか。わたしをそのように呼ぶのは、人間さんだけですよ。ぜんたいお稲荷
って何ですかねえ?わたしにはとんと分からないのですけれど…しかし人間さんというのは
、面白いですね。お稲荷様だけでなくって、なんとか菩薩さまとか、なになに地蔵さまとか
、仏様とか明王様とか、もう人間さんには、いったいどれだけの種類の神さまがあるのです
か?そんなにたくさんの種類の神さまが必要なんですか?そのわりには、わたしは少なくと
もわたしの仲間の神さま以外にお会いしたことはないのですけれど…」
「え?仲間の神さまって…お稲荷様には仲間がいらっしゃるの?わたしそんなの初めて聞い
たわ」
「おりますとも!山とか谷とか川とか森とか、そうしたある程度区切りのいいところで、仲
間どうし分担して受け持って仕事をしないと、こんなに広い世界ですもの、とてもやってい
けるはずないじゃありませんか」
「その、お稲荷様の仲間というのが、お地蔵様とか仏様とか、そういうことではないんです
か?」
なにやらわけの分からないようになってきて、プレトが聞きました。
「いえいえ、わたしの仲間というのは、毛並みや毛色が異なるくらいで、あとはみんなおん
なじ、見た目はキツネそのものですよ。体の大きさは、いわゆる動物のキツネさんよりわた
したちのほうがずいぶんと大きいので、うまい具合にややこしくならずに済んでますがね。
しかしそうですねえ、たとえば人間さんが絵に描いたり木で彫ったり、そうしたお地蔵さん
なりなんとか菩薩さんなりには、わたしたちはまだお会いしたことはありませんねえ」
「…じゃあ、お地蔵さんとか仏様とかは、ほんとうはいないっていうことですか?お稲荷様
しか神さまじゃあないっていうことなんですか?」
プレトの頭のなかに、お寺や神社へ毎日のように熱心にお参りする近所のおじいさんたち
やおばあさんたち、それに毎年家族で行く初詣のことなぞが思い浮かびました。もしほんと
うにお地蔵様や菩薩様や仏様とかがいないというなら、それはとても悲しいことに違いあり
ません。けれども、お稲荷様は、そんなプレトの気持ちを察したかのように優しく答えるの
でした。
「わたしたちがお会いしたことがないからって、お地蔵様とか仏様とかがいないということ
にはならないでしょう?単純にわたしたちはまだお会いしたことがありませんと、わたしは
そう言ってるだけで、それ以外の意味はありませんよ。ご安心なさい」
そう言われてプレトがほっとした気持ちでおりますと、ところで、とお稲荷様が少し困っ
た顔になって続けました。
「あなたがたがわたしを呼ぶときの、その『お稲荷様』というのは、ちょっとやめてもらえ
ませんかねえ。いや実際、人間さんを除けば、他の生き物のみなさんはみんなわたしたちの
ことを単純に『神さま』と呼んでくれてましてね、それでわたしたち自身も、自分たちは『
神さま』という『生き物』だと自覚してるようなわけでして、どうも『お稲荷様』なぞと呼
ばれると、それが自分のことだと気づくのに時間がかかっていけません。ぜんたい、さっき
も言いましたけれど、『お稲荷』の意味すらわたしたちは知らないわけですから。ね、ひと
つあなたがたも他の生き物のみなさんと同じように呼んでみてはくれませんかねえ」
ミホナは、いかにも困ったような顔をして長々とお話しをする『神さま』の様子が、段々
可笑しいやら可愛いらしくさえ思えてきて、プレトに言いました。
「うふふ、ねえプレトくん、『お稲荷様』がかわいそうよ。これからは『神さま』って、そ
う呼んであげましょうよ」
「そうだね、うん、ぼくもそうするよ」
プレトもやはり笑顔になってそう言いますと、
「ほんとうですか!?いやあ、助かりました。じつはね、『お稲荷様』なんて呼ばれると、
なんだか偉そうな、神さまっぽい気がして、もうくすぐったくてくすぐったくて仕方なくっ
て…」
「あら、神さまっぽくて、だなんて。神さまが神さまっぽい気がするのは、当たり前じゃな
いかしら」
ミホナがすっかりいたずらっぽくなって言いますと、小さなお堂のなかは二人の子供と一
匹の『神さま』の笑い声でいっぱいになったのでした。
「あの、神さま、質問したいことがあるんです」
ひとしきり笑った後で、プレトが言いました。
あの乗船券から始まった、いままでの不思議の数々が、いったいどうして、なんのために
起こったのか、神さまならご存知かもしれません。もしかすると、神さま自身が起こしたこ
となのかもしれませんが、とにかくプレトは、もうすっかりわけの分からないままの出来事
の少しでも、そのわけを、意味を知りたかったのです。そしてそれはまたミホナもまったく
おんなじ気持ちでした。
「うふふ、どのような質問なのか、そうして結局どのようなところへその質問が行き着くの
か、もう分かるような気もしますがね、いいでしょう。さあ、どんなことでも訊いてくださ
いな」
神さまはにっこり笑って言いました。
「じゃあ…まず最初に、あのきれいな水色の乗船券、あれをぼくたちに送ってくださったの
は、神さまですか?」
「いいえ、わたしは送っておりませんよ」
「じゃあ、いったい誰が送ってくれたのでしょう?」
「わたしは知りません」
「ねえ、神さま、ひょっとしてわたしとプレトくんがあの船のなかで会った、顔も体も真っ
暗な、あの大きな男の人が送ってくれたのではないかしら?」
こんどはミホナが訊きました。
「ううん、恐らく違うと思いますね。わたしは彼をよく知っております。なにせ時々このし
まに船でやってきては、珍しい果物やら野菜やらを届けてくれますからね。今回はあなたが
た二人の子供さんを連れて来ましたからちょっと驚きましたけど。いかにも怖そうに見えま
すが、優しい男ですよ、彼は。ただ、彼はあの船の船頭であって、郵便脚夫ではないことは
確かです。ですから、違うでしょうね」
「そうなのね…ではわたしたち、あの男の人にずいぶん悪かったわ。だってすっかり怖い人
と思っていたのだもの…ねえ、神さま、わたしたちどうしてこんなことになっているのかし
ら?突然乗船券が配られて、船でこの不思議なしまに連れてこられて、いまこうしてあなた
と、神さまとお話ししてるのは、どうしてかしら?」
「さあ、わたしにはさっぱり分かりませんねえ」
プレトは妙な心持ちがして言いました。
「でも、あなたは神さまなのですよね?やっぱり神さまが何かしらされたから、ぼくたち、
こうしているのではないのでしょうか」
「それ、それ、それですよ!やっぱりいつかはそう仰ると思ってましたよ!うふふ」
神さまはさも可笑しそうに笑って言いました。
「人間のみなさんはよくそういう思い違いをなさいますねえ。『不思議な出来事』だったり
『お願い事』だったり、そうしたことにはまず『神さま』がどこかで関係しているように思
い込む。『神さま』は奇跡を起こしたり、全知全能だったり、そういう具合に想像したり信
じてらっしゃる。わたしからすると、どうしてそうなるのか、不思議で仕方ないのです。人
間さん以外の、たとえば犬や猫や鳥や魚のみなさんは、誰もそんな具合には思い込んだりし
ないのですがねえ」
「でも、でも!」
ミホナは思わず少し強い話しぶりになって言いました。
「わたしのおばあさんがね、去年とてもつらい病気になって、もう死んでしまうかもしれな
いくらいにつらい病気で、それでわたし、お母さんと一緒に神社にお参りしたの。おばあさ
んがどうか良くなりますようにって。何度も何度もお参りしたのよ。そしたらおばあさん、
お医者様もびっくりするくらい病気が良くなったの。おばあさんもお母さんも、『これはき
っと神さまのおかげね』って、そう仰ったわ。だからわたし、てっきり神さまは本当にいる
のだと思っていたのに…」
「いるじゃないですか、あなたの目の前に。失敬しちゃうなあ、もう」
キツネの神さまは笑いながら言いました。
「あのですね、神さまの仕事ってのは、確かに少し変わってはいますがね、大体が風を少し
吹かせたり、雨を少し降らせたり、それくらいのものですよ。なにも特別なことが出来るわ
けじゃありません。鳥が機械を作れないように、あなたがた人間さんが野山をキツネやタヌ
