18.俯かない
何者かに誘拐されて必死の捜索にもかかわらず見つからなかった、その事実しか私は知らない。
あまりの衝撃に、緩々と横に首を動かすのが精一杯だった。
「侍女達のお喋りを偶然耳にしたのでしょ? いいのよ、それは誰なんて尋ねないわ。いつかは知ったでしょうから。シャロン、あなたも私が赦せないのね」
「お母様の口から聞かせていただけますか……」
どうとでも受け取れる曖昧な言葉でお願いする。
そもそも何も知らないのだから、赦すも赦せないもない。だから、まず真実を知りたかった。
母は私から目を逸らすように、何もない空間に目を向ける。
「十七年前、赤ん坊だったあなたはすやすやとお昼寝していたの。一度寝ると一時間は起きない子だったから、私はあなたを部屋に残して、訪ねてきた友人とお喋りをしていた。ほんの短い時間だったのに、様子を見に行くとベビーベッドからあなたの姿は消えていたの……。なぜ目を離したと、あなたのお父様は私を責めたわ」
寝ている赤ん坊をひとりにするのはおかしいことではない。それに母親だって息抜きはする。
身構えていたけど、母が語る事実に肩の力が抜けた。
「お母様のせいではありません。お父様はやり場のない怒りを向けてしまっただけだと思います」
「違うのよ、私が招いた結果なの」
母はそう言うと自分の過ちを語った。
貴族は普通、乳母に子供の養育を任せる。しかし、母は自分のお乳で子供を育てることを望んだ。高位貴族にとってそれは大変珍しいことで、父は難色を示したという。
『あなた、お願いですわ。この手で我が子を慈しみたいのです。もし無理だったら、その時には乳母を雇いますから』
母の懇願を父は渋々受け入れ、兄も私も母のお乳で育てられた。そして、兄は何ごともなかったが、不幸なことに私は攫われてしまった。
貴族にとって乳母をつけることは当たり前だからこそ、父は母を、母は自分を責めたのだろう。でも、私は母を責める気持ちは湧いてこない。責められるべきは、私を攫った誰かだと思うから。
「公爵邸には人目が多くあります。そんななか行われた犯行です。仮に乳母がいたとしても、結果は変わらなかったかもしれません。誰だって憚りには行きますから、そういう時は目を離していたでしょう」
思ったままを素直に伝えた。
私が公爵邸を出たのは、母の本音を聞いたからとは言わない。それを口にする時は家族を捨てる覚悟が必要だ。それがないから、距離を置くことを選んだ……。
「では、赦してくれるの?」
「赦すも赦さないも、私は恨んでいません」
母は安堵の息を吐いてから、口元に手を当てて目元を潤ませる。
「そうね、そうよね。あなたは血が繋がった私の娘ですもの。どんなことがあっても、母である私を嫌ったりはしないわよね。そうだわ、少しだけお買い物に付き合って欲しいの。いいでしょ?」
母は私の返事を待たずに、嬉しそうに席を立った。慌てて私も席を立ち、母のあとに続いてお店を出る。
なんだろう、何気ない母の言葉――母である私を嫌ったりしない――が引っ掛かった。
私は母を嫌ってはいない。では、母は何があろうとも私を嫌わないのだろうか……。
そんなことを考えながら歩いていると、見覚えのある豪華な馬車が目に映る。マーコック公爵家のものだ。主のためにすでに扉は開けられていた。
「お帰りなさいませ、奥様、シャロン様」
「公爵邸に戻らずに、いつものお店に行ってちょうだい」
恭しく出迎えた侍女は「畏まりました」と告げてから御者にその旨を伝えに行く。大丈夫だと思うけど、念のために私は馬車に乗る前に釘を刺すことにする。
「お母様、狩猟用のドレスは買わないでくださいね」
「分かっているわ。残念だけど約束は守るから心配しないで、シャロン。でもね、普段着は贈らせてちょうだい。それではあまりに可哀想ですもの」
「えっ……」
向けられた憐れみの眼差しに、私はぎゅっと両手を強く握りしめて俯いた。
私は昨夜、何度も鏡の前に立って、今日、着る服を決めた。いつも高い位置で無造作にまとめている髪だって、おろして髪飾りを挿している。母に恥をかかさないように、頑張ってお洒落したつもりだった。自分の給金で買った服だから高級なものではないけど。
老魔法士は『おめかしして』と目を細めた。
ルークライは『似合っている、可愛い』と褒めてくれた。私だってなかなか良いと、今の今まで思っていた。
……なのに。お母様から見たら私はみっともないのですね……。
母に悪気はないのは分かっている。でも、何度目だろうか、何気ない母の言動に傷ついたのは。何も言えずに俯いていると、その時。
「カァッ、カァー」
鳴き声に顔を上げると、一羽の鴉が近くの木にとまった。足が一本しかないから白だ。自由気ままに散歩でもしているのだろう。白の来訪は、私に本来の自分を取り戻すきっかけをくれた。
俯くな、しっかり前を見ろ!
――王宮の鴉は決して鳴かない。
白は鳴くことなくじっとしている。ルークライにしか懐かないのに、まるで私を応援してくれているようだ。
ありがとうね、白。もう大丈夫だから、二度と自分を見失わない。
私は母をまっすぐに見つめ返し、憐れみの眼差しと向き合う。
「私は可哀想ではありませんから、服は要りません。ですから、今日はここでお別れします。それから、もし良かったら私のことは、これからリディアと呼んでください。通称ですが、しっくりくるので」
「あなたはシャロンよ! リディアではないわ」
「戸籍ではそうです。ですが、お母様は可哀想なことがお嫌いですよね?」
母は意味が分からないと、訝しげな顔を向けてくる。私は毅然と続けた。
「ふたりのシャロンがいるのは、慣れ親しんだ名前を変えるなんて義妹が可哀想と、お母様がおっしゃったからです。私もそう思います」
母はハッと目を見開く。私が言わんとすることが分かったのだろう。
「でも、それとこれは――」
「私は同じだと思います、お母様」
揚げ足を取るような嫌な言い方。でも、こうでも言わないと母には通じない。私が私らしくいられるのは、リディアのとき。そこを譲ってはいけないと思ったから一歩も引かなかった。
「……シャロン。やはり、私が赦せないのね」
違います、と私は言わなかった。もうそれについては十分に言葉を尽くしたから。




