惨劇の開始
「はぁ……それにしても、暇なもんだよねぇ……」
「……」
まったく、どうして僕がこんな目に……。
だ、だいたい、僕がせっかく話しかけてやってるのに、このロシア人はなんで無視するんだ? 失礼じゃないかっ! クソッ!
そんな嫌な気持ちを抱えながら、僕は目の前の地面を蹴り上げる。
雨ですっかりぬかるんだ大地は、僕のコンバットブーツに穿たれて勢いよく土を巻き上げる。
土は道路の方に散らばった……何してるんだろう、僕……。
それにしても、この状況はマズいよね……。
そう思って、僕は思い切って、隣のロシア人にもう一回話しかけてみた。
今度はもっとハッキリ、正確にだ。
「ねぇ、ドミトリー」
僕が彼の名前を呼ぶと、ドミトリーは目をギョロッとこちらの方向に向けてきた。
ちょっと怖いけど……一応、話は聞くつもりのようだ。
「このままここで見張りをしても、意味はないんじゃないかな?」
「……隊長は、ここで見張りをしろと言っていた……」
「あ、いや、それはそうだけどさ……」
まさかドミトリーから返事が返ってくるとは思わず、ついつい萎縮してしまう……でも、僕だってここで退くわけにはいかない。
「で、でもっ! 見張りをするということに意味がないというのには、同意するだろうっ!?」
「……クククッ」
「な、なんだよっ!?」
「……ドイツ人というのは、本当に理屈で生きてるんだな……」
「わ、悪いのかい?」
僕がそう問いかけると、ドミトリーがゆっくりとこちらの方に顔を向けた。うわっ……顔に火傷の跡がある……う、うぅ……。
「……いや、お前の人生だ……お前が決めればいい。俺は隊長に言われた通りにこの門を死守し、標的が現れたらなるべく生きた状態で確保する」
「ふ、ふん、そうかい……なら、僕はボス達と一緒に行かせてもらうよ」
「……好きにしろ。お前一人いなくなったところで、戦力が低下するわけじゃない」
「くっ! 失礼するっ!」
まったくっ! なんて失礼な奴なんだっ!
で、でも、これでボス達と行動を共にすることが出来る……一応は目的達成だ。
そして、僕は階段を降りていった。自分の心の中で、小さな覚悟を決めながら……。
「ったく、どうしてこの僕がこんな泥臭い仕事を……」
考えてみれば、僕の人生は肝心なところでつまづくことが多かった。
学校の入学試験、就職試験……どれもこれも、僕はいつも落とされた。
成績では僕がトップなのにっ! そんなに人柄が大事かっ!? 国家のために、有能な人材を育てるのが普通なんじゃないのかよっ!……ふぅ~、ま、いくら怒ったところで、もう取り返しがつかない。
幸い、今働いている職場は給料がいい……それに、僕が希望する職場にも就かせてくれた。
そこには感謝している。だが、その後が問題だ。
なんでっ! あんな馬鹿共のやらかした不始末を僕が背負わなきゃいけないんだっ!? あんな初歩的な実験でミスを犯すなんてありえないだろっ!? どんだけバカなんだよっ!
組織も組織だっ! なんであいつらの不始末を僕が背負わなきゃいけないっ!? 責任者なんてのはなんにも知らない管理職が勤めればいいんだっ! 僕は科学者だぞっ!? 研究と実験が本分だろうがっ!?