キのように素早く走り回れないように、わたしたち神さまだって出来ないことがあります。
いや、むしろ出来ないことのほうが多いかな。ご病気の人を治療するなんて、それこそお医
者様でもあるまいし、もうわたしたちにはまったくお手上げですよ。まあ、そうは言っても
風を吹かせたり、雨を降らせたり、それはそれで大変な仕事ですよ?もう朝から晩まで休む
ひまもないくらいです。そうして働いても、上手くいかないことだってあって、風を吹かせ
るつもりが雨を降らせちゃったり、とにかく、楽な仕事ではないのですよ、一応言っておき
ますがね。けれども確かなことは、わたしたち『神さま』はあなたがた人間さんが思ってら
っしゃる『神さま』とは随分と違います。まずわたしたちは人間さんや他の動物や植物と等
しく『生きもの』です。怪我だってするし、風邪もひくし、さきほど申し上げたように仕事
の失敗もたくさんします。まして奇跡を起こすだとか全知全能なんて、とんでもない!お星
様の浮かぶ宇宙や、砂漠や、海や、他ならぬわたしたち『生きもの』がこの世界にこうして
存在していることと比べたら、他のどんな奇跡も不思議も、わたしにはよほどちっぽけなこ
とに思えますよ。」
ふうっと一息ついてから、神さまは少し真面目な顔になって続けました。
「いいですか、ひとつわかりやすいように、『不思議な出来事』と『お願い事』、別個にご
説明しましょうか。わたしなりの考え方でよろしければ、ですがね」
ミホナもプレトもじいっと、神さまの言葉を待ちました。
「まず不思議な出来事というのはですね、ただ不思議なだけなのですよ。どこかの誰かが、
何か目的なり理由なりがあって起こしてるわけではないのです。人間さんというのは妙にこ
の点にこだわっておられるようですがね、『なぜこんなことが起こるのだろう、どういう仕
組みなのだろう』とね。それ自体は悪いことじゃありませんよ。でもこだわりすぎてもいけ
ないように思うわけです。おや、そんなはずないって顔をしてますねえ」
ミホナとプレトは思わず互いの顔を見て、そうして確かに二人ともがとても変てこな顔を
しているのに、思わず笑ってしまいました。キツネの神さまはそんな二人をにこりと見守る
ようにして、言いました。
「人間さんというのはね、思うに色々ともう本当に考えすぎるのですよ。で、それが行き過
ぎると『理由とか目的とか仕組みなしにこんなことが起こるわけがない、起こってはいけな
い』そんな具合に不思議をとらえてしまうわけです。それはいかにももったいないじゃあり
ませんか。実際この世界ときたら、もう気まぐれそのもので、やたらとあちこち不思議なこ
とが起こっていて、それ自体とても面白いことだとは思いませんか?『ああ、不思議だな、
面白いな』と、たまにはそう純粋に楽しむのも悪いことじゃありませんよ。だってあなた、
毎日毎日なんにも変わらないより、たまに太陽が北から昇るとか、夕焼けのあと、月のかわ
りに朝陽が昇るとか、そのほうが面白いし楽しいでしょう?あなたがたに起こった不思議も
、たとえばこんな具合に純粋に楽しんでみたらどうです?」
そう言われてみますと、確かにわけの分からないことを延々と『なぜだろう、どうしてだ
ろう』と考え続けるより素適なようにプレトには思えました。けれどもそれは同時に、不思
議な出来事の起こるがままに身を任せきってしまうことで、するといったいいつになれば自
分が元の、お父さんやお母さんやヒロ君のいる世界に戻ることが出来るのか、プレトは不安
に思い始めるのでした。
「神さま、するとぼくたち、いつまでこの不思議なしまにいることになるのか、それすらも
うまったく分からないのでしょうか?もしかするとずっとこのまま、お父さんやお母さんや
大切な友だちにも会えないのでしょうか?」
「…そうだわ、わたしのお父さんもお母さんも、きっといまごろわたしのいないのに気がつ
いて、たいへん心配されているに違いないわ」
ミホナも急に不安になって呟きました。
「わかってないなあ、もう」
そんな二人に神さまは、さも可笑しそうにふわふわの前足をひらひらさせながら言いまし
た。
「不思議というのはですね、長続きしないから不思議なんじゃありませんか。ぱっと起こっ
てさっと元に戻るから不思議なのでしょう?太陽が北から毎日毎日昇り続けたら、それはや
がて不思議でもなんでもなくなってしまうではないですか。ですから、心配はいらないと思
いますよ。それとですね…」
キツネの神さまは不安な顔の二人の子供をなだめるように優しく言い足しました。
「この『しま』はですね、あなたがたからすれば『不思議な世界』なわけです。『不思議な
世界』に入り込んでいるあいだの時間というのは、元の世界の時間とは別個の『不思議な時
間』でもあるわけですから、やはりぱっと流れてさっと元に戻ります。あなたがたがどれだ
け長い間このしまにいたとしても、元の世界に戻ってみればそれはきっとあなたがたが気づ
くか気づかないか程度のぱっと流れてさっと消えるだけ、ごくわずかな時間にしかならない
ですよ」
「ほんとうにそうかしら…」
ミホナがまだ不安げに呟きます。
「そうですよ、ミホナさん。考えてもごらんなさい。たとえばですよ、仮にこのしまにミホ
ナさんが一年いたとして、それから元の世界に戻ったとしましょう。仮に、ですからね。さ
て、元の世界でもおんなじだけ一年時間が経っていたとしたら、元の世界の一年分のミホナ
さんは、お父さんやお母さんやお友だちからすると存在しなかったことになってしまうでし
ょう?それはとても『不思議』なことです。つまり、『不思議な世界』のあとの元の世界も
『不思議な世界』になってしまうわけです。言いたいことがわかりますかね?つまり、ぱっ
と起こってさっと消えるはずの『不思議』が延々ずっと続くことになってしまうわけで、そ
れでは不思議もなにもあったものじゃないでしょう?ですから、大丈夫。ご安心なさい」
「うん…なんだかとっても不思議なお話しだけれど、なんとなく分かるような気もするわ…
」
「そう、そう、それでいいのですよ。『なんとなく』でいいのです。そのほうがあなたがた
にせっかく訪れた『不思議』を存分に楽しめるというものです」
「ぼくもおんなじ、ちょっと難しいお話しだけれど、いま神さまが『せっかく訪れた不思議
』って言ったでしょう?ぼく、それを聞いて、どうせならミホナちゃんと一緒に、このおか
しな世界で、たくさんの『不思議』を楽しみたいように思うな」
「おかしな世界、とはまたまた失敬だなあ。『不思議な世界』と言ってくださいませんかね
え。ぜんたい、わたしからすればあなたがたのほうが、突然やってきた『おかしなお客さん
』なのですから」
「それもそうね。プレトくん、神さまに失礼よ」
そうしてまた、お堂のなかにひとしきりいかにも楽しげな笑い声が三つ、響きました。
けれどもミホナとプレトの笑い声が段々しゃがれてきて、そこで二人の子供は自分たちの
のどがもうすっかりからからになっていることを思い出したのです。
「あの、神さま、わたしたち実はもうずいぶん何も飲み物を飲んでいなくって、のどがから
からなんです。お疲れでしょうけれど、わたしたちのために少しでもいいですから、雨を降
らせていただけないかしら」
ミホナは遠慮がちに言いましたが、けれども実際、ミホナとプレトののどはもうひりひり
痛いくらいに渇ききっていたのです。
「おや、それは大変だ!どうしてもっと早く言ってくれなかったのです?」
そう言うなりキツネの神さまは、すんと一回鼻を鳴らしました。すると不思議なことに、
ミホナとプレトの目の前に一つずつ、小さめの水筒のような形の竹筒と、竹皮の包みがひょ
いと現れたのです。
「さ、早くその竹筒をお取りなさい」
キツネの神さまに言われてミホナとプレトがそれを手に取りますと、途端に竹筒の底から
みるみるうちに、いかにも透き通っておいしそうなお水が湧き出てくるのです。ミホナもプ
レトももう我慢できずに、神さまにお礼を言うことも忘れてその透き通ったお水を口に含み
ました。そのひんやりして、しかも青味がかってさわやなおいしさといったら、もう山奥の
渓流の、きらきらした川魚でしか口にすることの出来ないおいしさのように二人には思えて
