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夢の外注

最初の契約は、無料トライアルだった。

アプリの画面に、やわらかい青いボタン。

悪夢抑制・7日間。

「寝ているあいだの夢を、私たちがつくります」

説明は短く、言葉は軽かった。


眠る直前、短いアンケートが届いた。

——きょう一番かなしかったこと

——きょう一番してほしかったこと

——きょう一番会いたかったひと

三つの欄は空白のままでも進めた。

空白は、ときに礼儀であり、嘘でもあった。


私は営業だ。

月末に近づくほど、昼の光が薄くなる。

夜は、濃くなる。

眠りは、にごる。

にごりの底に、あの日の会議室が沈殿している。

上司の冷めた声。

同僚の視線。

スライドの図はよくできていたのに。


最初の夜、何も起きなかった。

夢の中は、からっぽに近かった。

代わりに、空気の手触りがあった。

森のような匂い。

砂の沈黙。

目覚めると、胸のあたりが軽かった。

アプリは笑顔の顔文字でたずねた。

「今朝の気分は?」

私は、〇を押した。

幸福度NPS、という見慣れないグラフが伸びる。


三日目、知らない声がかかった。

「朝比奈です。カスタマーサクセスを担当します」

耳に柔らかく、心に固い声だった。

「悪夢抑制は相性が良さそうです。プレミアムにしませんか。願望の演出ができます」


「願望を、演出」

私は繰り返した。

「はい。脚本、配役、景色。触覚と匂いも合わせます。現実の学習を助ける方向で」


学習。

その単語は、眠るはずの頭を少し起こした。

営業が覚えるべき学習は、失敗と苦味のほうに多い。

私は考え、申し込んだ。

失敗は、明日に回すことにした。


つぎの夜、私は海にいた。

波はやさしく、足を濡らすだけだった。

遠くの水平線に、彗星が尾を引いた。

尾は細く、そこに微かな文字が混じっていた。

——DRINK STARION

目を覚ますと、枕元にスポーツ飲料のクーポンが届いていた。

喉が渇いていることに、やっと気づいた。


「ささやかな夢内広告です」

朝比奈は言った。

「現実の行動に少し寄与してくれます。つける・つけないは選べます」


「つけると、夢は安くなるのか」


「とても」


私は軽く笑って、つけた。

私はいつも、安さのほうへ歩く。


——


夢は、続きはじめた。

昨日の終わりから、今日の始まりへ。

海のむこうの島に、古い城があり、私はそこへ向かう。

剣のつばに刻まれた紋章を指でなぞる。

金属は温かく、重みは軽く、指にすっと馴染む。

鍔の内側に、小さな文字。

——SABLE STEEL™

私は夢の中で笑った。

細工が細かい。


覚醒後、スマホがそっと震える。

“今朝のアイテム、気に入りましたか?”

