二人を分かつものは何もない
「おはようございます。お目覚めですね。お食事の準備をしますので、少々お待ちください」
ショートヘアーの黒髪女が甲斐甲斐しくお辞儀をして部屋から出ていく。ドアが勝手に開き、プシューと音をして閉まった。ここはどこだ? 俺は誰だ? 何かヒントはないものか。俺は妙に固いベッドから立ち上がり、部屋を見回した。
よくわからない機械がたくさんあり、配線が複雑に絡み合っている。なんとも汚い部屋だ。それにしても、寒い。体から湯気が上がっている。次にあの女が来たら部屋に暖房をつけてもらえるようお願いしよう。
机の方に目をやると、一枚の写真と指輪が置いてある。男と先ほどの女のツーショットだ。二人とも幸せそうに微笑んでいる。左手の薬指には指輪がはまっていて、机にある指輪と同じ指輪のようだ。おそらく結婚指輪なのだろうが、机に指輪が置いてあるということは、男の方に何かあったのだろう。
「お待たせしました。お食事でございます」
ほかほかのご飯に野菜炒めとたくあん&味噌汁。ずいぶん家庭的な食事をもって、女が部屋に入ってくる。間違いない。あの女と同一人物だ。指にはあの指輪がはめられている。
「ありがとう。とりあえず、部屋の温度をあげてもらってもいいかな?」
「現在の室温は24℃で、適温です。おそらく、冷凍ポッドに入っていたため体温が低くなっているのだと思われます。部屋を暖めるよりも、もっと直接的なアプローチで体温をあげることを推奨します」
「あ、ああ。よくわからないけど頼む」
冷凍ポッドというのは俺がいたベッドのことを差しているのだろうか? ちんぷんかんぷんだ。
「それでは失礼します」
女は突如俺の背中から手をまわし、俺を抱きしめてきた。豊かな胸が俺の背中をやさしく押す。
「ほ、ほわっちゃい!」
お、おっぱいプルンプルン。ドキドキしすぎて心臓が飛び出そうだ。自分の心臓の音がうるさすぎて、女の心臓の音が聞こえないほどだ。強い香水の香りと、微かではあるが、汗などではないツンとした匂いが俺の鼻を優しくなでた。
「あ、あの。何をしているのですか?」
女は不思議そうに俺を見る。
「宗次郎さんは寒い時にいつもこれを要求していたのですが、不快ですか?」
「い、いえ。もっとやってください・・・」
宗次郎ナイス! いい性癖だ。
「さて、いつまでもこうしていてはせっかくのご飯が冷めてしまいますので、お召し上がりください」
しばらく俺を抱きしめた後、変に硬直していた俺を嗜めるように女が言った。俺の愚息が元気になりかけてるのを察したのかもしれない。
「お・・・お袋の味ぃ・・・」
お袋の味かどうかはわからないが、懐かしい味がした。おいしい。これならいくらでもいけそうだ。
「お代わり!」
「はい。たんとお召し上がりください」
女は俺にお代わりをついで微笑んだ。か、可愛いじゃないかぁ。この女は俺の心臓を破裂させて殺すつもりなのだろうか? 俺の心臓はバイクのエンジン音のように激しく強く脈打った。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
女はぺこりと頭を下げる。
「食器を下げてまいりますね」
「あ、ちょっと待って。いろいろと聞きたいことがあるんだ」
「はい。なんでしょう?」
「まず、ここはどこで俺は誰なんだ?」
目覚めてから一番最初に気になったことだ。これを聞かないと何も始まらない。
「ここは島根県の山奥にある宗次郎さん所有の研究所兼生活スペースです。そして、あなたは柊宗次郎さんです」
通りでいい性癖してると思ったら俺の性癖だったのか。そうなるといろいろと謎は深まるな。
「じゃあ君は誰なんだ? 俺のことを昔から知っているような口ぶりだったが」
「私は八宮楓です。あなたの、妻です」
な、なんだってー!? ということはまさか、あの写真に写っているのは俺と楓ということか?