、ごくごくごくごく、我を忘れてのどを鳴らすのでした。その竹筒はほんとうに二人の手の
ひらにすっぽりおさまるくらいしかありませんのに、不思議なことに水はどんどん湧き出て
きて、二人ののどの渇きがようやくおさまった途端、まるでうそのように、あんなに透き通
った水で満たされていた竹筒は、もうすっかり空の、ただの竹筒に戻っているのです。
「ああ、なんておいしいお水だったろう。ぼく、こんなにおいしいお水は初めてだよ」
「わたしも。もうのどもすっかり楽になったわ。けれど、ねえ神さま、この竹筒、とっても
不思議な竹筒ね」
「ふふ、またひとつ『不思議』が増えましたね。仕組みやら何やらをあれこれ考えたりせず
に、単純にお好きなだけ味わってくださいな。それにしても上手くいってよかった。失敗し
て竹筒や竹皮のかわりに土砂降りの雨でも降らせてしまったらどうしようと、いや実際ひや
ひやものだったのですよ。ところであなたがた、お腹はどうですか?お水も飲んでいなかっ
たのだから、きっとお腹も空いているでしょう?さあ、その竹皮をお開きなさい。竹筒とお
んなじように、その竹皮はあなたがたが欲しい分だけ、おいしいお握りを産みますから」
ミホナとプレトがそうっと竹皮を開きますと、そこにはぴかぴか銀白色に光るお握りがひ
とつ現れておりました。二人の子供はごくりと一回大きくのどを鳴らして、それからそのき
れいなお握りを口に入れました。その美味しさといったら!お米はふわふわ、優しい湯気も
立ち昇り、またほんのり塩味さえきいていて、竹筒の水とこれ以上ないほどによく合うので
す。ミホナもプレトも、もう夢中になって食べて、飲んで、食べて、飲んで…。ようやくふ
うっと、そろって満腹の幸せなため息をついたときには、ミホナもプレトも、だいたい竹筒
に三回、竹皮に四回分ほどの水とお握りを味わった後でした。
「ああ、本当に美味しかった…神さま、ぼくたちの願い事をかなえてくだすってありがとう
ございます」
「そうだわ、プレトくん、わたしたち次の、『願い事』について神さまの説明してくださる
のを、ずいぶんとお待たせしてしまったわ。神さま、ごめんなさい」
うふふ、と笑ってキツネの神さまは言いました。
「のどとお腹は落ち着いたようですねえ。では『願い事』についてのお話しを始めましょう
か。いまわたしはあなたがたに竹筒と竹皮を差し上げました。それでもってあなたがたはの
ども潤ったし、お腹も一息つくことが出来たわけですが、そのせいであなたがたは勘違いを
なさっているようです。さきほどプレトさんは『願い事をかなえてくだすってありがとう』
と、わたしにそう仰ってくださいましたね。けれども申し訳ありませんが、わたしはあなた
がたの『願い事』をひとつもかなえてはおりませんよ」
ぽかんとして、プレトが言いました。
「でも、ぼくたちに水とお握りをくださったじゃないですか?どちらもぼくたちが本当に必
要としていたもので、神さまはそれをこうして実際ぼくたちにくださったじゃないですか?
」
「ではひとつお聞きしますがね、ミホナさんがわたしに願ったのは、『雨を降らせて欲しい
』ということではなかったですか?実際、はっきりわたしはそのように記憶しておりますけ
れどねえ」
「…そう言われてみればそうね…確かにわたしがお願いしたのは、雨を降らせてほしいとい
うことだったわ…」
「でしょう?」
キツネの神さまはそう言うと、少し真剣な顔になって続けました。
「神さまの仕事の忙しいことはもう申し上げましたね。実際そうなのです。なぜならわたし
たち神さまは、人間さんのことばかり考えるわけにはいかないからなのです。野原の動物た
ち、虫たち、花や木や、人間さんが『細菌』と呼ぶような小さな小さな生き物たち。そうし
たおよそこの自然のすべてのことを考えなければならないのです。そして神さまの仕事がそ
うである以上、基本的にわたしたち神さまは『誰の願い事もかなえない』のです」
あんまり意外な神さまの言葉に、ミホナもプレトも黙って神さまの次の言葉を待つことし
か出来ませんでした。
「たとえば仮にわたしがミホナさんの『雨を降らせて欲しい』という願い事をかなえていた
としましょう。あなたがたはもちろん知るはずもありませんが、ちょうど三日前、わたしは
このしまにどしゃどしゃと雨を降らせております。そう、少しばかり失敗して、思っていた
以上にたくさん降らせてしまったのです。ですから、そのうえさらにミホナさんの願い通り
に雨を降らせていたら、土の水気がすっかりひどくなってしまいますから、せっかく咲きか
けの草花の根っこや、ようやく地面の中から出てこようとしているセミの子供やらを全部お
ぼれさせてしまったことでしょう。そう、わたしは、あなたがたがどんなにひどくのどをか
らからにしていても、雨を降らせるわけにはいかなかったのです。それから、こんなことを
言いたくはないのですが…」
キツネの神さまはひどく辛そうな顔になって言いました。
「ミホナさん、さきほど仰っていたあなたのおばあさんについてですが…あなたやあなたの
お母さんがどれほど必死になってわたしたち神さまにおばあさんの体がよくなるようにと『
願い事』をされて、そして仮にわたしたちにできることが何かあったとしても、わたしたち
は何もしません。いいですか、『何もできない』のではなくて、『何もしない』のです」
「そんな!そんなことって…!」
ミホナはあんまり冷たい神さまの言葉に思わず叫ぶように言い返すのでした。
「じゃあ、たとえばとてもとても心のきれいな善い人が悪い人に苦しめられて、そうしてそ
の善い人が神さまに助けを心から求めていても、神さまたちは何もしないと、そういうこと
なの?」
「…そうです。その善い人が助かればいいなと『願い』はします。けれどもそれだけです。
わたしたちはそう『願い』ながら、見守ることしかしません」
「もしその善い人が殺されてしまったら?たとえばお医者様みたいに今までたくさんの困っ
ている人を助けてきた人でも?それでも見守るだけなの?そんなのって、ひどい!」
「…仰る通りですね。わたしたち自身、そういう場面に出くわすと、やはりやりきれなくな
ります。悲しいです。けれどもミホナさん、この大自然のなかで、『善い』と『悪い』を区
別することは、実はもうほとんど不可能なくらい難しいことなのです」
「…どうして?」
ミホナはすっかり悲しくなって、目に涙を浮かべながら呟くように訊きました。
「わたしたちは、何度も言いますが、人間さんのことだけを考えるわけにはいかないのです
。善い人と悪い人。人間さんの世界だけで考えればその見分けは簡単かもしれません。けれ
ども、この世界は人間さんだけの世界ではありません。草花も、動物も、昆虫も、細菌も、
人間さんも、そしてほかならぬわたしたち神さまだって、この世界からすればみんなみんな
等しく『生けるもの』です。そこに善いも悪いもありません。すべての生きものは『善く』
もあり、『悪しく』もあるのです。分かりますか?」
たとえば、とキツネの神さまはすっかり悲しい顔になってしまった二人の子供を見つめま
した。
「この世界で、ある生きものがきちんと成長するためには、他の生きものの命が必要です。
あなたがたが先ほど召し上がったお握り、あれは一粒一粒が『稲』という生きものです。や
がては芽吹き、黄金色の穂をそよがせるはずだった『生命の種』です。『善い』人間さんと
『悪い』人間さん、どちらも成長して大人になるまでに、いったいどれほどの『生命の種』
を摘み取っていることでしょうねえ」
ミホナとプレトはついさきほど食べたばかりのお握りを思い浮かべ、何も言えなくなって
しまいました。あのふわふわしたお米。それは確かに『稲』の『生命の種』だったのです。
そう考えると何やら自分たちがひどく悪いことをしてしまったような、そのような気さえし
てくるのです。
「ふふ、まあそのように悲しい顔をしないでください。人間さんだけではなく、他の生きも
のも、およそこの世界の生あるものはみんな、そのようにして生きているのですからね。つ
まりわたしが言いたいのは、この世界全体で考えれば絶対的に『善い』ものも『悪い』もの
