21.悪夢
ユウリの両手は血で真っ赤になり、辺りにも生々しい血の香りが漂い、美しい程鮮やかな血が飛び散る。
ユウリの目の前には呻き、よろめいている美しい吸血鬼がいる。
しかし、いつものような涼しい顔はなく、その顔は真っ青で目を大きく見開いてこちらを見つめている。
彼の首からは大量の血が流れ出しており、ユウリはその様子を無表情で見つめている。
しばらくすると、吸血鬼は何かを小さく呟いてユウリの足元に崩れ落ちた。
ユウリはその青年の抜け殻を冷酷な表情で見下ろすと満足気に笑みをこぼす。
尋常な反応ではない……まるで、何かにとり憑かれているようである。
そして、ユウリのいる部屋に甲高い笑い声が響く……耳を塞いでもその声はどこまでも追いかけてくる、背中がぞくりとするような笑い声。
誰が笑っているのであろうか、ユウリは部屋中を見回した。
しかし、部屋にはユウリと無残にも美しい顔を苦痛に歪ませて崩れ落ちているハイドの姿しかない。
……それもその筈であろう、その笑い声はユウリのものだったのだ。
ユウリは無意識のうちに動いている自らの口に手を触れてみると気味悪い動きをしながら異常な声を発している。
確かに、体はユウリのものな筈なのに自分ではないような気がした。
「い、いやあっ!!!」
「どうした」
どこからか低く落ち着いた声が頭に響く。よく知っている声だ、その声にユウリは温かく包みこまれるような感覚になる。
「おい、しっかりしろ」
ユウリの背中に柔らかな布団があることに気づくと同時に誰かのほっそりとした指先がユウリの汗で湿った前髪を触っている感触を確かめる。
恐る恐る、瞼を開けて目の前の光景を漆黒の瞳に映す。
「目が覚めたか?」
目の前にはベッドの上でユウリを美しい吸血鬼が心配そうに覗きこんでいる。
その顔はいつもより涼しくすませてはいないものの、血は一滴たりともついておらず、首にも傷など見受けられない。
「夢で、よかった……」
ユウリは荒い息遣いでハイドに手を伸ばすと金色の髪を絡め取る。
「なんの夢だ?随分とうなされていたぞ」
ハイドはユウリの額の汗を拭き取りながら目を細めて彼女の赤い頬を見つめる。
その顔は何かに怯えているようにハイドを定まりきらない焦点で見ている。
「ハイド……、黙っていたんですけど」
「なんだ」
「ただの言い伝えだと思うのですけど、私……っ」
ユウリはそこまで言うとよほど精一杯なのか息を詰まらせて息苦しそうに肩を大きく揺らす。
ハイドはユウリの震えている肩に手をのせて落ち着かせ、彼女の髪を撫でてやる。
「大丈夫だ。お前が何を言おうと俺はお前から離れるつもりはないし、ずっと傍で守っていてやるから。今、無理して言う必要もない。言える時がくれば言ったらいいだろ」
ハイドはユウリの耳元で優しく呟く、そのハイドの優しい言葉にユウリは頷くことしかできなかった。
ハイドはユウリのいつもより赤すぎる頬をじっと見て、そっと手の甲をあてると、じんわりと熱が伝わってくる。
「ちょっ……。お前、熱あるぞ」
「え……。そっ、そんな筈ないですよ。私だって一応、仙女なのですから」
ユウリはハイドの手を振り払うとさらに顔を赤くしながら小さく叫ぶ。
「でも、これは尋常な体温じゃないぞ。ちょっと、ここでじっとしてろ」
ハイドはそう言うとベッドから抜け出すと急ぎ足で部屋を出て行った。
「……熱、だなんて。でも、確かに熱い、ですね」
残されたユウリはハイドがしたのと同じように自らの頬に手をあててみる。
「夢、のせいでしょうか……。あれは何だったのでしょう、私の考えすぎ?それとも、何かの暗示……」
ユウリは不吉な考えを頭から振り払うと急に寒気がしてきた身体を腕で包み込む。