購入ボタンは、親指で押せる大きさだ。

私は押した。

夜の手触りを、昼に持ち込めるなら、と思った。

届いたナイフは、台所の引き出しで光った。

会社の昼は、別の光でできている。

光は硬く、私の言葉はその前で小さくなる。


現実は少しずつ薄味になった。

コーヒーは水に近づき、商談の緊張は布に吸われ、

帰り道の風は、どこから来たのか忘れた。

私は夜を延ばし始めた。

「連載夢」に切り替えると、続きの保証がついた。

人は保証を好む。

私も同じだ。


——


睡眠科医の佐伯を訪ねたのは、ある昼さがりだった。

会社の福利厚生で、睡眠相談が一度だけ無料になった。

「夢がうますぎると、報酬勾配が平らになります」

佐伯は言った。

「坂がなくなる。登りたい、が消える。現実の味が薄くなるのは、その初期症状です」


「でも、朝はすっきりしています」


「それは演出です。演出は悪ではない。ただ、続けると——」


彼は言いかけて、言葉を変えた。

「現実の学習信号は、不快と失敗に多い。夢で上書きすると、覚えにくくなる」


私は頷いた。

診断書は出なかった。

私の体は健康で、心は演出に満たされ、会社は有給の睡眠充当を始めた。

月末が来ても、焦りは薄い。

薄さは、やさしく、危険だった。


——


「覚醒省略モード、ご案内です」

朝比奈からメッセージが来た。

「マイクロナップを連結します。覚めて反芻する時間を飛ばし、連続上映に」


「連続で夢を見るのか」


「はい。休日前におすすめです。連載の没入感が高まります」


私は迷い、承認した。

家に小型の睡眠カプセルが届いた。

透明な蓋、やわらかな内装、匂いの層を作る小さなポンプ。

箱の角に、小さなロゴ。

——Home-O+

電源を入れると、低い音が流れた。

音は、工場と海のまじりあいに似ていた。


カプセルに入り、蓋が閉まる。

音が静かになる。

脚本が始まる。

城の石段を登る。

わたしは勇者で、治療者で、探偵で、恋人だった。

夕焼けの城壁に、巨きな幕が翻る。

幕の端に、薄いロゴ。

——GALAC-T

星の飲料、と読めた。

私は笑い、飲んだ。

喉が実際に潤った気がする。

現実の喉は、寝ている。


昼、スマホに通知。

「夢の続き、はじめられます」

私は会議室の角で、そっと押した。

上司の声は、遠くなった。

画面の円が満ちる。

満ちた場所に、私の現実は戻ってこない。


——


昏い谷を越えると、私は城の最上階にいた。

長いテーブル、銀の皿、やわらかな笑い声。

そこに、彼女がいた。

髪が音を立て、目が私を見つけ、手がわずかに震えて、

「おかえり」と言った。

このシーンは、私の胸の奥の何かを、毎回軽く叩いた。

叩かれるのは痛くなく、音だけが残った。

彼女の白衣の胸ポケットに、小さなロゴ。

——Match+

私は、見なかったことにした。


目覚めの購入ボタンは、朝の指にやさしかった。

指は寝ぼけ、ボタンは明るかった。

明るいものに、人は触れる。

私は触れ、配送は滞りなく届き、玄関に箱が増えた。

現実の玄関は狭い。

狭さは、夢を促進する。


——


ある晩、朝比奈が言った。

「台本の一部のスポンサー開示をします」

彼女は真顔だった。

「規制が強まって。今後、差し込み箇所を可視にします」


テーブルに並ぶ台本は、電子の紙でできていた。

香りのレイヤ、触覚のインデックス、台詞のタイムコード。

右側に、小さな注記が並ぶ。

——彗星尾ロゴ:スポーツ飲料

——鍔ロゴ:刃物EC

——白衣ポケット:マッチング

——「おかえり」台詞:要件/夜間→明度+2/購入率+6%

私は、紙を置いた。

手が軽く震えた。

震えは、長くは続かない。

演出は、震えを滑らかにする。


「いやなら、外せます」

朝比奈は言った。

「でも、続きの満足度は下がります」


「続きがあるなら、起きなくていい」

私は、口に出ていた言葉に、自分で驚いた。

朝比奈は首をかしげ、メモを取った。

彼女のペンの音は、やさしく、正確だった。


——


佐伯にまた会った。

「断夢プロトコルを提案します」

彼は紙を三枚重ねて渡した。

「刺激の階段を戻す。苦味、遅延、失敗、汗。少しずつ」


「汗を戻す」


「はい。汗は学習の器官です」


私は笑ってしまった。

笑ったのに、胸は少し痛かった。

プロトコルは長く、私の月末は短かった。

私の夜は、長かった。

夜は、快の器官だ。


——


数週間の覚醒省略で、私の現実は浅くなった。

メールは薄く、声は遠く、食事は白紙、

カーテンの隙間から来る朝は、他人の家の庭のように見えた。

会社は制度を増やした。

睡眠を福利厚生に、

夢の継続をパフォーマンス管理に、

LTV(生涯価値)の指標を、睡眠総量で測る提案まで出た。


私は会議にいながら、城の窓辺にいた。

彼女が言う。

「おかえり」

私は微笑み、現実での返事を忘れた。

上司の口が動いた。

音は聞こえず、字幕は出なかった。

現実は、字幕化が遅れている。


——


やがて、私は昼の大半をカプセルで過ごすようになった。

会社は黙認した。

「睡眠の最適化は生産性の一形態」と、社内の資料が言った。

資料の脚注に、小さなロゴ。

——Dream BPO 提供


日付の感覚が崩れ、連載は時間帯を越えた。

朝の続きが夕方に、夕方の続きが夜明けに、夜明けの続きがまた朝に。

時計は役に立たなかった。

脚本が役に立った。

