第三話 恋のキッチン
今回はサブタイトルの通り、恋をテーマにした話です。
「ひなちゃんってさあ……恋、したことある?」
「えっ」
よく晴れた日曜日。上条は店に来るなりそんなことを聞いた。
予想外の質問にひなの顔が赤くなる。
「どうなのどうなの?」
莉々と友架ちゃんがわくわくした様子で身を乗り出す。特に友架ちゃんは興味津々といった様子だ。岐多川はそんな二人をどこか楽しそうに見つめている。どうして女子はそんなに恋バナが好きなんだろう。
「わ、わたしは……ない、よ」
ひなが心底恥ずかしそうに答えると、莉々と友架ちゃんが『おお〜っ』と声を上げる。
「そっかあ。初恋まだなんだあ。誰か気になる人はいないの?」
「えっ」
にやりとした顔で上条は続ける。だからどうしてそんなに楽しそうなんだ。
「気になる人……」
ふいにひなと目が合った。
長い時間に感じられたけどそれはほんの一瞬だった。おれと目が合うとひなはさっと目をそらす。
どうしてだろう。ひなの顔が、さっきよりも赤い気がする。それからひなは慌てるように口を動かした。
「い、いないよっ」
「何だ残念ー。じゃあ、日ノ下くんとかどう?」
「えっ!?」
ひなの声が綺麗にひっくり返る。
「だってさあ、二人ともいい感じだよ? こうやって店に立ってるとこ見たらさあ……ねえ」
そこで上条は岐多川と顔を合わせうんうんと頷きあう。
「何か夫婦っぽいっていうか」
「「夫婦!?」」
おれとひなは同時に声を上げた。
「二人の店って感じで……何か、いい」
「えっ!?」
もうどうしていいかわからない。
さっきから心臓は落ち着かないし。
「このまま結婚しちゃいなよ」
「えええっ!?」
ひなは赤くなったまま俯いてるし。
「それなら結婚したらひなちゃんが莉々のお姉ちゃんになるんだよね? やったあ!」
「えっ!?」
戸惑うひなに莉々が抱きつく。ひなはもうパニック状態だ。
「ひなちゃんは……莉々が妹になるの、いや?」
そんなひなを見て莉々が涙目になる。
するとひなは莉々に向かってにっこりと微笑んだ。
「ううん。わたしも妹がずっとほしかったの。だから嬉しい」
「ほんと!?」
その言葉にドキリとした。
「うん!」
莉々が万歳と手を上げた。
「いいなー、莉々ちゃん」
そんな莉々を友架ちゃんが羨ましそうに見つめていた。
「ちょっと友架、それどういう意味!? あたしというお姉ちゃんがいるでしょ!」
「だってお姉ちゃん家でもうるさいし」
「だよねー」
岐多川も賛同する。
「ちょっと二人ともひどくない!?」
「本当のことだろ」
「何で日ノ下くんが言うわけ!? あたしん家来たことないよね!?」
「まあいいじゃん」
「よくないって!」
何はともあれ、話題をそらすことに成功したらしい。ひなもほっと一息ついていた。でもさっきの言葉は、どういう意味だったんだろう。莉々を喜ばせようとして言っただけなのか、それとも——
「それはそうと……亜季はどうなのよ」
「え?」
岐多川がきょとんとする。
「中野くんと何か進展あった?」
どうやら北条はそれが聞きたかったらしい。
「ないけど」
「えー、なんで!? もう入学して二ヶ月経つじゃん!」
「そんなすぐどうにかなるものでもないし」
すると上条はぶー、と頬を膨らませる。
「てっきりもう付き合ってるのかと思ってた」
「なんでそうなるわけ」
「だって再会したわけだし」
「……ていうか高校入ってから一言も話してないんだけど」
その言葉に上条の動きが停止する。
「……嘘でしょ!?」
「本当」
「どんだけ奥手なわけ!?」
「……ほっといてよ」
岐多川の前にドン! と手をつく上条。
「亜季、中野くんと話そうよ!」
「……無理だって」
「なんでそんな後ろ向きなわけ!?」
「紗里架とは違うし」
「前向きになろうよ!」
「後ろ向きでいいじゃん」
「だめだよ! 前向きになって、それで——」
上条が息を吸い込む。
「中野くんに告白しよう!」
その瞬間、周りの音が聞こえなくなった。
「……なんでそうなるわけ」
岐多川は心底呆れた口調だった。
「だって、小学生の頃二人は両想いだったんだよ。だから二人はカップルになるべきだって」
「そんなこと言ったって……」
岐多川が何かを言おうとした時、
「いいじゃん亜季ちゃん!」
「そうだよ!」
友架ちゃんと莉々がきゃあっと声を上げる。
「え」
「どうしたんだ二人とも」
今日はやたらとテンションが高い。特に莉々。
「好きなら告白した方がいいって!」
「そうだよ。しようよ、告白」
二人は目をキラキラさせている。もしかしたら最近読み始めた少女漫画雑誌の影響かもしれない。この間二人で仲良く夢中になって読んでいた。
「そうは言っても、簡単にできるものじゃないんだよ?」
岐多川がいつもよりも柔らかい口調で言い聞かせる。しかし、
「できるよ!」
「うん、亜季ちゃんならできる!」
「そうだよ!」
これぞ好機とばかりに上条が便乗する。あの三人の周りだけ光がぱあっと差したような明るさだった。
「ちょっと紗里架。友架ちゃんたちを巻き込まないでよ」
「別に巻き込んでないよ? 二人は亜季に告白してほしいと思ってるんだよねー」
「「ねー」」
友架ちゃんと莉々が声を合わせる。
「だから店に二人を連れてきたのか……」