クソッ! 怒ってもしょうがないと思っても、やっぱり腹が立つっ! ま、まぁ……幸いというべきか、この部署のボスは比較的常識人のようだから構わないか。
初めて僕がこの部署に来た時、あの野蛮人達の蛮行から僕を助けてくれたのはボスだし……実際、今回の作戦でやることにしたって、上層部からの圧力であって僕のせいでもボスのせいでもないんだ。
ボスだって、『君が出来ることをやればいい』と言ってくれたし、僕が開発したこの複合コンピューターを実戦投入したいと言ったら、すんなり了承してくれた。
本来なら、ボスのような人こそが組織のトップに立つべきだ。
現場の人間の話をよく聞き、予算獲得交渉に強く、現場の人間の説明を熱心に聞いてその情熱に理解を示してくれる……ボスはまさに、理想的な上司だ。
ま、少なくともボスがリーダーの間は、この部署でやっていくのも悪くないな。
この任務が終わったら、ボスに新しく作った携帯型スーパーコンピューターの試作品でも見てもらおうか? あの人も最初はとんでもない機械音痴だったが、僕の教育によって今ではこの部署の二番手にまで成長した……あー、人間の出来具合なんかの総合力なら文句なくボスが一番だがね。
おっと……そんなことを考えてたら随分と来たな。ここは……広場か? この時計……針が止まってるのか……ま、気にしてもしょうがない。
確か、ボスはミラーハウスの方を捜索してるんだったな。
僕はこうして、遊園地に入るための出入り口を通って左側に進んだ。
実戦経験は初めてなので、小銃の安全装置を何度も確認する――ドミトリーによると、銃の引き金を引く指は撃つ時以外は外しとくんだったな。
しばらく歩くと、ミラーハウスが見えた。でも、周囲にボス一行の姿は見えない……もう少し先にいるのか?
僕がそう思って小走りに先に進もうとした時、思わぬ不意打ちをくらった。
「うわっ!? な、なんだ……?」
それは、光だった。
僕の視界に、眼鏡越しに入ってきた人工的な明かり……。
その光源の方を見てみると、ミラーハウスに明かりが点いていたのだ。
僕がしばらくそこで呆然としていると、無線が入った。
「うわっ!」
ビックリして思わずあたふたするが、僕は何とか無線から聞こえてくる音に耳を澄ませる。
「おい、誰かいるか?」
マイクの声だ。
「なんだい、マイク?」
「どうかされましたか?」
これは……アビゲイルとミス加藤の声だな。
「今、俺達はアクアツアーとかいうアトラクションの少し手前の辺りにいるんだが、ミラーハウスから明かりが見えるんだ。誰か、行って様子を見てきてくれないか?」
おっ! これはひょっとして、ボスに僕の実力をアピールするチャンスなんじゃないかっ!?
そうあっては黙ってられないっ! 僕は迷わず無線のスイッチを入れた。
「ぼ、僕が行くよっ!」
「おっ、行ってくれるか、ヨーゼフ?」
「はっ! ビビってクソ漏らすんじゃないかっ!?」
ア、アビゲイルはなんて下品な女なんだっ!? わざわざ、そんな非生産的な会話を無線でやり取りするかっ!?
「だ、大丈夫さっ! やってみせるよっ!」
「そうか、なら頼む」
「頑張れよ~、クソ漏らさねぇ程度にな、ギャハハハッ!」
ぐっ……くっ……! ま、まぁ、いいさ……僕は僕のペースで仕事をこなすだけさ。
そう、あくまで冷静に合理的に……効率的に仕事をしよう。
そして、僕は目の前のミラーハウスを見上げる……見たところ、ミラーハウスは三階建ての屋敷といったところだ。
大きめの一軒家といった感じで、外観はまだ新しい。
ふぅ……よしっ! 僕がミラーハウスに入ろうとした時、再び無線が入った。
「ヨーゼフさん」
その声は、ミス加藤の声だった。
彼女はアビゲイルと正反対の性格をしているが、少し無感情すぎる。
「そちらの携帯端末に、この施設の詳細な情報が入っていますので、ご活用下さい」
「うん……分かった」
「幸運を」
「あ、ありがとう……」
「……ヨーゼフ君」
こ、この声は、ボス?
「気を付けて……相手は組織の命令に背いて一週間、ここに立て籠もっている。何をしてくるか分からないし、何を企んでいるかも分からない。だから――」
「十二分に気を付けろってことですね?」
「……うん、頑張って」
「はいっ!」
……よしっ! ボスにアピールすることは出来たっ! 後は奥村を捕縛するだけか……まぁ、問題ないだろう。格闘技なら、他の野蛮人共に嫌というほど仕込まれたし……。
そして、僕はミラーハウスの扉をゆっくりと開けて中に入る……明かりが点いているおかげで、中は思った以上に明るい。
僕は入り口で前方を警戒しながら、軽く体に纏わりついた雨粒を払うと、小銃を下段に構えて先に進む。
どうやら一階は単純な一本道になっているらしく、特に迷うこともないだろう。
ただ少し不気味だったのは、廊下の両側が全面鏡張りになっていることだ。
まったく……何とも気味が悪い。こんなアトラクションに入ろうとする奴の気が知れないね。
しかも、時折無線からノイズが入ってくる……不調なのか?
