第一話 ひなたのハグとオムライス
「癒し」をテーマにして書きました。
少しでも楽しんでもらえたら嬉しいです。
おれの後ろには女の子が座っている。
彼女の名前は大月ひなた。
髪は男子よりも長く、だけどその髪は肩に届いてはいない。いわゆるボブカットだった。透き通るような白い肌はほのかにピンクがかっていて、それはとても綺麗だった。
ゆるやかに弧を描く輪郭は彼女の雰囲気に合っており、可愛らしいと言えば聞こえはいいものの、高校一年生には見えずに、実際の年齢よりも幼く見えた。
薄く造り出された唇は周りの人間と比べると小さく、それに合わせるように鼻もどこか遠慮がちな大きさだった。その上にある瞳はくりりとしていて真ん丸く、リスやウサギのような小動物を連想させる。スカート丈はいたって普通の長さで、短くしている同級生の中でも彼女はきちんと校則を守っていた。
身長は低く、平均的と言われたおれの身長には当然届いてはいない。だから最初の頃は背が低いのに男の後ろの席になって気の毒だな、とかその程度にしか思っていなかった。でも席替えのくじを作ったのは担任で、みんながくじを引いた後に結果を発表したのも担任だったものだから勝手に席を変えるわけにもいかなかった。
だけど大月が黒板を見る度におれの肩だとか頭とかが邪魔してると考えると、申し訳ないなとかそんなことを思ったりした。それを友人に言うと気にしすぎ、だとか言われて笑われたけれど。
前に一度、ちゃんと黒板が見えるか聞いたことがある。すると大月は大丈夫、と答えた。本当に見えているか疑問だったものの、そう言われてしまうとしつこく追求するわけにもいかなかった。だって、大月とはこの席になるまで話したことなどなかったのだから。
とはいえ席が近いと今まで面識のなかったクラスメイトでもいろんな面が見えてくるわけで。仲の良いクラスメイトだとか学校での生活パターンだとか。
でも、大月には仲の良いクラスメイトなどいなかった。たいていは誰か一人くらいは話し相手がいたりする。でも、大月にはそんなものなどいなかった。というか、誰かと話しているのすら見たことがなかった。
女子はグループで集まっていつも一緒に行動するものだって思っていたし、大月も当然そうだと思っていたから珍しかった。
単に人見知りなだけなのか、それともあえて誰とも話そうとしないのか――おれにはわからない。
それから大月のことで気になる点がもう一つある。
ホームルームが終わり、帰る準備をしていると、
「幸一、帰ろうぜ」
圭太が声を掛けてきた。
「ああ。……あれ、おまえ鞄持ってないじゃん」
圭太はなぜか手ぶらだった。
「鞄? 鞄ならここに置いてる」
「ここ? ここってどこだよ」
「大月の席」
後ろを見てみると、確かに大月の机に圭太の鞄が置いてあった。
「ちゃんと大月に置いていいか聞いたのかよ」
「聞くも何も、大月もう帰ったぜ?」
「えっ、もう?」
圭太の言う通り席には本人はおらず、彼女のリュックもなくなっていた。教室内を見渡してみても彼女の姿はどこにもなかった。ちなみにうちの学校では通学鞄は派手な色でなければ自由であり、各々好きな鞄で学校に来ている。おれはリュックで、圭太はショルダーバッグを使っていた。
「大月って、帰るの本当早いよなー」
本人がいないのをいいことに圭太は大月の机にもたれかかるようにして立っている。そんな姿を大月が見たらさすがに怒るだろうか。
「確かに早いな」
おれが気になってるのはこのことだった。大月はいつもホームルームが終わるとすぐに帰ってしまうのだ。放課後のお喋りが始まる教室の中で、大月は一人で颯爽と教室を去っていく。もしかしたら、クラスで一番早く教室を出るのは大月かもしれない。
「部活とかかな? 運動部の練習とか。遅刻すると厳しいんじゃね?」
「それだとジャージとか持ってないとおかしいだろ。大月っていつも鞄しか持ってないし」
「それもそっか。それに運動部って柄でもないもんなー。どっちかっつーと文化系って感じ?」
グラウンドで動き回るよりも教室で何か作業をしてる姿の方が想像できる。
「そうだな。家庭科部とか似合うかもな」
「あー。それイイ」
圭太はなぜか頬を緩ませ、うっとりとした表情になる。
「……何を想像したんだおまえは」
「いや、エプロンとか似合うかなと思って。だって大月可愛いじゃん」
「でも可愛いとエプロンって関係あるのかよ」
「あるね、絶対ある。幸一は何もわかってない。例えば目の前でケーキとか作ってもらえたら最高じゃね? おまえ今度誕生日だからやってもらえよ。そうすれば絶対わかるって!」
真剣な顔で圭太は頷く。さっきのアホ面はどこへ行った。
「別にわからなくていいよ。でもさ、家庭科部にも入ってないと思うぞ」
「えっ、何で!? 家庭科部って言い出したのおまえじゃんっ!」
圭太がぐいっと身を乗り出してくる。
「おれは家庭科部が似合うって言っただけだって。大体、部活入ってるなら一人くらい仲良いやついてもおかしくないだろ」
「だよなー。大月っていつも一人だもんな」
しみじみと圭太がつぶやく。そうしてふと何かを決意したように口を開いた。
「よし、こうなったらこのおれが大月とお友達になって、それから仲良くあんなことやこんなことをしていつかは……」
「圭太。それはおれが責任を持っておまえを止めよう」
「えー、止めるなよー!」
「おまえ、絶対変なこと考えてるだろ。下心ありすぎ」
「そんなことないって!」
結局、大月が早く帰る理由はおれにはわからなかった。
数日後。それが起きたのは突然だった。
廊下を歩いていると誰かにぶつかったのだ。
考え事をしていたせいかもしれない。
「ごめん!」
謝ると、その人物は顔を上げた。
「……大月」
そこにいたのは大月だった。おれの後ろの席に座っている、大月ひなた。大月はつぶらな瞳でおれを見上げている。……って、いうかどういう状況なんだこれ。
気がつくと、なぜかおれは大月に抱きつかれるような体勢になっていた。ぶつかった拍子に大月がバランスを崩して倒れそうになったのかもしれない。それで近くにいたおれに思わずしがみついた、といったところだろうか。
しかし、こう……何というかいい匂いがする。甘い花のような香りというか石けんの香りに近いかもしれない。そんな匂いが鼻をくすぐっているものだから、うっかり変な気持ちになってしまいそうだった。
それに、さっきから何か柔らかくて温かいものが当たっているのを感じる。視線を下げようとして、
「…………」
やっぱりやめて、でもやっぱり視線を下げて目にしたものはその……予想通りのもので、大月の頭と肩とその下にあるふくらみ——いや、何でもない。見なかったことにしよう。
「大丈夫か?」
気を取り直して大月に語りかける。このままだと危険な媚薬に支配されてしまいそうだった。
大月が体を離す。
「うん。……ねえ、日ノ下くん」
正直、意外だった。話が続くとは思わなかったからだ。だって、大月とまともに向き合って話をするのはこれが初めてだったのだから。黒板が見えるかと聞いた時とはまるで状況が違う。あの時は、おれが後ろを振り返ってただ一言交わしただけなのだから。
「ん?」
大月はおれの名前を呼んだきり、何か考えこんでいる様子だった。
「何か、悩んでるの?」
「……え?」
何で、どうして。
どうしてそんなことが……。
そしてあろうことか、大月はもう一度おれに手を伸ばし――えええええっつ!?
