第99話 氷の檻に囚われた娘
俺が領地の外れで魔獣の残骸を片付けている間、家の裏庭では、静かな午後が流れていたはずだった。
ジュリアはいつものように、アインと一緒に庭の木陰で遊んでいた。
五歳の兄妹は、木の枝で作った剣を振り回し、笑い声を上げながら追いかけっこをしていた。
ミユウは少し離れた石のベンチに座り、二人の姿を優しい目で見守っていた。
陽光が彼女の銀髪を照らし、柔らかな風が裾を揺らす。
そんな穏やかな光景の中に、異変は音もなく忍び寄った。
最初に気付いたのはアインだった。
「ジュリア、こっち来て!」
アインが木剣を構えながら呼んだ瞬間、ジュリアの足元で地面が――凍りついた。
小さな靴底が、薄い氷の膜に張り付く。
ジュリアは驚いて足を引こうとしたが、すでに氷は彼女の足首まで這い上がり、細い脚を白く締め上げていた。
「え……?」
小さな声が漏れる。
ジュリアの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、氷の棘が地面から無数に突き上がり、彼女の体を包み込むように囲んだ。
「きゃあっ!」
悲鳴が庭に響いた。
ミユウがベンチから跳ね上がる。
長い銀髪が乱れ、普段の穏やかな表情が一瞬で引きつった。
「ジュリア!」
彼女は駆け出した。
しかしその前に、湖の方角から冷たい風が吹き荒れ、庭全体を白い霧が覆った。
霧の奥から、ゆっくりと姿を現したのは氷の悪魔シャインだった。
半透明の青い体躯。
長い髪は氷の糸のよう垂れ、指先から鋭い氷の棘が伸びている。
黒い瞳が、ジュリアを――そしてミユウを捉えた。
「可愛らしい子だ……」
シャインの声は、湖底から響くような低く冷たい音色だった。
その声がジュリアの耳に届いた瞬間、彼女の小さな体がびくりと震え、涙がぽろぽろと零れた。
「いや……! ママぁ……!」
ジュリアは必死に手を伸ばすが、氷の棘が彼女の腕を絡め取り、ゆっくりと引きずり始めた。
地面を這うように、ジュリアの体が湖の方へ運ばれていく。
「離しなさい!」
ミユウの声が鋭く響いた。
彼女は両手を広げ、光の粒子を指先に集め始める。
しかしシャインは嘲るように首を傾げた。
「人間の母か……。
その子は、私の氷の中で永遠に眠るがいい」
氷の棘がジュリアの体を完全に包み込み、彼女の小さな悲鳴が霧の中に吸い込まれる。
次の瞬間、ジュリアの姿は霧の奥へと消えた。
「ジュリアァァァ!!」
ミユウの叫びが庭に木霊した。
彼女は躊躇なく霧の中へ飛び込み、湖畔へと駆け出した。
アインが呆然と立ち尽くし、木剣を握った手が震えている。
「ママ……ジュリア……」
アインの小さな声が、風に掻き消された。
湖のほとりにたどり着いたミユウは、息を切らしながら周囲を見回した。
湖面はすでに一面の氷。
その中央に、シャインが悠然と浮かんでいる。
そして――氷の柱の中に、ジュリアが閉じ込められていた。
小さな体は透き通った青白い氷に抱かれ、両手を広げたまま固まっている。
銀色の髪が氷の中で揺れ、閉じられた瞼の下で睫毛が微かに震えていた。
唇は青ざめ、凍りついた涙の跡が頬に白く残っている。
「ジュリア……!」
ミユウの声が震えた。
彼女は湖面に足を踏み出し、氷の上を滑るように進む。
シャインは動かず、ただ黒い瞳でミユウを見つめていた。
「その子は、私のものだ。 お前がどれだけ叫ぼうと、氷は溶けぬ」
ミユウは歯を食いしばり、両手を前に突き出した。
「返しなさい……!」
光が彼女の指先から迸る。
しかしシャインは片手を軽く振っただけだった。
氷の鎖が無数に伸び、ミユウの足首を絡め取る。
次の瞬間、彼女の体は引きずられるように氷の上に倒れ、鎖が四肢を締め上げた。
「ぐっ……!」
ミユウの小さな呻き声。
彼女は必死に抵抗し、光の粒子を再び集めようとするが、氷の鎖がさらに強く締まり、息すら詰まらせた。
「ママ……!」
氷の柱の中から、ジュリアのか細い声が漏れた。
その声に、ミユウの瞳が燃えるように光った。
「貫け――天柱の矢!!」
光の槍が一直線に迸り、シャインの胸を貫こうとした。
鋭い光が湖面を切り裂き、氷の悪魔を狙う。
だがシャインは両腕を広げた。
氷の壁が瞬時に展開され、光の槍は壁に突き刺さって粉々(こなごな)に砕け散った。
破片が雪のよう舞い、ミユウの頬を切り裂く。
「無駄だ……」
シャインの右手が振り下ろされる。
氷の鎖がさらに増え、ミユウの体を完全に包み込んだ。
彼女の悲鳴が、氷の中でくぐもって響く。
「ママァァァ!!」
ジュリアの泣き声が、氷柱の中で響き渡った。
その瞬間――遠くから、雷鳴のよう足音が近づいてきた。
俺だった。
森を抜け、庭を駆け抜け、湖畔に飛び出した時、視界に飛び込んできたのは、氷の柱に閉じ込められたジュリアと、その足元で氷に絡め取られたミユウの姿だった。
「ジュリア……ミユウ!!」
俺の叫びが湖全体を震わせた。
シャインの黒い瞳が、ゆっくりと俺に向けられる。
「来たか……絆の守護者よ」
俺は剣を抜き、柄を握り潰す勢いで力を込めた。
紫の炎が刃に宿り、周囲の空気を歪ませる。
「てめぇが……俺の家族に触れたな」
俺は湖面を蹴り、凍てついた水の上を滑るように駆け抜けた。
「アストラルフレイム!!」
紫炎の剣が閃き、シャインの胸を斜めに斬り裂いた。
氷の体が悲鳴のよう音を立てて砕け、衝撃波が湖面を震わせ、氷柱に深い亀裂が入る。
俺はすぐさまジュリアの氷柱に駆け寄り、剣を振り抜いて叩き割った。
砕けた氷が雨のよう降り注ぐ中、崩れ落ちるジュリアを両腕で受け止めた。
「ジュリア……!」
小さな体は冷たく、震えていた。
俺の胸に顔を埋め、熱い涙が俺の服を濡らす。
「パパ……パパぁ……」
次に、ミユウの氷柱を砕き、彼女を抱き止めた。
「ミユウ……!」
彼女の体はさらに冷たく、唇が青ざめている。
それでも、俺の首に腕を回し、弱々(よわよわ)しく囁いた。
「……あなた……」
俺は二人を強く抱きしめた。
シャインの残骸が、砕けた氷の奥から低い声を発した。
「聞いて愕然とするがいい……七つの宝玉の伝説を……」
光の粒子となって消えゆく悪魔の最期の言葉。
俺はミユウとジュリアを抱いたまま、動けなかった。
胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に動き始めていた。
この平穏は、もう終わりだ。
夜風が、凍てついた湖面を撫でていく。
遠くから、神官たちの松明の光が近づいてくる。
俺は二人を抱きしめながら、静かに息を吐いた。
――来るなら、来い。
何度でも、俺はお前たちを斬る。
ただ、それだけだ。
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