とにかく、ここは早く進もう。
そう思って歩行速度を速めたのだが、ふと、僕は自分の左側が気になってそちらの方向を振り向い――
「うわぁぁあああっ!?」
火を噴く小銃……砕け散るガラス片……二階へと駆け上がる足音……その瞬間、僕の世界はそれらの光景や音が支配していた。
気がつくと、僕はミラーハウスの二階にいた。
だが……先程まで見た光景は、今でも僕の心臓に負担をかけ続けている。
アレは確かに……人だった……僕以外の誰か……いるはずのない空間、存在できるはずのない空間で、僕はアレを見て、アレは僕に向かってきた。凄絶な笑みを浮かべながら……。
「……ふっ、馬鹿な……」
そうだ、馬鹿げている。
第一、ここは遊園地のミラーハウスだ。
ひょっとしたら、ホラーハウスを兼任しているのかもしれない。
あのように人を怖がらせる仕掛けなんて、そこら中にあるに違いないだろう。
そう考えると、思わず小銃を発砲してしまった失態は僕にとって何とも腹の立つ出来事だった
先程の物音や銃声で目標が逃亡してしまえば、僕の責任だ。
今回は、何の言い訳も出来ない。落ち着け……大丈夫、僕はいたって冷静だ。
幸い、門の方にはドミトリーがいる。あの巨漢ならば、目標をたやすく無力化できるだろう。
よし、大丈夫……行こう。
そして、僕はミラーハウス二階の探索を始めた。
どうやら、ここは一階と違って広い空間のようだ。
両端を天井と床の両方に据え付けられて、クルクルと回転する長方形の鏡が多数設置されている。
ま、アトラクションとしては悪くないが、いささか面倒だな……そういえば、先程の失態はボスに報告した方がいいだろうな。
そう思って、僕は無線機を起動する。
「ボス……ボス?……ボスッ! ヨーゼフですっ!……おかしいな……」
ヘッドセットからはノイズが聞こえるだけで、まったく応答がない。仕方ないので、このまま先に進むことにする。
それにしても、ここは迷路のようだな……。
そう思っていったん立ち止まり、僕は携帯端末を取り出してこの建物の地図を見ようとする。
フォルダを開くと、このミラーハウスの概要も書かれていた……せっかくだし、少し読んでみようか。
このミラーハウスは、この遊園地が建設された頃から今でも現存している、もっとも古いアトラクションらしい。
ただ、このミラーハウスに、ある時から不穏な噂が流れた。
なんでも、ミラーハウスのゴール地点――三階の大部屋までたどり着いた後にミラーハウスから出てきた者は、まるで別人のように人が変わってしまったらしい。
ある者は、ミラーハウスから出てきた知人を他人だと認識さえしていたとか……ふ、ふ~ん……ま、どうせどっかのアホがゲシュタルト崩壊でも起こしたんだろう。
遊園地には善良な市民だけが来るわけではない……アホもいればバカもいる。そんな人間が鏡に向かって『お前は誰だ?』なんて事を言っている姿を思い浮かべると、少し笑えるな。
さて、休憩はこれくらいにして、地図を頼りに最上階を目指そう。
これまでに物音がしないことから考えて、おそらく目標はこの建物にはいない。
だとしたら早めに探索を終了し、ボス達と合流した方が良いだろう。
僕はそう思って、再び画面に映し出された地図を見た。
今、僕は正面の窓の方を向いているのだが、この方向に真っ直ぐ進んで左に進むと、三階へと続く階段があるらしい。
僕は端末をしまって、小銃を構えて動き出す。
僕の身体が触れる度に音もなく回転する長方形の鏡が、僕の視覚やその他の感覚を麻痺させる。
時間も時間だから仕方ないが、早くこの建物から出たいという思いはいつまでも変わらない――べ、別に怖がっているわけじゃないぞっ!