もなく、全てが善と悪とを混ぜ合いながら生きている、ということなのです。何が善くて何
が悪いのか、それは見る立場によって変わるということなのです。これはわたしたち自身に
も言えることなのですよ」
「神さまにも?」
ミホナが目尻の涙を拭いながら訊きました。
「もちろんですとも。たとえばさきほどあなたがたに差し上げた竹筒と竹皮。あれは竹にと
ってはひどく迷惑なことでしょうし、お握りについてはいま申し上げた通りです。他にもあ
りますよ。木々や草花を思いやって雨を降らせたら、土の中の細菌が溺れてしまったり、い
けないと気付いて雨を降らせるのをやめたら木々や草花が枯れてしまったり、もうしょっち
ゅう間違いだらけです。人間さんはよく、『神さまは正しい』とか『神さまは公平だ』とか
、そのように仰いますが、とんでもないことです。どうです?わたしたちが基本的に誰の願
い事もかなえないわけについて、分かって頂けましたかねえ?」
「はい…少し難しいところもあったけれど、つまり誰かの願い事をかなえることで、他の誰
かにとっては悪いことが起きてしまう。だからこの世界のあるがままに見守るしかない。そ
ういうことですよね」
「わたしもうひとつ、気付いたことがあるの」
プレトに続けてミホナが言いました。
「願い事をかなえるには、神さまに頼るのではなくて、わたしたち自身が頑張らなくてはい
けないって。だって神さまは人間だけではなくて他の生きもの全てを見守っていなければい
けないのでしょう?それはとても忙しいことだと思うもの」
「やあ、そう言って頂けると助かりますね。いや実際この世界ときたら、やれ風を吹かせろ
だ、雨を降らせろだ、それはもうひどくわたしたちをこき使うのです。ああ、代わって頂け
るものなら、本当にすぐにでも代わって頂きたいものです」
キツネの神さまがすっかりうんざりの顔をするので、ミホナとプレトの顔に笑顔が戻りま
した。
「でもぼく、神さまはかわいそうだと思う。だって、たとえば仲良くなった生きものがいて
も、その生きものの願いをかなえてあげることはできないし、その生きものの生命が摘み取
られてしまうのも、見守るしかできないのでしょう?それはひどく辛いことだとぼくは思う
」
プレトはミホナやヒロ君のことを思い浮かべながら言いました。キツネの神さまは、そう
ですね、と淋しそうに呟いて、それから二人の子供を見詰めて言いました。
「ねえミホナさん、プレトさん。わたしはあなたがたが大好きになりましたよ。どうか一日
一日を大切に、そして少しでも長く生きていってくださいね。この世界がどうか概ねあなた
がたにとって良いほうへ流れますように。わたしたちの行うことがどうか概ねあなたがたに
とって良いものでありますように。心からそう願っています。そのことをどうかこれからも
忘れないでいてくださいね」
「神さま?…なんだかもうお別れみたいな言い方だわ」
ミホナはどうもキツネの神さまの声が淋しそうに聞こえて、心配そうに言いました。
「残念なのですが…そう、もうそろそろお別れのときが来たようです」
えっ!と二人の子供は叫んでいました。ミホナもプレトも、この素晴らしく真珠の毛並み
のきらきらしたキツネの神さまが、大好きになっていたのです。こんなにも早くお別れだな
んて、ミホナもプレトも全く思ってもおりませんでした。
「わたし、そんなの嫌よ!せっかく出会えたのに、竹筒も竹皮も、こんなに良くして頂いた
のに、もうお別れだなんて、絶対にいや!」
涙ぐむミホナに、そして涙を必死にこらえようとしているプレトに、キツネの神さまは優
しく言いました。
「ねえミホナさん、プレトさん。最初のころに少し申し上げましたけれど、この世界にはた
くさんの神さまがいます。あなたがたが暮らす街にも、木や石や空気や水や動物や…そう、
何らかの形をした神さまがいて、あなたがたを見守っています。わたしがこの『しま』を見
守っているように。あなたがたはこのしまにふいにやってきた『不思議な』お客さまです。
ほんとうなら、あなたがたを本来見守っているはずの神さまに出会うことはあっても、この
しまの住人でないあなたがたにわたしが出会うことはないはずなのです。けれどもわたした
ちはこうして出会って、仲良くなりました。これはとても『不思議な』ことです。わたしに
もなぜかは分かりません。けれど、これだけは言えます。『不思議なこと』は、前にも申し
上げましたけれど、ふいに起こって、さっと消えるから、長続きしないから『不思議』なの
です。わたしもあなたがたとお別れするのはとても淋しいし、悲しいです。けれどね、わた
しはこの『不思議』を、ただ純粋に『不思議』として楽しみました。これも前に申し上げま
したね。あなたがたもどうか、わたしと出会った『不思議』をありのままに楽しんでくださ
い。お別れを惜しむより、楽しい気持ちでいてください。ね?」
そう話すうちからキツネの神さまの声は次第に小さくなって、そしてその姿もすこしづつ
薄れてゆくのがミホナにもプレトにも分かりました。
「わたし…ほんとうにお別れなんて、やはり辛いわ。悲しいわ」
ミホナは言い、またプレトの目には涙が光っておりました。
「さようなら、不思議な人間の子供たち。不思議な出来事自体には意味も目的もないけれど
、そこから何を感じ、何を得るのかはあなたがた次第。おそらく二度とは起きないこの世界
のちょっとしたいたずらを、その小さな体いっぱいに受け止めてお行きなさい。あなたがた
によい風が吹き、暖かな夏の陽射しがたくさん注ぎますように…」
キツネの神さまの最後の言葉はもう微かな微かな囁きとなり、素適な真珠色をしたその姿
は囁きとともに消えてゆきました。そしてそれと同時に、二人の子供と一匹の神さまが素適
なときを過ごした木のお堂もまた、すっかり跡形も無くなっておりました。けれどもミホナ
とプレトの手の中に、竹筒と竹皮だけはいかにもしっかりと残されておりました。
【第七章 科学者】
キツネの神さまとのお別れがあんまり急で悲しかったので、ミホナもプレトも神さまから
頂いた竹筒と竹皮をじっと見詰めながら、ずいぶん長い間しんとした時間を過ごしておりま
した。
そうしてようやく、何やら辺りの様子のわずかに変化していることにプレトは気付きまし
た。
お堂は神さまと一緒に跡形も無くなっておりましたから、二人の周りはぐるりと大きな木
々にびっしり囲まれた、小さな公園ほどのぽかりとした広場のようで、そのなかに一箇所だ
け、薄暗いけれども確かに林道らしき道の入り口が口を開けております。そしてその林道の
入り口には、二人が確かにくぐってきたはずの赤い鳥居がどこにも見当たらないのです。
(おかしいな。あの道はぼくらが電信柱の砂浜からお堂に来るときに通った道だとばかり思
っていたけれど…)
プレトは空を見上げました。すると、大きな木々の隙間にわずかに覗くお陽さまが、来た
ときとは明らかに真逆の方角に輝いていたのです。
「ミホナちゃん、ねえ、ちょっと聞いてほしいんだ」
プレトから鳥居のこと、お陽さまの方角のことを聞くと、ミホナもようやく悲しい顔をや
め、きょろきょろ辺りを見渡して言いました。
「プレトくんの言う通りだわ、元来た道はすっかり無くなってるのね。するとあの道は、こ
のしまの奥につながる新しい道ということね」
「ねえ、ミホナちゃん、電信柱の砂浜を思い出してみて。あの砂浜は、まるでぼくらを追い
立てるようにどんどん海に呑まれていったろう?ぼくらがあのとき選べる道はあの鳥居の林
道しかなかった。いまも同じ、こうびっしり大きな木に囲まれては、ぼくらが選べる道は、
やっぱり一本しかない。思うにこのしまは一方通行のしまなのではないかな?」
「そうね、そうかもしれない。とっても不思議ね。でもわたしもう怖くないわ。だって神さ
まが仰ったもの。『不思議を不思議として純粋に楽しみなさい』って」
ミホナとプレトはにこりと見詰めあい、それから少し恥ずかしそうに手を握って、『新し
い道』へと足を踏み出したのです。
林道をしばらく進みますと、道はやがて右に左に大きく曲がりながら、少しずつ昇り道と
なり、また周りの木々は段々とまばらになって、そのかわりにミホナとプレトの背の高さほ
