第三話「月日は流れて」
あれから一週間が経った。
結論からいうと、エリオは殺されなかった。
初日にうっかり眠ってしまった時も、何事も無く次の日の朝に目が覚めた。指も折れていなければ、目も潰されていなかった。
それからいくらでもエミリアはエリオを殺すチャンスはあった。マリーナはよくエリオとエミリアを並べて世話をした。当たり前だ。効率を考えるなら、別々の場所で世話をする意味など全くない。しかし、それはエリオにとって恐怖であった。いつ自分が隣の転生者に殺されるかわからないのだ。生きた心地がしなかった。なるべく二人きりにならないようによく泣いた。
その度にマリーナが「エリオは泣き虫さんでちゅね~」といいながらあやしてくれた。その姿をみたエリオは転生前の人生で、幼き頃に死んでしまった母親を思い出し、少し感傷的になった。
それでも、エミリアと二人きりの状況は短い時間だが、避けられないことが度々あった。
しかし殺されるどころか、傷ひとつ付けられなかった。
何故か。可能性は三つ考えられる。
まずひとつは案内人の勘違い。エミリアは転生者ではない可能性。
エリオがこれを言うと、リリーが柔らかそうな頬をぷくっと膨らませ怒った。エリオも言ってから、これはないなと考えた。可能性がないということではない。ただパートナーである『案内人』を信じられなければ、戦っていくことはできなくなるのだ。誰が転生者がわからないというのは不意打ちをしてくれと言っているようなものだ。だから、可能性がないのではなく、そもそもその疑うという選択肢が存在してはならないのだ。
エリオはリリーに平謝りをして、なんとか機嫌を直してもらった。
ふたつ目の可能性は、これが一番高い可能性だが、そもそもエミリアに殺す気がないということだ。強制的に始まったこの神様選定試験という名の殺し合いのゲーム。乗り気じゃない人間も考えられる。エリオのように逃げることを方針としているのかもしれない。それならばエリオにとって願ってもないことだった。話し合いで争いを回避できるからだ。
最後は、これがエリオの『ユニークスキル』である可能性だ。『ユニークスキル』は世界の理を覆すものだという。であるならば、他の『案内人』に気づかれないスキル、ということも十分にありえるはずだ。
リリーに確認したが、『ユニークスキル』には疎いようで、分からないと返された。
「『ユニークスキル』については資料もなかったし、先輩も教えてくれなかったのよ!」
おそらくこのゲームの肝となってくる部分なのだろう。だから、先輩の『案内人』は教えてくれなかったのだ。
試験の初参加である新人『案内人』の不利がここで露見した形となった。
しかしこれはしかたのないことだ。嘆いても始まらない。
とりあえず、『ユニークスキル』のことも鑑みて、転生者と悟られないように、振る舞わなくてはいけない。もしかしたらエミリアは、エリオがただの一般人だと思い込んでいるから、殺さないだけかもしれないのだ。用心に越したことはない。
そして、一ヶ月、二ヶ月……半年と時は過ぎていった。
その間、エリオは赤子を偽装し続けた。ハイハイやおすわりの時期、赤子特有の反応であるハンドリガード、パラシュート反射、モロー反射などなど、赤子の成長をトレースし続けた。
エリオがなぜ新生児についてこんなにも詳しいのか。それは生前の活字好きに由来する。エリオは暇な時間があれば、図書館へ行き、純文学、経済誌、教材、自己啓発、サイエンス誌、ライトノベル、指南書などジャンルを問わず広く何でも読んだのであった。その中に、マタニティ雑誌と呼ばれるものも含まれているのだから驚きである。
転生前、施設育ちでお金のなかった彼にはこれが一番有意義で将来のためになる趣味であったのだ。
偽装が功を奏したのか、エミリアから一度も敵意を感じたことはなかった。それどころか、エミリアは率先してエリオの世話をしてくれていた。
マリーナが忙しく、エリオのお漏らしに気づいていない時、舌足らずな口で「えいお、えいお」とエリオの名を呼びながら、おしめを替えようとすることもあった。エミリアは面倒見の良い性格なのかもしれない。今のところ、悪人と判断することは難しかった。
赤子の体であるためお漏らしは仕方ないとわかっていても、おしめをかえられるという行為はエリオの身体を羞恥で真っ赤に染めた。いけない扉が開きそうであった。
