18.女神
小高い山の頂に堂々と建っている城の一部屋で何者かが深夜にも関わらず忙しく歩き回っている。
窓からのやんわりとした月明かりがその青年の横顔を照らす……整った顔は女と見間違えるほど美しく星色に輝く髪は青年が動くたびにさらさらとなびく。
「……あった」
彼はそう呟くと気が遠くなりそうなぐらい多く本が並んでいる本棚から一冊の古い本を手にした。
表紙はところどころ剥げている。随分と読まれてきたのであろう、ページは何度もめくられた跡が残っている。
しばらくの間、彼はその本を細長い指でページをめくっていたが、あるページでその手を止めた。
難しい字がびっしりと記されているそのページには何が書かれているのであろう。
彼は無表情のまま目を通すと、ある一文を指でそっとなぞった。
……そうだ。俺はあの時、ユウリの石に引き寄せられてあの場所にたどり着いたんだ。月長石が俺を呼んでいた……ユウリの鼓動が伝わり、何が起きているかを知らせてくれた。本能的に俺はそれに従った、なんの迷いもなく……ただユウリを守りたい一心で。
しかし、今考えてみると本当は不思議なことなのである。
月長石は確かに色々な能力があると伝えられているが、それはあくまでも伝説であって実際にはただの石である。
なのに、ユウリがあの女にさらわれた時に発揮したものは何だったのであろうか?
密かにハイドの頭の中で渦巻いていた疑問が今、明らかになった。
「月長石……。まさか、とは思ったが。やはりそうか。あいつが、か」
そう言うと彼は苦笑しながら本を閉じた。そして、その本をそっと脇に抱えて部屋を出た。
「ハイ……ド?」
部屋を出て長い廊下を歩いていると背後から柔らかな蝋燭の灯りが追ってきた。
ハイドはゆっくりと後ろを振り返ると闇と同じ色をした長い髪を垂らしたユウリが首を傾げてこちらを見ている。
「ユウリ。こんな時間にどうしたんだ?」
「急に喉が渇いてしまって目を覚ましたら、ハイドがいなくなっていたので……」
ユウリはハイドの抱えている本に目をやる。
「あの、それは?」
「いや……調べ物をしていただけだ」
「なんのですか?」
ハイドの心臓は静かに跳ねる。
「お、おいっ」
なにも答えないハイドに痺れを切らしたユウリはさっとハイドの腕から本を抜きとる。
「はい、ハイド。持っていてください」
そう言うとユウリは片手に持っていた蝋燭をハイドに無理矢理押しつける。
「えーっと……。もっと蝋燭をこちらに近づけてくれませんか?」
ユウリは暗闇の中、目を細めて小さな文字を読み取ろうとするも蝋燭の小さな灯りだけではなかなか読めない。
「今日はやめておけ。だいたい、周りが明るくてもお前に解かる内容とは思えない」
ハイドは蝋燭を手にしたままユウリを置いて廊下を進んでいく。
「えっ。ちょっとハイド!それって、どういう意味ですか」
ユウリは額にしわを寄せながらハイドの後を追う。
「そのままの意味だ」
ユウリは意地の悪いことを言うハイドをいつもの様に頬を膨らまして睨む。
ハイドはそんなユウリを横目で見て、なぜか少し寂しげな顔をした。
「まあ……まだ活き活きとしてます。不思議ですね……」
ユウリは寝室の色どりに飾っておいた真っ赤な薔薇に目をやる。
もう枯れていてもおかしくないくらい時間が経ったというのに、どうしたことであろうか……薔薇はまだその美しい色を瑞々しさと共に保っているではないか。
「もしかして、ハイドの能力なのでしょうか……純血種の吸血鬼さんには色々な能力があるらしいですし」
ユウリは人差し指を口元にあてて考えてみる。
しばらくするとユウリはその薔薇の生けられている花瓶の水を替えてやる。
「あれ、これは……」
その花瓶を戻すときにふいに隣に置かれている一冊の本が視界に入ってきた。
ユウリは昨夜のハイドの脇に抱えられていた本を思い出すと好奇心からか、その本に手を伸ばす。
「えーっと……?」
ユウリはその本のページをめくっていくも難しい文字が並んでおり、ユウリは眩暈を感じた。
「あっ……」
前者がきっとそのページを開いていたのであろう、あるページで自然と本が開けたままの状態になった。
ユウリは一行一行を指でゆっくりなぞりながら読んでいく。
すると、ユウリの左から右へと動いていた指がふと止まり、ある文をもう一度なぞった。
――月長石がその効果を発揮する場合、その持ち主が選ばれし者であるときだけである。
「選ばれし……者」
ユウリは目をまるくする。ここに書いてある内容によれば月長石は本来、なんの能力も発揮しないただの石である。しかし、その能力を発揮する場合がある……それは持ち主が石に選ばれたものだ、と。
「そんな……。選ばれし者ってなんなのでしょうか」
ユウリは手にしていた本を閉じると、ハイドがいるであろう居間に降りて行った。
ハイドもこのページを読んでいたに違いない。ハイドなら何か知っているのではないか……。
「……どうした?そんなに急いで」
ユウリが居間に飛び込むとハイドは優雅に紅茶のカップを揺らしていた。
「ハイド、選ばれし者ってなんなのですか?」
間髪入れずにユウリは息を切らしながらハイドに問いかけるとハイドは少し驚いたような顔をした。
「なんだ、いきなり……。お前、読んだのか?」