どの青々とした草原になってゆきました。草原の草はどれも立派に輝く草穂でしたが、けれ
どもひどく丈夫に、またびっしりと生えておりましたので、道を見失わないように草をかき
わけかきわけ進むには、ひどく苦労の要るものでした。道は先に進むほど細くなり、もはや
ミホナとプレトが並んで歩くのは無理でしたから、プレトはミホナの先を歩いて草をかきわ
け、またミホナはプレトの少しでも楽になるように背中を押してあげました。けれども二人
はすっかり疲れてしまい、もうこれが何回目か、思い出せなくなったひと休みのとき、とう
とうプレトが竹筒のお水と竹皮のお握りを食べながら呟きました。
「ああ、この道ときたら本当になぜこんなにも草の多いのだろう。ぼくすっかり疲れてしま
った…」
はあはあと同じように苦しげな息をしながら、けれどもミホナはプレトを励ましました。
「わたしもとても疲れたわ…でも、わたしたちには大変なこの草原も、ひとつひとつの草の
生命の集まりなんだもの。草原っていう大きな生命の集まりに見守られているのだもの。何
もない真っ暗闇を往くよりよほどいいわ。ね、プレトくん?」
「…うん、そうだね。ありがとう、ミホナちゃん。さあ、もう一杯水を飲んだら、出発しよ
う」
「ええ」
こうして励ましあいながら二人はまた歩き続けましたが、けれども草原は果てしなく続き
、二人の子供にはもう永遠に歩き続けているようにしか思えなくなるほどでした。次第にひ
と休みの回数が増え、休んでも休んでも身体はどんどん重くなり、また心もどんどん細くな
り…やがて二人の子供の体と心はすっかり疲れ果て、大草原のなかに倒れこみ、気を失って
しまったのでした。
(ああ、キツネの神さまはぼくを助けてくださらなかった。ぼくはきっと死んでしまった。
…でも仕方ないんだ。だって神さまは誰をひいきして助けたり願いをかなえたりしてはいけ
ないのだもの…。ミホナちゃんは助かったろうか…。そうだといいけれど…。ああ、ぼくは
もうミホナちゃんにも、お父さんやお母さんやヒロ君にも会えないんだ。ぼくはそれがたい
へん悲しい…)
「おい男の子。何をぶつぶつむにゃむにゃ言ってるのかね。しゃんとしたまえ」
低いけれどたいへんはきはき、せかせかとした声がふいに聴こえてきて、プレトはうっす
らと目を開きました。すると辺りは妙にどこもかしこも真っ白な光で満ちているのです。
(ああ、こんなに真っ白な光のなかにいるなんて…やはりぼくはもう全く虚しくなってしま
った…死んでしまった…。)
プレトが再び目尻に涙を浮かべながら目を閉じようとしますと、またあの声が聴こえまし
た。
「ふむ、少し量が足りなかったかな。どれ、ここはひとつもう一本お見舞いするとしよう」
すると腕に何かが刺さるちくりとした痛みがして…
「え!え!え!」
あっという間もなくプレトの頭のなかはぱあっと弾け、胸はきりきり、体は凛々、もうあ
らゆるところが勝手に暴れ出すのです。プレトは空に舞い上がる雀のような勢いで跳び起き
ました。
「ははは!ああキニーネ!わたくしのキニーネ!こいつはやはり最高の効き目だ!ねえ男の
子、きみもそう思うだろう?いやいやそう思ってるに違いない。なにせ自分でその効き目を
存分に味わったのだから。きみの顔色だってそう言っているじゃないかね。ははは!うん、
最高の効き目だ!」
プレトが最初に目にしたもの、それは他ならぬ自分の顔でした。その顔色ときたら、まる
でもぎたての林檎のようにぴかぴかです。辺りはどうやら上も下も、右も左も真っ白の壁で
囲まれていて、そこに自分のぴかぴかの顔だけがぽかりと浮かんでいるのです。
(なんだ、これ?)
そう思った矢先、自分の顔のうえにひょいと、頬がほっそり痩せて、目はいかにも賢そう
に鋭く光り、また素晴らしくとがった鼻をした男の人の顔が現れ、プレトは思わず驚きの叫
び声をあげて飛び退いてしまいました。すると男の人の顔はもうみるみる不機嫌になってゆ
き、いかにも心外そうな、低くてせかせかした声で言うのでした。
「おい、きみ、いくら子供とはいえ、まさか鏡を知らないわけじゃないだろうね?」
プレトはようやく、男の人が大きな、プレトの背丈ほどの鏡で自分を映していたことに気
がつきました。あんまり壁やらが真っ白で、また男の人も洗いたてのように真っ白な白衣を
着ていたので、プレトには真っ白な空間に自分だけがぽかりと浮いているように見えたので
した。けれどもなぜこのすらりとして、またいかにも賢そうに見える男の人が鏡で自分を映
したりしているのか、ぜんたいここはどこなのか、わけも分からずプレトは思わず呟きまし
た。
「あの…鏡…って…」
「ああ、何てことだ!」
プレトの呟きを耳にした途端、男の人はプレトの心中なぞお構いなしに猛然とした早口で
叫ぶようにしゃべり出したのです。
「学校の理科の先生は絶滅してしまったのかね?それとも鏡が絶滅してしまったのか?その
どちらでもあるまい。ああ、もう万事こんな具合だから子供と話すのは嫌なのだ!」
「あ…あの、ぼくそういう意味で言ったのでは…鏡はぼくも知って…」
「もういい、もういい」
白衣の男の人はいかにも面倒くさそうに手をせわしなくひらひらさせて言いました。
「子供がどれほど無知か、わたくしはよく知っているのだから。さ、頼むから子供は子供同
士で勝手にしゃべっていてくれたまえ。きみのお友だちはもうずいぶん先に目覚めていて、
またずいぶん長い間きみの目覚めるのを心配そうに待っていたのだよ。いま呼んでくるから
。そうそう、一つだけ言っておくがね、きみのお友だちがすっかりよくなったのも、わたく
しの偉大なキニーネの効用のおかげなのだ。まあ、きみたち子供には分かろうはずもないが
、少なくとも『キニーネ』という名の素晴らしくよく効く薬があって、その発明者は他でも
ない、わたくしだということくらいは覚えておきたまえ」
あっというまに早口にしゃべり終えると、白衣の男の人は周囲の壁や天井と見分けのつか
ないほど同じように真っ白な扉を開け、せかせかと部屋を出て行ってしまったのでした。
(何なのだろう、あの人は…それにしても、ぼくは確かに子供だけれど、もうずいぶんな言
い方をされてしまった…)
プレトが少し腹を立て始めたとき、先ほど男の人が出て行った扉がぱっと開き、ミホナが
もう満面の笑みで部屋に飛び込んできたのです。
「プレトくん!プレちゃん!良かった!やっと気がついたのね」
ミホナがヒロ君と同じように自分のことを『プレちゃん』と呼んでくれたのが嬉しくて、
そしてまた少しこそばゆくて、むかむか腹の立っていたのも嘘のようにすうっとおさまって
しまいました。プレトは心のなかで決めました。
(ぼくもこれからはミホナちゃんを『ミホちゃん』と呼ぼう。だってぼくらはもうすっかり
大切な親友だもの)
「プレちゃん、どう?もう気分はすっかり良くなった?」
「ミホちゃん、うん、目が覚めたときは体中が暴れるようでびっくりしたけれど、いまはも
うすっかり平気だよ」
「わたしも『キニーネ』には本当にびっくりしたのよ」
ミホナはプレトが自分を『ミホちゃん』と呼ぶのに照れたりこそばゆかったりせず、それ
どころか気がつきさえしませんでした。ミホナの心のなかでは、プレトはもう当たり前に大
切な友だちとなっていたからです。
「ねえミホちゃん、その『キニーネ』って何だろうか?それにあの男の人は誰だろう?なん
だか少し怖いような、失礼なような、ずいぶんせかせかとせわしない人のようだけれど…」
「うふふ。『キニーネ』はね、ええと確か、くぬぎの樹液と雲母を混ぜてからアルコールで
煮込んで…そこから先はよく覚えてないけれど、あの『偉大なる科学者先生』がお作りにな
った気付け薬なんですって」
「『偉大なる科学者先生』?」
「そう、『偉大なる科学者先生』。あの男の人よ。科学者先生って、怖そうでいつも忙しそ
うにせかせかしてるけれど、可笑しいのよ。わたしが目が覚めたとき、お礼を言おうとして
お名前を伺ったら、『わたくしのことは『偉大なる科学者先生』と呼びたまえ。実際、それ
以上でもそれ以下でもないのだから』と、こう仰るの。わたしすっかり可笑しくて、気付か