「えっ、何のことかな〜」
おれの指摘に上条がわざとらしく口笛を吹き始める。思った通りだ。
「まったく、こういう時だけ頭が回るんだから」
「だってこうでもしないと亜季は告白しないじゃない」
「だからって、いきなり告白は無理だよ」
「なんで?」
不思議そうな顔をする上条。
「なんでって……」
岐多川が頭を押さえる。
「好きならできるでしょ?」
「はぁ……紗里架はやっぱバカだ」
そこで大きくため息をつく。
「えー、無理なの?」
「無理だって」
「じゃあ、話しかけるところから?」
「それも無理」
「だったら今と変わんないじゃん!」
両手をぶんぶん振り回す上条。
「やめろよ上条、危ないだろ」
「……ごめん」
上条があからさまにしょんぼりする。
「亜季ちゃんも、このままでいいって思ってるわけじゃないんだよね」
「ひなちゃん……」
岐多川が顔を上げる。
「久しぶりに会って、話しかけたいけれど話しかけられなくて……。だけどやっぱり、話したくて。でも、そんな勇気は出なくて。どうしよう、って思い悩んで。そんな自分が嫌になって」
「…………」
岐多川が神妙な顔つきになる。
「そんな気持ちがずっと続くの。毎日、毎日。同じ気持ちの繰り返し。そんな自分を変えたいって思うんだけど、できなくて。そしてまた明日が来るの」
ふと、上条が懐かしそうな表情をする。
「それ、亜季に話しかけられなかった頃のあたしみたい」
そしてどこか遠くを見つめる。
「そんな気持ちでずっと悩んで……今思うとなんて無駄な時間を過ごしてたんだろうって思う。ばかばかしいって思う。悩む暇があるなら、もっと早く行動すればよかったなって、今なら思う」
「紗里架……」
あの頃の苦しみを思い出したのか、上条は辛そうに笑った。
「ねえ、亜季。亜季は今、ひなちゃんが言った通りの気持ちなの……?」
「……うん」
岐多川は頷いた。
「話しかけたいけれど、話しかけられない。そんな状態がずっと続いてる」
「亜季……」
寂しそうに、岐多川は言った。
「でもさあ、せっかく会えたんだしこのままじゃよくないと思うんだ」
岐多川をまっすぐ見つめる上条。
「だって、好きな人が同じ高校にいるんだよ? それなのに話せないままなんて……そんなの寂しいよ」
「紗里架……」
それから胸元で手をぎゅっと握った。友架ちゃんが問いかける。
「そうだよ。亜季ちゃんは、寂しくないの?」
「あたしは……」
彼女の瞳には、ここではないどこか——だれかが映っていた。
「あたしも、寂しい」
「亜季……!」
周囲に嬉しそうな空気が広がる。
「今度……中野くんに話しかけてみる。でも、告白は無理だからね」
岐多川が釘を刺す。
「……わかった。それで許してあげる」
そうは言ってるけれど、上条は嬉しそうだ。
「どうして紗里架が偉そうなの」
「えへへ」
「えへへじゃないって」
上条の頬はゆるみっぱなしだ。それがうつったかのように莉々と友架ちゃんもにこにこしている。
「亜季ちゃん」
ひなが岐多川の手を握る。
そして自分の想いを込めるように言葉を優しく添えた。
「頑張れ」
「……うん」
岐多川は頷いた。
☁
「……あいつら、どうなったかな」
火曜日。
仕込みをしながらおれはつぶやいた。
野菜が切れるということで、この時間おれは仕込みを任されている。とはいっても任されてるのは切るとこまでだ。そこから先の飴色玉ねぎやソース作りはまだ教わっていない。でも、いつかは。
ちなみに今は玉ねぎのみじん切りをしている。二大人気メニューのオムライスとハンバーグに入れるため、大量に必要なのだ。というか、仕込みはほとんどこれをしているような気がする。
「うまくいってるといいね」
「だな」
空気がゆるりと流れる。
夕暮れ前の穏やかな時間。お客さんはいない。
ゆり子さんと隆彦さんは休憩に行っている。
ひなと、二人きり。
「…………」
「…………」
店内には隆彦さんの趣味だという洋楽が流れていた。
ギターの音色が心地良い。
トントントントン、と玉ねぎを刻むリズム。
そこにテーブルを拭き上げる音がわずかに混じる。
ひなは腕を伸ばして隅々まで丁寧に拭き上げていた。
その背中に向かって声をかける。
「おい、ひな」
ひなが振り向く。
「玉ねぎのみじん切り、教えてやるから来いよ」
彼女に向かっておいでおいでをする。
「えっ。いいよ、そんなの」
「いいじゃん。どうせ今暇だろ?」
「確かに今は掃除くらいしかないけど……」
「じゃ、決まりだな。こっち来いよ」
しばらくして、ひなが厨房にやってきた。
「でも、野菜くらい切れるよ?」
「本当に? おまえ苦手なんじゃなかったっけ」
切ってるところは見たことないけど、ゆり子さんたちとの会話でそれはわかっていた。
「そ、そんなことないもんっ」
ひなはむっとしてプイと横を向いた。やっぱ苦手なんだな。思わず笑みがこみ上げてくる。
「あははっ! みじん切りできるようになってみんなを驚かせてやろうぜ」
「笑わないでよ」
ちょっと怒った様子でひなはおれを見上げる。だけど全然怖くない。むしろ小動物っぽくて可愛い。
「ハイ、包丁持って」
「うん」
ひなが慣れない手つきで包丁を持つ。
「まずは自分で切ってみろよ。どれだけ切れるか見てみたいからさ」
「むう。……教えると言っといて」