ただ、真っ直ぐ歩いているつもりでも、鏡に映る自分の姿につい意識を向けてしまい、いささか神経が疲れる。まったく……誰がこんなくだらない仕掛けを――
「っ!!」
き、気のせいか……? 今、右の鏡に映った僕の後ろに、女の子の姿が映ったような……き、気分が悪いっ! 早くっ! 早く抜け出さないとっ!
僕は、全速力で鏡の間を駆け抜けていった。
鏡を避けている暇などなく、割と重量のある鏡にぶつかりながらも、僕は駆け抜ける。
鈍い音を部屋中に響かせながら、僕はやっとの思いで鏡の中から抜け出した……どうやら、ルートは間違わなかったようだ。
僕は月明かりが入ってくる窓側を背にして振り返るが、右側に上へと続く階段がある。
おそらく、あれが三階へと続く階段だろう……僕はもう一度、小銃を構えて鏡の広間を観察した。
かなり早く走り抜けたせいで、まだ大半の鏡は早めに回転しているが、女の子の姿はどこにも見えない……やはり、疲れているのか?
ま、頭の良い人間はより多くのエネルギーを必要とする。疲れてしまうのも仕方ないことだ。
ということで、僕はプレートキャリアに取り付けておいたハイドレーションのチューブを手に取り、キャップを取ってチューブの先端を口に入れて吸い上げる。
少し時間が経ってから、口内に水が流れ込む。あぁ……生き返る……こんな苦労をするんだったら、携帯糧食も持って来れば良かったな。あれはひどい味だが、腹の足しにはなるから。
そして、僕はハイドレーションのチューブを元に戻し、三階へと続く階段を上っていった。
三階にたどり着くと、そこには鏡一つない……いや、訂正しよう。そこには、右の壁側に異国の祭壇のような場所が設けられており、そこには大きな鏡が据え付けられている。
僕は小銃を構えながら、慎重に周りを捜索する。
カーテンの裏……非常口……どこも異常はない。やはり、ここには目標はいないようだ。
そう思って非常口から出ようとした時、僕は妙に中央の祭壇が気になった。
一度気にすると凝り性になってしまうのが僕の弱点だが、生来の性格なのだから仕方ないだろう。
まだ時間もある……ちょっと調べるくらいなら、問題ないだろう。
そう思って、僕は祭壇に近づいた。
祭壇は両側に色鮮やかな刺繍が施された紺色のカーテンが装着され、中央には僕の姿が全部収まり切るほどの大きな鏡があった。
この鏡のサイズならば、おそらくこの部署で一番の巨漢であるドミトリーもすっぽりと収まるだろう。
僕はその鏡に近づいて、何を思ったのか指でトンと叩いてみた。
何か……変だ……まるで僕の身体が、他人のモノであるかのような感覚がある。
自分の意志で行動している感覚がない……まさか……いや、ありえない……他人の意識が乗り移るなんて……現に、僕の身体はこうして――
「っ!! うわぁぁあああっ!! だ、誰だっ!! 誰なんだ、お前はっ!? どこにいるっ!?」
思わず、僕は小銃をそこら中に向けて発砲してしまった。
だが……そりゃそうだろう……ぼ、僕の……僕の顔の横に、見知らぬ三人の女の子の顔があったんだから……。
僕は……落ち着いて、もう一度鏡を見る……当然、鏡には僕の姿以外、なんにも映っていない……だが、不安だ。
僕は小銃を鏡に向けて発砲した。
鏡は弾痕が増えるごとにひびが入り、やがて粉々に砕けて床に散らばった。
僕は小銃の弾倉を交換し、周囲を見渡す……大丈夫、僕は冷静だ。
たぶん、今朝見たスプラッター映画のせいだろう。この有様だと、しばらく映画は控えた方がいいな。 ま、その分研究に没頭できるから、構わないけどね。
そして、僕は非常口の重たい鉄製の扉を開けた。
扉はギィッと金属特有の甲高い音を上げて開いていく……廃園から一週間しか経っていないためか、まだ錆びてはいないようだ。
僕は非常口の階段を降りて、再び地上に戻ってきた。
どうやらここは建物の横の敷地らしく、天然の植物達が人工的に管理されていた。
だが、やはり人の手が加えられてこなかったせいで、すこし荒れている。
