別れ
目の前に広がる真っ赤な色。
人々の足音に騒がしい声。そんな音たちが、身体の周りを吹き抜けていくかのように、ただ行き交っていく。
ヘッドホンをしているかのようなくぐもった音たち。
たった今までーー
つい数秒前まで、動いて、話して、生きていた。
そして数秒後には、固まって、横たわって、動かなくなってしまった。
そんなたった数秒の差なのに、
「え…つか、さ?」
もう、過去には戻れない。
今日がこんな日になるのなら。
そんなことがわかっていたなら。
たった数分前に、わかっていたのならーー。
今となっては、後の祭り。
「ねぇ令…、起きてよ。ねぇ…ねぇ、ごめん、あたしが悪かった。不注意なのはあたしの方だったね。だから…お願い……」
動かない。呼吸もない。ひと目で彼は死んだのだと分かってしまった。
文句を言ったあの言葉が、彼に向けた最期の言葉になった。
あたしが、ちゃんとしていれば。何で…交差点で、いつもの交差点で、特に危ないところでもなくて…。そんなところで、令が交通事故に遭うなんて。ここで彼の人生が、終わってしまうなんて……。
「・・・ッ!」
叫びたい衝動に駆られながら、一瞬息が詰まる。それでも、押し寄せる悲しみは留めておくことが出来なかった。
「何でよ…つかさ…バカあああああああ!」
本当のバカは、あたしだ。
これはもう、取り返せない過去の話。
彼は、もういない。
今あたしが見ているこの景色も、きっと今夜出る満月も、彼はもう、見ることが出来ない。
目の前に広がる真っ赤な色。
倒れた彼の周りに広がる、水たまりのような彼の血。
現実は唐突に、いつでも事実を突きつける。
・・・・・
青空の下を過ぎ去る雲の流れが、緩やかに動いていく。木々の間から漏れ出る光が心地よく、同時に仄かな寂しさをまとっていた。
木漏れ日が降り注ぐ中、緩やかな坂道を蝶代は下る。
あの事故からどれくらいの月日が過ぎたのだろう。
あの日心の一部が空っぽになってしまったおかげで、何もない日常がただ通過している。思い返せば早いけれど、過ぎ去る毎日は遅い。
どうしようもないことは大抵時間が解決してくれるというけれど、空っぽになってしまった心だけはどうしようと埋まらなかった。
「時間が解決してくれる」というのは、ただ「感情が落ち着いてくる」という意味であって、痛みや辛さが消える訳ではない。いつだって鮮明に思い出せる、彼と過ごした時間。どんなに願っても、もう取り戻すことは出来ないし、二度と会うことも出来ない。
そんな事実が受け止められないまま、時間が経っていく。
そんな耐えられない現実を、痛みを、自己防衛のために脳が拒絶するのだ。
それらを遠くに置いておくために意識を朦朧とさせ、時間が経つにつれじわじわと引き戻していく。そうして慣れさせる。そんな身体と時間とのやりとりなのだ。
片田舎の自然に溢れるこの景色は、ずっと蝶代のお気に入りだった。山と田んぼに囲まれたこの町だけど、都会までは三十分程で行ける、そんな程よい田舎。
小さい頃からここで育った。小学生になると学校まで歩くようになって、木漏れ日の中をくぐるのが気持ちよかった。
その同じ道、同じ景色の中で昔の思い出が蘇る。
彼と出会ったのも、そのくらいの時だった。
途中まで帰り道が同じで、お互いの友達と一緒に悪口を言い合っていた。何がきっかけでも言い合いができる年頃。そしてすぐに仲直りも出来る、単純な人間関係。陽の光に照らされながら繰り広げられる、小さくて無垢な小劇。
あの頃の言い合いがあったから、今になっても遠慮なく気持ちをぶつける事が出来る。小さい頃からの友達には、そんな不思議なところがある。会うだけでホッとできる、ちょっぴり特別な存在。
「暖かい陽の光が、今ではこんなに切なく感じるなんて…」
景色はいつだって感情を語る。今蝶代の目に映るこの景色も、蝶代の心情を物語っていた。
あれからの出来事は、一瞬だった。
事故の次の日には令のお通夜が開かれて、その次の日にはお葬式、そして火葬をして、令はすぐに小さな壺に収められた。
数日前までは、一緒にいたのに。
話して、一緒に歩いて、怒って、笑って、そんな令は全部消えてしまった。
もう、彼の顔を見られるのは写真と記憶の中だけなのだ。一緒に大人になることも、歳をとる姿を見ることも出来ない。
そんな小さな事実が次々と蝶代の胸に迫り、毎日が発狂しそうな日々だった。
「自分も死のう」と思ったこともあった。
しかしあの日令が自分を庇って事故に遭ったことを思うと、その命も投げ出せなかった。
世界から色が消えてしまうとは、きっと、こういうことだ。