おれをぎゅっと抱きしめた。それはまるで、小さな体で大切なものを優しく守るようなハグだった。温かい大月の熱が伝わってくる。それに合わせて鼓動もトクントクン、と音色を響かせる。
まさか大月に抱きしめられるなんて思ってなかったし、女の子に今まで抱きしめられたこともなかったりで、もうどうすればいいのかわからなかった。
そもそも、これを誰かに見られてはいないだろうか。圭太とか。もし圭太がいたなら、きっと全力でからかって全力で悔しがるだろう。でも、圭太ならまだ良い。
他のクラスメイトに見られたら、大月がクラスに居づらくなるんじゃないか? 今だって大月にとって教室が居心地の良い場所になってるとは思えない。それなのにこんな場面を見られたら変な噂を立てられ、教室に行きづらくなってしまうだろう。幸い、周囲には誰もいないようだった。
そこで大月がはっ、と気づいたように顔を上げる。するとその顔はみるみるうちに赤くなり、一瞬で苺のように真っ赤に染まっていってしまう。そして、
「ごめんなさい、今の忘れて!」
「あっ、おいっ!」
背中を向けて走り去ってしまった。大月の姿は見えなくなり、足音もすぐに聞こえなくなってしまう。
一体、何だっていうんだ。
抱きしめておいて、忘れてだなんて。
そんなの忘れられるわけがない。それに――
『何か、悩んでるの?』
大月はあの時、確かにそう言った。でもそれは、見当違いな言葉ではなかった。実際に、おれには悩みがあったからだ。
でも、どうしておれに悩みがあることがわかったんだろう。
後ろの席だから?
だけどおれはこの悩みを誰にも言ってはいなかった。だから圭太に相談して聞かれた、という線はまず消されることになる。だったらどうして?
ああ、やっぱりわからない。
考えれば考えるほど混乱していくばかりだった。
教室に戻ると大月は普段通り一人で席に座っていて、周りのクラスメイトもそんな大月を気にせず何人かでお喋りをしていて。だからおれは皆と同じように予鈴が鳴ると慌ただしく席に着き、いつもと何も変わることなく授業を受けた。
ちゃんとノートを取っている者もいれば、落書きをしていたり、居眠りしている者もいる。また、おれみたいにぼーっと空を眺めている者もいたりする。予想外のアクシデントはあったものの、今日も無事一日が終わる――そう、思っていた。
でも、そうじゃなかった。
大月に抱きしめられた時から、おれの新たな日常は始まっていたんだ。
それは、授業が全部終わった後に気づいた。
机の中を整理していると、
「あれ……?」
見覚えのない紙を見つけた。
授業のプリントでも、学校からの手紙でもない。カラーで印刷されたそれは学校のプリントよりも一回り大きく、広告のチラシのようなつるつるとした肌触りが特徴だった。そして何より、玉子色の紙面であることが印象的だった。
そこには、こう書かれている。
洋食店 ひよりび
おすすめメニュー ひよりびオムライス
「ひよりび……?」
よくわからないが、洋食店らしい。『ひよりび』なんて、見たことも聞いたこともない名前だが。
さらに読み進めていくと、ランチタイムの時間だとかお得なセットメニューなどが写真とともに紹介されていた。要するに、ただの洋食屋のチラシらしい。
一体、何でこんなものがおれの机に入っていたのだろう。誰かの忘れ物か? それとも誰かの家が洋食店で、宣伝のためにわざわざ全員分の机にチラシを入れたのだろうか。
でも、周りの様子を見るとそうではないらしい。誰もこんなチラシなど持ってる者はいない。つまりは、おれの机にだけこのチラシは入っていたということだ。
疑問に思いつつも、さらに読み進めていく。しかし書かれていたのは営業時間やメニューばかりで、どこからどう見ても広告であることに間違いないらしい。
「……捨てよ」
このまま持っていても、ゴミになるのは明白だった。裏表印刷でメモにも使えない。そう思い、紙をぐちゃぐちゃに丸めようとして――ある文章に目が留まった。
お悩み相談承ります。
あなたの本当の<声>を聞かせてください。
「本当の、声……?」
よくよく見ると、そこにはくっきりと蛍光ペンで線が引かれていた。文字自体は小さく、しかも隅の方に書かれていたためうっかり見過ごしてしまいそうだった。
でも、本当の声ってどういうことだろう。それがよくわからない。口で出す声とは違うのだろうか。
それに、お悩み相談。
「…………」
後ろの席を振り返ってみるが、席の主はどこにもいない。きっと今日もすぐに帰ってしまったのだろう。
『何か、悩んでるの?』
そこで、あの時の言葉が思い出される。
もしかして、大月がこのチラシを入れたのだろうか。おれを心配して。でも確かめようにも本人がいない。
丸めようとしたチラシをそっと広げる。
もしこれが大月の好意なら、どうも無視できなかった。きっと周囲を気にして、誰にも見つからないようにそっと入れてくれたんだろう。
自分の席から立ち上がる。
「……よし、行くか」
おれは『ひよりび』のチラシを手に、教室を出た。
☁
圭太が聞いたら「行くのかよ」とか「お人好し」だとか言うかもしれない。でもおれは向かわずにはいられなかった。もしかしたら何かにすがりたかったのかもしれないし、それに悩んでるのは本当だったから。
チラシ裏には店までの簡単な地図が載っていた。学校の近くの駅から電車に乗り、二つ目の駅で降りる。ここはおれが普段使う最寄り駅だった。裏口から歩いて五分少々のところにその店はあった。
洋食店 ひよりび。
駅の喧噪から離れ、かつ住宅地からも近すぎない道路に面した場所にその店は建てられている。普段おれが使う道とはだいぶ雰囲気が違っていて新鮮味を感じた。道路が狭いせいなのか車の通りはそこまで多くなく、それは駅近くの隠れ家といった印象だった。
木調の壁は夏に映えそうなきつね色で、手入れがされているのかそれはとてもきれいだった。二階建ての屋根は彩度を抑えた濃い緑色で、壁の色との対比でより落ち着いた印象を与えていた。
建物の側面には壁と同じであろう素材で作られた階段があり、それは二階部分への入口へと続いているようだった。おそらく店は一階部分だけであり、二階は従業員の生活スペースといったところだろう。
肝心の看板はどこにあるのかというと、階段のある側面の反対側にそれはあった。細い長方形の看板に縦書きで『洋食屋 ひよりび』と書かれている。看板なのにそれほど大きくなく、主張しすぎない程度にそれは取りつけられていた。
店の前にはメニュー黒板があり、チラシに載っていたオムライスのイラストと値段がそこに書かれている。文字に気持ち丸みがあることから、おそらくバイトの女の子が書いたのだろう。年配の人が書いたようには見えなかった。
チラシをリュックにしまい、入口へと近づく。OPEN!と記載された札がかかったドアノブは、どこかアンティークさを感じさせるものがあった。テレビで雑貨屋特集というものをテレビで見たことあるが、まさにそんな雰囲気だった。おれはそれを回して中へと入る。チリリリン、と鈴のような音が頭の上で鳴り響いた。
足を踏み入れると、木製の床が乾いた音を立てる。中はそこまで広くなく、洋食店というよりも小さな喫茶店といった印象だった。店内はブラウンで統一されており、白さの中にどこかオレンジ色を含んだ灯りが優しく店内を照らしていた。
テーブルは四角でありながらも角は少しだけ削られており、手作り感を醸し出している。椅子もウッド調であり、テーブルに合った素朴なものが置かれていた。
「いらっしゃいませ」
店員の声がする。耳に心地良い温かな声だ。
あれ?