そして、禁断の扉が開きそうになりつつも、エリオとエミリアはすくすくと育ち、一年が経った。その頃にはエリオも目や耳が機能していて、さらにこの世界の言葉も覚えていた。
西日の眩しい夕方。
エリオとエミリアはお互いに身体を預けながら居間のソファーの上に座って、マリーナの編み物を観ていた。器用なもので、手早くひょいひょいと縫い進めていく。
リリーはいなかった。彼女は基本姿を消していて、エリオが呼べば出てくる。必要に応じて姿を表わすのだった。
ゆったりとした静かな時間が流れている。
その時、玄関で扉の開く音がした。
その音を聞いた途端、エミリアはソファーを自力で降りて、拙い足取りで玄関へとかけ出した。
エミリアはもう一歳半であるため、歩くことも、舌足らずであるが喋ることもできるのだ。実際のところ、生後十ヶ月でそれをやってのけ、マリーナとベルナルドを驚かせていた。まあ、身体の動かし方を理解している転生者であるからそれぐらい出来て当たり前なのだ。エリオももちろんできるが、偽装のため、一般的な赤子の成長に合わせている。今できるのはふらふら歩いたり、片言の言葉ぐらいにしている。
(あとニ、三ヶ月したらもっと歩いたり喋ったりする予定だけどな)
マリーナがエリオを優しく抱き上げ、玄関へと向かう。
「おう、帰ったぞ……」
疲れの見える野太い声でエミリアを抱き上げているベルナルドがそう言った。彼の後ろには三人の男女がいた。
細身の男アントニオ・サロモーネに、小太りのグレコ・ミケーレ、そして短髪でボーイッシュな女、ジュリア・ドナート・ベラルディだ。
彼らはエリオとエミリアの父、そしてマリーナの夫であるベルナルド・バリアーニの部下なのだ。
(そして、ベルナルドは『リベリオ』とよばれる犯罪組織に属するリッジョファミリーの幹部……らしい。まるでマフィアだ)
これはここ一年、彼らの会話に耳を傾けていて手に入れた情報だった。そうやって過ごしているうちに言葉を覚え、また、グレコやジュリアといった部下を知った。彼らはちょくちょくこの家にやってきて、ともに食事をとったりするのであった。
そしてそんな犯罪組織の一員という恐ろしい肩書を持ったベルナルドを含めた今の彼らは、砂や埃にまみれて疲労困憊と言った具合だった。先程から服の汚れを手で叩いている。
今の彼らに貫禄も威厳も何もなかった。
「パパ、どうして汚れてるの?」
エミリアが舌足らずに尋ねる。
「エミリアちゃん。これにはふかふかーい……それこそ貴族が汚職を行うのと同じくらい深いわけがあるんだよ……」
小太りの男グレコが深々と溜息をつきながら、甲高い声でエミリアの問に答えようとする。その彼の瞳はとても特徴的で、右目が蒼、左目が翠のオッドアイであった。年の頃は二十だろう。
彼はお調子者で楽天家、冗談を飛ばして自分で笑うような性格だった。そしてナルシストでもある
(小太りの男がナルシストでオッドアイってのもなんかアレだな……)
しかし、オッドアイはこの世界ではしかたのないことだった。グレコは神聖エイレイ皇国人とデメテル王国人のハーフなのだ。王国人の瞳は翠、皇国人の瞳は蒼であり、そこからハーフが生まれると、必ずと言っていいほどオッドアイとなる。だから、この世界において瞳の色というのは、血筋を表すものでもあるのだ。
それで言うとエリオ、エミリア、ベルナルド、マリーナ、アントニオ、ジュリアは両目とも翠であるため純血のデメテル人である。しかし、例外も存在する。ジュリアは純血のデメテル人ではないのだ。
「貴族が深く考えて汚職をするだって? あいつらはチャンスがあればすぐに飛びつく。飢えた魔物と一緒だ。というかお嬢に変なことを教えんじゃねーよ!」
グレコの物言いに二十手前のジュリアが噛み付いた。
彼女はぴんっと尖った耳を持っており、それが示す通りエルフの血をその身に宿している。とは言っても、彼女はデメテル人とエルフのハーフエルフである。この場合瞳はオッドアイにならず、両目とも翠になる。純血のエルフは琥珀色の瞳を持つのだ。
男所帯のこの組織に身を置くだけあって、彼女に女々しさを感じることは全くない。さばさばしていて、はっきりとモノを言う。しかし、短気なため身内や自分を馬鹿にされるとすぐ切れる。
