16,月長石
「ハイ……ド……」
ユウリは瞼を閉じたまま口を動かす。
その声に反応してハイドは目を薄ら開けると隣ですやすや眠っている長い黒髪をベッドに広げている少女に目をやる。
先ほど、名前を呼ばれたような気がしたが本人はまだ夢の中にいるのであろう……寝息が規則正しくハイドの耳に入ってくる。
「寝言か……」
ふいに愛しさが胸から込み上げて来てしまう。
いっそのこと起こしてしまおうかと……そして強く抱き締められればと。
かろうじてその衝動を抑え込むと無理やり瞼を閉じて視界を暗くする。
――そういえば、こいつ……夜会の後からなんか変だった。誰かに何か言われたのか?
ハイドは薄れゆく思考の中でそんなことを考える。
そしてジェレミーに言われた言葉を思いだす。
『うっかりしていると僕が奪ってしまいますよ」
ハイドは鼻で笑ってみる。
「うっかりなんて、できるわけ……ないだろ」
苦笑しながら呟くと健やかに眠っているユウリを隣に感じながらハイドは再び夢の中に戻って行った。
「まあ、スワン。いらっしゃい」
ユウリが居間で本を読んでいると愛らしい顔が窓を覗く。
ユウリは立ち上がり窓を開けて手を少年の方に伸ばしてやると少年は天使のような微笑みをつくりユウリの腕に抱きつき窓をよじ登る。
「ユウリさまあ……今までどこに行ってたの?僕、寂しかったよ」
床に着地するなり瞳をうるわせユウリを責めるように見るとユウリの胸は罪悪感でいっぱいになった。
「ごめんなさいね、今までいろいろとあって……でも、もうここにいるじゃないですか」
ユウリは腕を広げてみせるとスワンの顔はパアっと輝きユウリの胸に飛び込んだ。
「もうどこにも行かない?」
ユウリを叱るようにスワンは伏せていた顔を上げてユウリを見上げながら尋ねる。
「はい、行きませんよ。だから、安心してください」
「うんっ」
スワンはユウリの優しい表情を見ると再びユウリの胸に顔を埋める。
「……おい」
すると横から低い声が聞こえてくる。
スワンは顔を上げるとその人物を見る。
「あっ、分かってますよ」
そう言い、ユウリの腕の中から抜け出すと今度はハイドに抱きつく。
ハイドとはいうと、ぽかんとして自分の腰に抱きついている小さな少年を見ている。
「まあまあ、ハイドもスワンが大好きなんですね。私ばかりスワンを独り占めしていてはいけませんね」
ユウリはあきらかに温度差がある2人を眺めながらほのぼのと言う。
「はあ……?」
ハイドは眉をしかめてスワンを見るとスワンはハイドを上目遣いでみて意味ありげな微笑みを浮かべる。
「ハイド様って…やきもち妬きさんなんですね」
スワンはハイドにだけ聞こえるような声で言うと天使のような微笑みを向ける。
「……お前」
ハイドは天使のように愛らしい少年の裏側を知ってしまったとでもいうように少しうろたえてみせる。
「本当にスワンは天使のようですね。なんて可愛いのでしょう」
ユウリは抱きついたままの2人を眺めながら感嘆の溜め息をつく。
――どこが可愛いんだ、天使?どう考えてもこいつは悪魔だろうが。
とハイドは心の中で悪態をついてみる。
それを見透かすようにスワンはハイドの顔をじっと見る。
「ハイド様もそう思いますか?」
「なにがだ?」
「僕って天使さまみたいですか?」
スワンは指を顎にあてて可愛らしく首を傾げてみせる。
「小悪魔……」
ハイドはうっかりしてそう口に出すとスワンの口元が歪む。
「小悪魔?うーん、そうですね。小悪魔も可愛らしいですしね、ただスワンは純粋なので小悪魔というより天使ですよ、ねえスワン?」
「ありがとうございます、ユウリ様」
スワンはハイドから離れると嬉しそうにユウリに笑顔を向けた。
「怖いな……」
ハイドの呟きははしゃいでいるユウリとスワンの耳には聞こえないようであった。
「あっ!そうだっ。僕、ハイド様に聞きたいことがあって……」
そう言うとスワンはポケットから小さな紙切れを出す。
「聞きたいことが沢山あったから、メモしてたんです」
そう言うとソファに足を組んで座っているハイドの隣にちょこんと座る。
「なんだ?」
ハイドはスワンが大切そうに持っていた紙を手にすると目を通す。
「どうですか?」
黙って紙を見つめているハイドの顔をスワンが覗きこむ。
「……これはなんだ、あれか?面白くない冗談か?」
ハイドはそう言うとスワンに紙切れを返す。
「えっ?」
「俺は日の光に当たっても灰にはならないし、十字架もにんにくもどうってことない。それに……棺桶の中で休むわけがないだろう」
呆れたように言うハイドにスワンは目を丸くさせる。
ユウリは可笑しそうにくすくすと笑って二人を微笑ましく見ている。
「本当ですか!?だって、僕が大好きな本に出てくる吸血鬼は夜になったら起きてきて人の血を吸うんです。それでお日さまが出てくる前に棺桶に 戻らないと灰になるんですよ」
スワンはその本が本当に好きなのであろう、興奮したように喋り出す。