それでも酷く身体を冷気が襲ってくる。
「こんなの、初めてです……」
これが風邪というものなのであろうか。
魔族や神格は風邪や病気といったものに無縁の生き物だ。彼らは特殊な能力と共に人間の数百倍もの抗体力を自然と持ち合わせて産まれてくる。
しかも、ユウリはというと神格の中の神格。そんな彼女が風邪をひくなど考えられないことである。
では、これが風邪でないとすると……何なのであろうか。
そんなことを、朦朧とする頭で考えていると扉が開いた。
そこには柔らかなタオルと着替えを両手に抱えたハイドが立っていた。
そしてベッドの上で大人しく座っているユウリを安心したように見るとそっと歩みを進める。
「取りあえず、これで汗拭けよ。それから……おいっ、なにして……っ」
ハイドがユウリにタオルを手渡そうとしたとき突然、ユウリの目の色が変わるとハイドの差し出された手を引っ張り、ベッドに押し倒していた。
ユウリの左手はハイドの腕を抑え、右手にはどこから持ち出したのか銀の短剣が握りしめられていて、その矛先はハイドの心臓の真上にあった。
そして、ユウリから聞こえてくるのは先ほどまで長い距離を走っていたかのような荒い息だった。
ハイドは目を見開くとユウリの目をじっと見つめた。
ユウリの据わった目には憎しみと、そしてどこか悲しげな色が浮かび、ハイドの目はこんな状況であるのに何故か落ち着いたいつもの灰色の色だった。
その相反する視線は長い時間、絡み合い二人は無言のまま相手の出方を待った。
「ユウリ……」
ハイドが低く囁くとユウリは微かに瞳を見開いて身震いをした。
それから、驚いたように自らの手に握られた銀の短剣を見ると、すぐさまにその剣をしまった。
「私……やっぱり」
ユウリはハイドの上にのったまま、両手を口にあててわなわなと震えだした。
「どうした」
ハイドは起き上がろうともせず、ただユウリの様子を眺めている。
「ハイド、どうして神格の私が月の女神なんだ、と疑問に思ったことはないのですか?」
ユウリは震える声で何かが切れたように喋り出した。
「いや、そんなこと気にしたことはないが?」
「神格は太陽の王、魔族の王は月の王の末裔なのですよ」
ユウリは跨っていたハイドから退くとハイドはゆっくりと身を起こしてユウリと向かい合って座った。
「ふうん……」
ハイドはさほど、興味のないような返事をする。
「驚かないのですか?」
「別に」
「知っていたのですか?」
ユウリは涼しげに乱れた金色髪を掻きあげるハイドの予想外の反応に少し戸惑う。
「いや」
「なら、どうして……そんな普通なんです?」
ハイドは暢気にベッドの脇に落ちてしまったタオルを長い腕を伸ばして拾い上げた。
「太陽の王と月の王の話は聞いていたから、予想はついていた」
ハイドが戸惑うユウリの汗ばんだ首筋にタオルをあてがうと真っ白なタオルがユウリの汗を吸い取っていく。
「話を……ハイドも知っていたのですか。どこまで?」
「どこまで、って……。太陽の王と月の王、つまり俺達の祖先が仲が悪くなって神に呪をかけられたんだろう?」
「それだけ?」
「ああ。続きでもあるのか?」
ハイドはユウリの美しい黒髪を優しく持ち上げて首の汗を拭いてやる。
「私の記憶も随分と曖昧なのですけど……」
そう言ってユウリは話し始めた。
――昔、それはこの世界にまだ神格も魔族も人間の区別もない頃……。
太陽の王と月の王はいつも仲が良く、どこへ行くにも二人一緒であった。
二人は特別な能力が使え、見た目麗しく他の者から尊敬される存在だった。
太陽の王が野原で昼寝をするときは月の王も、月の王が木陰で本を読むときは太陽の王も、二人はそれが当たり前で、数分でも離れるということは考えられなかった。