僕は伸びきった枝や雑草などを掻き分けて、再びミラーハウスの正面に立った。
「……あれ?」
不思議だった……あれだけ煌々とした明かりを放っていたミラーハウスは、今はすっかり暗くなっている。
いったい、いつ消えたんだろう? まぁ、たぶん、僕が非常口の階段を降りている間に消えたのだろうが、電力不足だろうか? とにかく、ボスに報告だ。
「ボス……ボス……?」
どうやら、無線は未だに復旧していないらしい。まったく……こんなことなら、僕が作成した無線機を支給すれば良かったっ! こんなだから、バカやアホを研究職にするのには反対なんだっ!……まぁ、何度も自分に言い聞かせているが、怒ってもしょうがない。
恐らく、ボス達は今頃アクアツアーかジェットコースターの辺りだろう。だとすれば、僕はそちらの方向に歩を進める……だが、この感覚はいったいなんだ?……まるで、自分の身体が誰かに操られているような……。
※
……まったく、あのドイツ人は正気か? よもや指揮官の命令に逆らって単独行動をとるとは……。
隊長も、奴に対して甘すぎる……規律を乱した上、自分独自の判断で動くような軍人など、何の役にも立たん。
俺は、それをよく知っている……今までにも、何人も見てきた。
自分に下された命令が気に入らないから……英雄になりたいから……理由は様々だったが、そういった思いを抱いて命令に背き、独自の判断をした奴の末路は皆同じだった。
あのメガネも、じきに思い知ることになるだろう。
「おい、誰かいるか?」
俺がそんなことを考えながら門の前で警戒していると、無線に通信が入った。マイクの声だ。
「なんだい、マイク?」
「どうかされましたか?」
それから少し間をおいて、アビゲイルと加藤の声が聞こえてくる。
「今、俺達はアクアツアーの少し手前の辺りにいるんだが、ミラーハウスから明かりが見えるんだ。誰か、行って様子を見てきてくれないか?」
俺はマイクの言葉を聞いてその場を離れ、パーク全体が見渡せる位置についてミラーハウスの方を見た……確かに、ミラーハウスに明かりが点いている。
他の施設の明かりが消えているため、不思議とその地点だけが妙に賑やかな雰囲気を醸し出していた。だが、なぜあの場所だけに明かりが点いているんだ? そもそも、この施設は人が消えてから一週間……いくら奥村が籠城しているからと言って、奴一人で施設内の電力供給を賄うことは出来るのか?
「ぼ、僕が行くよっ!」
……俺の記憶が正しければ、この声はあのドイツ人の声だ。正直言って、今すぐにでも反対の意思を伝える通信をした方が良いだろう。
だが、俺は隊長からここを死守することだけを命じられた。隊長が俺に意見を求めてきた場合なら具申するが、それ以外に私情で通信を行うのは危険だ。
この無線は古い……誰が傍受しているかも分からん。ましてや、俺達は今、敵地にいる。
目標人物が研究職である以上、戦闘能力はさほどないだろう。だが、我々の無線を傍受し、何か罠を張り巡らせている可能性はある。
やはり、隊長に聞かれるまでは黙っていた方が良いだろう。
「おっ、行ってくれるか、ヨーゼフ?」
「はっ! ビビってクソ漏らすんじゃないかっ!?」
……もし、俺がまだスぺツナズにいたら、アビゲイルはとっくの昔に抹殺していただろう。
「だ、大丈夫さっ! やってみせるよっ!」
また……どうして奴はムキになっているんだ? どう考えたって、奴の場合は目標を捕縛ではなく殺害しそうなのだが……。
「そうか、なら頼む」
「頑張れよ~、クソ漏らさねぇ程度にな、ギャハハハッ!!」
……アビゲイル……。
「ヨーゼフさん」
俺がアビゲイルに殺意を抱いていると、加藤の声が聞こえてきた。
「そちらの携帯端末に、この施設の詳細な情報が入っていますので、ご活用下さい」
「うん……分かった」
「幸運を」
「あ、ありがとう……」
「……ヨーゼフ君」
……ふん、なんともほのぼのとしたやり取りだな。眠たくなってくるぜ。
「……ヨーゼフ君」
っ! 隊長っ!?