ひながぷうっと頬を膨らませる。
「やっぱ切れないんじゃん」
「き、切れるもんっ」
皮をむいた玉ねぎを手に取ると、ひなは半分に切った。するとそれを断面が下になるようにまな板に置き、勢いよく包丁を近づけた。って、おい。ちょ、危な——
「待て! 待て、ひな」
「どうしたの? 幸ちゃん」
包丁が指スレスレの位置に止まる。
「左手は猫の手だ、猫の手っ!」
それからひなのぴんと伸びた指先をビシッと指さす。
「こう……?」
「おう、そうだそうだ。続きやってみろ! でも、ゆっくりな」
「うん!」
指先をくにゃりと曲げてひなが再開する。包丁を持つ手にさっきまでの勢いはなかった。心の中でほっと息をつく。ああ、もう、さっきはひやひやした。
「切れ目を入れるんだよね?」
「うん、そうだ」
そこは知っているらしい。さすがは洋食屋の娘だ。包丁でトン、トントン、と玉ねぎに切れ目が入っていくが。
「あああ——!?」
「えっ!?」
ひながびくり、と体を震わせる。
「なんて危なっかしいんだ! 包丁が指に限りなく近いし、しかも切れ目じゃなくて完全に切れてるしっ!」
「うっ……」
ひながばつの悪い顔になる。
「あー、もう見てられるかっ! ちょっと貸してみろ!」
「こ、幸ちゃん!?」
見ていられなくて、ひなの後ろから両手に手を重ねた。
ひなが驚く。
だけどとりあえず、そんなことは無視だ。
「おまえが悪いんだからな。直接教えるぞ」
「う……うん」
ひなの声が何故か小さくなる。
「よく聞いとけよ。まずは玉ねぎに切れ目を入れるんだ。縦と横に数カ所。切る時は、焦らなくていい。幅は……このくらいだ」
手を重ねたまま包丁を動かし、切れ目を入れていく。
熱い吐息がひなの髪にかかり、彼女がぴくりと体を震わせる。甘い香りが鼻をくすぐった。花のような香りというか石けんの香りに近いかもしれない。
「こ、幸ちゃん」
戸惑うような、そんな声。少し、ひなには難しかっただろうか。
「それが終わって初めて切っていくんだ。ほら、こうやって」
端から切っていくと、細かくなった玉ねぎが少しずつ現れて量が増えていった。
「幸ちゃん……」
それと同時にひなの手もじわりと熱くなり、その体温がゆっくりと上がっていった。
「ほら、そうすれば簡単にできるだろ?」
ひなはこくりと頷いた。
「手、切らないように気をつけろよ」
「…………」
目にしみる玉ねぎ特有の匂いが辺りに漂う。
「おまえは案外不器用だからな」
「…………」
ひなは何も話さない。
「もっと細かくしたい時は——って、ひな。聞いてるのか?」
さっきからひなはうつむいている。一体どうしたっていうんだ。
ひながゆっくりと頭を上げて振り向く。
その顔は真っ赤だった。
そうしておずおずと口を開く。
「幸ちゃん、手……」
「手?」
言われて自分の手を見る。——すると。
「わああああああっ!」
今更ながら自分が何をしたかに気がついた。慌ててひなから手を離す。
「ごめん! いつも莉々にやってるから、つい……」
一気に体温が上がっていく。自分の起こした行動に急に恥ずかしくなってしまった。
よく考えたらさっきからしていた甘い香りって、ひなの……。
「ほんと、ごめん!」
おれはなんて大胆なことをしていたんだ。
あー、もう穴があったら入りたいってこういうことなのか。今すぐ逃げたい。
「ううん……」
ひながゆっくりと首を振った。その顔はやはり赤い。
だけど、おれの顔もきっと真っ赤だ。
もしかしたら、ひなよりも赤いかもしれない。
いったい、何秒経っただろう。
包丁の音が聞こえなくなって、辺りがしんと静かになる。
ただ時計の秒針の音だけがおれたちの間を流れていた。
「…………」
「…………」
お互い、一言も交わさないまま。
どれだけの時間が流れただろう。
何か話さなきゃいけない気になって口を開くと、
「あの」
「あの」
声がシンクロして重なり合う。それが合図になったかのように心臓がトクントクンと鼓動を響かせる。それから遠慮しあうように、
「どうぞ」
「どうぞ」
なんて、ベタな恋愛ドラマを演じてしまう。
これは……どうすればいいんだろう。
本当に、どうすればいいかわからない。
気の利いた冗談のひとつくらい言えればいいものの、こういう時に限って何も浮かばない。
こんな状況になるのは初めてだ。
「…………」
「…………」
それからお互いを探り合うように見つめ合う。
今声を出したらまたさっきみたいになるのだろうか——そう思うと声も出せない。
もしかしたら、ひなも同じ気持ちなのだろうか。
そんなおれたちの空気を壊すかのように、勢いよくドアが開いた。
「ちょっと聞いてよひなちゃん。亜季ったらさー……って、あれ? どうしたの?」
入ってきた上条が目をぱちくりさせる。
「「何でもないよ!」」
思わずひなと声が揃ってしまう。
「本当に? でも二人とも顔真っ赤だよ?」
「「そんなことないって!」」
またもや言葉がシンクロする。もう、なんなんだこれ。
それからひなと目が合って、恥ずかしくなってお互い目をそらす。
なんだろう。あんなことがあったから、とても顔が見られない。
「えーっ、でもさあ」
「紗里架。そのくらいにしときなよ」
彼女の肩にそっと手を置く岐多川。
「何で!? 気になるじゃん」