この声、どこかで聞き覚えがあるぞ。
そう思って店員を見ると、向こうも驚いた顔をしていた。
透明感のある肌に、肩までは届いていないボブカットの髪。
小さめの鼻と口に、真ん丸な瞳。
身長は低めで、スカート丈は校則の範囲内。
「大月……!」
目の前に、大月が立っていた。
大月は学校指定のセーラー服の上にエプロンをしていた。制服の上にエプロンをつけただけなのに、なぜかとても良く似合っていた。あの時は圭太の言うことが理解できなかったけど、意外とエプロン、いいかもしれない。大月に家庭的な雰囲気がプラスされて、可愛い若奥さんといった印象になる。旦那さんのために頑張って料理を作ってくれそうな、そんな感じだ。ちなみにエプロンは柄などが印刷されていない、とてもシンプルなものだった。
「日ノ下くん、来てくれたんだね」
「ああ。大月、おまえここでバイトしてんの?」
エプロンをつけているということは、そういうことなのだろう。圭太が見たら興奮しそうだ。
「ううん、バイトじゃないよ。ここ、わたしの家だから」
「えっ、そうなんだ。……へぇ、大月の家って洋食店だったんだな」
しみじみと呟く。そんなことなどまったく知らなかった。いや、当たり前か。そもそもおれは大月のことなどまったく知らなかったわけだし。
「ああ、そっか。学校終わってからすぐに帰ってたのってこういうことだったんだな」
そうだと理解すると合点がいく。駅に向かう時間や電車の待ち時間を考えると早め早めに行動した方が良いのは確かだった。
「うん。学校終わってからは早く帰って店を手伝うようにしてるの」
大月がそう言い終わったところで、客席から彼女を呼ぶ声がした。
「ごめん、お客さんが呼んでるから行くね」
「ああ」
おれに背を向けると、大月は客のもとへと早足で向かう。客はメニューを見ながら大月に何かを言い、大月は一礼して奥にある厨房へと向かった。
しばらくすると盆にカップを載せて大月が厨房から出てきた。注文はコーヒーだったらしい。大月は客にカップを渡すと笑顔でお辞儀をした。
ちゃんと、笑えるんだな。
そのことになぜだかほっとした。だって、今まで大月の笑顔なんて見たことなかったから。おれが知ってる大月の顔は、笑っても怒ってもいない中間の表情だけだ。……というか、笑ったら普通に可愛いし。
あいつも、笑ってくれるといいんだけどな。ここにいない人物を思い浮かべる。おれはしばらく、あいつの笑顔を見ていない。そう思うとあいつのことが余計に心配になってきた。
客が大月に向かって口を開く。
――ひなちゃん。
大月は、客からそう呼ばれているらしい。『ひなた』だから『ひなちゃん』か。可愛がられてるんんだな。実際、可愛いし。……て、何を考えてるんだおれは。
そんな大月の姿は、教室とはまったく違っていた。教室ではもちろん笑ってはいないし、クラスメイトと話してるところなど見たことがないし。正直、今の大月とは真逆の姿だった。クラスメイトが今の大月を見たら、きっと驚くだろう。
お盆を片付けて、大月が戻ってきた。
「ごめんね。とりあえず座って」
「ああ」
大月の部屋にいるわけではないのに、緊張するのはどうしてだろう。店とはいえ彼女の家にいる、という点では間違いないのだが。
席に着くと、大月がお冷やを出してくれる。メニューを見ると手作り感あふれるデザインで料理名と値段が書かれていた。それがまた店の雰囲気と良く合っていた。
「……じゃあ、この『ひよりびオムライス』をひとつ」
メニューの一番上に載っていたから、やっぱりおすすめってことなんだろう。だからこれを頼んでみることにした。
すると大月は目を丸くする。ああ、こんな顔もするんだな。
「えっ、頼んでくれるの?」
「当たり前だろ。それにお腹空いてたし」
この時間になるとどうしても何か入れたくなってしまう。
「夜ご飯入りそう?」
「平気だって」
男の子ってすごいね。そう言い残して、大月は厨房へと向かった。しばらくして、何かを炒める音が聞こえてくる。その間にコーヒーを頼んだ客が会計を済ませ、店を出て行った。
ベルの音が鳴りやむと、店が急に静かになった気がした。実際は調理中の音や店で流れている曲が聞こえていたりしているから、全然静かではないのだけれど。おれ以外の客が誰もいなくなったから、そう感じてしまうのかもしれない。ああ、何だろう。心が落ち着いていく。ケチャップの、いい匂いがしてきた。
「お待たせしました」
大月が料理を持ってきてくれる。
「『ひよりびオムライス』です」
まあるくて黄色のそれは、白い皿に載っていた。半熟に仕上げられた玉子の下半分にはデミグラスソースがかけられている。そしてその脇にはちょこんとパセリが添えられていた。玉子の優しい香りが鼻に広がる。
「いただきます」
スプーンで一口分すくって口に入れた。トロトロの玉子とトマト味のライスが口いっぱいに広がっていく。ほんのり甘みのある玉子とライスの相性は抜群で、デミグラスソースも絶品だった。
「……あれ、これライスにトマト入ってる?」
「うん。うちのオムライスにはトマトをご飯に入れるようにしてるの」
それでライスにトマト本来の風味があるというわけだ。だから重くなりすぎずにしつこくなく、オムライスが食べやすくなっているのか。爽やかさもあっておれの好きな味だった。
あっという間に食べ終わり、スプーンを置いた。
「ごちそうさま。美味しかった」
おれがそう言うと、
「そう。……よかった」
大月は嬉しそうにお盆をぎゅっと抱きしめた。教室でもこんなふうに笑っていればいいのに。そうすれば、みんなももっと気軽に話しかけられると思うのだけれども。
「それでさ、大月」
「うん」
大月がおれの向かいの席に座る。
「やっぱりあのチラシ入れたのって、大月なのか?」
「……うん」
大月は頷いた。
「でも、本当に来てくれるとは思ってなかった」
それはそうだろう。チラシが入ってたからといって、行こうと思う人間が一体どれだけいるのだろうか。怪しむか面倒くさがって行かない人の方が多いのかもしれない。でもおれは行こうと思った。チラシを見て『ひよりび』に行こうと思った。それは大月が入れてくれたことに気づいたからかもしれない。もしそのことに気づいてなかったら、おれは行ってなかっただろう。
「じゃあ、どうしておれの机にチラシを入れたんだ?」
「だって、何かに悩んでるんでしょう?」
「えっ?」
まただ。どうして大月はこんな確信めいた瞳でおれを見るのだろう。それは昼間と同じだった。
悩んでるだなんて、誰にも。
誰にも、言ってないのに。
「ああ。悩んでるのは本当だけれど……それで、大月はチラシを入れたのか?」
たった、それだけの理由で。
「うん。だって、学校じゃ言いにくいこともあるでしょう? 友達にも言ってないみたいだったし……力になりたいと思って」
「そっか。でもそれで、おれが来なかったらどうしたんだよ」
「そういう時はしょうがないよ。しばらく様子を見て、悩みが解決してなかったらまた入れてたかもね」
それは意外な言葉だった。
「そっか。それもおもしろいかもな」
お冷やを飲んで一息つく。
そんなおれに、大月は微笑みかける。
「ねえ、日ノ下くん。悩み事があるなら、話してほしいな。後ろの席から見てて元気なかったら気になるし」
「大月……」
何だ、そういうことか。おれが元気ないって思って気を使ってくれたってわけか。
でも、おれってこんなにわかりやすかっただろうか?