しかし、ある夜のこと、太陽の王は月の王の秘密を見つけてしまった。
その時、太陽の王は驚きと悲しみという感情を知った。
月の王が暗闇の中で人間の血を啜っているとこを見てしまったのだ。
生々しい音を立てながら一心不乱に人間の首筋から血を啜る……それはもう、化け物以外のなんでもない月の王を。
それからというもの、太陽の王は月の王を軽蔑し、避ける様になった。
しまいには二人は争いまで始めた。それは、どちらかの命が尽きるまで続くような争いになってきたとき、天からその様子を見ておられた神は嘆き悲しみ、二人に呪いをかけた。
太陽の王は暗闇を嫌い、光を愛するように。
月の王は光を嫌い、暗闇を愛するように。
そうして、太陽の王は昼間に起き、活動をして夜には寝台に入る。
月の王は日が沈むと起き出し、太陽が出てくる前に逃げる様にして寝台に入るようになり、二人は会うことがなくなってしまった。
「そして、太陽の王が私たち神格の祖先、月の王が魔族の祖先。ハイドが知っているのはここまでですか?」
ユウリはハイドから着替えを受け取るとハイドに後ろを向いているように、と合図する。
ハイドは言うとおりにユウリに背を向けベッドに腰をおろす。
「それで、続きがあるんだろ?」
「はい……。あるみたいなんですけど」
ユウリは頭を掻きながら言葉を濁すとハイドは呆れたような目をしながらユウリを振り返ろうとすが。
「ちょっ、こっち見ないでくださいっ」
というユウリの声に妨げられ、再び顔を前に戻した。
「で、あるみたいってどういうことだよ」
「それが……私がこの話を聞いた時はすごく小さな頃だったもので、覚えていないんです」
「はあ?」
ハイドはあからさまに溜め息を吐く。
「でも、続きは確かにあるんです。お兄様に聞いても教えてくれなくて……。あっ、もういいですよ」
ユウリがハイドに言うとハイドは顔を少し捻りユウリが着替え終わったのを確認するとベッドに大きな音をたてて寝転んだ。
「ただ……」
「ん?」
「ただ、幼い心にも深く残った言葉が……あるんです。それしか覚えていなくて」
ハイドは顔を横に向けてベッドにぺしゃりと座り込んでいるユウリを見て先を促す。
「……月の女神は魔族を決して愛してはならない」
ユウリの言葉を聞くとハイドの表情は微かに固まった。
「何故?」
「月の女神が魔族を愛せば、その想い人は息絶える。と」
「なんだ、それ」
「しかも、その月の女神が自らの手で……」
ユウリは震える自分の手のひらを見つめながら声を低くする。
「だから、さっきのも……」
ユウリはベッドの脇に置かれた銀の短剣を見つめる。
ハイドもその視線の先を追うようにして静かに光を放っている短剣を見る。
「へえ……」
ハイドは何故が口元を吊り上げると身体を起こして顔を背けているユウリの顎を手で掴むとこちらを向かせる。
「なに、笑ってるんですか」
ユウリはハイドの口元を見ると驚いたように目を丸くする。
「それじゃあ、遠まわしにお前が俺を愛してる、と言っているようなものだぞ」
「……あっ」
ユウリは途端に顔を真っ赤にさせるとハイドの真っ直ぐな視線から逃げようとするが、顔はハイドの大きい手により固定されているため逸らすことができない。
ハイドはユウリの細い身を引き寄せると痛い程の強い力で抱きしめる。
「えっ、ハイド!?」
ユウリは突然のことに驚いて目の前にハイドの固い胸があることに気づくとハイドの落ち着く匂いに緊張がほぐれ、大人しくハイドの腕の中に収まる。
「ねえ、こうやってる間でも私があなたの命を奪ってしまうかもしれないのですよ?」