「いいから。……紗里架は鈍いなあ」
何はともあれ、岐多川のおかげで助かったらしい。でも変な誤解をされてなければいいのだが。
「あっ、そうだ。ひなちゃん聞いてよ〜」
そう言って上条は近くの席に座りこむ。岐多川もその後に続いた。
「亜季ったらさあ、まだ中野くんと話してないんだよ!」
上条がテーブルをばしっと叩くと、立てかけてあるメニューが揺れた。
「今日話すって言ってたのに!」
「だってクラス違うし……。タイミングだってあるじゃん」
「それはそうだけどさあ」
頬杖をついてむー、と唸る。
「休憩の時は?」
「移動教室だった」
「昼休みは?」
「友達とご飯食べてた」
「放課後は?」
「紗里架が迎えに来たじゃん」
「ああっ、そうだったあ——っ!」
上条は頭を抱えて叫び出す。
「なあ、上条ってバカなのか?」
「うん、紗里架はバカだよ」
「……二人とも」
小声で話すおれたちをひながたしなめる。
「ん、今バカって言った?」
「言ってない」
「言ってないって」
上条に速攻で否定するおれたち。隣でコクコクとひなが頷く。
「怪しいなあ」
「気のせいだって」
「そうだよ」
今度はウンウンとひなは頷いた。
「じゃあそうなのかなあ。……そうだよね。言われたらそんな気がしてきた」
それを見て『ね、バカでしょ』『だな』と言い合うおれたち。ひなはふるふると首を横に振っている。岐多川はそんなひなを見ると『……可愛い』と呟いた。
「で、何の話してたんだっけ?」
「そうだった! 亜季が中野くんと喋ってないって話」
さりげなくそう聞くと、岐多川がむっと睨む。悪いな岐多川。
「だから、今日はタイミングが掴めなかっただけだって」
「本当に? じゃあ、いつ話すの?」
「……明日、話す」
岐多川は緊張した面持ちで言った。
「本当に?」
「うん」
岐多川が頷く。
「……亜季ちゃん」
ひなが岐多川の手を握る。
そして自分の想いを込めるように言葉を優しく添えた。
「頑張れ」
「……うん」
岐多川は頷いた。
次の日。
「今日も話せなかったの!?」
開口一番上条は言った。
「うん。タイミングが、掴めなくて」
「またあ!? 今日はどうして?」
「廊下で見かけなかった」
「それはしょうがないけどさー」
上条は息を吐き出す。
「中野くんのクラスに友達とかいないの?」
「うん。あのクラスにはいない」
「そっかー。あたしの友達もみんな他のクラスだしなあ」
上条がうー、と考える。
「まあいいや。明日はちゃんと話しなよ?」
「うん」
岐多川が頷く。
「……亜季ちゃん」
ひなが岐多川の手を握る。
そして自分の想いを込めるように言葉を優しく添えた。
「頑張れ」
「……うん」
岐多川は頷いた。
また次の日。
「えっ、またあ!?」
上条の声が響く。
「今日も、タイミングが掴めなくて」
岐多川が言った。
「今度はどうしたの」
「中野くんが、男友達と話してた」
「そんなの割って入ればいいじゃん」
「普通できないって。紗里架と一緒にしないでよ」
「えー、あたしはできるけどなあ」
「話してる時に邪魔しちゃ悪いでしょ」
「それもそっか。じゃあ、明日話しなよ?」
「うん」
岐多川が頷く。
「……亜季ちゃん」
ひなが岐多川の手を握る。
そして自分の想いを込めるように言葉を優しく添えた。
「頑張れ」
「……うん」
岐多川は頷いた。
そしてまた次の日。
「ちょっとまた亜季がさ——」
上条が叫ぶ。
「だって、タイミングが掴めなくて」
岐多川が頷く。
「……今日はどうして」
「日直だったから」
「誰が」
「あたしが」
「……それ、理由になるの?」
「なるよ。日誌書かなきゃだし。忙しかったんだから」
「……明日は、ちゃんと話しなよ?」
「うん」
「絶対だよ?」
「……うん」
岐多川が頷く。
「……亜季ちゃん」
ひなが岐多川の手を握る。
そして自分の想いを込めるように言葉を優しく添えた。
「頑張れ」
「……うん」
岐多川は頷いた。
さらにまた次の日。
「……で、どうして話せなかったの」
上条は言った。
「タイミングが、掴めなくて」
「…………」
「今日は、掃除当番だったから」
「…………」
「紗里架?」
「……亜季、そればっかり」
「えっ?」
「『タイミングが掴めない』って……そればっかじゃん!」
上条が勢いをつけてテーブルを叩くと、痛かったのか涙目で右手を押さえる。
「だって本当のことだし」
「違うでしょ。亜季は話しかけないだけじゃん!」
「…………」
岐多川は目をそらす。
「だって、いざ中野くんの顔見ると勇気が出ないっていうか……」
「でもそんなこと言ってたら、いつまで経っても話せないよ?」
「…………」
岐多川が押し黙る。
「中野くんと、話したいんでしょ?」
「…………」
「話したいんだよね?」
「……うん」
岐多川が頷く。
「だったら話そうよ」
「話したいよ。話したいけど、でも……」
そう言って俯く。
「……緊張、するの?」
「うん」
ひなの言葉に頷く。それからおれは口を開いた。
「じゃあさ、手紙はどうだ?」
「「「手紙?」」」
三人の声が揃う。
「ああ。話しかける前に、まずは手紙を読んでもらうってわけ。そうすれば話しかけやすくなるし、向こうも声かけやすくなるだろ。それに話す時のネタにもなるしな」
我ながらいいアイデアだった。