まともに話したことのないクラスメイトに悩みがあるって悟られてしまうほどに。
圭太にも気づかれなかったのに、普段話さない大月に気づかれるものなのだろうか。
「わかった。……話すよ」
でも、誰かに聞いてもらいたかったのは本当だから。
話してみよう、と思った。
それに何となくだけれど、大月が悩みを解決してくれそうな気がしたのだ。
本当に、何となくだけれど。
こうして、おれは話し始めた。
心が重くなった原因を。
「妹が……笑わなくなったんだ」
☂
「何日か前、雨が降ってただろ? あの日からなんだ」
その日は一日中雨だったのを思い出す。
「学校が終わって家に帰ってくると、莉々の靴が汚れてることに気づいた。——あ、莉々っていうのは妹。おれの七つ下で、小学校三年生なんだ」
この年の離れた妹が、おれは気がかりだった。
「それで靴は……どんな風に汚れてたの?」
大月に促されるままに、あの時の記憶をたぐり寄せる。すると、色や形がまじまじと浮かび上がってきた。おれは続ける。
「靴に泥が散って派手にかかったような、そんな感じの汚れだった。きれいなピンク色の靴だったんだけど、ピンクの部分が泥でくすんでまったく違う色に見えるくらいだった」
汚れる前の色を知ってたから、見た時はあまりの変貌ぶりに驚いたものである。
「それで地面にたくさん水たまりができていたのを思い出した。だから靴を見た時は『洗うの大変そうだな』とか、その程度にしか思っていなかったんだ」
だけど、そうじゃなかった。
そうだったら——どんなによかっただろう。
「莉々の部屋の前を通ったら、泣いている声が聞こえて。ひっく、ひっく、ってしゃくり上げるように泣いていた。母さんによると、莉々は帰った時からずっと泣いてるみたいだった。靴に泥がかかったくらいでそんなに泣くことないだろ、っと思ったんだけど」
目の前が暗くなって、心がずしりと重くなる。
「その日からなんだ。莉々が笑わなくなったのは」
声に出してみて、改めて事実なんだと思い知らされる。
だけどこれが本当だとは、思いたくなかった。
「…………」
大月が神妙な顔つきになる。
「夕飯の時も、莉々は元気がなかった。朝と服が違ってたから、たぶん服も汚れてたんだと思う。莉々はご飯を半分も食べずに、すぐに自分の部屋にこもってしまったんだ。いつもの莉々だったらご飯はちゃんと全部食べるのに」
白いご飯がお茶碗に残されている様子は、どこか寂しげに見えた。
「その後莉々は風呂に入るのに一度部屋から出てきただけで、父さんや母さんのいるリビングに顔を出すことはなかった。その日は、莉々の好きなテレビ番組もあったのに」
ウサギがいっぱい出る番組を莉々は毎週楽しみにしていた。
「寝る時間になって、夜トイレに行こうと莉々の部屋の前を通ったら、部屋の灯りがまだついてたんだ」
「それって何時くらい?」
大月の言葉に頭をひねる。
「たしか……十二時を過ぎてたと思う。この時間、小学生はとっくに寝てるはずだろ? だから電気の消し忘れかと思ったんだ。でも、違った」
その時のことは、よく覚えてる。暗がりの中で、ドアの隙間から光が漏れ出していた。
「部屋から物音がした。驚いたよ。莉々は起きてるんだ」
「えっ!」
大月が声を上げる。無理もないと思った。
「それでも十分変なんだけど、おれが一番おかしいと思ったのは莉々がドライヤーを使っていたことだった」
「ドライヤー?」
首を傾げる大月。
「ああ。あのガーッ、ガーッっていうドライヤーから出る風の音が莉々の部屋からしていたんだ」
「髪を乾かしてたんじゃないの?」
おれは首を振る。
「違うよ。だって、莉々は八時にはもう風呂を済ませてたんだ。普通はその時に髪を乾かしてるはずだろ。なのに十二時を過ぎてドライヤーを使うなんて変だと思わないか?」
「たしかにそうだね」
大月が頷く。
「泥がついて洗った靴や服を乾かしてたとも思えなかった。だって、その服は母さんがベランダに干したって言ってたし、明日までには乾かないって莉々にも話していたから。なのにそれをわざわざドライヤーで乾かすと思うか?」
「普通はしないよね」
「だろ? だから、やっぱり変だと思った。何かが汚れたなら洗濯して外に干しておけばいいだろ。それなのに一体何を乾かす必要があるんだって。乾かすものなんて何もないじゃないか」
おれの知ってる範囲なら、何もなかったはず。
すると、莉々の行動がますます謎に包まれてしまう。
「次の日、莉々は普通に起きてきたけれど、やっぱり元気がなかった。朝食のパンを食べながらうつらうつらとしていたものだから、もしかしたらまともに寝てなかったんじゃないだろうか」
あの時の莉々はものすごく眠そうで、ふとした瞬間に眠ってしまいそうだった。そんな莉々を母さんは食事中に何度も呼びかけていたのを思い出す。
「それから莉々は学校に行き、放課後莉々が帰る姿をおれは見たんだけど――莉々は、泣いてたんだ」
ひと呼吸置いて、おれは続けた。
「泣きながら家への道を歩いてたんだ。指に絆創膏貼ってたんだけど、目元をこすりすぎてそれがはがれそうになるくらいだった」
「絆創膏?」
またもや大月が首を傾げる。
「ああ、莉々はお裁縫が好きで何か作ってるみたいなんだ。それでたまに針で怪我するらしくて。怪我したところに絆創膏貼ってるってわけ。だから莉々の指に絆創膏が張ってあっても別に珍しくないよ」
「そうなんだ」
大月が興味深そうに言った。
「で、泣いてる莉々を見ておれはさすがにただごとじゃないと思った。だって泣きながら帰るなんて、学校で何かあったに決まってるじゃないか」
ぐっ、と拳を握りしめる。
「まさか靴に泥がかかったくらいで次の日も泣くなんて思えないし。学校で何か嫌なことがあった——されたんじゃないのかって。だって、帰り道で泣くなんてよっぽどのことだろ。靴が汚れたのだって、クラスメイトにやられたんじゃないのかって思った」
肌に爪が食い込んでいく。
爪の痕が残りそうなくらいに強く、強く。
「それで莉々に聞いてみたんだ。『学校で何か悩みがあるんじゃないのか、いじめられてるんじゃないのか』って。でも、莉々は言ったんだ。――『違う』って。莉々がそう言うなら信じるしかないと思った。だからおれはこう言ったんだ。『じゃあ何に悩んでるんだ。お兄ちゃんに話してみろ』って。そう言ったら莉々は何と言ったと思う? ――『お兄ちゃんにだけは言えない』ってさ」
苦しそうに言った莉々。
思い出すだけで、息が詰まりそうになる。
「そんな……」
「ショックだったよ。おれはそんなに頼りがいのない兄貴だったのかってさ。これでも妹の面倒は見てるつもりだったんだけどな。……足りなかったのかな」
できればもう二度と思い出したくはなかった。
「だからおれは母さんに頼むことにしたんだ。母さんになら莉々も話すだろうと思って。だけど母さんは――『考えすぎよ。それに莉々には莉々の悩みがあるんだから無理に聞くのは良くない』って言ったんだ。信じられなかったよ。自分の娘がいじめられてるのかもしれないのに、見て見ぬふりをするのかってさ」
だからおれがなんとかしてやる、って思ったけれど。
「その日の夜も、莉々は自分の部屋にこもって何かをしているみたいだった。たまに泣いているような声もして、心配だった。だけどおれには、何もできなくて」
唇を噛みしめる。
「あれから何日か経って、学校に来て授業を受けて、どうしようかと悩んで。机の中にチラシを見つけて――おれはここに来たんだ」
☂
