22.話
「本当に『続き』なんてあるのか?」
やや不機嫌そうに金髪の吸血鬼は傍らで熱心に本に目を通している仙女に聞く。
男のくせに誰もが見とれる程の美貌の吸血鬼と、座り込んでいると床につくほどの長い髪とどこかあどけない幼さが残る表情をした愛らしい仙女は本を手当たり次第に読み漁っていた。
本棚に囲まれた二人はあまりにも夢中になりすぎて閉じられた窓の外で、もう太陽が隠れ始めていることに気が付かない。
太陽の頭が、もう山に沈もうと橙色の優しい光を本棚に向けてユウリが開いているページを照らしてくれている。
「あるはずですよ。お兄様も否定はなさらなかったですし……」
本から目を離さずにユウリがそう言うとハイドは大きな溜め息をひとつ吐いて、再び手にしている本のページを長い指で器用にめくり始める。
「だいたい、聞けば早いんじゃないのか?」
「私だって何度も聞きましたよ。でも、教えてくださらないんです」
ユウリは本から目をあげ、口をすぼめてハイドを見る。
ああ見えて、ファーレンは結構な頑固者だったりするのであろう。
世界中の誰よりも愛しているユウリにすら言えないことがあるのか……いや、愛しているからこそ言えないのであろうか。
その、どちらなのかはまだ知ることはできない。
「……」
ハイドはユウリと視線を合わせて口を開こうとしたが、すぐにその口を閉じて窓の外に目をやった。
気付けば外はもう暗闇が支配しており、ユウリの目には何もかもがぼんやりとして見える。
ハイドには何かが見えているのか、それとも感じているのか黙り込んだまま美しい横顔をユウリに見せながら窓を見つめている。
――パタンッ
しばらくすると何も言わずに本を片手で勢いよく閉じて立ち上がった。
「えっ、ハイド?お腹でもすきましたか」
不思議そうな顔してユウリは立ち上がったハイドを見上げる。
「今すぐ用意しますからっ……いててっ」
ハイドは視線を落として急いで立ち上がろうとして足を挫いたユウリに大きな手を差し出す。
「馬鹿……。どこの仙女が立ち上がっただけで足を挫くんだ」
ハイドはユウリを上から見下ろして白々しく溜め息を吐く。
「だって、ずっと座っていたから足が痺れてしまったんですもの」
ユウリは小さい身体を恥ずかしそうにさらに小さく縮ませる。
「噂をすれば、だな」
ユウリはハイドが差し出した手を掴むと引っ張られながらゆっくりと立ち上がった。
「なんのことですか?」
「鈍感……。お前の兄だろ」
ハイドは呆れたように言うとユウリの手を離し、体を素早く扉に向けじっと見つめる。
「何しにきた?」
いきなり扉に向かって喋り出したハイドにユウリは驚いてぎょっとしたような目でハイドを見る。
しかし、こともあろうに扉の向こうからはユウリのよく知っている優しい声が返事をした。
「話、があってね」
扉が静かに開き、そこには黒髪をした美しい青年が立っていた。
「お兄様っ!?」
ユウリは驚いて、あまりにも場違いな客人の姿に驚く。
「ごめんね、驚かせてしまって。元気にしていた?」
ファーレンは妹を愛おしそうに瞳に映しながら優雅な足取りで部屋に入ってきた。
「は、はい。お兄様」
「それは……よかった」
ファーレンはハイドの横を通り過ぎ、ユウリの目の前に行くと優しい笑顔を彼女に向ける。
ユウリは少し戸惑いながらも兄の視線に応えるように顔を上げてファーレンを見る。
ハイドはごく自然な動きでユウリの頬を骨ばった手で優しく撫でると、綺麗な顔を近づけて口づけを落とした。
「おっ、お兄様!?」
ユウリは顔を真っ赤に染めながらファーレンをまじまじと見つめる。
ファーレンはそんなユウリを見て面白げに美しく笑う。
「この間のお礼、だよ?」
ユウリは先日、ファーレンの頬にした口づけを思い出すとさらに顔を真っ赤にさせながら、じりじりと兄から離れる様にして後ずさる。