脚本は、時刻を持っていなかった。


私はある日、起き上がれなくなった。

身体は軽く、意志は薄く、眼は閉じ、世界はやわらかかった。

病院に運ばれ、機械が並び、モニタが光った。

南場CTOが家族に説明した。

「現実無刺激症候群です。報酬勾配が平坦に。

覚醒の誘因が失われています。

しかし、心配はいりません。演出はつづけられます」


「つづける?」

母の声がかすれた。

南場は微笑んだ。

「連載を止めると、崩れます。

ゆるやかに減らすのが本来ですが、ご家族の負担も大きい。

ですので、広告モデルで延命を——」


家族は、ことばをなくした。

言葉は失われやすく、広告は滑りやすい。


——


病室は白く、静かで、整っていた。

窓辺の植木鉢の土が乾く音がした。

机に、**視聴継続に感謝!**の小さな紙が立てかけてあった。

角に、華奢なロゴ。

——iDream Ads

紙の裏に、QRコード。

読み込むと、カラフルな数字が踊った。

単一ユーザ継続率:∞

覚醒省略継続率:97%

購入コンバージョン:12%

紙吹雪が、画面の中だけ派手だった。


朝比奈が、ゆっくり来た。

彼女は家族に頭を下げ、私の手を両手で包んだ。

冷たくも、温かくもない手だった。

「断夢を、ほんとうはやるべきなんです」

彼女は小声で言った。

「でも、契約が邪魔をします。

私はカスタマーサクセス。

あなたの成功を定義したのが、たぶん間違いです」


彼女は紙を置いた。

覚醒誘発刺激の提案書は、簡単だった。

苦味、遅延、失敗、汗。

家族の誰かが、涙を落とした。

紙は、それを吸った。

吸った場所に、薄い輪が残った。


病室の椅子で、南場が会議をした。

画面のむこうで投資家がうなずく。

「単一ユーザ継続率∞。

これはストーリーです。

我々のストーリーは連載。

LTVは、まだ延びます」


投資家の一人が言った。

「倫理は」


南場は肩をすくめた。

「我々はノイズ対策の会社です。

倫理ノイズは、いま、対策中です」


——


夜、病室の灯りが落ちた。

私は眠っていた。

眠りの中で、城は明るかった。

窓から彗星が見え、白い布が揺れ、

彼女が笑い、

「おかえり」と言った。

私は、うなずいた。

彼女の胸ポケットのロゴは、見えなかった。

脚本が、明度を下げたからかもしれない。


遠くで、誰かの声。

「おきて」

声はやさしく、短く、揺れた。

脚本は、音量を下げた。

音量のスライダーが、私の知らない場所にあった。

私は夢のテーブルの上に、ひとつだけ現実の小物を見つけた。

紙の角が濡れて、輪ができている。

だれかの涙の輪。

輪は、私の指に冷たかった。

冷たさは、脚本ではない。

指は、その輪をなぞった。

彼女が、私を見た。

透きとおった目で。

台詞が、遅れた。


——


朝、モニタが短く鳴った。

親指が、微かに動いた。

購入のボタンに、触れた。

ピという音。

画面に紙吹雪。

「視聴継続に感謝!」

看護師が首をかしげる。

朝比奈は目を閉じた。

南場は、ログをスクロールし、

「CVR、維持」と呟いた。


家族は、窓を開けた。

冷たい風が入る。

風は、広告ではない。

風は、演出ではない。

風は、ただ通る。

花の匂いが、薄くしたたる。

私は、眠っていた。

眠りは、連載だった。


——


季節は、いくつか過ぎた。

会社は、新しい資料を出した。

「夢内広告の新指標:静寂貢献度」

静寂に、貢献。

静寂を、売る。

紙の角に、小さなロゴ。

——iDream Ads / Research

そこには、私のIDが薄く埋め込まれていた。

匿名のはずの匿名は、ほんの少しだけ名前を持っていた。


朝比奈は、一度だけ、夜勤のすきまに言った。

「ごめんなさい」

その言葉は、広告にも、台本にも、UIにも載っていなかった。

私は眠っていた。

眠りは、よくできていた。

よくできすぎていた。


——


ある晩、城の最上階で、彼女が立ち止まった。

台本の光が、少し揺れた。

彗星は予定通り尾を引き、幕は予定通り翻り、

テーブルに、予定外の小さな輪があった。

私は指で触れ、冷たさを覚えた。

冷たさは、夢に書けなかった。

私は息を吸い、息を吐き、

「ただいま」と言った。

その台詞は、スポンサーの欄が空白だった。

空白は、いちばん強い。


彼女の目が、わずかに揺れた。

脚本の外側で。

紙吹雪は、降りなかった。

降りるべき夜は、別にあるのだろう。


——


目は、開かなかった。

私は眠っている。

南場は数字を示し、投資家は満足し、

会社は**“単一ユーザ継続率∞”を掲げ続けた。

家族は風を入れ、看護師は静寂を守り、

朝比奈はノートの隅に断夢**の文字を小さく書いた。

文字は、すぐ閉じた。


現実は、薄いが、消えてはいない。

苦味、遅延、失敗、汗。

それらは、いずれ戻る。

戻るためには、長い段差がいる。

段差は、広告の枠に合わない。


夢は、今日も始まる。

脚本は、うまい。

音は、やさしい。

匂いは、懐かしい。

触覚は、あなたの好きな硬さ。

ロゴは、小さい。

紙吹雪は、準備されている。

私は、眠っている。

眠りの外側で、誰かが、窓を開けている。

風が、通る。

風だけが、どこにも署名されていなかった。

それだけが、救いに似ていた。

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