遠藤ひな子
前日に引続き肩を落として職員室を出た僕は、午後の授業が始まる前に飲み物でも買おうと食堂へと向かった。校内には自動販売機がそこにしか設置されていなかったためいつもそこまで行くのが面倒で仕方なかったが、この日は快晴で心地良い日差しの下をのんびり歩くのもたまには悪くないと爺臭い気分になった。食堂付近にはベンチが何台か設けられていたが好天にも関わらずガラガラで、女子生徒がひとり腰かけて読書しながらパンをかじっているだけであった。上履きは青色だった。竜髯高校は学年ごとに上履きの色が一部異なっており、青色は一年生であった。
空いたベンチのひとつに腰かけて買ったばかりの炭酸飲料を口にした僕は何となしにその女子生徒を観察していた。肩まで届く美しい黒髪が印象的であった。つやのある深い黒色でこういうのを烏羽色と呼ぶのだろうか。離れたところから眺めてもかなりの美少女であることが分かった。
それにしてもこんなところでひとりきりの昼食とは、まだ友達ができていないのだろうか。僕だって友達は少ないのだが自分のことは棚に上げて少し心配になった。しかしそんな僕の心配など知るよしもない女子生徒は、やがて昼食を終えパンの入っていた袋をくしゃくしゃに丸めた。ここまでは何らおかしいことなどなかった。しかし次の瞬間、僕は自分の目を疑うことになる。女子生徒の手にあった袋が、別に投げたわけでもないのに突然十メートル以上離れたところにあるゴミ箱に向かって飛んでいき、そのままその中におさまったのだ。
普通の人ならばこの不自然な現象を前に原因が分からず驚いたことだろう。だが僕の場合は違っていた。原因が分かったからこそ驚いたのだ。彼女の手には先ほどまで存在しなかった杖のようなものが握られており、それがまるで如意棒のように伸びて袋をゴミ箱まで運んでいったのだ。目的を遂げた杖がするすると縮んでその先端が女子生徒の方へ戻ってくると、そこには小ぶりな刃物がきらりと輝いていた。
これは杖じゃなくて鎌だ。そう気付くと同時に僕はすぐさまこの場を離れなくてはならないと思い腰を上げた。だがもう手遅れだった。ぞっとするような悪寒が身体中を駆け巡り殺気のこもった視線を感じた。ちらりと女子生徒の方に視線を投げると彼女はじっとこちらを見つめている。僕は蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けなくなった。
僕たちは数秒間見つめあった後、やがて女子生徒の方が動いた。彼女はベンチから立ち上がるとこちらへ向かって歩いてきた。その手に握られた鎌はいつの間にか柄と刃の部分が一メートルほどの長さになっている。どうやら鎌全体が伸縮自在のようであった。僕はここで死ぬのかもしれないな。自分の名前に名前負けした運のなさを心底呪った。
「ひょっとして、さっきの見ましたか?」
いまだベンチから動けないでいる僕の前にやってきた女子生徒が、穏やかな口調で話しかけてきた。表面的には微笑を浮かべていたものの目は笑っていなかった。ただ遠目で見たときよりもさらにかわいかったので、それだけは救いだった。
「見たって、何を?」とりあえず僕はしらを切ることにした。見えてないふりをすれば助かるかもしれない。
「ついさっき私がゴミを捨てたところです」
「え? ああ! あれね。すごくコントロールいいね、あんな距離から投げてゴミ箱に入るなんて。何かやってたの? ソフトボールとか?」
「へえ、あくまでしらばっくれるんだ?」気付いていないふりをする僕に女子生徒は態度を豹変させた。
「な、なんのことかな?」僕は震える声をどうにか絞り出した。
「ま、いいわ、面倒くさい。もうすぐ昼休みも終わっちゃうし」
女子生徒は鎌を軽々と片手で振り上げると僕の首もとめがけて斬りかかった。僕は反射的に身をかがめた。
「ほら、見えてる。随分と霊感が強いのね」女子生徒は氷のような冷たい目で僕を見下ろしていた。