「へえー、手紙かあ。それは思いつかなかった」
「あたしも」
「だろ」
うんうんと頷く。
「でも今はそんな時代じゃないよ?」
「だからこそ、だよ。デジタルの時代だからこそ、こういうのにぐっとくるんだよ。今どき手書きのものなんて滅多にお目にかかれないからな」
「そうだけどさー」
しかし、上条と岐多川はどこか乗り気ではないらしい。とそこへ、
「あっ、あのっ」
日だまりのような声が響いた。
「わたしは手紙、すごくいいと思う!」
それはひなだった。
「手紙って、自分の言葉で自分の字で書くでしょ? だからすごく温かみがあるし、想いも込めやすくて……相手にも伝わりやすいと思うから」
五月の日差しが差し込み、ひなの瞳をきらきらと照らし出す。その姿は眩しくて、でも優しくて。自然と心が嬉しくなる。
「ああ……そうだよな、ひな!」
「うん!」
おれたちは目を合わせて微笑んだ。心が嬉しくなるって、こういうことなんだな。
「そう言われると手紙……案外いいかも」
「そうだね」
上条と岐多川も賛同する。
「おい、案外ってなんだよ案外って」
「正直古くさいと思っちゃった」
「あたしも」
「おまえらな〜」
ひながくすくすと笑う。
「で、なんて書くの?」
「ちょっと……考えてみる」
そう言って岐多川は鞄からペンとノートを取り出した。
「お」
「亜季、やる気まんまんだね」
「ほっといてよ」
それからノートを開いて丁寧に一枚破り、テーブルに置いた。
「なんて書くんだろう? たーのーしーみー!」
上条が頬杖をついて体を左右に揺らす。
「紗里架、うるさい」
「もう、亜季はクールなんだから〜」
それでも上条はニコニコとしていた。
「うるさいぞ、上条」
「日ノ下くん!?」
「静かにしてあげようよ、紗里架ちゃん」
「ひ、ひなちゃんも!?」
そうとう驚いたらしく、『ひ』の部分が引きつっていた。
「まさかひなちゃんにまで言われるなんて……」
わかりやすくがっくりと気を落とす上条。そんな彼女にひなは優しく声をかける。
「大丈夫。みんな、わかってるから」
「……え?」
上条が顔を上げる。
「亜季ちゃんを、応援したいって気持ち」
「ひなちゃん……」
「でも今は、静かにしてあげよう? 亜季ちゃん集中したいと思うから……ね?」
「……うん」
上条は頷いた。
「……別にあたしだって、本気でうるさいと思ってるわけじゃないんだからね」
岐多川が口を開く。
「亜季……」
「ちょっと、考えたいと思っただけ。だから少しだけなら、話に付き合ってあげてもいい……けど」
ゴニョゴニョとした語尾で岐多川は言った。まるで口の中で言葉を転がしてるみたいだ。
「うん!」
上条は嬉しそうな声で返事をする。
「……あんまりうるさくしないでよね」
「わかってるって」
「岐多川。こいつわかってないと思うからもっと言っといた方がいいと思うぞ」
「そうだね」
「日ノ下くんひどい! 亜季もあっさり頷かないでっ」
そこでひながくすっと笑う。
「ひなちゃんも笑うなんてひどいっ!」
「ごめんね」
とひなは言う。だけどひなは笑ってた。
「『ごめんね』って何!? ちょっとそれどういう意味!?」
「そのまんまの意味だろ」
「どういう意味——!?」
まったく騒がしいやつだ。
☁
「……できた!」
三十分後。
岐多川が持っていたペンを置いた。
「ねえねえ、なんて書いたの?」
「……内緒」
岐多川が目をそらす。
「えーっ、いいじゃん教えてよ」
「ダメだって」
「むー、亜季のケチ」
上条は唇をとんがらせる。
「そんなたいしたことは書いてないから」
「たいしたことないわけないでしょ。三年ぶりなんだから」
「上条、落ち着けよ。書いたのは自分の携帯番号と……少しのメッセージってとこだろ?」
「……そんなとこ」
おれの言葉に岐多川は頷く。
「えーっ、すごい日ノ下くん! どうしてわかったの?」
「少し考えればわかるだろ」
「そうだよ。紗里架がバカなだけ」
「亜季ひどーい!」
むくれる上条をよそに、おれたちは笑い合った。
「あとは帰って清書して……月曜に中野くんの下駄箱に入れてくる」
「うん!」
上条は嬉しそうだ。
「今度はちゃんと渡せよ?」
「もちろん」
そこに不安の色はなかった。
それから二日後。
「やったよひなちゃん! 亜季が……亜季が……中野くんと話してたっ!」
「本当にっ!?」
「うん!」
ひなと上条は手を取り合って喜びあう。ここまではしゃぐひなは珍しい。二人とも本当に嬉しそうだ。おれも声をかける。
「やったな!」
「別に……ただ話しただけだし、そんなに喜ばなくても」
とは言うものの、岐多川は嬉しそうだ。
「でも、それがずっと難しかったんでしょ?」
「それはそうだけど」
「じゃあ、一歩前進じゃん。やったね!」
上条がウインクする。
「……うん!」
岐多川は頷いた。
「おめでとう、亜季ちゃん」
「おめでとう」
ひなとおれが言うと、岐多川は嬉しそうに笑った。
「ありがとう、みんな」
その日からは、二人の楽しそうな声が店内に響いた。
「亜季と中野くんがさー」
「ちょっと紗里架、やめてよ!」
「いいじゃん別に」
「よくないって」
「なんで?」
「それは——」
「聞かれたらまずいことでもあるの?」
「な、ないけど……」
「ならいいじゃん。それでねーー」