ユウリはこくりと頷くと先を促す。
「選ばれし者か……」
ハイドはどこか上の空でぽつりと呟いた。
「月長石、磨くと真珠的な輝きを発し、月のように輝くことからその名がつけられた。月の満ち欠けに伴い、その形が変化し、持ち主に予知能力や霊感などの力を与えると言われている。しかし……」
ハイドは言葉を濁すようにユウリの顔を伺う。
「しかし、それはただの伝説で実際はそんな能力を持っていない。ただの石……なのでしょう?」
ユウリがハイドの言葉をつなぐとハイドは苦笑する。
「ああ、そうだな」
「でも、私はあの時……ハイドの鼓動が石から伝わってきたんです」
ユウリは眉を下げて不安げに言うとハイドはユウリの頭に手を置く。
「そうだな。俺にも伝わってきた。石が選んだ者……お前はその『選ばれし者』みたいだな」
ハイドはユウリの頭を優しく撫でて落ちつかせようとするもユウリの固い表情は変わらずハイドの言葉に耳を傾けている。
「それで……『選ばれし者』って?」
「これはあくまで俺の考えだが」
ユウリは頷くとハイドは続ける。
「夜空を治める神……だと」
ハイドは溜め息をついてユウリの顔を覗き込む。
「え……」
ユウリはハッと息を呑んで目を見開いていた。
「それって、つまり」
「月の女神だ」
ハイドが言葉につまっているユウリに助け舟を出す。
ハイドはユウリが喜ぶのではと考えていた……しかし、どうしたことであろうか。ユウリはというとハイドの言葉を聞いた途端に居間の絨毯に崩れ落ちた。
「おいっ。どうした?」
ユウリの意外な反応に驚いたハイドは座りこんだユウリの目線に合わせるようにしゃがむ。
「そんな……。じゃあ……わっ、私」
涙声でハイドに訴えかける様に言うユウリにハイドはますます訳が分からなくなる。
「別に悪いことじゃないだろ?月の女神なんて何千年に一人くらいしか出てこない。困ることなんて一つもないはずだ」
急にユウリは涙を流し出しハイドをさらに驚かせる。
ハイドは泣きだしたユウリに慌てて、珍しく取り乱す。
「おいっ。おいってば。なんで泣くんだ。月の女神に選ばれて何が悲しい、神格ならば誇りに思うんじゃないのか?」
確かに、魔族のハイドからすれば目の前にいる愛おしい少女が神に選ばれた者であることは少しは厄介なことなのかもしれない。
しかし、魔族と神格ということだけで十分、厄介なことなのだ。
今さら、ユウリが神に選ばれたと分かってもそれほど騒ぐ必要もなかった。
ユウリは何も答えずただしゃくりあげる。
目の前で細い肩を震わせて泣いているユウリにどうすることもできずにハイドは呆然と揺れる肩を見ている。
「私がここに帰ってきた最初の日、ハイドは私にここにいてもいいと言ってくれましたね。それは、今でも変わりませんか?」
流れ出る涙を必死に堪えながら目元を乱暴に手で拭うと顔を上げてハイドを真っ直ぐに捉える。
「なんだ、急に」
ハイドはいきなり泣き出したと今度は急に関係のないような質問をしてくる彼女に少し面食らう。
「いいから、答えてっ」
随分と必死なのであろう、ユウリらしくない言葉遣いでハイドに捲し立てる。
ハイドは異常な様子のユウリに驚きつつも答える。
「ああ、お前はここにいてもいいんだ。いや……いてもらわないと、俺が困る」
「ハイドが困る?」
ユウリは少し落ち着いたのか首を傾げてハイドを見る。
「だからっ」
今度はハイドが落ち着きをなくして顔を赤く染める。
「え?」
ユウリは先ほど泣いていたのも忘れてハイドのいつもと違う様子を珍しそうにじっと見つめる。
「とりあえず、お前はここにいろっ。いいな?どこにも行くな」
今や真っ赤な顔を隠すようにユウリから顔を背ける。
いや……ハイドだけではなかった、ユウリもまた顔を林檎のように真っ赤に染めてハイドの様子を見ているではないか。
「あの……ハイド?」
まだ顔を背けているハイドにユウリは遠慮がちに言う。
「なんだ」
ハイドはぶっきら棒に答えて照れているのか、しかめっ面をしながらユウリに向き直る。
「ありがとうございます」
ハイドの目をしっかり見て言うユウリの表情は真剣でハイドは心の中で首を傾げる。
「なんで、そんなこと聞くんだ?それに、どうして泣いたんだ?」
「いえ、なんでも……ないんです」
ハイドは疑うようにユウリを見る。
「本当に、なんでもないんですよ。驚かせてしまって……ごめんなさい」
その言葉に完全に納得していないもののハイドは諦めたように大きな溜め息をつくと、ユウリの目尻にまだ溜まっていた涙を細い指で拭う。
「泣かれるのは……好きじゃない」
ハイドが不機嫌そうな声で……というか、照れ隠しで怒ったように言うとユウリはハイドに笑顔を向けた。
ハイドはその笑顔に捕らわれたように見とれるとユウリの顎をぐいっと掴んで上を向かせる。
「そうだ、お前にはそっちの方が似合っている」
真っ赤になるユウリをくすりと笑うと、ユウリの耳元で低く呟く。
「ハイド……んっ」
ハイドはユウリが紡ぐ言葉を最後まで聞かずに唇を塞ぐ。
ユウリはそれに応えるようにハイドの背中をぎゅうっと力強く握りしめるとハイドは驚いたように瞼を薄く開ける。
すぐそこにユウリの涙の滴がついた長い睫毛があるのを確認すると、瞼をそっと閉じた。