1,黒猫
――今宵は明るい
満月が遥か上空に堂々と美しくその完璧な形輝き、真下にたたずんでいる黒猫をぼんやりと幻想的に照らしている。
その黒猫はその月を見ているのであろうか、上を見てじっと動かなくなってしまった。
「にゃー」
しばらく経つと黒猫は一声なき、ゆっくり体を動かして街外れの森に入って行った。
黒猫は迷いなく……あたかもそこには一本の道でもあるかのように一直線に進んでいく。
真っ暗な森の中、人間ならば木々が邪魔してこの猫のようにすいすい進んでいけないであろう。
しばらくして猫が立ち止まった。
猫の目の前には木々が何かを守るように隙間なく植わっていた。
黒猫の口元が一瞬、緩み笑みを作ったように見えた……。
猫は一本の木に目をつけ、しなやかに登っていく。
そして枝づたえにその先の様子をうかがった。
……そこは古城であった。
昔はだいぶ立派だったのであろう。
しかし、今は城主がいないのであろうか、ずいぶんと荒れ果てている……人間から見たら
不気味ともとれるのではなかろうか。
――ただし、人間から見ればの話だが――
おや。
ふいに荒れ果てた城の一部屋に明かりが灯された。
それを合図とでもするように黒猫は木から素早く飛び降りると城に向かって四肢を余すことなく使い走り抜けていく。
黒猫が城の扉の前にたどり着くと、扉が重そうな音をたてて開く。
猫は躊躇なく城に入る。
城の内部はと外見に似合わず丁寧に世話をしている様子がよく分かる。
その美しいホールの先に一本の長い回廊がある。
黒猫がそこを通っていくと不思議なことに両脇のローソクが、ボッ……ボッ……ボッ……
順に灯されていく。
そして、明かりのついている部屋の前までいくと、黒猫は……いや、黒猫ではない。
そこに立っているのは星色に輝く金髪の端正な顔立ちの一人の凛々しい青年になっているではないか。
その青年は無表情で木製のドアを拳で軽く叩く。
コンコン……と木の心地よい音が響く。
「ユウリ……いるのだろう?」
青年はドアに向かって優しい声で尋ねる。
「わぁ、早いんですねハイド。どうぞ早く入って下さい」
――カチャッ。
ハイドがドアノブに手をかけると、そこには真紅のドレスを着て月明かりに照らされた長く美しい黒髪が妖気に輝く愛らしい少女……ユウリが椅子を揺らしてハイドに向かって微笑んでいた。
青年はその姿を目にすると一度立ち止まって、目を見開く。
天使のような少女は雪のように白い腕を伸ばすとドアの前で突っ立ている青年を見ておかしそうに笑いながら手招きをした。
「ユウリ……久しぶりだな」
「そうですね。ハイド、背がとても伸びましたね」
ユウリはハイドの姿をじっと見る。
「当たり前だろ。俺は吸血鬼の歳で18になったんだからな……。お前こそ、もう16くらいだろ?最後に見たときは10くらいだったか。6年か……」
ハイドは目を細めて懐かしい昔を思いだす。
「はい。でも、人間の年でいうと30年間ですよ」
何事もないように彼らは意味深な言葉を発する。
どうみても30年間、生きてきた人間には見えない。
しかし、彼らは『人間』ではないので当然のことか……。
「30年、私にはなんだか年月の進みが遅く感じられました」
「あぁ……俺もそんな気がした」
ハイドは長い足をゆっくり動かし部屋についているたったひとつの窓の所まで歩いて行くと窓の傍の壁に背を預ける。
「ハイドはこのお城が好きなんですね。丁寧に手入れまでされていますし……。ずっとこの街に?」
ユウリは優しい表情をしてハイドの方に顔を向ける。
月の光が部屋の中にまで入ってきてハイドの影を作っている。
「いや、新しい城を別のとこにつくって今はそこに……まぁ、時々ここに来て過ごすが」
「そうですか」
ユウリは昔と変わっていないハイドに安心したようにゆっくり頷く。
「それで、お前はなんで急に消えたんだ?」
突然、ハイドはユウリに鋭い目を向けた。
「お兄様ですよ。でも、なかなか帰してくださらなくって…つい抜け出してきちゃいました」
そう言うとユウリは舌を小さく出してみせる。
そんな彼女を見てハイドは溜息を吐くと呆れたような表情をした。
「はぁ……また脱走してきたのか、お前は……」
脱走などお兄様……ファーレンからできるはずがない、ユウリが抜け出せたのはファーレンがユウリのことを想ってのことだとハイドには分かっていた。
「だって……」
ユウリは言い訳を考える子供のようにもじもじしながらハイドの顔色をうかがう
「だって……じゃないだろっ」
「お兄様のことは好きですけど、お兄様ったら極度の心配症で外にも出して下さらないんですよ。息苦しくなってしまいます。」
ユウリは揺らしていた椅子から立ち上がり窓の近くにもたれ掛っているハイドの隣に行く。
窓から見える景色は城を囲んでいる木々、それにはるか上空に輝く満月……。
――ああ、なんて美しい満月。
「お前、いきなり逃げ出した方がファーレンは心配するだろう」
「じゃぁ、『お兄様、私今から脱走しますからご心配なさらず』とでも言って出てきた方がよかったのですか?」
皮肉交じりにそう言うとユウリは窓から目を外し頬を膨らませながらハイドを上目遣いで睨みつける。
「……まぁ、それもそうだな。あいつを簡単に説得できはずないからな」
苦笑しながらハイドはユウリの意地らしい顔を見つめる。
「まぁ、いいだろう。お前がいたいだけここにいろ。俺がなんとかしてやる。今度はそう簡単にはお前をファーレンに渡さないから」
ハイドは窓越しに満月を見ながら、らしくない優しい口調で言う。
その瞬間ユウリの漆黒の瞳は大きく見開かれ、すぐに元に戻った。
そして愛らしい桃色の唇がゆっくり動き……。
「ありがとう、ハイド」
と小さく優しい声がハイドの耳に滑り込んできた。