「馬鹿か……そんなのは人間の勝手に作った話だろ」
「じゃあ、吸血鬼が血を吸った人は吸血鬼になっちゃうっていうのは?」
スワンは落胆した様子で最後の質問をするとユウリは息をハッと呑んだ。
ハイドはそんなユウリを横目に見るとふうっと息を吐く。
「大丈夫だ。そんなことありえない……だいたい本当に人間が吸血鬼に変異していたら、この世界は吸血鬼だらけになるだろ」
ユウリはそれを聞くと安心したように胸を撫でおろす。
「俺たちが意図的に人間を吸血鬼にさせようと思わない限りはならない……」
「……え?」
ユウリは驚いてハイドの顔を見つめる。
「一部の吸血鬼にはそんな能力があるんだ」
「一部……?」
「ああ、純血種の吸血鬼にはな」
ユウリは顔を伏せる、ハイドは心配したようにユウリに手を伸ばす。
「ハイド様は純血種の吸血鬼なんですか?」
スワンは目を瞬かせてハイドを見る。
「知らなかったのか?」
スワンは頷くとユウリは顔を上げ、その瞳は悲しそうに伏せられている。
「ユウリ?」
ハイドはユウリの肩を優しく揺らす。
「私……知らないんです。純血の吸血鬼さんの能力がどんなものなのか……こんなに近くにいるのに、ハイドのこと全然知らないんです」
今にも泣き出しそうなユウリにハイドは驚く
「俺の忌々しい吸血鬼としての能力など知ってどうする」
「ハイドのことを……知りたいと思うのは悪いことですか?」
涙声になりながら必死に瞳に溜まっている涙をこらえてユウリは言う。
「馬鹿か……お前はもっと大事なことを知ってるだろう」
「……え?」
ユウリの涙をハイドが手で拭う。
ハイドはユウリを優しく包みこむ。
ユウリはしばらくの間ハイドの言葉の意味を考えてから、答えが出たのか笑顔になるとハイドの胸に体を預けてからそっと頭を上げた。
「そうですよね。私、なんか昨夜の夜会でハイドの存在がよく分からなくなってしまって……」
ハイドは優しくユウリに微笑みかける。
「大丈夫だ。俺はここにいる」
幼い子を安心させるような口調で言うとユウリは頷く。
「本当ですね」
ハイドがユウリの額に口づけを落とす。
「……ねえ、僕がいること忘れてないですか?」
隣でスワンが頬杖をついて抱き合っているユウリとハイドをじっと見ていた。
「ああ……忘れていた」
ハイドは首を回してスワンの姿を確認すると何の反応も示さないままユウリに目を戻す。
ユウリは小さな悲鳴を上げるとハイドから離れて顔を真っ赤にさせる。
「ひどいですよ、二人とも……僕のこと忘れるなんて」
頬を可愛らしく膨らませたスワンが拗ねたように言う。
ハイドはふんっと鼻で笑いユウリは本当に申し訳なさそうにしょぼんとした。
ユウリが急いで菓子を焼くとスワンはあっという間に機嫌が直りご機嫌で菓子を頬張りながら家に帰って行った。
ハイドはその間、ユウリの菓子のいい匂いも気にせず黙々と本に読みふけっていた。
「ユウリ」
スワンが帰った後の片づけをしているとハイドが本を横に置き、ソファに座ったままユウリに手まねきをする。
ユウリは言われるままハイドの傍に行くとハイドは 後ろを向くように と合図する。
「なんですか?」
不思議そうな顔をしながらもハイドに背を向けるとハイドの冷たい指がユウリの長い髪をかきわけてほっそりした首筋に触れる。
ユウリは目を見開き首を少し回してハイドの指先を確認すると瞳を閉じて力を抜く。
「……もう、いいぞ」
「え?」
血を吸われると思っていたユウリは拍子抜けして情けない声が出る。
そして、胸の上にある美しい石に気づく。
三日月の形をしていて美しい乳白色をしていて内部からは淡い青色の光が柔らかに放たれている。
まるで、この小さな石の中に星輝く夜空が詰まっているようにユウリには感じられた。
指先で触れるとひんやりしていて気持ちがいい。
「これ、は?」
ユウリは首をひねって後ろにいるハイドの顔を見る。
「月長石だ。またの名を月の石」
「綺麗……これ、私にですか?」
ハイドは照れくさそうにユウリから顔をそらす。
「そうだ」
短く答えるハイドの頬は珍しくほんのり染まっていて、ユウリはハイドの手をとる。
「ハイド、温かいですね」
「……本当だ」
ハイドも驚いたように自らの頬に片方の手をあてる。
ハイドは今まで一度でも温かいと言われたことがあっただろうか……いや、あるはずがない。
常に無表情で冷静で他人に弱みを見せないようにして生きてきたハイドにとって無縁の言葉である。
純血種の吸血鬼として生まれてきてしまったハイドは死人のようにひんやりとした体で時として周りの空気をも冷やしてしまう。
ハイドは頬に手をあてながら自分の体温はこんなにも上がるものなのだと客観的に感じてみる。
「ありがとう、ハイド。とても嬉しいです」
「そうか」
「大切にしますね」
ユウリは目尻を下げて優しい笑顔になった。
それを見たハイドは自分の体温がさらに上がったのを感じ取った。