19.葛藤
寝室の大きな窓から優しい太陽の光が入り込む。
窓のから見える下にある庭は美しい色とりどりの花が太陽の光を目一杯に浴びて気持ちよさそうに輝いている。
どこからか花の香りに誘われた小鳥たちも庭へ遊びにきて綺麗な声で鳴く。
その声が寝室にも微かに聞こえてきてユウリは目を覚ます。
小鳥の囀りに起こされる……こんなにも素晴らしい寝起きは他にないのではなかろうか。
隣にはまだ健やかな寝息をたてて美しい寝顔をユウリの方に向けて寝ている吸血鬼。
いつの間にか一緒のベッドで寝ることがいつもの日課になり、いまでは何の違和感も感じられない。
そのことが少し可笑しく感じられてユウリは口元を緩ませる。
体をゆっくり起こして窓の方を見ると、ゆっくりベッドから抜け出し、窓の方へ近づいて外をじっくり眺める。
この城は山の頂に築かれていて、城から少し下ると小さな村がある。
城から見下ろす景色は素晴らしいものであり、ユウリは気に入っていた。
村人たちはもうすでに働き始めているのであろう、煙突からはもくもくと煙が昇り、馬車の走る様子が窺える。
村人たちに比べてこの古城は、といえば……ひっそりとしていて動き出すのもお昼近くになってからである。
古城に来る者はスワンくらいで他の者は遠慮をしているのか用事がない限り来ようとはしない。
村の一番奥に一本道がある。その細いくねくねと曲がりくねった道を登っていくと跳ね橋にたどりつく。
跳ね橋を通ると背の高い木々が城を囲むように立っている。
その木々の隙間を通り抜けると大きな門が現れる。
しかし、木々の隙間といってもそんなに大きな隙間ではなく小さな子供が一人、やっと通り抜けられるくらいの間しかない。
そこで、村人たちが来るのが見えるとユウリが急いで木々を避けさせるのである。
スワンは別である。スワンはいつも木々の間を通り抜けると門の方向に行くのではなく真逆の方向に走っていくと、ユウリの大切にしている花々が咲き誇る庭が姿を現す。
庭をそっと渡りお目当ての窓に顔を覗かせると、きまってユウリの笑顔が待っていることをスワンは知っている。
スワンはその道を近道だと信じているが城の門をくぐってくる方が無難でたいして距離も変わらないということを、そろそろ教えてあげなければ……ユウリは思う。
「今日は来ないのでしょうか……」
ユウリは寝室の窓から外を見て少し、残念そうに声を落とす。
いつもこれくらいの時間に茶髪の少年は木々を掻き分けて城へと向かってくる。
そして、太陽が沈む前には家に帰すようにしている。
遊びに夢中で窓の外を見てみるともう、日が沈み月が顔を覗かせていることもしばしばあるが……そんな時にはスワンの部屋が大活躍するのだ。
スワンは城に泊るときはすごくはしゃいで夜寝かすのが大変で、ユウリはスワンが寝るまでおとぎ話を聞かせたりする。
スワンは時折、窓を覗いて月を見る。
ユウリがどうかしたのか、と聞くとただ首を振り話の続きをねだるのだ。
「そんなに月が好きなんでしょうか……」
ユウリはスワンの愛らしい笑顔を思い出し、くすりと笑ってみる。
……月長石に選ばれし者……
ふいにユウリの頭の中で何者かが囁いたように感じた。
ユウリは驚いてベッドの方を見る。
ベッドの上ではまだ健やかな寝息をたてているハイドがいた。
「ただの言い伝えですよ……ね」
片手を胸の前でぎゅうっと握り、そう自分に言い聞かせる。
あの本を読んでしまった時、すでに嫌な予感はあったもののハイドの口からその名が出たときは涙を堪えることもできないほどの衝撃を受けた。
しかし今、こうやって心を落ち着かせてハイドの寝顔を見ていると月の女神であろうがなんであろうかどうでもいいことに思えてくるのだ。
「なんだ、じろじろ見て」
「えっ!起きていたんですか?!」
寝ていたと思えば突然、声を発する吸血鬼にユウリは驚く。
「今、起きたんだ。なんだ……見惚れてたのか?」
ハイドは上体を起こし窓の方にいるユウリを美しい顔を意地悪く歪ませながら見る。
「みっ、見惚れて……そんなわけないじゃないですかっ」
「どうだか……そんなに焦って」
ハイドは顔を真っ赤にさせているユウリを見て余裕の顔で涼しく笑う。
悔しいが、その顔は世界中のどんなものより美しく見える。
「ハイドはずるいです」
「何がだ?」
「ハイドは男性なのに、綺麗です」
「はあ?」
ハイドはユウリに呆れたような目を向ける。
「吸血鬼さんは皆さん、そんなに美しいのですか?」
ユウリは人差し指を唇にあてて考え出す。
「いや、そんなことはない。ただ、お前ら神格から見れば明るい髪が珍しいだけなんじゃないか?」
ハイドは自分の髪を指で弄びながら言う。
「確かに私たちは暗めの髪ですけど……それは別として、ハイドもジェレミーもとても綺麗じゃないですか。ビビアンさんだってとても美しいです」
ユウリは自分の胸元にかかっている髪とハイドの輝く髪を見比べて言う。
「ジェレミー……」
ハイドはぽつりとユウリの口から出てきた名前を繰り返す。
「はい。ジェレミーは、そうですね……女の子のように可愛いですよね。ハイドはジェレミーとは違って美しいという言葉が似合う感じですよ……可愛くありませんけど」
「可愛くなくって悪かったな」
最後に聞こえないように小さな声で呟いた声はしっかりハイドに聞こえていたようで額に皺を寄せている。