れないように少し笑ってしまったわ」
「でもぼくにはもう何やらずいぶんだったよ。『子供は嫌いだ』とか『子供は無知だ』とか
」
「わたしにも最初はそう仰ったわ。でもね、科学者先生、言葉は少し乱暴だけれど、優しい
方よ。プレちゃんが目覚めるまで三日間、まるで眠らずにずっと付き添って介抱しておられ
たのだもの。わたしがプレちゃんの看病をしたいってお願いすると、『きみはすっかり疲れ
ていたのだから、何もせずゆっくり休みたまえ』と仰って、食事も着替えも、もう何から何
まですっかり世話してくださったのよ」
「三日間!?ぼくそんなに気を失っていたの?」
「ええ。わたしが目を覚ましてから三日。科学者先生はわたしに、『きみが目を覚ますまで
二日かかったよ』と仰っていたから、先生、まるまる五日間ずっとわたしたちのお世話をし
てくださったことになるわ。あら?」
ふいに部屋の外から、ふごふごと、それはそれは気持ちの良さそうないびきが聞こえてき
ます。
「うふふ、科学者先生、やっとプレちゃんがよくなったから、さっそく五日分の眠りを取り
戻し始めたに違いないわ」
プレトの耳には、そのふごふごとけたたましいほどのいびきが、とても優しげに響きまし
た。
「ねえプレちゃん、この建物ったら、わたしが目を覚ました部屋も、食事する部屋も、お風
呂まで、もうどこも本当に真っ白で素適なのよ。わたし、案内してあげる」
科学者先生のふごふごといういびきが続くなか、ミホナが言いました。けれどもそうして
真っ白な扉を開けた途端、ミホナの動きはぴたりと止まり、目は驚きで真ん丸になってしま
いました。プレトはミホナのそのような様子を不思議に思って訊きました。
「ミホちゃん?どうかした?」
「…なに、これ…嘘でしょ…」
呆気に取られたままのミホナの横をすりぬけて部屋の外に出たプレトの目に入ってきたも
の。それは『研究室』と、少しとがった癖のある手書きの文字で書かれた表札と、真っ白な
ドアでした。プレトのいた部屋と『研究室』の間にはひと二人分程度の幅の細い廊下があっ
て、廊下の右も左も、ちょうど十歩程度のところで突き当たりになっており、そこには窓も
扉も何も無く、廊下と同じように真っ白な壁しか見当たりません。するとミホナがさっと駆
け出して右の突き当たりの壁を不思議そうに擦り、引き返して今度は左の突き当たりでも同
じことをして、それからすっかりわけの分からないという顔で振り返り、プレトに言いまし
た。
「おかしいわ…わたしが『男の子の目が覚めた』と科学者先生から聞いてこの部屋に来たと
きには、他にももっとたくさんの部屋があって、廊下も右に曲がったり左に曲がったり、窓
すらあちこちにあって、それはそれは広い建物だったのに…」
「でもどう見てもこの建物にはぼくの目覚めた部屋と『研究室』というこの部屋の二部屋し
かないし、廊下もすぐに突き当たって、窓も何もないようだけれど…」
「もうわたしすっかり分からないわ…けれど、プレちゃんが目を覚ますまでの二日間、確か
にこの建物はさっきわたしの言った通りの建物だったのよ?」
すっかり困り果てた顔つきのミホナにプレトは言いました。
「ミホちゃんがそう言うのだもの、きっとその通りだったんだね。ぼくはミホちゃんの言う
ことを信じるよ。だってぼくらは親友だもの。けれどもするとこれはいったいどういうこと
だろう…キツネの神さまやお堂が消えてしまったのと同じだね。ぜんたいこのしまはどうし
てこうも不思議なのだろう…」
「やれやれ子供ときたら、本当に無知なうえにあれやこれやとうるさいったら仕方ない。こ
れだから嫌なんだ」
がちゃり、と勢いよく『研究室』の扉が開いて、『偉大なる』科学者先生がいかにも迷惑
そうな顔をのぞかせて言いました。
「ああ、わたくしとしたことがすっかり眠り込んでしまった。おいきみ、女の子、わたくし
はどのくらい眠っていたろうかね?」
「え?ええと…たぶん十分程度だと思いますけど…」
「十分だって!?」
科学者先生は細く賢そうな目をかっと開いて叫びました。
「十分!つまり六百秒!なんてことだ、わたくしはそんなに長い時間を睡眠なぞに費やして
しまったのか!あり得ない、普段では本当にあり得ないことだ!いつもなら研究と実験の合
い間、日に三十秒の睡眠しかとらないほど時間を大切にするこのわたくしが…。おい、きみ
たち、これというのもきみたちが唐突に、よりにもよってわたくしのこの気高い研究所の前
に現れて、しかも気を失って倒れこんだりしていたせいなのだ。何をそこまで必死になって
いたのか知らんがね、少しは自分の体力の限界を察して行動したまえ。まったく、子供とき
たら無知でうるさいうえに無謀ときてる。そんなきみたちの介抱に五日間、そのうえさらに
六百秒もわたくしの研究を中断させるなんて、まったく何てことだ…ん?んんん!?」
細かい石つぶての言葉をびゅんびゅん飛ばして、それから科学者先生は右に左にと視線を
走らせ、ああっ!というように頭を抱え込んでしまいました。
「出口がない!現れていない!何てことだ!介抱さえすれば現れるとばかり思っていたのに
!」
ミホナもプレトももうすっかり何が何やらわけが分からず、けれどもどうやら自分たちが
ひどく科学者先生に迷惑をかけているらしいことだけは確かなように思われました。思えば
科学者先生の言う通り、キツネの神さまとお別れしたあとのがむしゃらな歩き様は、自分の
身体の限界を省みない危うく無謀な歩き様だったことは確かです。プレトはすっかり反省し
てしまい、勇気を出してまだうんうん唸っている科学者先生に言いました。
「あ、あの…科学者先生、本当にごめんなさい。きっとぼく、先を急ぎ過ぎていたんです。
目の前の草をかきわけることしか頭になくて、後ろからついてくるミホちゃんを思い遣るこ
ともせずに…ご迷惑をおかけして本当にすいません」
え?といういかにも意外そうな顔をして、それから少し恥ずかしそうに高くてほっそりし
た鼻の頭を掻きながら、科学者先生はいままでの勢いが嘘のような穏やかな声で応えました
。
「まあ、その、なんだ、きみらのおかげでわたくしの素晴らしいキニーネの効用が確認出来
たのも事実ではある。いや、キニーネは本当に素晴らしい気付け薬なのは分かっていたがね
、しかしそれを確かめるためには誰かひどく気絶した人間が必要だったのだ。わたくし自身
が気絶して確かめることは不可能なのだからねえ…そう考えれば、この五日と六百秒はキニ
ーネの臨床実験に要する妥当な対価と言えなくもない…かな」
ミホナとプレトにとって難しくて意味が分からない言葉がいくつかありましたが、けれど
も科学者先生の機嫌がようやく少し穏やかになったことは、その声音や話し方から二人の子
供にも十分伝わってきました。
「いいかね、自分の体力や知力、精神力の限界を正しく把握することは極めて大切なのだ。
これが出来ていないと必要以上に自分を過信したりまたは卑下したり、まあまず何事に於い
ても良い結果を招くことはないし、自分の能力を向上させるうえでも妨げになる。覚えてお
きたまえ」
はい、と返事をしながらプレトは思いました。
(科学者先生なら、もしかするとぼくらに起きているたくさんの『不思議』を解き明かして
頂けるかもしれない。ご機嫌はくるくる変わるし厳しくて難しい言葉も仰るけれど、こうし
て親切なことも教えてくださるし、それにさっきは『出口が現れるはずなのに』みたいなこ
とまで仰っていたもの。少なくともぼくらよりずっとずっとこの『不思議』についてご存知
に違いない)
「科学者先生、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
プレトは恐る恐る口にしたつもりでしたが、そうしてひと度口を開いてしまうと、もう自
分でも信じられないくらいにお腹の奥のほうからわくわくわくわく、次から次へと質問が湧
き出してきて、唇をものすごい速さで走り抜けてゆくのです。ようやく気付いたときには、
ぜえぜえぜえぜえと、喘息のように喘ぐ自分の息が真っ白い科学者先生の研究所のそこかし
こに響き渡っておりました。
「まったく、子供ときたらいつもこうだ!」
