09+へばっちゃった
わたしとハンスは、まずマーシャへ突撃した。離宮内で彼女が一番、宮殿とのパイプが強いのは、誰の眼から見ても明らかだったからだ。
本格的に皇帝との接触をはかっていこうと意気込むわたしたちだったが、さっそく出鼻をくじかれた。
マーシャが言うには、やっぱりハンスは成人するまでは表立って動くと、立場を悪くしてしまうそうだ。
わたしはわたしで一番厄介な存在らしく、実は離宮内ですら本来出歩いてはいけない存在だったそうだ。初耳なんですけど。
どうやらお飾り皇后の地位は、わたしの想定以上に弱いものらしかった。守秘義務が絡むため詳しくは話せないと頭を下げるマーシャを、わたしたちはねぎらった。
皇后にも言えない守秘義務ってことは、同じかそれ以上の権力を持った者が噛んでいるということだ。つまり皇帝、あるいは皇太后、政治のトップになりうる宰相、このくらいか。
実はマーシャは、彼女なりにわたしに心を砕いてくれていた。わたしに力をつけるよう、取り計らってくれていたのだ。王宮に内緒で、離宮内の使用人たちと触れ合えるようスケジュールをまわしたり、孤児院の慰問を企ててくれたりしたのも、彼女の一存だった。おかげで知らないうちにわたしは、離宮内ではすでに揺るがぬ皇后の地位に治まっている。わたしの居場所を作ってくれたのは、間違いなくマーシャである。わたしは泣いて彼女にお礼を言った。
そんなマーシャの立場を悪くしないためにも、わたしたちは離宮で自分にできることをすることにした。
それからは毎日ハンスのお勉強に付き添い、たまに中庭へ顔を出して息抜きに遊んで、調理場の男の子を冷やかしに通った。図書館は、まだ屋根裏部屋には怖くて行けないけど、梯子は登ったし物語をハンスに読み聞かせてやった。孤児院にも何回か顔を見せた。ちょくちょく出仕するシーザーを、ハンスは上手にあしらえるようになった。
そうして穏やかな日々を重ねて、わたしは離宮へ来てから一つ季節を越した。
じっとりとした夏を迎えた。
故国はけっこう涼しいところだったので、帝国の茹だるような暑さはわたしに堪えた。
なんと、体調を崩してしまったのだ。
いや、びっくりした。ボーッとして何も考えられないなーとは思ってたんだけど、どうやら高熱だったらしい。初めてだ。
「レナ、大丈夫? 頭痛くない?」
「うーん、平気。ボーッとするだけ」
なんとわたしは、常人なら寝込んでしゃべることもままならない高熱らしい。でも、そこまで切迫した症状がまるでなかった。食欲がなくて、喉がかわくくらいで頭痛も、食べなければ吐き気もなにもない。おっかしいなあ。個人的には、悲壮感が足りないんだよね。周りはとんでもなくブルーだけど。
わたしはついに部屋に導入された、猫足のソファーに身を沈めてのんびりとしていた。この部屋には椅子が足りなかったんだよ。足りないっていうか、なかったんだけどね。
足を桶の水に浸して、氷を包んだものを脇へ当てて極楽である。ハンスが隣に座って、扇で風を送ってくれるのが、かいがいしくて嬉しいけど申し訳ない。
かれこれ三日この調子だ。さすがにマーシャが危機を感じたらしく、宮殿へ出仕していった。なんかの許可をもらいに行ってきます、とか言ってたな。
サムが食べやすいものをって苦心してくれていて、わたしもそれを食べたいのに口へ運んだとたんえずいてしまい、悲しい顔をさせてしまった。無理に食べたらリバースしてしまい、泣いて平謝りされたときには自分の情けなさに絶望した。