「え、いや……別に……。それに、ハイドが可愛いって想像しにくいですし。ハイドはその可愛くないところがハイドらしいところなんですよ、きっと」
何の悪気もなくユウリは言うがハイドの額の皺はだんだんと深くなっていく。
顔の話をしていたにも関わらず、いつの間にか性格の話になっているのは何故であろう……。
「お前なあ……」
「え?なんですか」
どこまで鈍感なのであろう、その鈍さはここまでくると鋭い凶器になってしまっているではないか。
「はあ……。なんでもない。」
ハイドは溜め息をひとつ吐くとユウリから目をそらす。
「そうそう。スワンは普通の人間なのに、とても可愛いですよね」
「そうか?」
ハイドはスワンのあの裏の顔を思い出す。可愛いという言葉とは正反対のものであった。
むしろ、恐ろしいという言葉がぴったりである。
「そうですよ。明るい茶色の髪の毛と同じ色の大きな瞳がとても可愛いです」
ユウリは両手を胸の前で組み、うっとり言う。
「……ひゃあっ」
いつの間にベッドから抜け出していたのであろうハイドはユウリを後ろから抱きしめている。
「なっ、なにしてるんですか、ハイド……んっんー」
ユウリの口をハイドの骨ばった手が塞ぐとユウリは驚いてその手をとろうともがく。
しかし、ハイドの手はびくともしない。
「……他の男の名前をお前の口から聞きたくない」
ユウリの顔は途端に真っ赤になり抵抗している手が止まる。
ハイドはユウリの肩に頭を埋めているのかユウリの視界にさらさらの金髪が入ってくるとユウリの口を塞いでいたハイドの手から力が抜けユウリに抱きつくようなかたちになる。
「ハ、ハイド?!」
「痛い……」
ハイドは先ほどまでの余裕はどこへいったのか、苦しそうな声を絞り出す。
「えっ?どうしたのですか」
ユウリはいつもとは何かが違うハイドに驚く。
「太陽の……」
「あっ」
ユウリは思い出したように小さく叫ぶと今にも崩れ落ちそうなハイドをベッドに座らせ、急いでカーテンをひいた。
「ハイド、大丈夫っ?」
ユウリはハイドに駆け寄ると大きな瞳を涙で潤ませながら心配そうにハイドを見る。
「大丈夫……じゃない」
ハイドらしくなく弱音を吐くと派手な音とともにベッドに倒れ込む。
「どうしたんですか?いつもは眩しそうにするだけなのに……」
ユウリはベッドの横に膝をつくとベッドの上で突っ伏しているハイドの頭を優しく撫でる。
「風邪……のわけないですよね。ってハイドっ?!」
ハイドは頭を撫でていたユウリの手を引っ張るとユウリはバランスを崩し、ハイドがその体を抱きかかえるようにしてベッドに倒す。
ハイドの息遣いは荒く、苦しげな表情で自らが押し倒したユウリをまじまじと見る。
「ハイド、本当にどうしたんですか?」
ユウリは顔を上に向けてハイドに優しく尋ねる。
ハイドはユウリの細い首筋に目を奪われ、手をそっと伸ばす。
その瞳は血色に底光り、いつもの何もかもを見透かしているような灰色は消えていた。
「……やっぱり、渇いていたんですね。無理しないでいいのに」
ハイドの様子に気づくとユウリは目を細めて悲しげな顔をする。
「私は何度も言いましたよね?ハイドのためならいつでも血なんか差し上げます、って。どうして、信じてくれないのですか」
ユウリは必死に理性を取り戻そうと足掻いているハイドの剥き出しにされた牙に手を伸ばす。
「やめろっ」
切なげな声でハイドはその手を拒もうとするがユウリは牙に指で触れる。
――プチッ
ハイドの鋭い牙が指先の皮膚を破くと赤い血がぷっくりと溢れ出す。
今まで待ち焦がれていたユウリの血が自らの口内にある……。
無意識にハイドはユウリの指先の血を舐めとる。
「……あっ」
ハイドの頭はぼんやりしてきて夢中でユウリの指に牙をさすと血を啜り出す。
ユウリは必死に漏れそうになる声を出さないようにと堪えている。
「悪い……もう、十分だ」
ユウリの指から牙を離すとハイドはユウリの顔を見ずに言う。
「ハイド、無理しないで下さい」
ユウリは顔を背けているハイドの髪にそっと触れる。
「していない」
「そんなわけありません。少ししか飲んでいないじゃないですか」
ハイドは顔をユウリの方へ勢いよく戻すとユウリの顔を切ない表情をして見る。
「怖くないのか?」
「何度言わせるのですか。怖くなんかありません」
ユウリは子供をあやすように言うと体を起こし、ハイドに抱きつく。
「吸って……ほしいんです。ハイドの役にたちたい……」
ユウリの健気な言葉に耳を疑い目を見開く。
「なに……言って……」
ハイドは目の前にユウリの首筋を差し出され、苦しげに言う。
「あっ、ハイ……ド……っ」
ユウリの首筋にはハイドの牙が埋め込まれ耳元では血の啜られる音が生々しく聞こえる。
ユウリは恐怖という感情はなかった。
ハイドに愛おしさと共に罪悪感すら抱く……血に紛れて、首筋に流れている一筋の液体が血ではなくハイドの涙だと気付いてしまったから……。
「くすっ……」
二人の寝室のドアの向こう側で小さな少年が笑い声を漏らす。
その少年はいつからそこにいたのであろうか、廊下の壁に凭れ掛って部屋の中の様子を伺っている。
愛らしい顔には似合わず少年の顔に浮かんでいるものは……嘲笑うかのような微笑である。
しかし、ユウリとハイドは両者とも意識が薄れていて、そんなことには全く気が付かなかった……。