「取引相手にブツだけ持ち去られて、大捕り物が始まっちまったんだ。そいつがまたすばしっこいやつで、狭い路地裏や裏道をバンバン使うもんだから俺たちはこの有り様さ。まったく恥ずかしいたったらありゃしねえ。ブツは無事に取り返したんだが、取引自体はおじゃんよ」
アントニオがイライラした口調で手短に答えていく。
(その取引相手がどうなったかは考えたくもないな)
犯罪組織なんてものは舐められたら終わりだ。恐らくそいつはこの世にはもういないのだろう。
「とにかく、早くメシを食いたい。用意出来てるか?」
「ええ、もう大丈夫よ。今日は人数が多いから、食堂で食べましょうか。私は準備するから、エリオをお願いね」
そう言うとマリーナはジュリアにエリオを渡した。
(おう……豊穣の大地から断崖絶壁へ……)
ジュリアの胸は薄かった。
「え、ちょ、マリーナさぁん!」
ジュリアは慣れない手つきでエリオを抱く。彼女の性格からして、赤子をあやす自分というのがとてつもなく恥ずかしく感じるのだろう。頬を赤く染めていた。
彼らはそんなジュリアの反応を無視して、食堂へとぞろぞろと歩いて行く。
ジュリアも置いていかれないように彼らについていった。
食堂には居間のテーブルよりもさらに大きく十人まで座れそうなものが中央に置かれていた。一番奥の席にベルナルドが座り、そしてひとつ席を空けてアントニオ、その次にジュリア、グレコと続いた。空いた席にはマリーナが座るのだ。これが定位置であった。
「お、そうだ。エミリアが欲しがってた本を買ってきたんだった」
ベルナルドはエミリアをテーブルの上に置き、荷袋から書物を取り出した。その背表紙には、『これで初級魔術はバッチリ! 初心者のための魔術本』と書かれていた。
エリオやエミリアは文字に関しても既に理解していた。エミリアが文字を見るたび、マリーナに質問攻めしていたのだ。エリオはそれをよこで聞いていた。
この世界では書物の価値はそれほど高くはない。写本士と呼ばれる職業があり、彼らが日夜写本をしてくれている。『速記』のアビリティをもつため、その写本のスピードは常人が目で追えないほどなのだ。
エミリアはテーブルの上で魔術本を開き、それを読み始めた。
「それにしても、一歳半なのに魔術本を欲しがるなんてエミリアちゃんの将来が楽しみですねベルナルドさん」
「まだ文字を理解してないだろうがな。まあ何にしろ本に興味をもつのはいいことだ」
グレコの問にベルナルドは大きな口を開けて嬉しそうに応える。
(魔術本……今後のためにも俺も読みたい。赤子はなんでも真似したがるっていうから大丈夫か?)
「ほん、ほん!」
エリオはエミリアに向かって手を伸ばし、本を読みたいとジュリアに意思表示をした。
「な、なんだ!? 本を読みたいのか! わかった、わかったから暴れないでくれ!」
ジュリアはベルナルドの前にいるエミリアの隣にエリオを置いた。
「じゅいあ、あいがと」
「お、おう……」
エリオが舌足らずな言葉でお礼をいうと、ジュリアの相貌がデレっと崩れる。赤子をあやすのは苦手だが、赤子自体は好きなようだ。
「嬉しそうじゃねえかジュリア」
「珍しい表情だなジュリア」
「そんな顔もできるんだねジュリア」
男三人がそんなジュリアのことをからかう。
「俺のことをジュリアって呼ぶな! ドナートっていうミドルネームがあるんだから!」
彼女は女らしいジュリアという名前を嫌っていた。ドナートという男らしいミドルネームを勝手につけ、知人にそっちで呼ぶように強要するほどに。しかし浸透はしなかった。
彼女のよく溢す愚痴に男に生まれたかった、というのがある。そのため、一人称が俺であったり、男らしい言葉遣いを用いたりしているのだ。
「あ、いや、いまのはキャプテンに言ったわけではないっすからね!」
キャプテンとは幹部の別称であり、ジュリアはベルナルドのことをこう呼ぶのだった。
(さてさて、魔術本には何が書かれているのやら……)
ジュリア達のやりとりには目もくれず、エリオはエミリアの隣に座り、魔術本を眺める。エミリアはエリオが見やすいように、横にずれてくれた。
魔術についてはリリーに聞いたこともあったが、感覚的にしか説明してもらえず、理解することは難しかった。彼女たちはこの世界の人間たちのようにアビリティを持つわけではないので説明しきれないのは当たり前だったのかもしれない。
