紅い鎌
僕はいつの間にか重苦しくかかった曇天を見上げていて、顔には雪がちらほらと舞い降りてくる。そして彼女が――黒い服の女が――しゃがみこんで僕を見下ろしていた、聖母のような微笑を浮かべながら。その手には鮮血のように紅い鎌が握られている。
僕は彼女に何か話しかけようとしたが、口が思うように動かずうめき声を上げるしかなかった。すると彼女はその手に持つ鎌と同じように紅い唇をそっと僕の耳元に寄せると何かささやいた。とても重要なことのように思われたが、僕にはうまく聞き取ることができなかった。もう一度言ってもらいたい僕は、どうにかそれを伝えようとしたが口からはやはりうめき声しか出てこない。
やがて、彼女は相変わらず微笑しながら、僕を置いて立ち去ろうとした。そんな彼女を必死に止めようと僕は狂ったようにうめき声を上げていたが、彼女の背中はどんどん遠くなっていった。
「――準備ができたわ」
遠藤の声で僕は我に返った。どれくらいの間か分からないが気を失っていたらしい。遠藤の鎌は今や鮮血を浴びたように真っ赤に輝いていた。そう、六年前のあの日見た鎌のように。
僕は彼女に声をかけようとしたが、そんなことが許される雰囲気じゃないことを一瞬にして悟った。目を見開いた彼女はゆったりと鎌を大きく上段に構えた。その瞬間部屋中の空気が一変した。説明するのは難しいが、神域に立ち入ったときのような張り詰めた空気や緊張感を何倍にも凝縮したような感じで、呼吸するのさえ苦しかった。祖父に連れられて神聖な行事や儀式に立ち会ったことは何度かあったが、それらもこれと比べれば児戯に等しかった。
やはり遠藤ひな子は死神だ。これまで彼女の死神らしい姿を拝んだことのなかった僕は今更ながらにそう思った。さすがは「神」の名を冠するだけのことはある。それはまさしく人間には及びもつかない領域であった。僕は彼女を手の届かない存在だと再認識する一方で、もっと知りたいという欲求にも駆られた。
遠藤は頭上で鎌の柄を握りなおすとそのまま一閃、委員長めがけて振り下ろした。鎌はその身体を真っ二つにすることなくすり抜けていった。委員長は安らかに眠り続けていた。
「とりあえずこれで委員長さんの寿命が採取されることはない。あとは死神を見つけて彼女の寿命をもとに戻させないと」遠藤は小さく息を吐いてからそうつぶやいた。
肩にかけた鎌からはすでに血の色は引いていた。また、先ほどまで部室を覆っていた緊張感もいつの間にかなくなっていた。
「……もろに鎌で斬りかかったけど大丈夫なのか?」僕はようやく言葉を発することができた。
「本来死神の鎌は物理的な効果を及ぼすためのものじゃないから。あくまで委員長さんにかけられた採取の効果を刈り取っただけ」そう言って遠藤は鎌を手品のように収めた。
「なあ、その鎌のことなんだけど――」
「あ……」遠藤は扉の方を見て小さな声を上げた。
「え?」
彼女の視線を追うと部室の扉が小さく開いている。さっき鍵はかけたはずなのに。
「誰ですか、そこにいるのは?」
遠藤が声をかけると扉が大きく開いた。そこに立っていたのは宇賀神だった。
「ごめんね~、のぞき見するつもりはなかったんだけど。委員長に用事があって探してたら、この部室に入ったのを見たっていう人がいたからさ」
「委員長さんはここで眠ってます。さっきまでお話をしていたんですけど、疲れてしまったみたいで。この間の件でまた来てもらってたんです」
遠藤は予期せぬ来客にも動揺することなく淡々と応じた。ここら辺は僕なんかより一枚も二枚も上手だ。仮に先ほどの光景を宇賀神に目撃されていたとして、彼女に鎌は見えないから何をしていたかまでは理解できないだろう。もっとも、怪しい行動をしているように映ったのには違いないだろうけど。
「あらら、また寝ちゃったのか。おーい」部室に入って来た宇賀神が委員長の肩を軽くゆすったがまったく起きる気配はなかった。
「うーん、起きそうにないね。それにしても大吉君、なんだか顔色すっごく悪いけど大丈夫?」
「ちょっと色々あって――すぐに帰って休むよ」そう言ってみたものの無事に帰宅するだけの体力が残っているかは怪しい。
「早く帰った方がいいよ。それにしても、委員長がまたこうして眠ってるってことは、やっぱりまだ例の件は解決してないんだ?」
「いえ、もう大丈夫だと思います。今は少し疲れて眠っていますが、もう授業中にずっと居眠りするなんてことないはずです」
「え、ほんとに? 一体何したの?」
「それは、その――秘密です」
「ふーん。ま、いいか。ひな子ちゃんが大丈夫って言うなら大丈夫なんだろね」
多少強引なところがあったことは否めないが、どうにかごまかせそうで僕は胸をなでおろした。
「あ、そうだ。お礼と言ったらなんだけど、受け取ってほしいものがあるんだ。わたしからのささやかな感謝の気持ち」
そう言って宇賀神は遠藤の方へ歩み寄ると、何かを両手で覆い隠しながら胸の前に差し出した。僕はぼんやりとした意識の中で、宇賀神が何かちょっとしたもの、そうお菓子か何かでも渡すのだろうと思っていた。しかしその後起こったことは僕の予想にまったく反することであった。
バァ―――ン!
耳をつんざくような爆発音がしたかと思うと、遠藤が腹部を抱えながらよろめいた。それはスローモーションのように、とてもゆっくりで、まったく現実味がなかった。それでも、これは夢でも幻でもなかった。遠藤が膝から崩れ落ちた。