「恥ずかしがらないで、ユウリ」
ファーレンはユウリの様子を楽しむように言うと背後で恐ろしい殺気を放っているハイドを振り返る。
「ああ……ハイド」
ファーレンは先ほどから気づいていたのに今気がついたと言わんばかりに驚いてみせる。
ハイドは二人から離れた所で顔を染めたままこちらを不安げに眺めているユウリに目をやる。
「何をしにきた?」
あきらかに苛立っているハイドを見てファーレンは密かに口元を緩める。
「ユウリにお礼しに来たんだよ」
「お礼?」
ファーレンは優位に立ったような顔をしながら表情を変えたハイドを楽しげに見つめる。
「そうだよ。この間はユウリが僕に口づけを落としてくれたからね。ねえ、ユウリ?」
「え……。えっ、その……それは」
兄の視線に捕えられたユウリは戻りかけていた赤い頬を再び真っ赤に染めた。
ハイドは知らずうちに額に深く皺を寄せてユウリを見つめる。
「あれ?ハイド……どうしたの、そんなに怖い顔して。せっかくの美しい顔が台無しだよ」
ファーレンは顔をしかめているハイドを鼻で笑う。
「黙れ」
ハイドはファーレンを鋭い目つきで見ながら恐ろしいオーラを発する。
「もしかして、やきもち?」
ファーレンは端整な顔をハイドにだけ見える様に意地悪く歪め、分かっているようなことをわざわざ尋ねる。
「面白い冗談だな」
「なら、いいけどね」
ファーレンはハイドの殺気を気にする様子など少しも見せずに涼しげに微笑む。
少し癖のある黒髪が独特の美しさを際立たせている綺麗な青年と星のように輝くさらさらした金色の髪が冷たい表情を隠してくれている美しい青年が同じ部屋で互いに嫌な雰囲気を醸し出しながら相手の出方を静かに待っている。
二人とも人間とは比べものにならないほどの美貌を持っているにも関わらず、その恐ろしい雰囲気といったら普通の者なら気を失ってしまう程のものだ。
ユウリは慣れているのか、そんな二人を呆れたように見ると、ゆっくりと沈黙を破った。
「お兄様……それで、本当は何をしにいらっしゃったのですか?」
「だから、さっき言ったよね」
ファーレンは見るからに裏のありそうな爽やかな笑顔をユウリに向けながら優しい口調で言う。
「お兄様がこんな所へわざわざ来るなんて、滅多な理由がないとおかしいです」
「ひどいな……。僕のユウリに会いにくるのがそんなにいけないことなのかな?」
ファーレンはわざとらしく傷ついたように表情を曇らせ、悲しげにユウリを見つめる。
ハイドはファーレンの言った『僕の』という言葉に眉をぴくりと反応させる。
「そっ、そんな意味じゃないですっ」
ユウリは急いで否定すると、兄の表情を伺う。
ファーレンは満足したようにユウリの小さな身体に長く力強い腕を伸ばすと大きな手で優しく肩を抱き、引き寄せて桃色にほんのりと染まった彼女の頬を愛おしげに撫でる。
「君は僕の腕の中にいるのが一番、幸せなんだよ。分かっているよね、ユウリ?」
幼い子に言い聞かせるようにファーレンは言うとユウリはゆっくりと瞬きをひとつする。
ユウリは瞼がふいに重たくなったのを感じた。
「おにい……さま」
ユウリが愛らしい唇を小さく動かして言葉を紡ぎ終えると、頭をファーレンの胸に預けるようにして眠りに落ちた。
その様子を傍で見ていたハイドはファーレンに近づくとユウリを奪おうと腕を伸ばす。
「僕のユウリに何するの?」
ファーレンがその腕を制止するようにきつく握るとハイドの腕には鈍い痛みが走る。
ハイドの瞳は赤く染まり、ファーレンを鋭く捕らえている。
ファーレンが手に力を入れると、爪が刺さったのか赤い液体が一筋流れ落ちた。
「いつも都合良く、ユウリを寝かせてお前はそんなに面白いのか?こいつだって、もう子供じゃないんだ」