魔術について本にはこう書かれていた。
魔術というのは人間の体内にある魔素と自然にあふれるマナを、身体に取り込み練り合わせて魔力を生み出し、一定のプロセスを踏むことによって、魔力を現象としてこの世に顕現させる術のことである。
魔術には系統が存在し、その数は赫魔術、蒼魔術、翠魔術、そして無色を意味する無魔術の四つである。基本的に赫魔術は攻撃に長けており、蒼魔術は回復、翠魔術は支援、無魔術はそれらに分類できないものである。
これらの魔術は必要とするマナが異なる。
赫魔術であれば、赫マナを練り込んだ魔力が必要となり、蒼魔術であれば蒼マナ、翠魔術であれば翠マナが必要となってくる。
そして肝心のマナだが、自然にあふれているといった通り、これは空気中に漂っており、魔術師たちはそこからマナを得ている。しかし、マナの分布には偏りがある。砂漠や熱帯地域、火山では赫マナ、水辺や雪原では蒼マナ、森や草原では翠マナがが多く漂っている。下級魔術ならば、どこでも使えるだろうが、中級以降はより多くの対応したマナが必要となってくるため、場所によっては使用できないことが多々ある。
また無魔術についてだが、これは無色マナが用いられる。無色マナはどんな場所でも大量に得ることができるため、場所による制限を受けない。しかし、その分効果も薄いものが多い。また無魔術のみマナの代替使用が確認されており、赫、蒼、翠のマナを用いても無魔術は発動する。
プロセスについては、基本的に魔力を練り上げた後、使用する魔術の詠唱をおこない、その後、名称を口にするだけで良い。だが、本人が覚えていない魔術は発動できない。使用したい魔術があるならば、対応した魔術のアビリティレベルを上げて習得しなければならない。
(複雑に書いてあるけど、魔素とマナで魔力を生み出して詠唱したら発動できると。注意しなきゃいけないのは、発動する魔術と練り込むマナが対応してなきゃいなけないってことか)
エリオは要点を頭のなかに叩きこむ。他のことは明日からでも隠れて練習して覚えていけば良いと考えた。
だが、このページの最後の一文にこう書かれていた。
なお、三歳になるまでは魔術の練習を堅く禁じる。身体ができていないためマナ中毒に陥りやすく、最悪死に至るためだ。これを読んでいるご両親は三歳未満のお子様が魔術の練習を始めないよう注意して欲しい。
(マジか……こんなので死んだら洒落にならない。三歳まで待つか……)
エリオはそう思い直した。そこに白パンをバスケットに入れたマリーナがやってきて、もうご飯だからと読書を止めさせられた。
その時、目の前に突然リリーが現れた。
「転生者が残り八十人になったわよ! 神様から今さっき連絡があったのよね!」
朗報だと笑顔を湛えてリリーはそう言った。
(い、いきなり出てくるなよ! びっくりするだろ)
何もないところで驚いていたら、不審がられる。エリオはそれを心配していた。なにより、この報告はエミリアの『案内人』もしているのだろう。このタイミングで驚くなどしたら、それは疑われる要素となるのだ。
リリーはエリオの文句も聞かず、一人で浮かれていた。
(それにしても、一年で八十人か……多分殺し合いをして、ってわけじゃないんだろうな……)
運悪く命を落としてしまったのだろう。エリオ自身がそうであったように、転生した直後に命の危機に陥ったものもいるのだ。病で、餓死で、事故で、理由は山というほど考えられる。
赤子の五人に一人が命を落とす世界。この世界では命は軽いのだ。少なくとも、転生前の彼が住んでいた地球の日本ではありえない。
常識が異なるこの世界にエリオは恐れを抱くとともに、どこかで暗い愉悦も感じていた。
(アホか……不謹慎だろ)
そんな自分をエリオは叱りつけた。人が死んでいるというのに、喜ぶことなどあってはならない。だが、一向にその歓喜の情が静まることはなかった。非日常的なことに出会うと意味もなく興奮するのが人間だ。これもその一種だろう。彼はそう決めつけ、放置した……いや、本能的に向き合うのを避けたのだ。くらい愉悦のもととなる、心の中に巣食うどす黒い何かと目を合わせてしまえば、もう自分は逃れられないということを何処かで予感していた。
一方同じ転生者のエミリアはというと、悲痛な顔をしていまにも泣きだしてしまいそうだった。
神様選定試験はまだ始まったばかりなのだ。