きん、と鋭く声が鳴って、はっとしたプレトが見ますと、もう心底うんざりした科学者先
生の顔がそこにはありました。
「少し甘い顔をするとすぐに、大人の都合も考えず『なに』『なぜ』『どうして』の連発だ
。わたくしがいつきみに質問してもいいと言ったかね?どうしてきみはわたくしの何の返事
もないうちからあんなにたくさんの『なぜ』『どうして』をぶつけてくるのかね?わたくし
はそこまで暇そうに見えるのかね?だとすれば大間違いだよ、男の子。さっきも言ったろう
。普段なら日に三十秒の睡眠しかとらないほどにわたくしは時間を貴重なものとしているの
だよ。そんなわたくしに、ことわりもなしに次から次へと一方的に質問して良いか悪いか分
からんのかね?きみらは少なくともその程度の判断が出来るくらいには『大人な子供』であ
るようにわたくしには思えるがね」
プレトは自分がつい調子にのって、ようやくおさまりかけていた科学者先生の機嫌をひど
く損ねてしまったことに気付きましたが、もうどうすることも出来ません。小さく、ごめん
なさいと呟いて、あとはもうすっかりうつむいてしまいました。
「先生、『大人な子供』って、なんですか?」
ふいに、それまでじっと黙っていたミホナの声がして、驚いてプレトが顔をあげますと、
科学者先生もまた、すっかりふいをつかれたようにきょとんとした顔をしております。
(いったいミホちゃんはどうしてしまったろう。科学者先生があれほどうんざりしているの
を分からないはずもないのに)
びくびくするプレトをよそに、しかしミホナはしっかりと科学者先生の鋭く知的な細い目
を見据えたままでいるのです。すると、科学者先生は意外にも少し興味をひかれたような面
白そうな顔つきになって言いました。
「きみ、女の子、きみはいまさっきの、わたくしと男の子のやりとりを見ていなかったなん
ていうことはなかろうね?」
「はい。ちゃんと見ていましたし、聞いてもいました」
ミホナの声はいかにもしっかりしていて、それだけでプレトはすっかり感心してしまいま
した。実際ミホナの様子ときたら、すっかり機嫌を悪くした大人の、しかも男の人に対して
まったくびくびくする気配は微塵もないのです。
「では、わたくしがいかに無知で、無謀で、質問ばかりうるさいだけの『子供』という生き
ものにうんざりしているか、理解出来ているはずだね?」
「はい」
「ふむ。ではなぜきみはそうしたやりとりのすぐ後にも関わらず、更なる質問をしようと思
ったのかね?」
だって、とミホナは答え始めました。
「だって、わたしたち子供には知らないことがたくさんたくさんあって、けれども子供だか
らといって知らないままでいることは嫌だと思ったからです。先生のような大人の方にはう
るさいだけかもしれませんけど、けれどわたしたち子供には、もう次から次へと『なぜ』や
『どうして』が湧いてきてしまうから、質問したいって思ったそのときに質問しておかない
と、きっと新しく湧いてくる『なぜ』や『どうして』に流されてしまって、せっかく『知り
たい』って感じた気持ちすら忘れてしまうもの。それはとてももったいないし、どこか間違
っているような気さえするのだもの」
最後は独り言のようになって、ミホナが言い終えますと、
「つまり、そういうことだよ」
いかにも嬉しそうに、にこにこ笑って科学者先生が言いました。ミホナは何が『そういう
こと』なのかすっかり分からなくて、同じようにぽかんとしているプレトと顔を見合わせて
しまいました。
「自分のした質問をもう忘れたかね?『大人な子供』だよ。きみ、女の子、きみがいま言っ
たような考え方が出来る程度に成長した子供が、『大人な子供』なのだ」
それでもぽかんとしている二人の子供に、科学者先生はゆっくり説明を始めるのでした。
「いいかね、およそ子供というのは二段階に分けて成長するのだ。これはわたくしの持論だ
がね。たとえば『火は熱い』とか、『怪我すると痛い』とか、そうした『生きものが生きて
いくうえで最低限知らなければならないこと』を知らないくらい幼い子供。これをわたくし
は『子供な子供』と呼んでいる。『子供な子供』に対しては、大人はそれこそ手取り足取り
教えてやらねばならん。子供の発する『なに』『なぜ』にはきちんと応えてやらねばならん
し、ときには先回りして教えてやる必要もある。焚き火がきれいで近づこうとする子供に『
火は熱いから触ってはいけない』と前以って教えるという具合にね」
よちよち歩きの赤ちゃんや、無邪気に遊ぶ幼稚園の子供たちを思い浮かべながらミホナと
プレトが頷くのを待って、科学者先生は続けました。
「さて、『子供な子供』が成長して、最低限身に付けるべき知識と経験を得た後の、好奇心
や興味や関心といった、『知りたい』という感情を子供自身が積極的に持つようになった段
階。これをわたくしは『大人な子供』と呼んでいる。この段階に至っては大人はその接し方
を変える必要がある。乱暴な言い方をすれば、『大人な子供』の質問には敢えて答えずとも
良いのだよ。なぜというに、およそ『大人な子供』ならばある程度本も読めるし、また自分
で空想することも出来る。ここが要点なのだ。『大人な子供』というのは、実際大人が思っ
ている以上に自分で考え、答えを導き出す能力を持っているものだよ。まあ、もちろん間違
った答えを導き出してしまうことが多いがね。だがそれがゆえについつい大人は『大人な子
供』に対しても手取り足取り物事を教えがちだ。わたくしに言わせれば、それは子供に対し
て失礼でおせっかいというものだよ。せっかく子供自身が自分が無知であることを自覚し、
それを解決しようとしているのだから、大人はそれを距離をおいて見守って、あとは子供の
導き出した答えを少しだけ補ってやる程度で、基本的には十分なのだ。つまり『大人な子供
』に『なぜ』『どうして』と訊かれたら、『なぜだろうねえ、自分で調べてごらん』と応え
てやればよいのだよ。まあ、『図書館に行くといいかもしれないよ』くらいのヒントは与え
てやってもよいだろうがね。とにかく大切なのは『むやみやたらに正しいことを一方的に目
上の視点から教える』ことではなく、むしろ『子供自身の好奇心と探究心を思う存分ふるわ
せてやる』ことなのだ。子供の本来持っている『好奇心と探究心の芽』を安易に摘み取って
はいけないのだよ。そうでなくては、いつしか子供は自分の目でものを見、考えることをや
めてしまう。それはたとえば、自分より目上の人や、本や、新聞に『一たす一は三である』
と言われれば、自分で計算することなく納得してしまうようなものだ。極めて危険なことな
のだよ。まあこれは、なにも子供に限ってのことではなく、一部の大人にも言えることでは
あるがね」
途中からすっかり熱に浮かされたように、延々と早口で話し続ける科学者先生の様子に呆
気にとられているミホナとプレトにようやく気付き、科学者先生は少し恥ずかしそうに顔を
赤らめるのでした。
「いや、なに、どうも最近の大人ときたら、『大人な子供』に『子供な子供』のように接し
てばかりのような気がするのでね。わたくしはどうもひと度熱中すると独り言を無我夢中に
繰り出す癖があるものだから、許してくれたまえ。さて、と…わたくしはこれだけ長い時間
をかけてこの煩わしい子供たちに介抱もしたし会話さえしたのだから、そろそろ『出口』が
現れてもいいはずだ。さ、ついてきたまえ」
そう言うと科学者先生は『研究室』と表札のついた扉を大きく開き、二人の子供を部屋の
なかへと、半ば引っ張り込むようにして招き入れたのでした。ミホナとプレトは科学者先生
の言った『出口が現れる』というのはいったい何のことだろうと不思議に思いながらも、背
の高くてほっそり手足の長い科学者先生の背中を追って『研究室』へと足を踏み入れました
が、そうして三歩歩くか歩かないかのうちに科学者先生の動きがぴたりと止まり、その背中
が叫び声をあげたのです。
「ない!ない!『出口』が現れてない!何てことだ!」
科学者先生が元々せかせかとした身のこなしを一層せかせかさせて部屋中を歩き回り始め
ましたので、呆気にとられているミホナとプレトには部屋の様子がよく見てとれました。
その散らかりようといったら!