「……僕をどうするつもりだ」
「別にどうもしない。これを見られたいじょう本当は生かしとくわけにはいかないんだけど、あいにく私はもう普通の女子高生だから――でも、今日のことは忘れてね。それがお互いのためだから」女子生徒は鎌を肩に担ぐと踵を返して立ち去ろうとした。
「あんた、死神なんだろ?」僕はその背中に向かってやっとのことで声をかけた。
「……さっき言ったでしょ。私は普通の女子高生。死神なんかじゃない」
「それは死神の鎌だ。昔、一度だけ見たことがある」
「そう――あなたは強運の持ち主ね。二度も見てまだ生きているんだから」
「じゃあ、やっぱり――」
「とにかく、今日のことは忘れて」女子生徒は再び歩き出そうとした。
「なあ! ひとつ頼みがあるんだ!」
女子生徒は振り返ると怪訝な顔をした。このとき僕は恐怖でどうかしていたのかもしれない。後から思い返しても、なぜあんな突拍子もないことを口走ったのかよく分からなかった。
「その……オカ研に入ってくれないか?」
「はあ?」
「オカ研だよ。オカルト研究会」
「……何言ってるの?」
「もしかして、もうどこかのクラブに入ってるのか?」
「……まだだけど」
「ウチの生徒はどこかのクラブに入らなきゃならないのは知ってるだろ? まだ入るところが決まってないならオカ研に入ってくれ」
「なんで私がそんなのに入らなきゃならないの?」
「それは――あれだ、死神だってことばらされたくないだろ?」
女子生徒は一瞬きょとんとした顔をしたが、その後すぐに腹を抱えて笑い出した。
「何言ってるの? もしかして脅してるつもり? あなたが私のこと死神だって周りにばらしたところで、誰がそれを信じるの?」
「そりゃそうだろうけどさ、困ってるんだよ。部員が少なくて廃部になりそうなんだ」大笑いされて急に恥ずかしくなった僕の声はどんどん小さくなっていった。
「残念だけど他をあたって」
「頼む。このとおりだ」僕は深々と頭を下げた。
「……そんなことされても困る」
「突然無茶なお願いして悪いとは思う。でもどうしても入ってほしいんだ。全然新入部員が来なくて、このままじゃオカ研が廃部になってしまう。俺はそれでも構わないなんて思ってたけど、つぶれると悲しむやつもいるんだ」
「それはそっちの都合でしょ。とにかく私はそんなよく分からない部に入るつもりはないから」
「じゃあ何部に入るんだよ」
「……まだ決めてない」
「じゃあウチでもいいじゃないか」
「その部に入って私に何の得があるの?」
「それは――オカルトな体験ができる――とか?」
「何で疑問形なの……」
「とにかく、入ったことを後悔させないくらい面白いことをする――だから、入ってもらえないかな?」
懇願する僕をしばらく虫でも見るような目で眺めていた女子生徒は、とうとう観念したように小さくため息をついた。
「……分かった」
「え?」
「入ってあげるって言ってるの。たしかにそろそろどこかの部に決めなきゃとは思ってたから」
「ほんとに? 本当に? 冗談とかなしだからな?」
「どれだけ疑り深いのよ――ところであなた、名前は?」
「俺? 蒲生大吉」
「変な名前――まあいいわ。とにかく、これからよろしくね大吉せんぱい」
わざとらしい猫なで声で「せんぱい」と呼ばれて僕は背中がかゆくなった。ただ不思議と嫌な気分はしなかった。というよりちょっとドキドキした。まずいな、変な性癖に目覚めてしまったかもしれない。
「あ、そろそろ行かないと昼休み終わっちゃう! それじゃあ!」女子生徒は腕時計をみると慌てて駆け出した。
「おい、俺はあんたの名前を聞いてない!」
「遠藤ひな子!」女子生徒は走りながら叫んだ。
遠藤ひな子。初めて聞いたはずのその名前は不思議としっくりくるものがあった。僕は小さくなっていく彼女の背中をぼんやりと眺めていたが、このままでは自分が遅刻してしまうため小走りで教室へと向かった。