30.孤立無援
前方は見えない何かで弾かれると悟った狼竜は、左に右にと攻撃を仕掛けてくる。でも、唐突に真正面から突進してくることもあった。一瞬たりとも気が抜けない。
後ろを振り向くことなく狼竜の動きに集中していると、護衛騎士が私の真横につく。ふたりとも息が上がっていた。もう十五分以上経っているだろうに、応援が来る気配はない。
「魔法士殿、あとどれくらい持つ?」
「分かりません。ですが、この大きさを維持できるのは長くないと思います」
私の返事を聞いた騎士は顎で右横を指す。
「あちらの方角に小さな岩洞がある。入り口の大きさは人ふたり分くらいだ。その大きさの防御の盾ならどうだ?」
「それなら、今よりは長く保ちます。騎士様、その血っ……」
彼を見れば、だらりと下がった左手から血が滴り落ちている。攻撃を防いだときに狼竜の爪で抉られたのだ。彼は荒い息の合間に「平気だ」と告げる。……全然大丈夫じゃない。
移動には当然リスクが伴う。でも、それを選択しなければいけないほど差し迫った状況なのだ。
「では、そちらに移動しよう。応援を待つ余裕はない。ちなみに移動中に防御の盾はどうなる?」
「弱まると思ってください」
水を入れたコップを持って全力で走れば水が溢れる。感覚としては、そんなふうに盾も揺らぐのだ。
「分かった、全力で援護する。それと、片手では使えないから魔法士殿がこれを持ってくれ。応援の声が微かでも聞こえたら迷わず打ち上げて欲しい」
騎士は腰に携帯している発煙弾を取るように促してきた。私は頷くとすぐさま、それを空になった自分の発煙弾入れに差す。
騎士の顔は真っ青だ。余計なことを話している時間はない。
彼は振り向くことなく、今の状況を簡潔に説明し岩洞に移動することを後ろに伝えた。
「ここからは見えませんが生い茂った先にあります。何も考えず全力で走ってください。中に入れば、魔法士殿が防御の盾で入口を守ってくれます。最後尾は私です。質問はありますか?」
ただ息を飲む音だけが聞こえてくる。あの王女でさえ黙ったままだった。騎士の腕から流れる夥しい血が、説明に説得力を与えたのだ。
彼は私を横目で見る。私が頷くと同時に「走れ!」と彼が叫んだ。
走り出すと同時に、私は防御の盾を後ろに向かって発動する。正直どれくらい揺らいでしまっているのか分からない。こんな状況で出すのは初めてだから。
この時になって初めてザラ王女以外に誰がいたのか認識する。
ザラ王女とシャロンとあの侍女のうちのふたりが並ぶように走っている。その後ろに兄と私と騎士が続く。
「ギャインッ」
狼竜の悲鳴が後ろから聞こえる。私達の動きにつられて思いっきり防御の盾にぶつかったんだろう。ダメージが大きいことを祈りながら一心不乱に走っていたその時、前を走る侍女のひとりが転んでしまった。
「た、助けて、誰か……」
狼竜は弱い獲物に狙いを定め迫っていく。
ノアと騎士が侍女のもとに駆け寄った。
前方にいる私達と、後方にいる彼らの間に割り込む形で狼竜が入ってきた。分断される形となってしまったのだ。……私は複数の防御の盾を発動できないのに。
ノアが彼女を助け起こし、騎士は狼竜が繰り出す爪を剣で弾いている。でも、怪我を追っている騎士はどう見ても劣勢だった。
このままではやられてしまうわ……。
私は咄嗟に持っていた発煙弾を狼竜に打ち込んだ。「ググッ……」という唸り声とともに辺りに煙が充満する。たぶん、命中したのだ。
でも、後方にいた騎士達の姿も見えなくなってしまった。
「騎士様、お兄様!」
「シャロン、先に行け。そっちにはいけない。私達は煙に紛れて別の方角に逃げる」
「魔法士殿、どうか王女様をお願いします」
三人分の足音と共に、泣きじゃくる侍女の声がどんどん小さくなっていく。彼らは無事なのだ。私は踵を返して、岩洞がある方角に向かって走り出した。
「シャロン、絶対に……助け、……待ってろ……」
兄の声が切れ切れに聞こえてくる。その声音は妹を心から案じるものだった。
マーコック公爵家を出る半年ほど前から兄と話す時間はほとんどなかった。彼が領地へ行くことが多かったからだ。 彼の言うシャロンはひとりなのか、それともふたりなのか。
……会って聞けばいい、きっと会えるから。お兄様、どうかご無事で。
微かな希望が私の足を前に動かしてくれた。
岩洞に着くと、中ではザラ王女とシャロンとひとりの侍女が身を寄せ合って震えている。私はすぐさま入口に防御の盾を発動した。頬を伝う涙を拭っていると、シャロンがふらふらと私に近づいてくる。
「まだ、お兄様が来てないわ……」
「騎士様とお兄様ともうひとりは違う方角に逃げたの」
もうここには来られない。外ではあの狼竜がこちらの様子を窺っている。
「どうして見捨てたの……」
シャロンが泣きながら私を責め続ける。私は唇を噛み締めて彼女の声を無視した。これ以上動揺しては盾が揺らいでしまうから。
応援がいつ来るか分からない今、岩洞にいる三人の命は私ひとりに掛かっているのだ。
「どうして池に行かなかったの! そのせいでこんなことになったわ。全部あなたのせいよ」
シャロンに続き、私を責め始めたのはザラ王女だった。
でも、言っている意味が分からない。魔法士としての未熟さを責めてるのなら池という言葉は出てこないはずだ。私は桔梗の花を取り出してみせる。
「行きました。私のせいとはどういう意味でしょうか?」
「ザラ様!」
「……ザラ様?」
王女の名をふたりが同時に呼んだ。
シャロンの声は王女を止めるものに聞こえた。一方で、残った侍女のひとりは、私同様に答えを求める声だった。