床にはいたるところにうず高く難しそうな分厚い本の山があちこちに築かれ、部屋の壁と
いう壁には、その幅や高さと全く同じ、白墨で書かれたアルファベットや数式に埋め尽くさ
れた大きな黒板が掛けられ、また、そうした本の山と黒板に囲まれてミホナやプレトのそれ
の三倍ほどもある大きな大きな机が置かれ、その机の上も分厚い本の山とガラスの実験器具
で埋め尽くされているのです。
科学者先生はそんな部屋のなかを、ばさばさ本の山の崩れるのも、身体があたって黒板に
書かれた数式が白衣にうつるのも全くお構いなしにひとしきりせかせかせかせかと歩き回り
、やがていかにもお手上げだというようにふうっとひとつため息をついて、机の近くに積ま
れた本の山のひとつにどっかり座り込んでしまいました。実際部屋のなかの本の山の高さと
きたら、背の高い科学者先生が座って足が組めるほどに高かったのです。
「やれやれ…まだやり残しているとでもいうのか…わたくしはまだ足踏みせねばならないの
か…もう少しで大統一理論を打ち立てることが出来るというのに…」
そうして科学者先生は部屋の入り口近くで立ち尽くしたままのミホナとプレトに、細い指
をひらひらさせて、こっちにおいでというように手招きするのです。
「…お邪魔します…」
どちらともなくそう言ってミホナとプレトが部屋を進みますと、ふいに後ろでがちゃりと
いう音がして、慌てて二人が振り返りますと、いま入ってきたばかりの入り口の扉がすっか
り跡形も無く消え、かわりにそこには他の壁と同じ、びっしり書き込まれた大きな黒板が、
あたかも最初からそこにあったように、壁一面を塞いでいるのです。
「と、扉が!」
「消えてしまったわ!」
「ん?ああ、そのようだね…」
驚くミホナとプレトの叫び声を聞いても、それがどうしたのだという気のない顔で科学者
先生は応えました。
「なにもそんなに驚くことはないじゃないか。扉が消えただけではないかね。きみらはそれ
をその小さな目で確かに見たのだろう?だったらそれ以上でもそれ以下でもないではないか
。そういちいち驚いていては、このしまではやっていプレよ、きみたち」
科学者先生はため息混じりにそう言うと、まあ座りたまえというように手振りするのです
。ミホナとプレトは、そうはいってもどこに座ってよいやら、散らかった部屋をひとしきり
眺めて、結局うず高い本の山と山の隙間に二人そろって座りました。
「論理的かつ科学的かつ行動学的に考えると…」
科学者先生は二人の座るのを待って話し始めました。
「きみらをわたくしのこの素晴らしい研究所から追い出すには、どうやらきみらの質問にわ
たくしが答えるという行動が必要なようだ。わたくしにとっては極めて迷惑千万ではあるが
ね。けれど、そうではないか。わたくしは偉大なる科学者であり、きみらは稚拙なる『大人
な子供』だ。科学者は世の『なぜ』『どうして』に答えるのが使命であり、『大人な子供』
は『なぜ』『どうして』を発するのが使命だ。この二つを考え合わせれば、残念ながらそう
いう結論にしかたどり着けないだろう?ささ、どんな不思議なことでも何でもよいから早く
質問したまえ。偉大なる科学者たるわたくしが、出来る限りの明解かつ明確な回答を与えて
あげるから。そうして一刻も早く『出口』を出現させようではないか」
ミホナとプレトは顔を見合わせてしまいました。思えば、次から次へと打ち寄せる『不思
議』の波のなか、何度こうして顔を見合わせてきたことでしょう。ミホナにとってはプレト
、プレトにとってはミホナ。こうして顔を見合わせる相手がもしいなければ、もし本当に自
分独りぼっちだったならば、きっともうとっくに心が挫けていたに違いありません。ただ一
緒にいるだけで、心を支えてくれる。どれほど心細くとも踏みとどまれる。
(友だちって、こういうことなんだ)
二人の子供はとても大切なことを学び始めておりました。
そうして何やらすっかり嬉しくなった二人は、さきほどプレトが発して科学者先生の機嫌
をひどく損ねてしまった質問の数々を、つまり水色の乗船券から始まったたくさんの不思議
と、それに加えてもう一つ、科学者先生がさきほどから口にする『出口が現れる』という言
葉の意味について、かわるがわる次から次へと科学者先生に尋ね始めました。そう、文字通
り『次から次へと』でした。それといいますのも、科学者先生が二度と機嫌を損ねないよう
にと、ひとつひとつの質問を区切ってするよう気を遣うミホナとプレトをよそに、科学者先
生が、ひとつの質問を聴き終えるとその質問に答えることなく退屈そうにさえして次の質問
をミホナとプレトに促すせいでした。
ミホナとプレトがどことなく妙な気持ちになりながらもひとしきりの質問をし終えますと
、ようやく科学者先生はゆっくりと立ち上がり、話し始めました。
「まずは結論を先に言うとしよう。きみらの山ほどの『不思議』に対する質問の答えはね、
『分からない』もしくは『物事がそのように起きたから』。これだけさ」
(科学者先生、もしかしてわたしたちをからかっているのかしら)
科学者先生の言葉をぐるぐると頭の中に繰り返すうち、ミホナにはどうもそのように思わ
れてきました。横にいるプレトの顔を見ますと、やはり同じようにすっかりわけの分からな
いという顔をしております。
「ふふふ。二人ともひどく戸惑っているようだねえ。言っておくがね、わたくしは別にきみ
らをばかにしているわけでも、からかっているわけでもないよ。そんな無駄な時間の使い方
をこのわたくしがするわけもないだろう。科学者たるもの、投げかけられた問いには真摯に
、かつ厳然たる事実のみを答えねばならん。それを踏まえたうえできみらの数々の問いに解
を与えんとすれば、即ち『分からない』もしくは『物事がそのように起きたから』とするの
が唯一の的確な答えなのだよ」
プレトがすっかり真顔になって言いました。
「けれども、先生はとても偉い科学者先生でいらっしゃるのでしょう?実際あのキニーネと
いう薬はたいへんよく効いたもの。その先生でも分からないことがあるのですか?」
ミホナにはプレトの声がとても切羽詰ったように聞こえました。実際このときのプレトと
きたら、もう一つだけでもよいから不思議な出来事の起きた理由を、仕組みを知りたいとい
う好奇心と探究心が、体の奥からずきんずきんとはちきれそうな勢いで胸を突き上げていた
のです。そうしたプレトの様子に、科学者先生もすっかり真顔になって応えました。
「そう、男の子、きみが言う通りわたくしは誰よりも偉大かつ優秀な科学者だし、キニーネ
もまた偉大な発明だ。実際あのキニーネはほとんどどの病気にも絶大なる効果を顕すのだか
ら、それを理解するとはきみ、なかなかのものじゃないか。そんなきみに少しばかりの敬意
を表して、わたくしが『分からない』という理由を、つまりこの世界の厳然たる実相につい
て説明をしてあげてもよいが、ただしそれはたいそう不可思議な話となるからきみらのよう
な子供には理解出来ず、いまよりもっと混乱するかもしれん…いや、むしろ子供の空っぽの
頭の方が、がちがちの大人の頭より受け容れ易いかな…まあいい、とにかく長くて変てこな
話となるけれども、どうするね?わたくしの話を聞くかね?」
ミホナもプレトも、どんなに長くて変てこであっても、『分からない』の一言よりはずっ
とましに思えましたので、二人は同時にこくりと頷いておりました。
「よろしい。では話を始めるとしよう」
科学者先生はすっかり科学を探求する人そのものの、奥底で鋭くひかりを放つ眼となって
話し始めるのでした。