一通り話し終えるとおれはそっと息を吐き、お冷やを口に流しこんだ。冷たい刺激が喉を潤わせていく。テーブルにグラスを置くと、カランという氷のぶつかる音がした。グラスの表面についた雫がテーブルを濡らしていく。
大月はおれの話にずっと耳を傾けていた。話している時でも、真摯に話を聞いてくれていることが伝わってきた。それだけで、今日ここに来てよかった。話してよかった、という気になってくる。
「…………」
おれが話し終わった後は、大月は何かをずっと考えこんでいるようだった。
「これだけじゃ、何もわからないよな」
ため息混じりにそんな言葉が出た。よくよく考えてみたら、家族のおれにもわからないのに莉々の悩みが大月にわかるはずがなかった。もし大月にわかるのなら、兄であるおれにもわかるはずである。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
「ごめんな、こんなことに付き合わせて。……話、聞いてくれてありがとな。帰るよ。オムライスいくらだっけ?」
そう言って伝票を持って席を立つ。話を聞いてもらっただけで、不思議と心が少し軽くなったような気がする。うん、やっぱり来てよかった。誰かに話すだけで楽になるって言うけれど、本当なんだな。
席に置いていたリュックを背負い、ポケットから財布を取り出す。すると、
「待って」
大月が口を開いた。歩きかけていた足を止める。
「……大月?」
さっきとは、目の色が違っていた。
まるで何かを決意したような、そんな目だった。
そんな大月を見るのは、初めてかもしれない。
「その……莉々ちゃんを、ここに連れて来れないかな?」
「莉々を?」
大月の言葉に驚く。
「莉々ちゃんの声を……話を、聞かせてほしいの」
「莉々の……話?」
どうして『声』から『話』に言い直したんだろう。なぜかそのことがすごく重要な気がしたけれど、この時はまだそれがどうしてなのかわからなかった。
「でも妹は――莉々は人見知りだから、来ても何も言わないと思うぞ?」
莉々は家族や友達以外の人の前では恥ずかしがって何も喋らないほどの人見知りだ。だからそんな莉々が大月の前で何か話すとは思えなかった。莉々にとって大月は、初対面の知らないお姉さんになるのだから。
「うん。でも、いいの。来てくれるだけでいいの」
「来てくれるだけでいいって……」
大月が何を考えてるのはわからないけれど、それだと行く意味はないのではないだろうか。莉々の話を聞くと言っていたのに、一体どうしたのだろう。
不思議に思いつつも、おれは頷いた。
「わかったよ。……明日、連れて来る」
「うん」
それからおれは、オムライスのお金を払って店を出た。鈴のようなドアベルの音を聞きながらおれは考える。
もしかして大月はおれの話を聞いて何かわかったのではないだろうか。それでその何かが正しいかを確かめるために、おれに莉々を連れて来るよう言ったのかもしれない。そう思った。でもその根拠はどこにもなくて。大月が本当に何かわかったのかはわからなかった。
次の日の朝。
おれはさっそく莉々を誘うことにした。
「莉々。今日学校終わったら、お兄ちゃんとプリン食べに行かないか?」
『ひよりび』には確かプリンがあったはずだった。メニューのデザート欄にその文字を見かけた覚えがある。食後の デザートに人気、とか書いてたっけ。
「……行かない」
予想通り莉々は気が進まないようだった。
「ふーん、わかった。でも放課後迎えに行くからな。ちゃんと待っとけよ」
「…………」
莉々は『行く』とは言わなかった。でも最初から『行く』という答えを期待しているわけではないので別に問題はない。迎えに行ってしまえばこっちのものだ。だけどそれは莉々が先に帰ってなければの話だが。
「じゃ、また放課後な」
こうしておれは家を出た。
放課後。小学校に莉々を迎えに行った。おれは電車に乗らないといけなかったので莉々を待たせる形になってしまったものの、莉々はちゃんとおれを待ってくれていた。
莉々はいつもの制服姿に、チェリーピンクのランドセル。肩まで伸びた髪にはリボンで飾りをつけていた。瞳は大きく黒目がちなものの、その目は不安そうに揺れていた。おれよりずっと小さな手がランドセルの肩ベルトをぎゅっと握りしめている。ただでさえ小さな体を縮めて、まるで何かから自分を守っているようだった。
それから二人で『ひよりび』へと向かう。
小学校から『ひよりび』までは歩いて二十分くらいだった。自転車を使えば良かったと思ったものの、二人乗りは禁止されているため駅近くの駐輪場に置いてきてしまっていた。一体いつから二人乗りは禁止になってしまったんだっけ。
駅の裏口に差しかかると、莉々はきょろきょろと周囲を見回すようになった。小さな頭がしきりに動いていく。通ったことのない道だから珍しいのだろう。高校生のおれだって昨日初めて歩いた場所だから、小学生の莉々が珍しがるのも当然だった。
「ほら、ここが『ひよりび』だ」
「ひよりび……?」
店の前に着くと、莉々が不思議そうに店を見上げた。初めて見る建物に好奇心が疼いてるのかもしれない。それに、家の近くにはこのような建物はないから。小学生には余計に珍しいのだと思う。
ドアを開けて中に入ると、
「いらっしゃいませ」
という声がドアベルとともに店内に響いた。莉々がおれの制服の裾をそっと掴む。
「大丈夫だって」
「ほんとに?」
莉々が目を潤ませる。まるで今にも泣き出しそうだ。初めて行く店に入ると、莉々はいつもこうである。そのくらいの人見知りなのだ。おれは莉々の頭にポンポンと手を乗せる。
出迎えてくれたのは大月だった。
「日ノ下くん」
「おお」
おれは軽く手を挙げる。
「この子が……莉々ちゃん?」
「ああ」
そう言うと、莉々はおれの後ろに隠れてしまう。それでもおれの裾は握ったままだ。莉々はおそるおそるおれの背中から顔を覗かせている。まるで恥ずかしがりやのリスみたいだ。巣穴から顔を出して周囲を窺い、目が合うとすぐに隠れてしまうような、そんなリス。
「こんにちは」
大月が目線を下げて莉々に話しかける。それはとても優しい口調で、聞いていると心が温かくなるようだった。自分が言われているわけではないのに、どうしてこんな気持ちになるのか不思議だった。こんな優しい声も出せるんだな。接客業だからある程度は小さな子に慣れてるのかもしれない。
すると莉々が、
「……こんにちは」
と蚊の鳴くような声で挨拶をした。そうしてまたおれの後ろに隠れてしまう。近くにいないと聞こえないような声だったけれど、これが莉々にとって精一杯の挨拶なのだ。それから莉々は再び顔を覗かせた。
そんな莉々に大月はにっこりと微笑みかけると、目線をおれに戻した。
「どの席がいいかな?」
きっと莉々のことを考えて言ってくれているのだろう。
「んー……、じゃあ向こうの窓際の席にするよ」
出入り口から離れているので人目を気にする心配がなさそうだった。それに、前座った席なので何となく安心感がある。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
背中にくっついたままの莉々を連れて、おれたちは席へと向かった。
席に着くと莉々にはプリンを、おれはコーラを注文した。
頼んだものが運ばれてきたけれど、
「…………」
莉々は手をつけようとはしない。プリンには生クリームがきれいにトッピングされていて、普段なら莉々が喜んで食べそうなものなのに。
「莉々。食べないのか?」