以降は果実水でなんとか栄養を摂ってるけど、身体が思うように動かせなくて辛い。きつくなった体勢は、ガイア副隊長が変えてくれる。
そう、この近衛隊副隊長さまは、孤児院の件以来ちょくちょくわたしに付いてくれるようになって、今ではほぼわたし専属みたいな感じになっている。本職は皇子付き近衛騎士さまだっていうのに、介護なんてさせてしまいほんと申し訳ない。
健康って尊いものなんだなあ。そして普段のわたしは、自分が思っていた以上にせわしなく動き回っていたようだ。動けないことでかなりのストレスを感じている。なんなんだろこの症状。医者に診てもらったけど、はっきりとしたことはわからなかった。
「レナさま、お口を開けてくださいませ」
ユリア先生が、その綺麗なお顔の眉間にシワをよせて言う。わたしは深く考えずに口を開く。そしたら、冷たいものが口の中へ入ってきた。固形だ。甘い、氷だった。
「シャーベットにしようと思っていたのですけど、失敗してしまいましたの。これでも大丈夫そうですわね」
ほっとしたように緩められた口角が、本当に彼女が安堵したのだとわかる。
うーん、シャーベットは定期的に掻き交ぜないといけないもんね。ユリア先生って、いかにもそういうの向いてなさそうだもんなあ。でも作ってくれたのか。嬉しい。
「か、勘違いなさらないでくださいな。サムがどうしてもって言うからわたくしは……」
おいおい、どうしてここでツンを発動するんだよ。にやけが止まらなくなるでしょうが。
きっとサムのレシピで、ユリア先生が作ってくれたってことだろうな。サムってば『皇后陛下に食べられないものを作ったあげく、戻させてしまった』とか言って、とんでもない責任感じてたからなあ。今の自分じゃ許せないから、ユリア先生に頼んだんだろうね。そしてユリア先生も作ってくれたんだから、わたしって愛されてるなって思うよ。みんなありがとう。
「ユリア先生、もう一個いけそうなんでください」
「わかりましたわ」
ぼそりと「早くよくなってくださいませ」なんて言われて胸が熱くなった。よし、ソッコーで治そう! 具体的になにすればいいのかわからんが、やる気だけは満ち足りた。
ハンスが一連の流れを見て聞いていて「僕もシャーベット作る!」なんて言ってかけて行ってしまった。すかさずキース隊長も飛んで行った。きっと調理場だ。例の男の子が、また居心地悪い思いをするに違いない。わたしがいないから余計に。
ほんといろんなひとに迷惑かけているな。早く治したいよ。
ユリア先生も器を返してくると言って、ついでに水を変えてくるからと足元の桶を持って出ていってしまった。そんなことまでさせてしまい申し訳ない。たしかユリア先生って、貴族の令嬢だった気がするんだけど。よく考えなくてもとんでもない真似させてるなあ。わたしって、皇后なんだなあ。
もの思いに耽っていると。
「お御足を失礼します」
足首を掴まれた。誰って、そりゃガイア副隊長だ。今部屋には、わたしと彼しかいない。
「え、と、副隊長?」
ガイア副隊長は、だまってわたしの足の水気を拭き取ってくれている。ぐおおお、いたたまれなすぎて、体温がさらにヤバいことになってますから!
わたしはくすぐったいのを、死に物狂いで堪える。そんな丁寧に、指の間とかどうでもいいよ、そのうち乾くってふおおおお!
スカートの裾を握りしめて、意識をなるべく足から逸らす。脇に力が入りすぎて氷が冷たい。うん、鳥肌が立ってるのはこのひんやり感のせいですとも。
そっと足を下ろされて、一息つく。もちろん、もう片方もありますねくうう!