「だからやめてって!」
ある時は、中野くんとの仲を報告する上条と、それを止めようとする岐多川だったり(でも結局全部バラされてしまう)。
「中野くん背がすごく伸びてて、声も低くなってた。やっぱり小学生の頃とは違うんだね」
「おっ、どうしたの亜季。惚れ直しちゃった?」
「そ、そんなことないけど」
「けど?」
上条がにやにやとして見守る。
「……ちょっと格好いいなって、思った」
ほっぺを赤く染めて岐多川は言った。
「おおおっ! ……亜季!」
すると突然、上条が岐多川の頭をぐるぐると撫で始める。
「あー、もう亜季は可愛いなあ」
「ちょっと、何するの紗里架っ!」
せっかく綺麗にとかれていた髪がぐしゃぐしゃだ。
「だって亜季が可愛いから。……顔赤くして中野くんを『格好いい』だなんて言っちゃって」
その瞬間、岐多川の顔が苺のように真っ赤になる。
「ちょ……、それ以上言ったら怒るよ!」
「キャーッ、亜季が怖いっ!」
「紗里架のせいでしょ!」
恋する乙女モードの岐多川と、それをからかう上条だったり。
そんな彼女たちを見守るひなの瞳はどこまでも優しかった。
そんなことが続いたある日。
「ねえ、亜季。やっぱり中野くんに告白しよう!」
上条は言った。
「無理だよ。そんなのできるわけないって」
「できるよ」
打って響くような声だった。
「亜季ならできる」
「……!」
確信に満ちた表情で上条は言い切る。
岐多川は目を見開いた。
「どうしてそう言い切れるの」
「だって、亜季は中野くんが好きなんでしょ? だったらできるよ」
それは約一週間前に聞いた台詞だった。
「紗里架はまた……。だからって、そんな簡単にはできないよ」
岐多川が長いため息をつく。
「でも、できるよ。亜季なら必ず」
「無理だよ」
岐多川の声が響いた。
「亜季……」
「紗里架はできるかもしれないけど、あたしには無理なの」
岐多川の表情が暗くなる。
「結局あたしは、中野くんに話しかけられなかった。……紗里架も知ってるでしょ?」
「でも今は話せてるじゃない」
目を伏せる岐多川。
「それも、手紙を読んだ中野くんが話しかけてくれたからだよ。あたしは好きな人にさえ話しかけられない自分から、結局何も変わってないんだよ」
「でも、亜季ならできるよ!」
「どうしてそんなに——」
岐多川の声がかすれる。
「亜季ならできる!」
その声に、彼女がはっとする。
「絶対、できるよ!」
辺りがしん、と静かになる。
「……でも、無理だよ。紗里架と一緒にしないで」
「…………」
その声を聞いた瞬間。
上条が息を吸い込んだ。
彼女の周りの空気が変わった気がした。
「亜季、なんでできないの!? 無理だなんて……どうして自分の中で決めつけるの!? そんなのやってみなくちゃわかんないじゃん!」
「でも無理なものは無理なの! 紗里架にはわかんないよ!」
「あっ、また無理って言った! もう聞き飽きたよ。一体何回言うわけ!?」
「だって無理なんだもん」
「また言った!」
「紗里架のバカ!」
「バカなのは亜季でしょ!」
「何言ってんの? 紗里架よりバカな人なんていないから」
「いるでしょ、ここに。あたしの目の前に」
「それ、あたしのこと言ってんの?」
「そうだけど」
「だから紗里架はバカなのよ!」
「バカは亜季だって!」
あっ、これは。
ひなと目を合わせて頷き合う。
「二人ともやめろって」
「そうだよ。お店の中だし」
即座に二人に睨まれる。
「「二人は黙ってて!」」
「ひいっ」
「ひゃっ」
こういう時だけ息はぴったりだ。
「大体紗里架って昔からバカだったよね」
「バカじゃないもん!」
「バカだって」
「なんで!?」
「中野くんがあたしのこと好きだとか言うし!」
「だって見てたらわかるもん!」
「でも本人に聞いたわけじゃないんでしょ!?」
「……それは、そうだけど。でもそんなの見てたらわかるもん!」
「だから紗里架はバカなのよ。仮に中野くんがあたしのこと好きだったとして、あれからもう三年も経ってるんだよ!? 今はもう他の子が好きかもしれないじゃない!」
「そんなことないよ!」
「そんなことあるの!」
彼女の声には涙が混じっていた。
声だけじゃない。目にも涙が浮かんでいる。
「亜季……」
「だからきっとあたしのことなんてもう見てないよ。……それにあたしには紗里架みたいな勇気もないし、度胸もない。だから……」
岐多川が震える拳を握りしめる。
「あたしに告白なんてできないよ!」
「亜季っ!」
岐多川は店を飛び出した。彼女を呼ぶ上条の声が響き渡る。
乱暴に閉まるドアにいつもよりも騒がしいベルの音。
辺りが急にしん、とする。
時が止まったみたいだった。
静まりかえった店内に流れるBGM。
時計の音がやけに大きく聞こえた。
「大丈夫かな……」
ふとひなが言った。
「大丈夫だよ。亜季はきっと戻ってくる」
その瞳には確かな信念があった。
「それもだけど……おまえと岐多川のことだよ。前みたいに、その……」
「絶交みたいになるんじゃないかってこと?」
「「!」」
先に言われてしまい、ひなと二人で驚く。
「大丈夫だよ」
さっきと同じ瞳で上条は言った。
「前みたいなことには、もうならないよ。だってそれがどれだけ苦しくて辛いって、あたしたちはもう知ってるから」