「…………」
おれがそう聞いても莉々はうつむいてばかりで何も言わない。それどころか、置かれているスプーンを持とうともしていなかった。プリン用のスプーンは大月が持ってきた場所から一ミリも動いておらず、紙ナプキンの上で鈍い輝きを放っていた。
立っていた大月が莉々の隣に座る。莉々の肩がびくり、と動いた。それから大月は莉々を安心させるように、柔らかい表情で語りかける。雰囲気も、声も温かかった。まるで母親が生まれたばかりの我が子と一緒に過ごす時のように。
「……ねえ、莉々ちゃん。お兄ちゃんから聞いたよ? 悩みがあるなら、話してほしいな」
だけどそんな大月の声に莉々はふるふると首を横に振った。肩まで伸びた髪がふわりと揺れる。やはり初めて会う相手に悩みを話すというのは難しいだろうか。莉々にとっては特に。莉々は人見知りなのだから。
「ごめんな。……やっぱり、無理みたいだ」
予想はしていたけれど、知らない相手に莉々は話さない。話そうとはしない。この様子だと厳しそうだ。
「まったく、何で母さんは莉々を放っとくんだよ」
「ママは悪くないっ!」
「――え?」
一瞬、誰が言ったのかわからなかった。
大月も目を見開いている。
「莉々……?」
叫んだのは何と莉々だった。ここに来てから聞いた一番大きな声だった。もしかしたら、今まで聞いた莉々の声の中でも一番の大きさかもしれない。思わず周りを見たくらいだ。おれたち以外に客がいなくてほっとする。それほどまでに莉々の声は店内に響いていたのだ。
「なあ、莉々。一体どうしたんだ?」
「…………」
莉々がぎゅっ、とスカートの裾を握りしめる。さっきはあんなに大きな声を出していたのに、今は何も喋らない。莉々は一体何を考えているのだろう。ますますわけがわからなかった。
莉々はスカートを力いっぱい握っているものだから、そこにうっすらと皺ができていた。ピンクの小花柄。莉々のお気に入りのスカートなのに。
「莉々。悩みがあるなら、お兄ちゃんに話してみろ。……な?」
「…………」
もう一度聞いてみるけれど、莉々はやっぱり何も言わない。うつむいた莉々の顔を下から覗きこんでみる。だけどその表情は見えなくて。ただ体はずっとぶるぶると震えていた。莉々が泣きそうになっている時はいつもそうだ。莉々の瞳から、いつ涙が落ちてきてもおかしくなかった。
「……莉々?」
泣いてしまうのだろうか。
おれは莉々を泣かせたいわけじゃないのに。
「……言えない」
「え?」
莉々が顔を上げる。
その瞳には涙がいっぱい溜まっていた。まるでそれを落とすのを我慢しているかのように。
「お兄ちゃんにだけは言えない!」
「莉々……っ!」
胸がぐっと締めつけられるみたいだった。この言葉は、前にも一度聞いたけれど。だけどやっぱりショックだった。息が詰まって呼吸が止まりそうになる。
「どうしてだよ。どうしておれには言えないんだよ、莉々っ!」
つい責めるような口調になってしまう。
こんな言い方をしたら、莉々は泣いてしまうのに。
泣いてしまうと、わかっているのに。
「ごめんね。でも、お兄ちゃんには言えない。言えないよ!」
言葉を吐き出すように言った莉々は、苦しそうだった。こんなに苦しそうな莉々を見たのは初めてだった。莉々の瞳から涙が一筋こぼれ落ちる。
莉々を泣かせたのはおれだった。だって、言いたくないと言ってる莉々に悩みを無理やり言わせようとしたのだから。だからおれは、莉々に頼りにされないのだろうか。だから莉々は、おれに悩みを言ってくれないのだろうか。
うっ、うっ、と莉々はしきりに泣いていた。喉の奥から絞り出すような声で。悲しそうに、苦しそうに。涙がどんどん溢れ出してくる。まるでそこに枯れることのない泉があるかのように。でも、そんな莉々の涙をおれは止めることができない。手に届く場所にあっても拭うことができない。拳をぐっと握りしめる。やり場のない想いを潰すかのように。おれは一体、どうすればいいんだろう。どうすれば――。
その時。
ふわり、と影が動いた。
――え?
何が起きたのか、わからなかった。
小さな影がすっと大きくなって、それよりも一際小さな影を包みこむ。両手を広げた大月が莉々を抱きしめていた。大月の腕に莉々の小さな体はきれいに収まっている。
「お、おいっ――」
そんなことをしたら、莉々は驚いてしまう。そう思ったのだけれど――トントン、と誰かに肩を叩かれる。
「大丈夫」
振り向くと、そこには女の人が立っていた。大月と同じエプロンをしている。そして何より、大月と雰囲気が良く似ていた。特に目元の部分なんかそっくりだった。おそらく、大月の母親だろう。彼女はおれの耳にそっと口を寄せる。
「あの子は今ね、妹さんの『声』を聞いているの」
「声……?」
そう聞いたけれど、二人が話している様子はない。
「だから大丈夫。あなたの妹さんの悩みも、きっと解決するわ」
それだけ言うと、彼女は席から離れていった。
一体、どういうことなんだろう。チラシに載っていた『声』と何か関係があるのだろうか。
大月は優しく莉々を抱きしめている。時折、背中に回した手で莉々をさすってあげていた。優しく、優しく。莉々を安心させるかのように。
莉々は最初体がこわばっていた。だけどだんだん心が落ち着いてきたらしく、今では大月の胸に身を委ねていた。いつの間にか、泣き声も聞こえなくなっている。
抱きしめながら、大月が頷く。
「そっか……。辛かったね」
そう言った大月の顔は悲しそうだった。
「でも大丈夫。お兄ちゃんはあなたのことを嫌いにならないし、きっと喜んでくれるよ」
「え……?」
今、『お兄ちゃん』って言ったよな。おれのことで莉々は悩んでいるのだろうか。
莉々が顔を上げる。
「本当に? でも……」
莉々がうつむく。それが答えだった。
「大丈夫。お兄ちゃんの顔を見てみて」
「えっ?」
二人にじっ、と見つめられる。
「な、何だよ?」
そんなに見つめられると照れるっていうか何ていうか。どうすればいいんだ、これ。
すると大月は目を伏せる。
「お兄ちゃんはさっきから……ううん、ずっと悲しそうな顔してる」
「ほんとだ」
えっ……。おれ、そんなに悲しそうな顔してたのか? 鏡で確認しようとしたけれど、こんな時に限ってそれはどこにもなかった。
「今の莉々ちゃんと、同じ顔だよ」
「えっ」
莉々が驚いた表情になる。
「お兄ちゃんの悲しそうな顔を見て、どう思った?」
莉々が俯く。
「お兄ちゃんどうしたのかなって、心配になった」
「そうだね。悲しそうな莉々ちゃんを見たお兄ちゃんも、そう思ったんじゃないかな」
「…………」
莉々は何か考えこんでいるようだった。
「だからね、お兄ちゃんに話してみよう? このまま話さないと、お兄ちゃんずっと悲しんだままだよ。だから……ね?」
「……うん」
莉々はこくりと頷いた。
☁
「ウサちゃんが、泥だらけになっちゃったの」
ゆっくりと、莉々は話し始めた。
「ウサちゃん?」
きっとウサギのことだろう。
莉々が頷く。
「うん。ウサちゃんのぬいぐるみ。ストラップがついてるの」
「そんなの持ってたっけ?」
莉々のランドセルにはついてなかった気がする。実際、席に置かれたランドセルにもそのようなものはついていなかった。
莉々は首を振る。
「……ううん。作ってたの」
「作ってた?」
「うん。莉々がお裁縫始めたの、お兄ちゃんも知ってるでしょ?」
「ああ。そういえばそうだな」
莉々の手に絆創膏が貼られていたことを思い出す。
「それでね、少しだけ慣れてきたから難しいの作ってみることにしたの」