ハイドは心配そうに言うユウリを見てくすりと笑うとさらに腕の力を強める。
「俺はお前に殺される気はしないし。それに、お前に殺されるなんて、そんな最高の死に方はないだろう?」
ユウリはハイドの言葉に驚き表情を強張らせる。
「心配するな。俺は簡単には死ねない。知っているだろ?」
確かに、純血種の吸血鬼というのは滅多なことがないかぎり死ぬことはできない。
はっきりとした寿命すら他の者は知ることはない。
それほど長く生きてしまうのが純血種の定めなのだ。
たとえ、銀の短剣で心臓を突き刺されても、そう簡単に息絶えることはない。
「そうですね。だってハイドは純血の吸血鬼さんですものね」
「違う。そういう意味じゃない」
ユウリは顔を上げ、ハイドの顔を見る。
「え?」
「俺が簡単に死ねないのは、守るものがあるからだ」
ハイドはユウリの両腕を掴み、真剣な表情をしてユウリの目を見つめる。
「あっ、あの……んっ」
ハイドはユウリの言葉を封じるようにその桜色をした愛らしい唇をハイドの口で塞ぐ。
ハイドは優しく口づけをすると、ユウリを解放してやる。
ユウリはいつもより早くハイドに解放されたことに驚いたようにきょとんとしてハイドを見つめる。
「なに、足りないのか?」
ハイドは口元を微かに吊り上げてとろんとした目で魅入られたようにハイドに釘付けになっている仙女を可笑しそうに笑う。
「たり……ない」
掠れ気味の声で頬を赤く染めながらハイドを上目遣いで見る。
「え……」
ハイドはユウリの思ってもみなかった反応に一瞬、面食らうが、それもつかの間ユウリの顎を掴むと荒々しく口づけを繰り返す。
ユウリは瞼を閉じてハイドに一生懸命応えるように頬を赤らめている。
ハイドはうっすらと目を開けてそんなユウリの様子を見ながらも幾度となく角度を変えてユウリの唇を奪う。
「大丈夫か?」
ハイドがユウリを解放するとユウリは大きく息を吸い込み、ベッドに倒れ込んだ。
よほど苦しかったのかユウリは地にあげられた魚のように口を動かして空気を得ようとする。
ハイドはそんなユウリをじっと見ると金色の髪を掻きあげて口元を緩ませる。
「悪い……止まんなかった」
「悪いと……思ってるなら……ニヤニヤしないでくださいよっ」
ユウリは息を吸い込むと途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「お前が足りない、とか言うからだろ」
ハイドはさらに口元を緩ませてユウリを見る。
ユウリの顔は林檎のように……いや、林檎よりも赤く染まった。
「だって……」
「いつもそんなに素直なら可愛いのにな」
ハイドは倒れているユウリの額を人差し指でなぞりながら口をユウリの耳元に近づけて低く甘い声で囁く。
「……ふぇっ」
ユウリは、顔を真っ赤に染めたまま身を起こして恥ずかしそうにハイドから顔を逸らす。
ハイドはわざと何も喋らずにユウリの背けられた横顔を眺める。
赤い頬と長い睫毛がハイドの視界を満たす。
長い沈黙が二人を包み込み、太陽が顔を出し始めたのか、窓からは橙色の細い光が差し込んできた。
「大丈夫だから……そんな顔するな」
「えっ!?」
ユウリは顔を背けたまま、あの話を思い出しているとハイドの落ち着いた声が背中から聞こえてきて驚き、ハイドを見た。
こちらを見ているハイドの瞳は細められていて優しい。
ユウリは鷲掴みにされたように切なく痛む胸をおさえてハイドと視線を合わせる。
「俺がいなくなったら、お前を守れないだろ?だから、大丈夫だ。ずっと傍にいてやるから」
「……」
「だいたい、お前に俺が殺せるとは思わないからな」
ハイドがユウリに言う。
ユウリは、それもそうですね、と言い二人で笑い合った。