15.心遣い
私は廊下を歩きながら何度も溜息を吐いていた。
ザラ王女とルークライの逢瀬を見てしまったあとすぐに、私はシャロンと別れた。『次の仕事の時間が迫っているから』と言ったけれど、それは嘘。本当はまだ二時間ほど余裕がある。
感情の起伏は仕事に差し障る。だから、落ち着く時間が欲しかったのだ。
兎に角、自分の机に座りながらお茶を飲んで心を静めないと。
机の奥に仕舞ってある高級な茶葉を使おうと思っていると、前方にタイアンと彼を囲むように立っている文官達がいるのに気づく。
彼も私に気づいたようで周囲の人達に何か言ってから、こちらに向かって来た。
「リディア、ずいぶんと早く終わったようですが何か問題でも?」
「実は仕事ではありませんでした。ザラ王女様は魔法士の仕事ぶりを確認したかったようで……」
「それはどういうことですか?」
彼の視線が厳しいものへと変わる。私にではなく、ここにいないザラ王女に向かってのものだ。
上への報告は義務なので、私は空中庭園で何があったのか話した。シャロンとの個人的な会話をのぞいて。
彼は眉間に深い皺を刻みながら、まずは謝罪を口にし、それから深い溜息を吐いた。
「唯一の王女なので周囲から甘やかされ過ぎましたね。まさか、お遊びのために魔法士を呼びつけるなんて。ザラには厳重に注意しておきます。リディア、本当に申し訳ございませんでした。叔父として心よりお詫びします」
「いいえ、タイアン魔法士長のせいではありませんから」
私はブンブンと首を横に振って、これ以上の謝罪を全力で拒んだ。ザラ王女とは違って、彼の謝罪には心が籠もっていたから。
彼女の謝罪はどこか軽く、あなたにはこれで十分という傲慢さが透けて見えるようだった。考えすぎかもしれないけど。
「ところで、何か心配事でもありますか?」
「そう見えますか……」
「なんとなく、いつもの元気がない気がしました。もちろん、私の気のせいかもしれませんが」
タイアンは微笑みながら私を見つめる。『気のせいかもしれない』と付け足したのは、話すも話さないも私の自由だと伝えているのだろう。彼は王族なのにいつだって謙虚だ。
婚約の話が本当か聞いてみたい。でも、公表されていない王族の婚約の話がどこから漏れたのかと追及されたら困る。シャロンの立場を考えると言えない。
だから、私は聞いても大丈夫なことだけ尋ねることにした。
魔法士の叙爵は珍しいことではない。基本、魔法士は貴族が多く平民は少ない。血筋によって自然とそうなるのだ。
国は平民の魔法士に爵位を与えたがるという。もちろん、それに値する活躍をしているからなのだが、それ以上に恩を売って国に縛り付けようという思惑があるらしい。
だから、叙爵の予定に関しては情報の取り扱いがかなり緩い。正式な公表前に心変わりされないようにと、文官がうっかり情報を流すらしい。というわけで、私が知っていてもおかしくはない。
「ルークが叙爵されると耳にしたのですが、本当ですか?」
「ザラですね。まったくあの子は口が軽い」
私は否定も肯定もしなかった。タイアンはそれを肯定と受け取ってまた溜息をついた。一応、ごめんなさいと、心の中で王女に謝っておく。
「何度も打診はありましたが、ルークライは『面倒くさい』と断っていました。ですが、最近気が変わったようで、叙爵を受けるみたいです」
何度もあったなんて知らなかった。彼は一度だって私に話したことはない。
一言ぐらい言ってくれてもいいのにな……。
私に報告をする義務などないけど、もっと信頼されていると思っていた。少し落ち込んでしまう。私はそれを顔には出さずに質問を続けた。
「気持ちが変わるようなことが、何かあったのですか?」
「私は彼から特に聞いてません。ですが、彼の『面倒くさい』を覆すような大切な何かがあったのでしょうね」
私は「大切なこと……」と思わず彼の言葉を繰り返してしまう。だって、心当たりがあったから。
「叙爵を受けたとしても、ルークライは何も変わらないと思いますよ。だから、心配いりません。これで憂いは晴れましたか? リディア」
「はい、タイアン魔法士長」
私が元気に返事をすると、彼は待っている文官達のもとへ足早に戻っていく。
私はまっすぐ廊下を歩いていき、それから階段を駆け上がるようにして最上階にある部屋に着いた。
数人の魔法士がいたけれど、みな報告書を書いているようで机に向かっている。
自分の机に座ると、何することなくぼーっとする。とっておきの茶葉で美味しいお茶を淹れるつもりだったけど、そんな気はもうなくなっていた。
じわりじわりと、先ほどタイアンと交わした会話が心に効いてくる。
大切なことって、あれだよね。……ザラ王女様のこと。
ルークライは爵位とか欲しがる人ではない。その彼が爵位を求めたのは大切な人と婚姻を結ぶため。彼女からお願いされたのか、それとも彼が自ら望んだのか。
どっちかな……?
我ながら間抜けな質問だと思った。どちらだとしても、彼の大切なことが王女絡みなのは変わらない。
ルークライには幸せになって欲しい。だから、彼が望んだ誰かと結ばれるのはとても喜ばしいこと。それなのに、どうしてかな……。
大切な妹のくせに、こんな未来がいつか来ると分かっていたくせに、辛くて仕方がない。
私は隣の机の上に置いてある湿布を勝手に拝借する。朝のときと同じようにぺたりと顔に貼って、椅子にもたれ掛かり上を仰ぐ。幸いなことに近くに誰もいないから、騒ぐ人もいない。
暫くそうしていると「うわっ!」と驚く声がした。
「リディア、また何やってるの?!」
この声はローマンだ。私よりも年上だけど同期で、誰に対しても優しい人。あの舞踏会の時だって嫌な顔一つせず代わってくれた。彼は組んで任務にあたっていた老魔法士と一緒に戻ってきたようだ。湿布で見えないけど、増した湿布の匂いで分かる。
「顔が腰痛なんです」
「変な冗談言ってないで、剥がしたほうがいいよ。ほら、ハッカの匂いが目にしみて涙が出てきてるから」
それなら余計に剥がせない。だって、剥がしても止まらないから。
私は湿布を貼ったまま上を向き続ける。
「もしかして罰ゲームとかなのか? それなら僕からそいつに言ってやるよ」
「いいえ、違いま――」
「顔が腰痛なんじゃ。なっ? リディア。節々の痛みという老化現象は人それぞれじゃ。ローマンよ、お前さんもいずれ分かる日が来るじゃろう」
私の言葉を遮った老魔法士は、聞かれてもいないのに、どんなに腰痛が酷いかつらつらと話し始める。ローマンがげんなりすると、老魔法士は彼に報告書の作成を命じた。
「お大事に、リディア」
「ありがとう、ローマン」
ローマンがここから離れると、よっこらしょと言いながら、老魔法士は隣に腰を下ろす。失礼だと思ったけれど、私は上を向いたまま「勝手に使ってごめんなさい」と謝った。
「構わんさ。必要な者が使えるように置いてあるんじゃから。今度はハッカを使っていない湿布を買ってこような。目に染みんから辛くないはずじゃ」
「……はい」
それでは困るなんて言えなかった。目に染みない湿布を貼って泣くのはおかしい。もうこの手は使えないなと、思っていると隣からまた声がした。
「それを貼って泣けばいいぞ」
ハッカ以上に、老魔法士の優しさが目に染みて仕方がない。そっと隣に手を伸ばすと、彼は湿布をもう一枚優しく手渡してくれた。