「鏡はあるか?」
「はい。ただいま」
そこには間違いなく写真の男が映し出されていた。成形手術をする必要もないし、楓が言っていたことはおそらく正しいのだろう。
「むむ。そういえば、指輪をされていないじゃないですか。温度変化で縮むのを嫌るのはわかりますけど、起きたのならきちんとつけてください!」
「あ、ああ。悪い」
怒ったところも可愛らしい。我ながら良い人を見つけたものだ。
「いろいろと混乱しているでしょうが大丈夫です。私と共にゆっくり思い出していきましょう」
楓は俺の手を握って微笑んだ。
「それでは、食器を片付けてきますので少々お待ちください」
「俺も手伝うよ」
「大丈夫です。外は危険なので、総一郎さんはここにいてください」
危険とはどういうことだ? それに、危険ならなおさら彼女を一人では行かすわけにはいかないだろう。
「外は現在、放射能で汚染されていて危険な状況なのです。総一郎様の場合、被爆してしまう恐れがあります。おそらく死ぬことはないでしょうが、健康に害がでてしまう可能性があります」
「それなら、なおさら・・・」
「お気持ちだけで充分嬉しいです。あいにく、私の細胞はもう変異することはありませんので心配は不要です」
楓は扉を開けていってしまった。扉だけでなくパンドラの箱まで開いてしまった気分だ。いや、実際に開けてしまったのだろう。細胞が変異しないというのは通常あり得ない。細胞は増殖して死ぬというのを繰り返す。細胞が変異しなければ減っていく一方のはずで、それが意味するのは死だ。だが、彼女はこうして目の前にいて、死んでいるということはなさそうだし・・・。もしかしたら何か比喩的な表現なのかもしれない。ひとまず、考えてもわからないということが分かっただけ良しとしよう。
「きちんと待っていただけたようで何よりです」
楓が扉から入ってきた。どうやら扉は何層かになっていて放射能が入らないように(俺が脱出しないためかもしれないが)なっているようだ。
「なあ、さっきの細胞は変異しないっていうのがわからないんだがどういう意味だ?」
「おかしいですね。学問や研究に関する知識は消えていないはずですが。まあ、良いです」
何やらとんでもないことを言っている気がする。もしかして俺の記憶が消えている件の黒幕かこの子?
「結論から言うと、私は死んでいます。ですので、放射能で細胞が変異することもないのです」
「どういうことだ? じゃあ俺と話している君は誰なんだ?」
「私は八宮楓です。というより、それを模倣したAIと言った方がいいかもしれません」
「AI?」
「はい。ですが、この体はまぎれもなく八宮楓本人のものです」
「ちょっと待て。話がSFすぎてついていけん」
「あなたの頭脳ならついていけるはずです。なにせ、この私を作ったのは紛れもなくあなたなのですから」
今、俺は目覚めて記憶を失っていた時よりも混乱している。じゃあ、なんだ。俺は死亡した妻の人格を模倣したAIを作り、それを死体にインプットして動かしてるってことか? だが、そう考えるとあの匂いに合点がいく。香水の奥に隠れたあのツンとした匂いはホルムアルデヒドの匂いだ。ホルムアルデヒドは、死体の防腐剤としても使用されている。どうやら昔の俺は、とんだマッドサイエンティストだったようだ。
「わからん。それならなぜ俺の記憶の一部を消しているんだ? 確かに、俺に関する知識だけ抜け落ちて、その他の知識はきちんとあるのはわかった。だが、そんなことをする意味などないだろう」
「ありますよ。総一郎さんは、きっと八宮楓ともう一度会いたかったのでしょう。だから、私をこうやって作って、自身の記憶を消した。そうすれば、AIではない生きている私、つまり八宮楓と会えると思ったのでしょう」
彼女の体は八宮楓本人のもの。人格こそ模倣したAIではあるが、そんなことは言われなければ気づくことはない。つまり、自身の記憶さえ消すことが出来れば自分の愛した八宮楓と出会えると思ったのだろう。そして、きっと総一郎にはそれしか生きる道はなかったのだろう。
「私は、総一郎さんに再び会えてとても嬉しいです。少なくとも、私にとってはそれだけで充分です」
「確かに楓と会えたということに、小難しい理論や壮大な理由なんてものは必要ないのかもしれないな」
「その通りです。私たちはただ、再び出会えて愛を育むことができることを喜ぶべきなのです。そして、放射能による汚染が消えた時に備えて、私たちはここで精一杯イチャイチャラブラブすべきなのです! 幸いにもここには私たち以外に誰もいないのですから!」
楓はフンス! と鼻息を荒げ両手でガッツポーズをした。すこしキャラが崩れている気はするがかわいいのでヨシ!
「そういえば、なんでこの研究所付近は放射能にまみれてるんだ? 俺が寝ている間になにかあったのか?」
ギクリと音が出そうなほど、楓は目に見えて固まった。
「いえ、そのですね・・・」
楓は髪の毛をクルクルと手で回しながら目を泳がせていた。あまりにも典型的な同様に、笑いそうになるのを何とかこらえ、まじめな表情を保った。
「楓さん。怒らないから、正直に言いなさい。どうしたんですか?」
「実は・・・この研究所を狙ってる輩がいまして、警告はしたんですが勝手に敷地内に入ってきて研究品やらなんやらを盗もうとしていたので・・・」
「いたので?」
「カッとなって、やってしまいました。ごめんなさい」
・・・なんてこった。
「それからどれくらいたってるの?」
「82年と4か月です・・・」
ある程度汚染も収まっているだろうが、自然様がどれだけ放射能を除去してくれたことか。下手したら一生外に出られないかもしれないな。きっと、ラボを守ろうと楓なりに必死だったのだろう。
「まったく、しばらく外に出れなくて暇になっちまうな」
「許してくださるのですか?」
「楓も俺を守ろうと必死だったんだろ。許すよ」
「ありがとうございます!」
「なにか、暇つぶしできるものはないのか?」
「それでしたら、私といっぱいお話ししましょう。総一郎さんが寝ている間に、たくさんのことがあったんです!」
「ああ、頼むよ」
「あれは今から120年前。研究所の近くの山で土砂崩れが起きた時のことです。そのとき、私は研究所で・・・」