がちがちに固まっているわたしをよそに、ガイア副隊長はたんたんと介護してくれる。真っ黒髪のつむじを眺めていたら、不意に顔を上げた。黒い眼に、吸い込まれるかと思った。そういえばあんまり見ない色だなあ。ブラウンとかなら見たことあるんだけど。
「ほんとうに、お辛くはありませんか」
わたしに声をかけてくれているのだと気がつくのに、ちょっとかかってしまった。だってガイア副隊長って、事実確認とかお仕事に関することしか話さないから、こうやってわたしの体調を気遣ってくれるなんて、失礼だけどまさかと思ってしまったのだ。
「はい、大丈夫で、ございます」
だからわたしも、慣れないへんてこな言葉遣いでこたえてしまったのは、仕方がないことだ。ふっと副隊長が皮肉げに笑う。おいおい、あなたこそ大丈夫でしょうか? ほんと今日の副隊長はどこかおかしい。わたしの熱に、当てられしまってるんじゃないだろうか。
「申し訳ありません。貴女は『大丈夫』と答えるひとだというところに、付け込みました」
どうやらさっきのは自嘲だったらしい。いや、謝らないでよ。わたしはしんどかったら、それはもう自分の限界をひとに訴えかけて回る、うっとうしいヤツだから! 今はほんと、身体が言うことをきかないくらいで、そんなにしんどくないんだよ。
「ほんとに大丈夫だよ?」
「いいえ。大丈夫じゃなければならない。貴女は立場上、そう答えるしかないのです」
ぐ、と胸に鉛が沈み込んできたような重みが走る。そうだね、わたしは皇后だから、もっと自覚持たないといけないね。それを教えてくれたんだろうか。
ガイア副隊長がわたしの手を取った。脇から氷が落ちてしまうが、そんなことに構っていられない。副隊長から眼が離せなかった。
「だからこそ、我々が支えます。わたしが、貴女をお守りいたします」
初めてのときみたいに、ガイア副隊長はわたしの手の甲へ口づけた。でも今日は手袋はしていなかった。わたしの手がほてりきっているせいで副隊長の熱は感じなかったけど、そのやわらかさがちょっとだけ怖かった。ときめくのが、正解だった? でもたしかに光栄なんだけど、彼の期待に、思いに応えられる自信がなくて、ただただ押し潰されそうだった。皇后になるって意気込んだ割に、怖じけづく程度の心構えなことにも気がつかされて、いたたまれなくなった。
+ + +
落とした氷を脇へ抱え直してもらっていると、扉がものすごい音を立てて開かれた。
「ガイア殿! それ以上はなりませんぞ!!?」
ヘンリーだった。手にお花を抱えて、何やら切羽詰まっている。
「ヘンリー、どうしたの?」
ガイア副隊長に、収まりよく座り直させてもらいながら尋ねる。ヘンリーはポカンとしている。
「あ、いえ、その……はやとちりでした」
ぜっっったい、その内容は詳しく聞かないからな! 言うなよ!?
「いやあ、てっきりアタシは、ガイア殿がレナさまに迫ってんのかと思っちまいましてねえ。ドキドキしてたんですわあ」
言うなって言ってんだろうがあああ!?
わたしたちは、正しい皇后と近衛騎士だよ。清らかな関係だからね!? わたしには皇帝がいるって、何度言ったらわかるんだ。あ、そういえばヘンリーの前で口に出したことはなかったかもしれない。
そしてガイア副隊長は、顔色も表情もまるで変えない。仕事以外のこと認定なのかしゃべりもしない。いつも通りの様子にちょっと安心した。
「それにしても、あー、ロマンスだったなあ」
なんか見たことある。あれだ、今のヘンリーは、孤児院の女の子たちと同じ眼をしている。夢見る乙女か。おじいさんに片足つっこんでる歳のくせに。
しかしこの庭師、いつから見てたんだろう。聞きたくないけど気になる。
「あ、ちなみにユリア嬢と入れ違ったんで、お二人のことはぜんぶ見てました」
てへ☆じゃないよ、とっとと入って来いよ! なんでのぞき見してるんだよ!
ダメだ、声を出すのが億劫でツッコめない。わたしは自分で感じている以上に体力が残っていないようである。ひょっとしたら『しんどい』と感じる器官に、ガタが来てるのかもしれない。ってよく考えたら、それってヤバいくないか?
マーシャがいち早く動いた意味に、ここでようやく気がつく。彼女がわたしから離れてまでもなにかを成さなくちゃいけないほど、事態は深刻なのか。うわー。そりゃガイア副隊長だって励ましてくれるわ。
とにかくわたしはこれ以上体力を消耗しないように、ヘンリーにお礼だけ言って眠ることにした。