あの頃を思い出したのか、上条は一瞬悲しそうな顔をした。
「……怖くないの?」
ひなの瞳は不安で揺れていた。
自分がなったわけじゃないのに、どうしてそんなに不安そうなんだろう。
「全然怖くないってわけじゃないよ。でもね、あたしは亜季を信じてるから」
上条はひなに微笑んだ。
「亜季も同じ気持ちだって」
「……同じ気持ち?」
「うん。あの時仲直りできてよかった。ただ……それだけ。亜季もきっとそう思ってる。だから大丈夫」
「……!」
ひながはっとした表情をする。
「それに友達なんだからケンカくらいするよ。ケンカは本当の友達だからこそできることだしね。友達じゃない人とはケンカにすらならないでしょ? そういうことだよ」
そうして上条はドアを見つめた。
ここにはいない彼女が瞳に映りこんでいる。
「それに言うでしょ?」
足音が、聞こえてきた。
「ケンカするほど仲が良い、ってね」
ドアが勢いよく開く。
鈴のような音が鳴り響いた。
「亜季」
走ってきたらしく、岐多川は肩を上下させている。胸を叩いて息を整えると、彼女はこちらへやってきた。
上条がほっとした表情になる。
「あたし……決めた」
彼女の顔は出て行く前とは明らかに違っていた。
「中野くんに、告白する」
その言葉を聞いた瞬間、上条の目に光が宿る。
「亜季……」
岐多川はふっと息を吐き出し、話し始めた。
「あたし……ずっと怖かった。自分の気持ちを伝えるのが。中野くんにも、紗里架にも」
「あたしにも?」
岐多川は頷く。
「それに自分の中で問いかけてた。紗里架の気持ちを無視してまで告白してもいいのかって。中野くんを好きな、紗里架の気持ちを」
岐多川は目を伏せる。
「……でも、違うんだね」
上条は頷く。
「紗里架はあたしを応援してくれてる。気持ちを伝えてほしいって思ってる。それは嘘じゃないんでしょう?」
「うん、そうだよ」
上条は岐多川をまっすぐ見ていた。
「あたしの恋はもう終わったの。だから……気にしなくていいんだよ。告白して、いいんだよ」
「紗里架……」
岐多川は何とも言えない表情をしていた。
「ごめん」
「どうして謝るの」
上条の横顔が切なかったのは、気のせいだろうか。
「言ったでしょ、応援するって」
「そうだけど」
「ならいいじゃん」
岐多川は深くは追求しなかった。
「決まったみたいだな。……で、これからどうすんだ?」
「まずは、中野くんに空いてる日を聞いてみる。告白はそれから」
「そっか。亜季ならできるよ!」
その言葉に岐多川は笑顔で頷いた。
「うん、悔しいけどそんな気がしてきた」
「悔しいって何よー」
そう言って笑い合う。
「告白する時は……みんなについて来てほしいな」
岐多川はおれたちを見渡した。
「みんなって……おれたちも?」
「うん」
それから岐多川は口を開く。
「相談に乗ってもらったから、来てほしい。それに、一人だと心細いから」
「亜季ちゃん……」
ひなが一歩踏み出す。
「わかった、行くね。だからーー」
そこで一度目を閉じて、開いた。
「一人じゃないよ。みんながついてるから」
「うん……!」
岐多川は頷いた。
☀
「いよいよだね」
数日後、告白の日。
おれとひな、上条と岐多川は公園にやってきた。夕方ということもあって、子どもたちの姿はほとんど見られなかった。ブランコに暖かな色の夕日が照らし出されている。
「ほら、あそこにいるのが中野くん」
言われた方向を見ると、そこには制服姿の男子が立っていた。
素朴な顔立ちで、繊細なフレームのメガネをかけている。細い体つきで、身長はおれより少し高いくらいだろうか。どこか古風な雰囲気があり、頭がよさそうな高校生だ。聞いていた通り、難しい本が好きそうに見えた。
おれたちは今、入口から中の様子を覗いていた。端から見たらおれたちはきっと不審者だろう。
「亜季、大丈夫?」
「……大丈夫」
だけど、岐多川は震えていた。手も、体も。それを押さえるかのように、彼女は手を擦り合わせる。
「大丈夫だよ」
その声は、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
ひなが岐多川に一歩近づく。そして、
「亜季ちゃん」
ふわり、とひなが包み込むように彼女を抱きしめる。
それは暖かな日だまりのようなハグだった。
すると不思議なことに岐多川の震えがおさまっていく。
「……怖いよね」
ひなが語りかける。
「……震えちゃうよね」
岐多川が目を閉じる。
「でもきっと、うまくいくよ。亜季ちゃんならできる」
優しい声でひなは言った。上条もそばで頷く。
「だから大丈夫!」
それから彼女の耳元で何かを言って体を離す。
何を言ったかは聞こえない。
だけど。
「うん。ありがとう、ひなちゃん」
岐多川の瞳から、不安や恐れといった色が嘘のように消えていた。
公園の中へと入り、岐多川が中野くんへと近づく。おれたちは外で見守っていた。中野くんはまだ、彼女に気づいてはいない。
「中野くん」
声をかける彼女。
「岐多川さん」
中野くんが振り向き、微笑みを浮かべる。
「ごめんね、待った?」
「ううん、僕も今来たところだから」
沈黙が降りる。
「それで中野くんに、話が……あるの」
「うん」
岐多川がすう、と深呼吸をする。