「そっか。それが……ウサギのストラップなんだな?」
「うん」
莉々が目を伏せる。
「一ヶ月くらい前からかな。家と学校で少しずつやってたんだけど……すごく、すごく難しかったの。縫い方がよくわからないところはママに聞いたりもして。でも、うまくできなくて。何回も何回も糸をほどいてまた縫って。でもまた変になっちゃうから、その時はね、また縫い直すの。途中で針で指を刺した時もあって、……その時は、すごく痛かった」
思い出したのか、莉々が顔を歪める。
大月が莉々の背中に手を添えた。
「……痛かったね」
「……うん」
まるで、莉々の痛みがわかっているかのように。
「それでね、ウサちゃんが完成したのがね、あの日だったの」
莉々が膝に目を落とす。
「あの日?」
「うん。……あの、雨の日」
莉々が泥だらけで帰ってきた日のことだった。玄関先で目に飛びこんできた、茶色にまみれた莉々の靴。もともとはピンクだったのに、泥に鮮やかさを奪われたみたいだった。
「あの日はね、お昼休みにウサちゃんが完成してね、すごく嬉しかったの。だって本当にね、難しかったから。できた時はすっごくすっごく嬉しかったの」
「……頑張ったんだな」
「うん!」
莉々はしっかりと頷いた。
「それから放課後になって、友架ちゃんと一緒に帰ってたの。そしたら……」
友架ちゃんというのは莉々と仲良しの友達だ。
莉々の表情が暗くなる。
「グラウンドに大きな水たまりができてて……そこで転んじゃった。友架ちゃんは心配してくれたけど、周りにいた男子は笑ってた。でもね、ショックだったのは男子に笑われたからじゃないよ」
「どういうことだ?」
いつもの莉々だったら、そこで泣いてたと思う。
「作ったばかりのウサちゃんが泥だらけになったのが悲しかったの。ウサちゃんはね、ランドセルじゃなくて、もう一つの鞄に入れてたの」
もう一つの鞄というのは、荷物が多い時に莉々が持って行く鞄のことだ。母さんお手製のトートバッグで、端の方にウサギのアップリケがついている。
「それで転んだ時にね……ウサちゃんが鞄から出ちゃってたの」
莉々が涙声になる。
目の周りも、赤くなっていた。
「ウサちゃんはね……っ、水たまりの中に沈んじゃってた……」
莉々の目からぽろぽろと涙が溢れ出す。
「沈んじゃって……、それで……それで……っ、ひっく……っ」
大月がハンカチを差し出すが、莉々は首を振る。
「それでね……っ、ウサちゃんがね……泥の色になってたの。元の色がわからないくらいに茶色くなってた。お家に帰って……ウサちゃんをきれいにしようとしたけど、手作りだから洗濯できないってママに言われちゃった……。お耳とか取れちゃうって……っ。だからお水を使って手で洗ったの。でも全然きれいにならなくて……」
莉々の涙が何粒も落ちて、テーブルにじわりと染みていく。
「それでもね、ずっと洗ってたら少しはましになったの。だからね、一度ドライヤーで乾かしてみたの」
「ドライヤーで?」
確かにあの日、莉々の部屋からドライヤーの音がしていた。
「でもわざわざドライヤーを使わなくても、外に干しておけばいいんじゃないのか?」
あの日は夜も遅かったし、干しておいて乾くのを待っていてもよかったんじゃないだろうか。
「それだと、だめなの」
「だめ?」
それはどうしてだろう。
「だって、見られちゃうから」
「誰に?」
莉々に真っ赤になった瞳で見つめられる。
だけどその瞳は、まっすぐにおれを捉えていた。
「お兄ちゃんに」
「……え?」
——おれ?
「何で、おれに見られるとまずいんだ?」
「だって……」
莉々が口をつぐみ、大月を見つめる。
大月は優しい顔で頷いた。
莉々が覚悟を決めた顔でおれを見据える。
「だって……ウサちゃんはお兄ちゃんの誕生日プレゼントだから」
――え?
「お兄ちゃんに見られたら、こっそり作ってた意味ないもん」
そこで莉々は目を逸らす。
「えっ、まじで? おれの、誕生日プレゼント……?」
「うん。お兄ちゃんにね、ウサちゃんあげようと思って。ずっと作ってたの」
その涙も。絆創膏が貼られた手も。全部プレゼントのために——?
「だけどね、ウサちゃんが泥だらけになって、洗って乾かしてみたけど駄目だった。ウサちゃんに泥の染みがいくつも残ってて、きれいにならなかったの」
莉々の声が小さくなる。
「ママに言ってみたけど、それなら別のプレゼントにするか新しく作るしかないって言われちゃった」
そうか。だから母さんは莉々の悩みを無理に聞くなと言ったんだ。
莉々の秘密を、守るために。
「でもね、莉々はどうしてもお兄ちゃんにウサちゃんをあげたかったの。だからあの日から、作り直すことにしたの。でもね、夜更かししても、学校で作っても無理だった。当たり前……だよね。あのウサちゃん作るのに一ヶ月かかったんだもん。それを何日かで作るだなんて無理だよね。お兄ちゃんの誕生日、もう明日なのに。このままじゃ……莉々のこと、お兄ちゃんが嫌いになっちゃう!」
「莉々……」
そして莉々は顔を覆って泣き崩れてしまう。隣にいた大月がそっと莉々を抱き寄せ、背中をさすってあげている。莉々はそんな大月の胸に顔を埋めると、声を上げて泣き始めた。喉の奥から絞り出すような声で。苦しそうな、心の底から悲しそうな声で。
なあ莉々。泣くなよ。
おれに渡すプレゼントが駄目になったからって。
なんて、言えなかった。言えるわけがなかった。そのプレゼントのために、莉々はずっと頑張ってきたんだから。おれにばれないように、一ヶ月前から。たとえ、うまく縫えなくても。針で怪我をして、痛い思いをしたとしても。きっと莉々は、おれの想像以上の苦労をしたんだと思う。
それがようやく完成したと思ったら、泥にまみれて駄目になってしまった。莉々はどんな気持ちだったんだろう。胸が張り裂けそう――なんて言葉じゃ収まりきれなかったのだろう。今の、泣いている莉々を見ていればわかる。
だからおれは、莉々にこう声をかけた。
「莉々」
涙をこぼしながら莉々が振り向く。その目は泣きすぎてすっかり充血してしまっていた。その赤さに心が痛む。あの日から莉々は一体どれだけの涙を流したのだろうか。
「無理して作り直さなくてもいいよ」
すると莉々は叫ぶように言い放つ。
「駄目だよ! お兄ちゃんのプレゼントがなくなっちゃう」
「なくならないよ。だって、莉々が頑張って作ってくれたウサギがあるだろ?」
「でもそれは、泥の中に落ちて駄目になっちゃった……」
涙声になりながら莉々は俯いてしまう。
「いいよ、それでも」
「でも……」
何か言いたそうな莉々を遮る形で語りかける。
「あのウサギがいいんだ。だって、あのウサギを作るために、莉々頑張ったんだろ? その気持ちだけで十分だよ。お兄ちゃんは嬉しい。それに、作り直すために莉々が泣いてるところなんて見たくないんだ」
自分のために妹が泣くのなんて、そんなの嬉しいはずがなかった。
「それに、せっかく完成させたのに渡さないと、ウサギも悲しむと思うぞ。『どうして渡さないの?』って、泣いちゃうかもな。そんなウサギ、莉々は見たいか?」
「お兄ちゃん……」
「だからさ、莉々が作ってくれたウサギ、おれにくれよ。泥がついてたって別にいいよ。そんなの何回でも洗えばいいじゃん。おれが自分で洗うって」
そうだよ。汚れてるかどうかなんて、たいした問題じゃないんだ。よくプレゼントは贈り手の気持ちが大事と言うけれど、手作りのものなんて気持ちがすごくこもっていると思う。だからいいんだ。莉々の気持ちはおれに十分すぎるほどに伝わってるんだから。
