24.旅
「そろそろ……奴らが動き出すんじゃないでしょうか」
遠くの城からやんわりとした灯りがひとつの部屋から漏れてくると暗闇の中に二人の人影が身動きをする。
背の高い人影と、もうひとりは背が低い。
背の低い方の人影の肩に静かに舞い降りたのは暗闇に紛れ込んでいるこうもり。
そのこうもりはあたかも、人影に何かを伝えるように鼻をひくひくと動かして主人の様子を伺う。
「ふうん。やっとこの時が来たか」
冷たい口調のその声からは何の感情もうかがえない。ただ冷気を発しているだけ。
その声で周りの空気が一瞬にして冷え切ったようにも思える。
「セオボルド様、どういたしましょう」
背の高い人影はもう一人の方を向くと跪いた。
「何もする必要はない。ただあの子たちが無駄な足掻きをするのを見物しておくだけ」
そう言うと嘲笑うかのような冷たく甲高い笑い声が木々を不気味に揺らした。
笑い声は木々に跳ね返り、どこまでも響いていく……。
跪いていた男は少し頭を上げてその様子を垣間見ると目を伏せ、再び顔を下に向けて動かなくなった。
灯りがついている隣の部屋では恐ろしい雰囲気が漂っていた。
暗闇の中、真っ赤な瞳をした青年が二人で睨みあっている。
見た人なら誰でも溜め息しかでないであろう、それほど美しい二人である。
唐突に、ファーレンは自らの腕を長く伸びた爪で引っ掻くと血が飛び散った。
ハイドはその血の匂いに体を強張らせた。
「どう、驚いた?」
ファーレンは目を見開いているハイドを楽しんでいるように見る。
「分かるだろう?この血の香り……」
「魔族の血……」
ハイドは口をゆっくりと動かして小さく呟くように言う。
「そうだよ。だけど、それだけ?君のよく知っている血だよね」
ファーレンは口元を緩ませた……否、歪ませた。
……苦痛に堪える様に。
ハイドもまたファーレンのような顔をして額に深く皺を刻んだ。
「俺と……同じ」
ハイドは瞳を真っ赤に染めるとファーレンの、これまた赤い瞳を睨みつける。
「正解。だって僕の体には君の血が流れているんだから」
ファーレンの口調は穏やかで優しさすら感じることができるが、その口から零れている白い牙が今にもハイドに噛みつきそうである。
「俺の血が……お前に?お前は何なんだ。神格の王ではないのかっ!?」
「僕は神格の王だよ、それに違いはない。ただ、純血種の吸血鬼の血が入り込んだだけ」
ハイドの口からも鋭い犬歯が覗いた。
「入りこんだ?」
「そう。僕の父上が入れたんだよ。ユウリを守る騎士となるためにね。セオボルドを縛り付けるだけでは呪いは封印できないと知った父上は君の血を僕に入れて、僕を魔族の王と神格の王の混血にしたんだ。そうすると、月の女神が僕のことを愛し、僕も彼女を愛する。しかし、僕は本当の魔族の王ではないから月の女神に殺されることもない。そしてユウリは僕の子を産み、神格界は保たれる……そういう筋書きだった」
ファーレンは言葉を濁すとその深紅色の瞳に悲しみの影を映す。
「お前は……それで」
「それで良かった。いや……良かったと思っていた。だけど、こんなことになるなんてね」
ファーレンはそう言うとハイドの方へゆっくりと歩みを進めた。
「他に何か方法はないのか?」
目の前にあるファーレンの瞳を鋭い視線で離さないままハイドは言う。
「それを今から考えようとしているとこだよ。ハイド……」
ファーレンはそう言うといきなりハイドの首筋に爪を突き刺した。
「っ……なにをしている」
ハイドは痛みに耐えるように顔をしかめる。
ファーレンは不敵な笑みを顔に浮かべながらハイドの痛がる表情を楽しむように見つめる。
「そろそろ、血が必要になってきている頃なんだ」