自分を落ち着かせるように。
何度も、何度も。
「あのね」
「うん。……ゆっくりで、いいよ」
意を決したように、岐多川の顔つきが変わった。
固かった表情がほぐれて、柔らかくなる。
「あたし……小学生の頃から、ずっと中野くんのことが好きでした」
「……!」
それは愛しい人を見つめる表情だった。
彼の目が見開かれる。
「中学生になっても忘れられなくて……高校生の今でも、今でも大好きです!」
すべての想いを吐き出すようにして彼女は言った。
強い風が吹いて、新緑が揺れた。
葉っぱの擦れあう音が二人を包みこむ。
ふいに風が止んで、静かになった。
「……僕も」
彼が口を開く。
「僕も岐多川さんのことが、ずっとずっと大好きです」
そう言って、中野くんは笑った。
「…………!」
信じられない、といった表情で岐多川が両手で顔を覆う。
声にならない叫びが彼女の全身からあふれた。
「……や、やった——っ!」
その瞬間、勢いよく上条が飛び出した。
目の端にたまった涙がきらりと輝く。
上条は岐多川のもとまで辿りつくと、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「よかった……。よかったね、亜季」
「うん……!」
岐多川の瞳から涙が一粒こぼれ落ちる。
「言った通りだったでしょ? 中野くんは亜季が好きだって」
「うん……そうだね。紗里架の言う通りだった」
上条の背中に手を回す上条。
「上条さん」
「中野くん」
二人が体を離す。
「びっくりしたよ。まさか見られてたなんて……恥ずかしいな」
中野くんはぽろぽりと頬をかく。
「ごめん! どうしても、亜季が気になって」
上条が顔の前で手を合わせる。
すると中野くんはくすり、と笑う。
「いいよ。それにしても、二人は変わらないな」
「えっ?」
二人が不思議そうに中野くんを見つめる。
「高校生になっても、小学生の頃みたいに仲が良い。……手紙にも書いてあった。『親友のおかげで手紙を書く勇気が持てました』って。やっぱりその親友って上条さんのことだったんだ」
「えっ!?」
「ちょっと、中野くんっ!」
岐多川が顔を赤らめて叫ぶ。
「亜季ったらー、普段はそんなこと言わないのにぃー」
上条がにやにやしながら岐多川の脇腹をつつく。
「……うるさい」
「もう照れちゃってー」
上条の笑みは止まらない。
中野くんの表情が優しくなる。それから言った。
「こういうのって……友達って良いな」
中野くんの言葉に、上条と岐多川は微笑みあう。
そして、
『うん!』
二人同時に頷いた。
それは綺麗なユニゾンとなって、遠い空へとのぼっていく。
「よかった……!」
本当に、本当に嬉しそうにひなは言った。
おれとひなは公園には入らず、外から三人を見守っていた。
「ああ」
ひなの言葉に頷く。
「なあ、ひな」
「何? 幸ちゃん」
おれは尋ねる。
「ひなはあの時……なんて言ったんだ?」
「あの時?」
「岐多川を抱きしめた時、おまえなんか言ってただろ」
ひなが岐多川に言った言葉。
それがずっと気になっていた。
「気になる?」
「ああ」
するとひなは岐多川を見つめたまま言った。
「わたしは何も言ってないよ。あの子を抱きしめた時ね……彼に告白したいっていう思いと伝えるのが怖いっていう気持ちがすごく伝わってきた。だから——」
胸にそっと手を当てる。
「『自分を信じて』。わたしはただそれだけしか言ってないよ」
「えっ?」
何だか拍子抜けしてしまう。
「あの子が不安そうだったから、自信が持てるように一言お手伝いしただけ。悩み相談だなんて表向きにはなってるけど、わたしが悩みを解決できるわけじゃない」
ひなはどこか遠くを見つめていた。
「わたしができるのはあくまでアドバイス。結局は自分の力で解決するしかないんだよ」
そこでひなは優しい表情になる。
視線の先には、嬉しそうな岐多川がいた。
「だから今笑ってるのは……全部あの子が頑張ったからだよ。幸ちゃんと莉々ちゃんも、紗里架ちゃんだってそう。みんなが考えて行動したから悩みを解決できたんだよ」
確かにその通りだと思った。
でも。
「おまえの言うことは間違ってないよ。だけどひなが相談に乗ってくれたから、みんなこうして笑ってられるんだ。悩みを解決できたんだ」
「幸ちゃん……」
莉々が笑顔を取り戻せたのも。
上条と岐多川が仲直りできたのも。
岐多川が告白できたのも。
「ひなのおかげだよ」
「……ありがとう、幸ちゃん」
夕日が彼女の顔に照らされて。
それがとても綺麗だった。
☀
帰り道。
「じゃあねー、ひなちゃん」
「うん!」
三人と別れおれたちは歩いていた。
空はすっかりオレンジ色になり、暗い雲が近づいてきていた。どんよりと湿った空気が流れる。もしかしたら、雨が降るかもしれない。
「もうすぐ日が暮れるし、早く戻ろうぜ」
「うん」
そう言って歩くペースを速めた時、ひながふいに立ち止まった。
「? どうしたんだ、ひな」
おれが振り返ると、ひなはある一点を凝視していた。
そこには地元の制服を着た少女がいて、離れた場所から『ひよりび』を見上げていた。
「どう、し、て……」
少女を見て、ひなの顔が青ざめる。
「ひな……?」
その声は、彼女には届かなかった。
読んでいただきありがとうございました。