莉々を見ると、瞳を潤ませておれをじっと見ている。
どうしよう。また、泣かせちゃったかな。
「お兄ちゃん……本当にいいの?」
「ああ。あのウサギがほしいんだ」
莉々の瞳から涙が一筋こぼれる。
「わかった。ウサちゃん……明日、渡すね。それまでに、ちゃんときれいにしておくから。お兄ちゃんが洗わなくてもいいように」
それは久しぶりに聞いた、莉々の明るい声だった。
「……ああ」
無理はするなよ。そう言うと、莉々はうんと頷いた。
「じゃあ、ごちそうさま」
「うん」
大月がドアを開けてくれる。
おれは莉々をおぶって店を出た。背中に温かな重みを感じる。
莉々はプリンをゆっくりと食べ終わると、泣きつかれたのかそのまま眠ってしまったのだ。きっと、慣れない夜更かしや疲労もたまっていたのだろう。大月にもたれかかるようにしてすー、すー、と静かな寝息を立て始めたのだ。それにしても莉々はいつの間に大月に慣れたのだろう。それは安心しきった寝顔だった。
莉々をおんぶするのなんて久しぶりだった。昔はよくしていたのだけれど。莉々が小学校に上がったあたりからしなくなったような気がする。
少しだけ歩いて、大月を振り向く。
「なあ、大月」
「……何?」
店に戻ろうとした大月が足を止める。
「どうして莉々の悩みがわかったんだ?」
あの時——莉々を抱きしめている時。大月は莉々の悩みがわかっているようだった。
『大丈夫。お兄ちゃんはあなたのことを嫌いにならないし、きっと喜んでくれるよ』
大月は確かにそう言った。
でも莉々は何も言っていない。それどころかおれと大月の前で悩みを言えないとまで言っていた。それなのに、どうしてわかったのだろう。
大月が重々しく口を開く。
「わたしね……『声』が聞こえるの」
「……声?」
大月の母親もそのようなことを言っていた。
「うん。心の……『声』」
信じられなかった。
「心の声?」
大月は頷く。
「嘘だろ?」
「信じられないかもしれないけど、本当なの」
大月の目はまっすぐにおれを見ていて、とても嘘を吐いてるようには見えなかった。
「じゃあ、今この瞬間もおれの心の声が聞こえてるってことか?」
「ううん、違うの! 今は聞こえない」
大月が焦ったように否定する。
「? でもさっき聞こえるって……」
「心の声が聞こえるのはね、誰かを抱きしめた時だけなの。聞こえるのは抱きしめた相手の声だけで、抱きしめてない人の声は聞こえないの」
その答えを聞いてほっとする。
「何だ……そっか。そう聞いて安心したよ。おれの心の声は聞こえてないんだな?」
「うん」
「なら良かった。じゃあおれは安心だな。大月に抱きしめられることなんてないだろうし」
「えっ」
どうして『えっ』なんだろう。そう思ってはたと気づいた。
あれ……? そういえば……。
温かくて柔らかくて。いい匂いで……。
うやむやだったものが思い出される。
「ああああああああっつ!」
それが合図になったかのように大月の頬が桜色に染まる。
「おれ、大月に……抱きしめられたことあった……!」
「そ、そんなはっきり言わないでっ!」
大月は両手で顔を覆い隠す。
「だったら何であの時抱きしめたんだよっ!?」
「あっ、あれは事故で……!」
「その後だよその後っ! おまえもわかるだろっ!?」
「しっ! 莉々ちゃん起きちゃう」
そう言って大月が口の前に人差し指を置く。
そっと莉々の方を見ると、すやすやと寝息を立てていた。
「……よく寝てるな」
「うん。よっぽど疲れてたんだね」
普通なら目が覚めていてもおかしくなかった。
そんな莉々を見て微笑むと、大月は話し始める。
「……わたしが抱きしめたのはね、日ノ下くんの『声』が聞こえたからなの」
「おれの『声』が……?」
あの時は、何を考えていたんだっけ。
「『どうしたらいいんだろう』っていう声が最初にぶつかった時に聞こえてきたの。だから何か悩んでるのかなと思って、日ノ下くんを抱きしめたの。悩みを詳しく聞かせてもらおうと思って……」
「だからって普通抱きしめるか!? 普通に聞けばいいだろ!?」
「だって恥ずかしかったんだもん。あんまり話したこともなかったし」
「抱きしめる方が恥ずかしいだろ!」
大月の顔は真っ赤だった。自分の顔は見えないけれど、きっとおれも顔が赤いに違いない。
「……とにかく、他の奴にはするなよ」
「えっ?」
大月がきょとんとした顔をする。
「ハグだよハグ。女ならまだしも男にしてみろ。普通だったら、誤解されるぞ?」
「誤解?」
大月が首を傾げる。
「抱きついてくるなんて、『こいつおれのこと好きなんだな』ってな」
「……!」
口をぱくぱくさせる大月。
「そ、そうなの……?」
おれは頷く。
「ああ。わかっただろ。だから、男に抱きつくのはやめろよ。……な?」
「うん」
大月が真っ赤なまま頷く。
結局ずっと恥ずかしそうなままだった。
☀
「お兄ちゃん。莉々からのプレゼントだよ」
次の日。
莉々に差し出されたのは、色とりどりにラッピングされた箱だった。
「ありがとう、莉々」
そう言って箱を受け取る。
莉々は昨日帰ってきてから部屋で何か作業していたようなものの、九時には部屋の灯りを消してちゃんと寝ていたようだった。無理はしていないようで安心する。
リボンをほどいて包装紙を取り、箱を開けると、中から出てきたのは手のひらよりも少し小さいくらいのサイズのウサギだった。背中には細いストラップがついている。
「ウサちゃんがお兄ちゃんの好きな青で、リボンは莉々の好きなピンクだよ」
莉々の言う通りウサギの体の色は青で、胸元にはピンクのリボンが結ばれていた。体は何度も洗われたせいか多少でこぼこしているものの、丁寧に作られていることが伺える。瞳はプラスチックの部品が縫いつけられており、そのつぶらな瞳はどことなく莉々に似ているような気がした。
いつの間にこんなすごいのが作れるようになったんだな。おれは今までぬいぐるみのようなものを作ったことがないし、きっとこれからも作らないだろう。だから莉々のような真似はできないと思った。
今まで莉々はおれの後ろを追いかけてくるばかりの妹だと思っていた。いつもおれがついてなきゃ駄目なんだって。だけど莉々は自分で趣味を見つけて誕生日にウサギを作ってくれた。しかも、難しいと言いながらもちゃんと完成させて。途中で投げ出したりせずに。
——いつまでも小さいわけじゃないんだな。
そう思って少しだけ寂しくなる。
「莉々。ウサギそんな汚れてないじゃん」
「ほんと?」
泥という泥はついてないように見える。でもよくよく見るとうっすらと土の色が見える程度で、そこまで気になる程ではなかった。ウサギの青もくすんでおらず、少し色落ちしているような箇所はあるものの、一目見てきれいな青だとわかるくらいには鮮やかさが失われてはいなかった。
「ああ。これなら洗う必要ないよ」
「よかった……!」
莉々の表情が和らいでいく。きっと、肩の力が抜けたのだろう。
莉々はこのことをすごく気にしていたから。そんな莉々を見ておれも嬉しくなる。
「お兄ちゃん」
「ん、どうしたんだ? 莉々」
莉々は息を吸いこんだ。
一瞬、時が止まる。
そして――
「お誕生日おめでとう、お兄ちゃん!」
目にしたのは、莉々の最高の笑顔だった。
読んでくださった皆様、ありがとうございました!
一話目ということで幸一をメインにした話になってます。
二話以降はキャラも増えますので、よかったらつき合ってやってください。