ファーレンがそう言うと突き刺していた爪を引き抜いてその爪先に滴る純血吸血鬼の血を口まで持っていくと、舌で舐めとる。
「だけど、君の首から直接啜るのは死んでも嫌だからね。こんなこと、僕だってしたくない。ユウリの為の血なんだ、大人しくしていてね」
ハイドは抵抗することもなく大人しく血を吸われている。
知っているからであろう。吸血鬼の血の飢えを……どんなしっかりとした理性にも抗えない本能を。
ファーレンがどれほど苦しんできたのかハイドには想像に苦しくないらしい。
「同情なんて、してたら。殺すよ」
ファーレンはハイドの首から流れ落ちる血を指ですくい上げながらハイドのいつもの無表情な顔を見て何を察したのか冷たい口調で言う。
ハイドは黙ったままファーレンの指が自分の首から離れるのを確かめると、手を当てて傷を癒した。
ファーレンはハイドの様子を横目で見ながら血を舐めとる。
その様子はあまりにも色っぽく妖しく、とても神格の威厳のある王には見えない……。
それもそのはずか、彼には魔族の王の血が今しがた、神格の王の血に紛れて何滴か入り込んだのだから。
口の端についた血を手の甲で拭き取るとファーレンは窓に近づいて行った。
「どうする?ユウリを守る方法を考えて……それが君自身の命も救うんだ」
ああ……。
今宵の月は赤い。
不吉な赤で地上の夜の闇をぼんやりと照らしだしている。
「ちょっと待て……セオボルドはどこにいるんだ?」
「そんなこと分かっていたら、君の手を借りにこんな所に来ていないよ」
ファーレンは苦笑した。
「だが、お前はさっきセオボルドはユウリと会っていると言ったな」
ハイドは窓の桟に凭れ掛っているファーレンの方を見た。
「言ったね」
ファーレンはこんな状況にも関わらず焦らすように優雅に微笑む。
窓から差し込む月明かりがファーレンの顔を優しく照らし出す。
「何か根拠はあるのか?」
部屋の窓から差し込む月の光でファーレンとハイドの影が床の上に伸びた。
「この石だよ……皮肉だね。やはり運命は変えられないんだ」
そう言ってファーレンがコートのポケットから取り出したのは見覚えのある石だった。
「それ……は」
ハイドは驚愕の表情でその石を凝視した。
見覚えのあるその石は、隣の部屋で眠っているユウリの首から下げられているものと瓜二つの石であった。
「君がユウリに贈るとは考えてもみなかったな」
「何故、お前がそれを……」
「これは月の女神の象徴の石。母が僕に託してくれていたんだ……ユウリが今、身につけている石と引きつけ合うんだ。それだけじゃない、彼女の心を映してくれるんだ」
ファーレンは手のひらに乗せた石を、まるで愛おしいユウリでも見るかのように優しい眼差しで見つめる。
「この石がここ最近は熱くなってユウリの危険を知らせるようになっていたんだ。僕の推測だけど、それはセオボルドが彼女に近付いたからじゃないかなと考えている」
ハイドもその石をまじまじと見つめながら首を傾げた。
「しかし、俺は毎日ユウリの傍にいたが……そんな気配はしなかったぞ」
「セオボルドは長い年月をかけて僕ら、非人間的な能力を使える者よりも強力な能力を身に付けたんだ。気配を消すことくらい他愛もないことだろうね」
ハイドは溜め息をついて首を振った。
「それじゃ、どうやってそいつを探せと言うんだ?」
「探せだなんて一言も言っていないよ。探さずともいずれは出てくるだろう?」
「何か考えがあるのだろう?さっさと言え」
ハイドはファーレンのもったいつけるような物言いに堪えきれなくなった様に口調を強めた。
「セオボルドはやがてユウリを奪いにくるだろう。その時、僕と君とでは彼女を守り抜くことは難しいと思う……だから、彼らの力を借りるんだ」