「気を付けて……相手は組織の命令を背いて一週間、ここに立て籠もっている。何をしてくるか分からないし、何を企んでいるかも分からない。だから――」
「十二分に気を付けろってことですね?」
「……うん、頑張って」
「はいっ!」
……ふぅ……隊長も、ヨーゼフの単独行動に賛成か……。
隊長の言うように、組織の命令に刃向かってでもこの施設に留まるような奴が、とてもまともな状態とは思えない。おそらく、奴は最初の犠牲者となるだろう。ま、目標人物があのミラーハウスにいればの話だがな。
そして、しばらく俺は土砂降りの雨のなか、門の前で見張りをしているが、一向にこの場所に不審な影は現れない……やはり、本作戦における俺の役割は万が一のバックアップと考えておくべきだろう。
出来れば、隊長の傍で火力支援に徹していたかったが、今回の作戦は多分に隠密性や秘匿性を重視しているように思う。
それもこれも、第一には組織の存在を一切残さない事に繋がるわけだが、戦術面からすれば目標にこちらの存在を悟らせないためとも見ることが出来る。
だが、俺のそんな思いはすぐに裏切られることになった。遊園地施設の方から、銃声が聞こえてきたのだ。
俺は再び展望台代わりの場所へ向かって状況を探ったが、特に異常はない。
「こちらドミトリー。今の銃声はなんだ?」
……無線で確認を求めるが、誰も答えようとしない。それどころか、ヘッドセットからはノイズしか聞こえない……雨で壊れたのだろうか?
いずれにしても、無線が通じない以上は再び見張りを続行するべきだろう。
だが、俺が門の方に戻ろうとした時、メリーゴーランドの方から眩い明かりが点いた。
いったいどうなってるんだ? まさか……何かの罠なのか? だとしたら、ヨーゼフが危険だが……。
「おい、誰か応答してくれ」
これは……スコットの声か? とりあえず、無線が通じたので応答する。
「こちらドミトリー」
「おう、ロシア人。メリーゴーランドの方に明かりが点いてる。ちょっと見てこいや」
「……隊長の命令を優先する」
当然の判断だ。俺は隊員、奴も隊員……であれば、隊長の命令に従うことを優先すべきだ。
「ドミトリーさん」
この声は……加藤?
「なんだ?」
「申し訳ないのですが、少し様子を見てきてくれませんか? 実は、主任達と連絡がとれないのです」
……困ったな……命令を破るわけにはいかないが、俺も確かにあのメリーゴーランドが気になる……致し方ない。
「……了解した。その代わり、隊長達との通信が復旧したら、すぐに俺の事を報告してくれ」
「了解しました。御武運を」
「ああ」
俺は通信を終了させ、携帯端末を取り出す……機械の操作は苦手だが、実際問題、この軍用携帯端末は非常に便利だ。おかげで、すぐに使いこなしてしまった。
俺は端末を操作してメリーゴーランドの情報フォルダを開くと、画面をそのままにして端末をしまい、階段を走って下る。
観葉植物やカラフルな建造物群を抜けて広場を通り過ぎると、目の前に巨大なドリームキャッスルが目に見える。
丘の上からだと少し小さく見えたが、こうしてみるとその巨大さに圧倒される……まるで本当の城のようだ。
だが、気にしている暇はない。
俺は遊園地の右側を走っていき、メリーゴーランドが見えると近くの観葉植物エリアに身を潜めた。
メリーゴーランドがあるエリアは、かなり開けている。もし、目標人物が狙撃手を雇っていた場合、格好の標的だ。
すでに辺りは暗闇に包まれ、この雨だ……よほど腕が良くなければ当たらんだろうが、用心は最大限しておくべきだ。
俺は意識を集中させて周囲の状況に気を配りながら、前進する。
自分の足元にも、当然注意を払う。敵が俺の考えを先読みして、ここにトラップを仕掛けている可能性があるからだ。
メリーゴーランドからは少し距離があるが、さほど問題はないだろう。
落ち着いて、一歩ずつ確実に空間を制圧していく……もしあのメリーゴーランドが陽動の代わりならば、おそらくあそこにトラップは仕掛けられてはいないだろう。