「面白いだって?ふざけるな。僕はユウリを守りたいだけだよ。君だってそうだろう」
「お前のやり方はユウリを守るんじゃなくて、ユウリを問題から遠ざけているだけだ」
ハイドは赤く血のようにぎらぎらと恐ろしく光る瞳でファーレンを睨みつけたまま、掴まれていた腕を振り払う。
ハイドの白い皮膚からは鮮やかな赤色をした血が静かに流れ出している。
ファーレンはその血を凝視しながら目を細めて首を微かに傾げる。
「……ユウリの血を喰らったね。汚らわしい」
ファーレンが冷たい微笑を浮かべながらそう言うと、ひんやりとした風がハイドに向かって走った。
――ピシッ
という音と共にハイドの頬は綺麗に裂けて血が顔に流れだす。
ハイドは無表情のまま頬を撫でて血が出ているのを見ると手についた血を舐めとる。
「自らの血すら、もったいないというわけか……どこまでも、汚れた生き物だね。愚かだ」
そんなファーレンの挑発的な言葉にも気にすることもなくハイドは頬に手をあてた。
すると、さきほどまで結構な深さで切れていた頬の傷が一瞬にして塞がった。
「なんとでも言えばいい」
ハイドは真剣な表情で真っ直ぐにファーレンを見据える。
「ただ、そいつだけは俺が守ると約束をしたんだ。俺が守りぬく」
ファーレンは鼻で笑うと自らの腕の中で身を任せて眠っているユウリを見る。
「悪いけど、ハイド。君がそうしたくても、運命はそう簡単には変えられないんだよ」
「なんの話だ」
ハイドはファーレンの言葉に疑問の声をあげる。
ファーレンは美しい瞳を見開くと息を漏らす。
「ああ、そうだったね。僕はこの話をしに来たんだった」
ファーレンはユウリの身体をそっと持ち上げる。
「その前に、彼女をベッドで寝かせてあげないといけないね」
「隣の部屋のベッドに寝かせておけ」
ハイドがファーレンに抱かれているユウリを横目で見ると、ふいに悲しげな顔をして目を背けた。
背の高いユウリと同じ色の髪をした中性的な美しさのファーレンが愛おしそうに妹を抱きかかえている様子は誰が見ても微笑ましいものである。
否、溜め息しかでないといったところであろうか。
婚約者……そんな言葉をハイドの頭を過る。
大人しくハイドの腕に収まっているユウリの頬はほんのりと染まっており、桜色をした愛らしい唇が幼さを残している。
「なに見てるの?」
ふいにハイドの視線に気づいたファーレンが扉へと歩みを進めながらハイドを横目でみて薄ら笑いをした。
「……」
「だめだよ、僕らは君とは住む世界が違うんだ」
ファーレンはそう言うと後ろ手に扉をユウリが起きないように静かに閉め、姿が見えなくなった。
ハイドはその扉をじっと灰色の透き通った瞳で見つめていた。
「ユウリ、君が知るにはまだ早いんだ。その時が来れば……」
魔族らしくない真白な天蓋付きのベッドにユウリをそっと寝かせる。
彼女の長い黒髪が傷つかないようにそっと手で梳いてやるとユウリの首が微かに傾くと白い首筋がちらりと見える。
まるで白百合のように美しい彼女は何もしらない幼子のように幸せそうな寝顔をファーレンに向けている。
ファーレンは海の底のような深く吸い込まれそうな瞳を細めて眩しすぎる彼女を見る。
できることならば酷なことを今、この場で教えてやりたい。
彼女がどんなに傷つこうとも今すぐに僕のものになるのなら……。
ファーレンの胸にそんな黒い想いが芽生えたが天使のようなユウリの顔を見ているとそんな気は失せた。
「しばらくここで大人しく寝ていて」
ファーレンはユウリの桃色にほんのりと染まっている頬を骨ばった手の甲でそっと撫でた。
その時、ユウリの口元が少しばかりつり上がって微笑んだかのように見えた。
「さあ、僕は彼に話さなければ……」
ファーレンは霞がかった独特の声でそう言うとベッドの脇から立ち上がってユウリをベッドに寝かしたまま部屋を出て行った。