ファーレンはそう言うと窓の外に目をやった。
漆黒の闇の中、血色に底光りする神格の若き王の瞳には遥か遠くにいる『彼ら』を映しだしていた。
「彼ら……か。居場所は分かるのか?」
ハイドはファーレンの言葉を即時に理解すると遠くを見つめているファーレンの後ろ姿を見た。
ファーレンは振り向かないまま、ゆっくりと口を開いた。
「ああ。彼らが眠っている場所は知っているよ……ああ、今は一刻を争う時のようだね。奴が動き出す前に僕らは準備をしなければ……戦いの」
ハイドは目を細めると目に見えないものに対する怒りを放つようにして鋭く美しい牙をむいた。
そして、細長い指をぱちんと鳴らすと闇の中にぼんやりと光を放ちながら白い羽で宙に浮いている小さな使いを召喚した。
「なんでしょう。ハイド様」
その使いは礼儀正しくハイドに恭しく頭を下げると、あたかもご主人さまからの命令を喜んでいるかのように上機嫌でたずねる。
ハイドは小さな羽の生えた愛らしい顔をした使いの顔をろくに見ずに呟いた。
「レオン、俺が戻るまでユウリを頼む」
レオンは勢いよく返事を返すと一礼して消え去った。
ファーレンは鼻で笑いながらハイドを見た。
「そんなこと君の使い魔に頼まなくても、こちらで彼女を守るための用意はしてあるのに」
ファーレンがくすり笑いをしていると、部屋のドアが静かに勢いよく開き、数人の神格が姿を現した。
「はい。こちらの用意は整っております」
その先頭に立っている背の高い男はよく通る太い声でファーレンに言った。
ファーレンはその男を横目で見ながら笑顔で頷いた。
「ありがとう、グレゴリー。ああ……あと、魔族ともよく協力するんだよ」
その言葉を聞くとグレゴリーは一瞬、躊躇ったような顔をしたが主であるファーレンの隣にいる男から見ても魅力的なほど美しい吸血鬼の目を見ると黙って頷いた。
グレゴリーが頷いたのを確認するとファーレンはハイドの方に向き直った。
「さあ、ハイド……憎い君と少しの間、旅を共にしなければ」
ハイドはファーレンの目を真っ直ぐに捉えて鼻で笑った。
「こっちの台詞だ」
開け放された窓から生ぬるい風が部屋に流れ込み、ハイドとファーレンの髪を悪戯に弄んだ。
泉の上を通ってきたのか、どこか居心地の悪い風が二人を包み込んだと同時にとてつもない疾風が部屋に渦巻き、部屋の前に立っていた神格たちは目を庇うように腕を顔の前に出した。
少し経って、風が消え去ると神格たちは腕をのけて顔を上げた。
「一刻を争っていらっしゃるご様子だ……我々もすぐに行動を起こそうじゃないか」
グレゴリーが声を上げる。
「そうね。ユウリ様をお守りする用意を」
グレゴリーの真後ろにいる短い黒髪で背が高い美人が部屋の中を見ながら言う。
「ユウリ様には指一本、触れさせねえ」
美人の隣にいた若く見える青年は鼻を乱暴にこすると踵をかえして部屋から離れようとした。
その腕を素早く、力強くその美人が掴まえた。
そんな細い腕のどこに強い力があるのであろう、男は痛みに顔をしかめた。
「なにをする気よ、ストラ。自分勝手な行動してごらんなさい。私があんたの息の音を止めてあげるわ」
ストラは肩を竦めて見せた。
「おおー。おっかねえな」
「おい、そこまでにしろ。ファーレン様があんなにも急いでいらっしゃったのに……お前らときたら」
グレゴリーが二人を止めるように間に入ると溜め息を吐いてみせた。
そして、他の者を引き連れる様にして部屋から離れて行った。
開け放された窓から小さな風が吹きこんできた。
その風に当たる人物は部屋にはいなかった。
ただ、つい先ほどまでいたのであろう……普通の人間ではない何者かがこの部屋にいた証拠に未だ強烈な独特の雰囲気が二人分、その部屋には残されていた。