もし何か仕掛けるとしたら、この観葉植物のエリアだ。
しばらくの間、大きな木の間をゆっくり確実に移動していく……ここまで来て周囲の建物から狙撃がないとなると、狙撃手がよほどのヘボか、このエリアにトラップがあるかのどちらかだ……だが、俺の考えが間違っていたのか、たいしたトラップに出遭うこともなく、俺は観葉植物エリアを抜けた。
前方数十メートルほどの位置には、煌々(こうこう)と明かりを放つメリーゴーランドがある。
となると……やはりあそこにトラップがあるのだろうか? いや、まさか……コレ自体が陽動なのかっ!? 俺を門より離れさせ、その隙に施設を脱出する……ありえない話ではない。とにかく、メリーゴーランドを調べる前に誰でもいいから報告するべきだろう。
「こちらドミトリー。聞こえるか?」
だが、ヘッドセットのイヤフォンから返ってくるのはノイズだけだった。
先程まで何の問題もなく通信が出来たにも関わらず……まさか、奥村は電波妨害手段を持ち合わせているのだろうか? だとすれば、やはりこのメリーゴーランドの明かりが点いたのも、奴の仕業かもしれない。
クソッ! なんてことだっ! まさか……この俺が、素人の戦術に引っかかるなどっ!
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。危険もある。これからの行動に意味があるとは思えない。それでも、やらなければならない。なぜなら俺は、プロの軍人だからだ。
俺は暗視装置を頭部に装着して、なるべく体の面積を小さくするように地面に伏せて周囲を警戒する……どうやら異常はない。
俺は暗視装置を外して体勢を整えると、全速力で疾走してメリーゴーランドの土台に身を隠した。
やはり、この雨と風ならば狙撃手にとって狙撃は困難か……もっとも、狙撃手がいるかどうかは今も不明だし、奥村が我々を出し抜いたという可能性については否定も肯定も出来ない。
俺は土台から顔を少しだけ覗かせ、メリーゴーランドを見た。
機械仕掛けの土台の上で白馬を模した乗り物が延々と回るだけで、特に異常は見当たらない。
俺は端末を取り出し、改めてメリーゴーランドの情報を閲覧した。
このメリーゴーランドはアトラクションの中では最初期に作られ、閉園するまで現役で活躍していたそうだ。
だが、閉園の元となった噂が流れ始めた頃、他のアトラクションと同じようにこのメリーゴーランドにも不吉な噂が流れた。
最初の噂は、閉園間際に他のアトラクションが操業を停止するなか、このメリーゴーランドだけが延々と回り続けていたというものだ。
閉園間際にもこのメリーゴーランドにまつわる噂は流れたそうだが、それがどういった内容なのかは不明……噂は流れるのに、その内容が分からないというのはどういうことだ?
まぁ……気にしてもしょうがないか。
俺は端末をしまい、再び土台から顔を出して周囲を偵察する。やはり、異変は見られない。目標人物の姿も確認できない。
俺は立ち上がり、再び門の方へ戻ろうとした。
もうすでに手遅れかもしれないが、隊長から再命令があるまでは、門を死守するのが俺の任務だ。
そして、俺は来た道を戻っていった。
「っ!」
な、なんだ……?
足が動かない……なぜだ……なぜ俺の身体は、メリーゴーランドの方を向いている?
「綺麗だ……」
違うっ! 俺は隊長から下された命令通り、あの門の前で見張りをしなければならないっ! こんな時に、メリーゴーランドなんかに乗っていられるかっ! なら……なぜ、俺の身体は言うことを聞かない……?
『遊ぼう……』
馬鹿な……こんなことはありえんっ! まさか……催眠術の類かっ! なら……これでどうだっ!
「……」
ぐぅぅっ!! あ、ありえん……太ももにナイフを突き立ててもなお歩くなんて……こ、こんな……こんなことが……。
「よいしょっと……」
なぜだ……なぜ俺の身体は木馬に乗ろうとする……?……あぁ……だが、悪くない気分だ……もう少しいてもいいな……ん?……あれは……子供――